北北西に進路を取れ

North by Northwest 
1959年,アメリカ,137分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:アーネスト・レーマン
撮影:ロバート・バークス
音楽:バーナード・ハーマン
出演:ケイリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ジェームズ・メーソン、マーティン・ランドー

 ヒッチコックの名作のひとつ。やり手の広告マン・ソーンヒルはホテルのレストランでカプランという男に間違えられ、拉致される。そこで殺されかけたソーントンは事件に巻き込まれ、意思とは関係なくさまざまなことが身に降りかかってきてしまう。
 あらゆる映画の原型がここにある。サスペンス映画の原点ともいえる名作。ヒッチコックとしては「巻き込まれ型」サスペンスの集大成といった感じ。はらはら感もなかなかのものです。

 ヒッチコック作品の中でも非常に評価の高いこの作品はそれ以後の映画に大きな影響を与えたといえる。それは単純な技術的な問題から、エピソードのパターンにいたるまでさまざまだ。
 いろいろな映画で目にする「よくある」シーンというのがこの映画にはたくさん出てくる。列車で出会ったソーンヒルとイヴが互いによけようとしてぶつかる場面、ソーントンが窓から建物の壁伝いに逃げる場面、飛行機に襲われる場面、などなど、そのすべてがすべてこの映画がオリジナルというわけではないが、その中のいくつかは、この映画ではじめて使われ、それ以後よく使われるようになったシーンだということができるだろう。
 フィルムのつなぎや、カメラのズームイン・アウトなど少し粗いところも見られるが、それは技術的な質の問題であり、時代から考えて仕方のないことだろう。 

 イギリス時代から比べれば、画質、編集技術などあらゆる面で高度になっている。それはもちろんハリウッドの潤沢な予算、高度な技術を持つスタッフがいてのこと、そしてヒッチコックの経験もものをいう。ヒッチコックとしては、この映画は『逃走迷路』を始めとするイギリス時代から綿々と続く「巻き込まれ型」サスペンスのひとつの集大成という意味がある。だからこそ、これだけ完成された形の映画を作り、一つのスタイルを確立させたと言える。
 しかし、イギリス時代のものと比べてみると、いわゆるヒッチコックらしさというものは薄まり、ドキドキ感も薄められてしまっているような気もしないでもない。この映画にあるのは一つのハリウッドというシステムによるエンターテインメントとしての見世物的な面白さ、イギリス時代の荒削りな作品にあったのはヒッチコックが観客と勝負しているかのような緊迫感のある面白さ、その違いがある。
 だからこの映画はヒッチコックの面白さを伝えてくれるし、この映画によってヒッチコックの世界に引き込まれることは多いとは思うが、他の作品をどんどん見ていくにつれなんとなく物足りなさを感じるようになってしまう作品でもある。
 ヒッチコック自身もそれを感じたのか、この次の作品『サイコ』ではイギリス時代に回帰するかのように白黒の荒削りな映像を使い、派手な動きもなく、大きな仕掛けもない(飛行機も飛ばない)映画を作った。ヒッチコックが今も偉大であり続けられるのはそのあたりの自己管理というか、自分をプロデュースしていく能力に秘密があったかもしれない。

ドレミファ娘の血は騒ぐ

1985年,日本,80分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清、万田邦敏
撮影:瓜生敏彦
音楽:東京タワーズ、沢口晴美
出演:洞口依子、伊丹十三、麻生うさぎ、加藤賢宗

 黒沢清監督の「神田川淫乱戦争」に続く長編第2作。当初にっかつロマンポルノの一作として公開される予定だったが、試写を見たにっかつ側が「これはポルノではない」と拒否し、ディレカンとEPICソニーの出資で追加撮影、再編集が行われ、2年後に一般映画として公開されたという逸話を持つ作品。黒沢監督の一般映画デビュー作となった。
 物語は平山教授(伊丹十三)とアキ(洞口依子)を中心に展開されるが、物語らしい物語はなく、なんとも不条理な世界が展開する。  加藤賢宗の俳優デビュー作でもある。

