チアーズ

Bring it on
2000年,アメリカ,100分
監督:ペイトン・リード
脚本:ジェシカ・ベンディンガー
撮影:ショーン・マウラー
音楽:クリストフ・ベック
出演:キルステン・ダンスト、エリザ・ドゥシュク、ジェシー・ブラッドフォード

 高校生のトーレンスは全国大会5回優勝の実績を誇るチームでチアリーディングに打ち込む生活を送っている。そして最高学年になり、キャプテンに指名されたのだが、その最初の練習でメンバーの一人が大怪我をしてしまう。しかし、大会はもう目の前で…
 チアを題材にしたということ以外はいたってオーソドックスな学園もの青春映画。チアリーディングを見るのは楽しい。

 とても普通ですが、最近の学園者の中で異色をはなっていると思えるのは、非常に「いい」映画であるということ。日本で言えば、文部省(文部科学省か)推薦でもおかしくないような意味で「いい」映画です。ドラッグとか、セックスとか、そういったことはあまり出てこず、とりあえず青春な感じで、友情な感じで、少し恋みたいなもの。
 笑えるのは、「え?本当にこんなのやっちゃうの」というべたネタですが、この笑いは悪くない。ここもあまり下ネタには走らないところが文部省推薦。
 残念といえば、ミッシーは器械体操もやっていて、キャラ的も重要そうなのに、あまり生かされていないところ。映画としてもそうですが、チア的に、ちゃんと器械体操をやっていたならもっと大技をやらせてもいいのに。
 まあ、そんなことはどうでもよいのですが、特筆すべきことも特にないので。このミッシーに限らず、この映画はトーレンスが一人活躍する映画で、まわりはあまり前面に出てこない。クリフの曲だってもう少し活用されるのかと思ったらされないし、主要メンバー以外は顔と名前が一致しないくらいしか登場しないし。唯一ゲイネタだけが後からまた使われたのはよかったかなと思います。

輪舞

La Ronde
1950年,フランス,97分
監督:マックス・オフェルス
原作:アルトゥール・シュニッツラー
脚本:マックス・オフェルス、ジャック・ナタンソン
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:オスカー・ストラウス
出演:ダニエラ・ジェラン、シモーヌ・シニョレ、ダニエル・ダリュー、アントン・ウォルブルック、ジェラール・フィリップ

 舞台に登場する一人の男。この男を狂言まわしとして、いくつものラヴ・ストーリーを描く。ひとつのエピソードの男女のどちらかが、べつの相手と繰り広げるラヴ・ストーリーを描くことで、物語を連鎖的に展開してゆく。狂言まわしの男の存在がなかなか面白い。
 フランス映画がフランス映画であったころの典型的な作品であり、名作である。凝ったつくりに、しゃれたセリフ、オフェルスの演出力もさすが。

 狂言まわしの男が一人語りをする最初のシーン、この長い長い1カットのシーンはなかなかの見所。一つ目のエピソードの冒頭まで完全に1カットで撮り切っている。おそらく5分くらいのカットで感じるのは、書割の風景のリアルさとタイミングの難しさ。このような作り手の側に属する部分を見せてしまうのが、この映画の一つの狙いなのだろう。だから、照明機材なんかをわざわざ映したりする。
 内容のほうはといえば、一つ一つのエピソードがそれぞおれそれなりに面白いのだけれども、エピソード間のつながり方が完全に定型化してしまっているので、後ろに行くほどマンネリ化してしまう気がする。
 狂言回しの男の存在の仕方はなかなか面白い。映画の中の物語に対して、映画に外にいるという立場がはっきりしていて、映画の中で彼自身が言っていたよう、神出鬼没である。しかし、映画の登場人物たちに対して全能なわけではないので、なんとなくコミカルな存在でいることができる。
 最初のシーンに限らず、カメラの動きもなんだかすごい。すごいなーとは思うんですが、個人的にあまり好きなタイプの映画ではなかったのでした(私見)。

間諜X27

Dishonored
1931年,アメリカ,91分
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
脚本:ダニエル・N・ルービン、ジョセフ・フォン・スタンバーグ
撮影:リー・ガームス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ヴィクター・マクラグレン、グスタフ・フォン・セイファーティッツ、バリー・ノートン