 伊丹十三は「神田川淫乱戦争」を高く評価し、この映画への出演が実現した。その後も黒沢と伊丹の関係は続き、黒沢清は伊丹プロ製作の「スウィートホーム」の監督をするなどした。
 この映画はとにかく、破天荒で、以下にもデビュー作という感じがして面白い。同じくピンク映画で監督デビューした周防正行(「変体家族・兄貴の嫁さん」)と比較してみても面白いかもしれない。このふたりは同じ立教大学の出身で、年もほぼ同じ、同じ蓮実重彦の授業を受けていたらしい。蓮実重彦は周防監督の「変体家族~」を84年度のベストファイブに推し、当時お蔵入りとなっていた「女子大生・恥ずかしゼミナール」(この映画の原題)をみて、「変体家族~」と並べて評価している。
 カルトな映画ファンなら見逃せない作品かもしれない。

ピカソ-天才の秘密

Le Mystere Picasso 
1956年,フランス,78分
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、パブロ・ピカソ
撮影:クロード・ルノワール
音楽:ジョルジュ・オーリック
出演:パブロ・ピカソ、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、クロード・ルノワール

 パブロ・ピカソが絵を描く、筆の走りをスクリーンの裏側から取ったドキュメンタリー。徹頭徹尾ピカソの創作が映され、他のものは一切ない。天才の絵の描き方というのが以下に理解しがたいものかということが納得できてしまう秀作。
 名監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾーと名カメラマン:クロード・ルノワールもちょこっと画面に顔を出す。

グループ魂のでんきまむし

1999年,日本,119分
監督:藤田秀幸
脚本:藤田秀幸
撮影:関口太郎
音楽:北野雄二
出演:阿部サダヲ、宮藤官九郎、村杉蝉之介、井口昇、松尾スズキ

 大人計画から誕生したコントグループ「グループ魂」を主人公にしたドタバタ映画。あまりに馬鹿馬鹿しく、あまりに斬新。気に入らない人はきっと気に入らない。でも、好きな人はムチャムチャ好きになるはず。
 物語はコントグループ「グループ魂」の結成からの紆余曲折を描いたもの。しかし、物語よりも、そのおかしさと不気味さと停滞感と、単純にコメディと呼ぶことは出来ないのだけれど、どうしようもなく笑ってしまう、その雰囲気。
 いまや売れっ子となった松尾スズキやあるところでは有名な井口昇といった脇役が非常に味がある。 これを見ていないあなたは、人生で一つ損をしている!

 1999年、最高の映画といってもいいでしょう。きっとビデオにはならない。また劇場でやるかもわからない。でも、俺はこの映画が好き。監督にサインまでもらってしまいました。中でも、忍者の井口君が最高に好きですね。ここで豆知識。井口昇というひとは、本業といえるのはAVの監督だが、一般映画の監督をやったり、映画に出ていたりする人で、監督作としては「くるしめさん」や「毒婦」がある。出演作としては、「アドレナリン・ドライブ」(矢口史靖監督)など。
 さらに、内部情報。この映画は実は歩合制らしく、出演時にはノーギャラ。観客動員数に合わせて出演者にギャラが支払われると言うシステムらしい(藤田監督談)。ということなので、私は3回見に行きました。
 この映画の何がすばらしいか、それはすべての笑いの要素がぎゅっと詰まっていること。不条理・暴力・駄洒落・下ネタ等々。私が特に好きな場面を例に示してみると、
 ・平和部部長の間をはずした「アチッ」。
 ・松田優作同好会。そして、あんまし甘くないやつ。
 ・マネージャーを含めた4人で飲みながら、マヨネーズをビシュッとやる場面。
 ・町屋エツコと寝てくれと説得されそうなバイト君が、ウサギが飛び出る靴をもらって遊ぶ場面。
 ・井口君の頭の中の一連の独り言「飯でも食って出直そう」。
 もうひとつ素晴らしいのは、映画的なカメラワークや編集技術だろう。芝居という場ではできない表現がさまざま駆使されているので、大人計画の芝居とはまったく違うものとして成立しえている。短いカットをつなぎ、そこに長いセリフを乗せたり、松尾スズキの右の横顔だけで数分引っ張ったり、映画的工夫が各所に凝らされているため、ただのギャグ映画の域を越えられたのだと思う。 

 新しく仕入れた知識としては、この映画は複数のビデオカメラ(Hi8)を同時に回し、同じ場面を同時に複数のフレームで撮るということをやっているらしい。そのため、これだけ短いカット割でしかもライブ感のある映像が作れたということだろう。ハリウッド映画なんかの場合は一台のカメラで同じ場面を複数回撮るので、役者は同じ演技を何度もしなくてはならない。そうするとどうしてもアドリブを入れるのは難しくなるし、役者の自由度が下がってしまう。それと比べるとこの「グループ魂」では役者がはるかにのびのびと演じているし、話を聴くところによると、せりふもキッチリと決まってはおらず、役者自身の言葉で語らせたらしい。

ジプシーのとき

Dom za vesanje 
1989年,ユーゴスラヴィア,126分
監督:エミール・クストリッツァ
脚本:エミール・クストリッツァ、ゴルダン・ミヒッチ
撮影:ヴィルコ・フィラチ
音楽:ゴラン・ブレイゴヴィク
出演:タボール・ドゥイモビッチ、ボラ・トドロビッチ、ルビカ・アゾビッチ、シノリッカ・トルポコヴァ

 本物のロマ(ジプシー)の生活を彼らの言葉であるロマーニ語で描いた傑作。祖母と放蕩ものの叔父と足の悪い妹との4人で暮らす少年パルハンの成長物語。美しい娘アズラとの恋、妹の病気、ヤクザものアメードなどさまざまな人事が絡み合い、パルハンを悩ませる。
 どのカットどのフレームを切り取っても美しい(というのは必ずしも正確ではない。むしろ、魅惑的とでも言うべきだろうか)映像が目を見張る。エミール・クストリッツァの詩的世界を心ゆくまで堪能できる。

 この映画の最大の魅力はその映像にある。すべてのカットすべてのフレームに詩情があふれ、絶妙の色使いが心に焼きつく。さりげない地面の緑や、建物の赤や黄色、人を映すときのフレームの切り方など、枚挙に暇がない。
 たとえば、冒頭の精神病らしい男、上は頭の上ぎりぎりで、下は腿の辺りで切ってあるが、このバランスがなんとも素晴らしい。男は風景の中に溶け込みながら大きな存在感を持つ。それから、最後のほうで、パルハン(主人公のほう)がタバコを吸う横顔のアップがあったが、これも、そのアップを画面の中央に置くのではなく、左端に配し、顔の4分の1ほどが切れるように映してある。残りの画面には白っぽい後ろの景色が少しピントをぼかして映っている。このバランスが素晴らしい。
 しかし、こんなことをくどくど説明したって、その素晴らしさの百分の一も伝わらないんだろうな。

Helpless

1996年,日本,80分
監督:青山真治
脚本:青山真治
撮影:田中正毅
音楽:青山真治、山田功
出演:浅野忠信、光石研、辻香緒里、斎藤陽一郎

 浅野忠信の主演第一作にして、青山真治監督第一作。出所したばかりのヤクザ松村(光石研)と幼馴染の健次(浅野忠信)。松村と組長、健次と父親の関係を軸として物語りは展開するが、フラストレーションと怒り、いいようのないイライラが映画全体に満ちる。
 田舎ののどかな風景という静謐さの中に言葉にならないイライラがうまく表現されている。