 第一次大戦中のウィーン、女は自分のアパートでまた自殺者が出たのを見て、「私は生きるのも死ぬのも怖くない」とつぶやく。それを聞いた男が女を誘って
女の部屋へ。男は女にスパイをしないかと持ちかける。ワインを買いに行くといって部屋を出た女は反オーストリアだといった男を逮捕させるため警察官を連れて
くる。
 スタンバーグはディートリッヒがスターダムにのし上がるきっかけを作った監督で、アメリカでの初期の作品で7本コンビを組んでいる。

 ディートリッヒは美しい。ディートリッヒが美しいから、あとはどうでもいい。というか、あとはディートリッヒの美しさを引き立てるためにある。といいたくなってしまう。
 この映画のプロットはかなりお粗末といっていい。こんなのんきなスパイはいないと思う。にもかかわらず「女でなかったら最高のスパイだっただろう」などと冒頭で強調するのは、あくまでその「女」の部分を強調したかったからだろう。それはひいては、この映画がスパイ映画ではなく恋愛映画であるということを主張しているということだ。そしてその恋愛を引き立たせるために(スパイ同士という)困難な状況を作る。
 これはこの映画の過度のロマンティシズムを生む。いま見るとこの映画ロマンティックすぎる。この映画が作られたのは1930年、ちょうど世界恐慌が起こったころだ。再び戦争の足音が聞こえてきた時代、ロマンティシズムは映画制作者と観客を現実から一時逃れさせてくれたのかもしれない。ロマンティシズムで世界を救うことはできないが、一人の人間をいっとき救うことはできるのかもしれない。それを生み出すのがかくも美しいディートリッヒならなおさらのことだ。
 それにしても、ディートリッヒはずん胴ね。脚は細くて美しいのに、どうしてあんなにずん胴なんだろう?

エクセス・バゲッジ

Excess Baggage
1997年,アメリカ,101分
監督:マルコ・ブランビヤ
脚本:マックス・D・アダムス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ジョン・ルーリー
出演:アリシア・シルヴァーストーン、ベニチオ・デル・トロ、クリストファー・ウォーケン、ハリー・コニック・Jr

 父親の気を引こうと狂言誘拐を企てた大富豪の娘エミリー。計画は順調に進んでみ、解放される段取りになり、自らをガムテープで縛り上げ、トランクに入ったが、そこに車泥棒のビンセントが現れ、その車を盗んでいってしまう。

 物語はとても普通で、もっと突き抜ければ面白いB級映画になったのに… と思ってしまう程度。そして、アリシア・シルヴァーストーンがひどすぎる。いつも決してうまいとはいえないけれど、このまったくとらえどころのないキャラクターは何なのか? 自分が作った製作会社の作品ということでちょっとやる気が空回りという感じでしょうか? アリシア・シルヴァーストーンといえば小悪魔的な魅力が売りですが、この映画のキャラクターは小悪魔を超えてただの気まぐれ、わがまま、自分勝手。それはつまりキャラクターとしての一貫性がないということ。これでは人をひきつける魅力は作り出せません。
 この映画を救うのは、ベニチオ・デル・トロ、クリストファー・ウォーケン・ハリー・コニック・Jrたち。3人ともなんだかさえない役回りで、輝いてはいないけれど、その情けなさがなかなかよろしい。たぶん本当はわがままお嬢様に振り回されるという役回りで描かれるべきなのだけれど、お嬢様は一人で暴れまわっているだけで、別に誰も振り回さない。だから周りの人たちもよくわからないまま情けない役回りをさせられているという感じになってしまう。
 まとめるならば、なんとなく全体的に間が抜けている感じ。それぞれの部分部分がばらばらで、それがいつかはまっていくんだろうと思わせながら、きっちりとはまることはなく、なんとなくうやむやにされてしまう感じ。
 と、文句ばかり言っていますが、決して悪くはないんです。最後まで見るに耐えるくらいは面白いんです。でも、それ以上ではない。ベニチオ・デル・トロはなんだか不思議な役者で、見ていると飽きないんですね。何かしそうな気がするというか、よくわからない期待感を抱かせるんですねこれが。不思議な役者さんだなぁ。

マルホランド・ドライブ

Mulholland Drive
2001年,アメリカ,146分
監督:デヴィッド・リンチ
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:ピーター・デミング
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ナオミ・ワッツ、ローラ・ハリング、ジャスティン・セロー、アン・ミラー

 マルホランド・ドライブを車で走っている途中、殺されそうになる女。しかし、そこに車が突っ込んできて、激突。女は壊れた車から抜け出し、歩いて街へと降りてゆく。翌朝、たまたま見つけた家に入り込む。その家はちょうど留守で、その間に滞在することになっていた女優の卵ベティがその家にやってくる。
 『ストレイト・ストーリー』から再びリンチらしい世界に復帰。もともとTVシリーズとして企画されたものらしく、『ツイン・ピークス』を髣髴とさせる。見れば見るほどわからなくなるのがリンチ・ワールドと思わせる作品。

 デヴィッド・リンチの物語を理解しようとする努力は常に徒労に終わる。彼のすごさは理解できないものを理解できないものとして提示してしまうことだ。普通はいくら難解なものを撮っても、どうにかして理解できるようにするものだ。デヴィッド・リンチはそれすら拒否している。それは監督本人すら理解できない世界であると思わせる。それは「意味」という論理的なものではなく、感覚的なもので組み立てられた世界。漠然としてイメージを漠然としたまま映像として提示する。そこに浮かび上がってくるイメージはいったいどんなものなのか、それがわからないまま世界を作り始めてしまっている印象。
 だから、その世界を解釈することは「意味」のレベルで言えばまったく無意味なことである。しかし、言葉で語ることには常に「意味」がつきまとう。だから私のこの文章にも何らかの「意味」が付加されてしまうことは仕方がない。それならば、この物語を多少意味的に解釈して見ようなどと思う。この物語を解釈する上で私にとって(あくまで私にとって)確実であると思えるのは、この二つの世界がいわばコインの裏表であるということ。それはつまり、同時に平行して存在しているけれど、決して互いに向き合うことができない世界。背中合わせに金属という希薄なつながりを持っているに過ぎない二つの世界。もちろんそれをつなぐのは「箱」と「リタ/カミーラ」である。そこまでは確実だと思うのだけれど、それ以上は何もいえない。おそらく見るたびにそのそれぞれに付加したくなる「意味」は変わってくるだろう。
 デヴィッド・リンチの映画の難解さは「それを理解しよう」という欲求を起こさせる。しかし、映画を見ている間われわれをとらえるのは実際はその音響や映像による感情のコントロールである。見ている側の喜怒哀楽を巧妙にコントロールすることで映画に観客を引き込んでいく。もっともそれがわかりやすく出たのは、ほとんど最後のほうでダイアンがなんだかわからないものに攻め立てられるところの恐怖感。なぜ起こるのか、他とどんなつながりがあるのか、恐怖のもとは何なのか、はまったくわからないにもかかわらず、そのシーンがあおる恐怖感はものすごい。そのように感情を揺さぶられ、圧倒され、映画館を出たときに残るのは映画を見ている間ずっとくすぶっていた「理解しよう」という欲求。それに片をつけるまでは映画を離れることはできない。そしてその「意味」をとらえようとすればするほど、細部を整合させることができないことに気づく。ひとつの物語で解釈しようとするとそれぞれの細部に矛盾が生じる。リンチの物語とはそういうものだ。そしてその細部こそリンチ的な不可思議な魅力が存在しているところなのだから、話はさらに難しい。その魅力的な細部を物語と矛盾するということで切り捨ててしまうことは私にはできない。
 だから、ある程度落ち着ける意味を見つけ、他のところは「リンチだから」という常套句で片付けて、その欲求を棚上げにする。すべてをひとつの「意味」に押し込めて、ひとつの物語をでっち上げることはリンチが大事にしている細部をないがしろにしてしまうことになるのだから、それはせずに、見るたびに異なる味を楽しみにしていたい。

シーズ・オール・ザット

She’s All That
1999年,アメリカ,96分
監督:ロバート・イスコヴ
脚本:R・リー・フレミング・Jr
撮影:フランシス・ケニー
音楽:アマンダ・シアー=デミ
出演:フレディ・プリンゼ・Jr、レイチェル・リー・クック、ジョディ・リン・オキーフ、マシュー・リラード