 映像は澄んでいて、音楽もさりげなく、登場人物の心理の描き方もすばらしい。しかし、全体的に少しリアリティに欠けるという気がする。最初に松村が銃を撃つときの音もそうだし、病院で白昼どうどう首吊り自殺をするというのもありえそうにない。
 映画におけるリアリティとは、必ずしも現実におけるリアリティと同じものではなくて、そもそも虚構として作られて映画において説得力を持つものが映画におけるリアリティを持つということになる。つまり、もし本当はこの映画の銃の音が他の映画の派手な音より現実の銃の音に近いのだとしても、そのことは映画におけるリアリティは生まないということだ。観衆にとってはうその派手な銃声のほうがよりリアルな銃声であるのだ。
 そのような違和感をこの映画を見ながら所々で感じてしまったのが残念だった。

ダウン・バイ・ロー

Down by Law
1986年,アメリカ=西ドイツ,107分
監督:ジム・ジャームッシュ
脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ジョン・ルーリー
出演:トム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、エレン・バーキン

 同じように仲間にはめられ、OPP刑務所で同じ房となったジャックとザックはいつとも知れぬ釈放の日を待ちわびていた。そこに不思議なイタリア人ロベルトが入ってくる。二人はロベルトに翻弄され、脱獄するはめに……
 ジャームッシュらしく淡々とした物語の中に奇妙なユーモアが混じり、独特の世界を作り出す。

 この映画の特徴は、映画のテンポが大きく動くということ。序盤、ジャックとザックがつかまる前はぽんぽんとテンポよくすすみ、刑務所に入ったとたん、時間の経過は単調になる。それはもちろん壁に刻まれた黒い線(正の字とは言わないだろうけど)に象徴的に表される。ただただ出所を待つだけの単調な毎日、そして再びそれがテンポアップするのはロベルトがやってくるところだ。彼の刑務所には似合わない破天荒な行動が再び時間に活気を与える。
 この、時間の経過のテンポの変化というのはジャームッシュ作品に特徴的なものだ。多くの場合は、そのテンポはカットの切り方や真っ白な画面(カットとカットのあいだに白い何もないカットをはさんで間をとる)でとられるのだが、このジャームッシュ独特のリズムの取り方というのがジャームッシュ作品に引き込まれてしまう最大の要因なのではないかとこの映画を見て思った。

ゴースト・ドッグ

Ghost Dog: The Way of the Samurai
1996年,アメリカ=フランス=ドイツ=日本,116分
監督:ジム・ジャームッシュ
脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:Rza
出演:フォレスト・ウィテカー、ジョン・トーメイ、クリフ・ゴーマン、ヘンリー・シルヴァ、カミール・ウィンブッシュ、イザアック・ド・バンコレ

 ジム・ジャームッシュが武士道についての本「葉隠」を題材に、ゴースト・ドッグと呼ばれる殺し屋を描いた物語。さすがに、ジャームッシュらしく、単なるアクション映画にすることなく、ユーモアと不条理をそこに織り込んである。
 いつものことながら、登場人物たちのキャラクターがすばらしく、アニメ好きのマフィア、フランス語しかしゃべれないアイスクリーム売り、犬、鳩、ボスの娘。
 この作品ののすばらしいところは、単なる日本かぶれではなく、「日本」という要素をうまく扱って自分の世界にはめ込み、オリジナルな世界を作り出したところ。ジャームッシュ作品の中でも指折りの名作だと思う。