 生徒会長のザックは春休み明け、ガールフレンドのテイラーに振られてしまう。成績優秀、スポーツ万能、全女子生徒の憧れの彼が振られてしまったのにつけこみ、友人のディーンは学校一ダサいというレイニーをプロムクイーンに仕立て上げられるか賭けをしようとザックに持ちかける。
 とてもよくある学園もののティーン・ムーヴィー。学園者のティーン・ムーヴィーといえば、やっぱりクライマックスはプロム。どうしてアメリカ人はこんなにプロムが好きなのか?

 映画を見る前から映画のプロットのすべてが予想できるというのもすごい話。学園イチダサいといわれるレイニーが変身前からどう見てもかわいいのが納得がいかない。もうちょっとダサさが出ていれば物語に納得がいきそうなものだけれど、これじゃあねという感じです。
 しかし、レイチェル・リー・クックはひどくかわいい。対抗馬としてキャスティングされているジョディ・リン・オキーフがいまいちぱっとしないというのもありますがね。繰り返しますが、変身前から明らかにかわいいんじゃないかと思ってしまう。
 若い役者たちが売りとなるしかないティーン・ムーヴィーにしてはこのレイチェル・リー・クック以外のキャストがぱっとしない。
 のですが、逆にプロットは意外と面白かった。確かに筋としてはすべてが読めてしまうものだけれど、友情とか個性とか将来とか高校生あたりにはとても魅力的であろう話題がうまくちりばめられていていい。
 そういえば、サラ・ミシェル・ゲラーがちょい役で出てましたね。もうすでに『バフィー』で人気が出ているはずなので、ティーンズ・ムーヴィー常連さんとしての友情出演という感じでしょうか。おそらく、そんな感じでアメリカのTVで人気の役者さんがたくさん出ているはずです。私には見分けがつきませんでしたが… わかりやすいところでは、ザックの妹はアンナ・パキン、レイニーをいじめる美術部の子は『17才のカルテ』の子(クレア・デュバル)という感じですね。
 後は音楽。シックス・ペンス・ナン・ザ・リッチャーのヒット曲はもちろんですが、劇中のラップなんかもなかなか素敵。こう考えると、まさにエンターテイメント。絵に書いたような現代アメリカ映画。

バロウズの妻

Beat
2000年,アメリカ,93分
監督:ゲイリー・ウォルコウ
脚本:ゲイリー・ウォルコウ
撮影:サイロ・カペーロ
音楽:アーネスト・トルースト
出演:コートニー・ラヴ、キファー・サザーランド、ノーマン・リーダス、ロン・リヴィングストン

 1944年ニューヨーク、後に「ビートニック」と呼ばれることになる若者たちが集まり、飲んで騒いでいた。そこには後にウィリアム・バロウズの妻となるジョーンもいた。そんな中、同性愛者のダヴィドは仲間の一人ルシアンに想いを寄せ、行動を起こそうとしていた。そんなルシアンにダヴィドとの関係を何とかするように警告するが…
 ビートニックの父ウィリアム・バロウズが小説家となる以前にビートニックの若者たちとどう関係していたのか、妻ジョーンとはどのような存在だったのかということを事実をもとに描いた作品。

 バロウズといえば思い出すのはやはり、クローネンバーグが監督した「裸のランチ」でしょうか。それを含めた彼の作品群からしてかなり「狂気」に近い作家というイメージがあります。いわゆるビートニックといわれる、ギンズバーグやケルアックとは年齢的にも違いがあるし、作品にも違いがある。それでも彼とビートニックとのかかわりが強調されるのは、この映画に描かれたような話を含めた日常的な関係の話からなのでしょう。
 この映画の難点は、結局のところジョーンという一人の女をめぐる物語となってしまっていて、そういう男同士の関係性が表現し切れなかったことではないかと思う。映画が終わった後のやたらに長い文字説明を見る限り、そんなビートニックたちについて書きたかったのだろうし、題名からしてそのものだし。ジャック・ケルアックなんて最初のほうに出てきたっきりだし。
 ファーストシーンからコートニー・ラヴが非常に印象的で、魅力的なだけにさらにそのビートニックたちの印象が弱まる。
 それにしてもこの映画のコートニー・ラヴはいいです。ものすごい美人というわけではないけれど、どこか不安定なものもありながらしかしどこか冷静で落ち着いているという感じ。その感じがとてもいい。それをうまく表現するコートニー・ラヴはすばらしい。それと比べると、非常に魅力的な人物として描かれているルシアンはちょっとなさけない。あまり魅力的には見えない。
 コートニー・ラヴを見よ! ということです。

ファーザーズ・デイ

Fathers’ Day
1997年,アメリカ,99分
監督:アイヴァン・ライトマン
脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル
撮影:スティーヴン・H・ブラム
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタル、ジュリア・ルイス=ドレイファス、ナスターシャ・キンスキー

 一人息子のスコットが家出をし、行方不明となってしまったことに頭を痛めたコレットは、結婚する直前に付き合っていたジャックとデイルのふたりに会いに行き、「実はあなたの息子だ」とうそをついて、息子を探させようとした。ふたりはその策略にすっかりはまり、自分が父親だと信じて必死で探し始める。
 アルヴァン・ライトマンにロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタルということで、どこから見てもコメディ。わかりやすいコメディ。アメリカなコメディ。

 こういう、なんというか平均点のコメディはよく見ます。それはもちろんコメディが好きだからであり、またコメディは実際見てみないとわからないからでもある。コメディの評判ほどあてにならないものはなく、特に製作された現地での評判はまったく当てにならない。だからキャストとかスタッフに魅かれれば、とりあえず見る。これがコメディファンの正しい姿勢。
 ライトマン、ロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタルというのは非常にオーソドックスですが、個々で、興味を引くのはカメラマンのスティーヴン・H・ブラム。どこかで聞いたことがあると思って調べてみれば、「アンタッチャブル」や「ミッション:インポッシブル」をはじめとするバリバリのアクション監督。なるほどなるほどと見てみれば、しかしやはり平均点のコメディ。意識して見てみれば、車の撮り方とか、アクションっぽいなと思わせるところもありますが、特段そのカメラによってコメディとしての独自性が出ているわけでもないという感じです。
 というわけで、やはり平均点だったというコメディ。つぼに入ったところといえば、ロビン・ウィリアムスがいろいろな父親像を演じるところぐらいでしょうか。あとはメル・ギブソンかな。
 しかし、笑いのつぼは人によって違うもの。いつどこでつぼに入るかわかりません。

地獄の黙示録 -特別完全版-

Apocalypse Now Redux
2001年,アメリカ,203分
監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ミリアス
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:カーマイン・コッポラ、フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーティン・シーン、マーロン・ブランド、デニス・ホッパー、ロバート・デュバル、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール

 ベトナム戦争のさなか、一時帰国後サイゴンで腐っていた陸軍情報部のウィラード大尉が上層部に呼ばれる。彼の新たな任務は現地の兵士たちを組織して独自の作戦行動をとるようになってしまったカーツ大佐を探し出し、抹殺するというものであった。ウィラード大佐は3人の海兵隊員とともに哨戒艇に乗り込み、ベトナムの奥地へと向かう。
 1979年に製作され、コッポラの代表作となったオリジナルに53分の未公開シーンを加えた完全版。恐らくコッポラとしてはそもそもこの長さにしたかったのでしょう。