 「葉隠」という本は正しくは「葉隠聞書」、享保元年(1716年)に山本常朝が口述したもの。三島由紀夫が「葉隠入門」という本を出し、有名になった。
 それはそれとして、ジャームッシュの映画を見て、いつも感心させられるのは、登場人物のキャラクターだ。まず、年寄りばかりでアニメ好きのマフィアというのが素晴らしい。しかも家賃をためている。言われてみればいそうなものだが、普通の映画には出てこない。そして、フランス語しかしゃべれない、アイスクリーム売りというのも素晴らしい発想。そして、ボスの娘も。頭が弱いといわれながら、本当は登場人物の中でもっとも明晰なんじゃないかと思わせる。かれらの心の声は直接スクリーンは出てこないのだけれど、それがなんとなく伝わってくるところがジャームッシュの素晴らしいところ、そして不思議なところ。
 ジム・ジャームッシュは本当に日本が好きで、ストレンジャー・ザン・パラダイスの小津安二郎ばりのローアングル・長回しに始まり、ミステリー・トレインの永瀬正敏と工藤夕貴、そしてゴースト・ドック。この映画では、黒沢明が最後にクレジットされているが、これはジャームッシュのKUROSAWAに対する弔意の表明だそうだ。水道管越しに撃ち殺すというのも鈴木清順の「殺しの烙印」からもらったらしい。
 こんなことを書いていると、マニアな映画に見えてしまうけれど、ジャームッシュの映画は、そのリズムにのっかてしまえば誰もが楽しめる不思議な世界。そしてマニアックに観ようとすればいくらでもマニアな観方ができる映画。この映画も音楽面にマニアックにはまり込んでいく人もいるだろうし、カメラワークの妙にのめりこんでいく人もいるだろう。映画というもののあらゆる面をひとつの映画に詰め込める、ジム・ジャームッシュはすばらしい。

マーズ・アタック

Mars Attacks ! 
1996年,アメリカ,105分
監督:ティム・バートン
脚本:ジョナサン・ジェムズ
撮影:ピーター・サシツキー
音楽:ダニー・エルフマン
出演:ジャック・ニコルソン、グレン・グローズ、アネット・ベニング、ピアース・ブロスナン、マイケル・J・フォックス、ナタリー・ポートマン、ルーカス・ハース

 トレーディングカードとして人気となったシリーズの映画化。火星人が大艦隊で地球に来襲。果たして彼らは敵か味方か……
 と、書いてしまうと普通のSFだが、この映画の醍醐味はその筋とは関係のないハチャメチャドタバタにあるのであって、豪華キャストで徹底的にしょうもないことをするというのがこの映画の狙い。ティム・バートンがとにかく好きなことをやったという映画になっている。
 しかし、この映画は徹底的にバカな映画にはなりえていない。すべてが一応つじつまの合う形で組み立てられ、理解しようと思えばできてしまう。個人的には、もっと不条理は、本当にわけのわからない映画になっていたらもっとよかったと思う。

ミュージック・オブ・チャンス

The Music of Chance 
1993年,アメリカ,103分
監督:フィリップ・ハース
原作:ポール・オースター
脚本:フィリップ・ハース
撮影:バーナード・ジッターマン
音楽:フィリップ・ジョンストン
出演:ジェームズ・スペイダー、マンディ・パンティンキン、ジョエル・グレイ、チャールズ・ダーニン、M・エメット・ウォルシュ

 ポール・オースター原作の小説の映画化。道端で拾ったギャンブラー・ジャックに自らの金を託し、大金持ちとポーカー勝負に向かうジム。カフカ的ともいえる不思議な世界を描いた映画。シカゴ・ホープで人気俳優となるマンディ・パンティンキンが好演している。
 原作を読んでしまっていると、つまらなく感じるが、純粋に映画としてみるならば、それほどつまらない作品ではない。原作の深みが2時間という時間の中で表現し切れなかったのが残念。

 この監督がオースターの作品が好きだということはよくわかる。しかし、あまりに原作に忠実すぎるのではないか。小説を映画化するときには常に付きまとう問題は、その監督の切り口と自分(見る側)の切り口の食い違いだが、この作品はそれ以前の問題だ。この監督の切り口が気に入らないというのではなく、主張というものが感じられないということ。原作を忠実に再現し、それなりに面白い作品には仕上がっているが、映画としてはあまり評価できない。たとえ、違和感を感じる人がいるとしても、自分なりの解釈でもって、ばっさりと原作を切り取ってくれたほうが、潔く、面白いものになったのではないかと感じてしまう。