 この映画がリバイバルされることは非常に意味がある。この映画は「音」の映画であり、この映画の音を体感するには近所迷惑覚悟で、テレビのボリュームを最大にするか、劇場に行くかしなければならない。大音量で聞いたときに小さく聞こえるさまざまな音を聞き逃しては、この映画を本当に経験したことにはならないからだ。
 音の重要性はシーンのつなぎの部分の音の使い方からもわかる。この映画はシーンとシーンを音でつなぐことが多い。シーンとシーンの間で映像は飛んでいるけれど音は繋がっている。というようなシーンが非常に多い。あるいは、シーンの切れ目で音がプツリと切れる急な落差。そのように音を使われると、見ている側も音に敏感にならざるを得ない。そのように敏感になった耳はマーロン・ブランドのアタマを撫ぜる音を強く印象づける。
 ウィラード大尉の旅は一種のオデュッセイア的旅であるのかもしれない。そう思ったのは川を遡る途中で突然表れた浩々とともる照明灯。それを見た瞬間、「これはセイレンの魔女だ」という直感がひらめいた。もちろんウィラード大尉はオデュッセイアとは異なり、我が家へ、妻のもとへと帰ろうとするわけではない。彼は殺すべきターゲットのもとに、いわば一人の敵のもとへと向かうのだ。しかし、その旅の途上で彼はカーツ大佐に対して一種の尊敬の念を抱くようになる。しかも、彼は帰るべき我が家を失ってしまっていた。一度我が家であるはずの所に帰ったにもかかわらず、そこは落ち着ける所では無くなってしまっていた。そんな彼が目指すべき我が家とはいったいどこにあるのというのか?
 またその旅は、現実から遠く離れてゆく旅でもある。川を上れば上るほど、ベトナムから遠く離れた人々が考える現実とは乖離した世界が展開されて行く。果たしてベトナムにいないだれが軍の規律を完全に失ってしまった米軍の拠点があると考えるだろうか? ベトナムから離れた人たちにとっては最も現実的であるはずの前線がベトナムの中では最も現実ばなれした場所であるというのは非常に興味深い。
 そもそも戦争における現実とはなんなのか? 戦争において現実の対極にあるものはなんなのか? 狂気? 狂気こそが戦争において唯一現実的なものなのかもしれない。 恐怖? 恐怖は戦場では常に現実としてあるものなのだろうか? 

チート

The Cheat
1915年,アメリカ,44分
監督:セシル・B・デミル
脚本:ヘクター・ターンブル、ジャニー・マクファーソン
撮影:アルヴィン・ウィコッフ
出演:ファニー・ウォード、ジャック・ディーン、早川雪州

 株の仲買人リチャード・ハーディーの妻のエディスは社交界を生きがいとして、浪費癖があった。リチャードは今回の投資がうまく行くまで節約してくれと頼むのだがエディスは聞き入れない。そんな時、エディスは友人からおいしい投資話を聞き、預かっていた赤十字の寄付金を流用してしまう…
 セシル・B・デミルの初期の作品の一本。日本人を差別的に描いているとして在米邦人の講義を受け、3年後に字幕を差し替えた版が作られる。18年版では「ビルマの象牙王ハラ・アラカウ」となっている早川雪州はもともとヒシュル・トリという名の日本人の骨董商という設定。日本ではついに公開されなかった。

 主な登場人物は3人で、それぞれのキャラクターがたっていて、それはとてもいい。デミルといえば、「クレオパトラ」みたいな大作の監督というイメージだけれど、この映画の撮られた1910年代は通俗的な作品を撮っていたらしい。簡単に言えば娯楽作品で、だから少ない登場人物でわかりやすいドラマというのは好ましいものだと思う。サイレントではあるけれど、登場人物の心情が手に取るようにわかるので、気安く楽しめるというイメージ。特に妻のエディスのいらだたしいキャラクターの描き方はとてもうまい。雪州演じるアラカウが基本的に悪人として描かれているけれど、必ずしもすんなりそうではないという微妙な描き方だと思います。
 ということで、前半はかなり映画に引き込まれていきましたが、後半の裁判シーンはなかなかつらい。主に弁論で展開されていく裁判をサイレントで表現するのはかなりつらいと、トーキーが当たり前の世の中からは見えるわけです。結局字幕頼りになってしまって、映画としてのダイナミズムが失われてしまう気がします。サイレント映画はやはり字幕をできる限り削って何ぼだと私は思うわけです。そのあたりに難ありでしょうか。
 映画史的にいうと多分いわゆるハリウッド・システムができるころという感じでしょうか。監督は芸術家というよりは職人という感じがします。それでも、編集という面ではかなり繊細な技術を感じます。短いカットを挿入したり、編集によって語ろうとするいわゆるモンタージュ的なものが見られます。しかし、当時はおそらく監督が編集していたわけではないので、必ずしもデミルの表現力ということではないと思いますが。監督という作家主義にこだわらず、この一本の映画を見るとき、シナリオも演出もカメラも編集もかなり優秀だと思います。