おかえり

1996年,日本,99分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:古谷伸
出演:寺島進、上村美穂、小松正一、青木富夫、諏訪太郎

 塾講師をしている孝と家でテープ起こしの仕事をしている百合子。結婚して3年、何の問題もない夫婦生活のように見えた。しかし、あるときを境に、百合子が不意に夜出歩いたり、真っ暗い部屋で孝の帰りを待っていたりという不思議な行動をとるようになった。それを見て孝も不審に思い始めるが…
 これがデビュー作となる篠崎誠は北野武作品で味のある脇役ぶりを発揮していた寺島進を主演に起用。カメラマンには東映のチャンバラモノで鳴らしたベテラン古谷伸の参加を得て完成度の高い作品を作り上げた。

 見る人によって様々な部分が刺さってくると思う。非常に地味で淡々としていて、公開当時には監督も役者もほぼ無名で、全く商売っけのない映画。そしてもちろんヒットもせず、埋もれてしまいそうだった映画。しかしやはり面白い映画は埋もれない。見てみればそこには鋭い描写がたくさんあり、そのどこかが見ている人に刺さってくるに違いない。
 この映画で注目に値するのはなんといっても役者の演技。もちろんそれを引き出しうまく映画に載せたのは監督だけれど、素直にこの映画を見て感じるのは登場する役者達の素晴らしさ。私が一番すごいと思ったのは孝と百合子が台所で座り込んで話すというか抱き合うというか、そういうシーン。その長い長い1カットのシーンの2人の表情はものすごい。シーンの初めから終わりまでの間に刻々と変化していく2人の顔は何度も繰り返し々見たいくらいに力強く、おそらく見るたびごとに異なる感情が伝わってくると思う。
 このシーンもそうですが、この映画に多分に盛り込まれている即興的な要素。必ずしもアドリブというわけではないけれど、脚本や演出ではない役者に属する部分が色濃く出ている要素(誰かがどこかでカサヴェテスを取り上げて広義のインプロヴィゼーションと呼んでいた気がします)もひとつ興味を引く部分です。この即興的な要素は90年代以降の日本映画にかなり頻繁に見られるもので、代表的なところでは諏訪敦彦や是枝裕和や橋口亮輔の名前が上がるでしょう。つまりこれは今の日本映画の流行ともいえるモノですが、それはこの「おかえり」やその同時代の作品から顕著になってきたといえるかもしれません。
 まあ、そんなジャンル的な話はどうでもいいのですが、このお話で私は、日本映画を敬遠している人にこの映画を見なさいといいたい。陳腐な言い方で言ってしまえばここに現代の日本映画が凝縮されていると。
 言ったそばから自分の言ったことを否定したい気分ですが、まあ宣伝文句としては上々でしょう。でもビデオはレンタルされていないので機会を逃さず見てくださいとしかいえませんが。
 さて話がばらばらになってしまっていますが、この映画にはとてもいいシーンがたくさんあります。しかしよくわからないシーンもあります。ひとつは孝が同僚と飲んでいる時にインサートされる飲み屋のおやじ、もうひとつは3回出てくるマンションから見下ろした夜の道。なんなんだろうなぁ、と思いますが、こういう物語とつながりのない部分がずっと印象に残っていたりする場合もあります。だからこれも無駄ではない。あるいは無駄にも意味がある。そのようなことも思ったりしました。

ハッシュ!

2001年,日本,135分
監督:橋口亮輔
脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾
音楽:ボビー・マクファーリン
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、秋野暢子、富士真奈美、光石研

 直也はペットショップで働きながら気ままなゲイライフ送っていた。ゲイであることを隠しながら研究所で船の研究をする勝裕は、思いを寄せていた同僚が結婚してしまったことにショックを受ける。歯科技工士の朝子は自分の殻にこもり、周囲との関係をたって孤独な生活を送っていた。付き合い始めた直也と勝裕がふとしたことで朝子に出会ったことである物語が始まる…
 橋口亮輔が「渚のシンドバット」以来久々に監督した作品。自身もゲイである監督は今回もゲイの世界を描いた。今回はコメディ的な要素を強め、明るく楽しく見ることができる。

 これは完全にコメディなんですよ。ゲイ・ムーヴィーというとなんだか思想的なものがこめてあるという印象ですが、面白いゲイ・ムーヴィーというのはたいていコメディ。だからとにかく笑えばいい。かなり人間関係のドラマを濃厚に描いてるけれど、それも結局は笑いにもっていく。
 もちろん、ゲイであることを隠す勝裕(すべてはここからはじまる)という問題もあるし、ゲイに対する誤解(たとえば富士真奈美)という問題も提起されてはいるけれど、それはあくまでそのことに今まで気付かなかった人達が気付けばいいという程度のもの。そこにことさら何か主張が込められているわけではないと思います。
 どこが面白かったかといえば、「うずまさ」かな。一番は。ゲイとは関係ないけれど。でもこういうゲイとは関係ないネタも含まれているからこそこれはあくまでコメディだと言い切れるという面もあります。
 私がここまでコメディであることを力説するのは、ゲイ映画が(特にメディアによって)何か特別のもののように扱われ、そこで投げかけられている問題意識のようなものを取り上げてしまう。もちろんそれは意義のあることではあるけれど、逆にゲイ映画というものを特別なものとしてしまい、客足を遠のかせてしまう。そんな気がしてしまいます。コメディ映画としてみてきた人が「ああ、これってゲイの映画なんだね」と思うくらいがいいと思う。
 私はゲイの人たちのクリエイティビティというものを非常に買っているので、そのようにして彼らの活躍の場が広がることはとても喜ばしいことだと思うのです。この映画はゲイカルチャーはゲイだけのものであるというような考え方を打ち崩すきっかけになりそうな勢いを持っています。
 あるいは、ゲイ映画ではない。ゲイというカテゴライズを越えたすべての人間が持つ「孤独」という問題、それを描いた映画だということもできる。

 さて、「ゲイ映画」というジャンルわけをいったん無視して、この映画を見つめなおして見ます。この映画でもっともすばらしいのはその自然さ、それはつまりリアルさ。細部まで行き届いた現実感。自然な台詞回しは最近流行の役者のアドリブを取り入れようという方法かと思いきや、ほぼすべて台本通りリハーサルにリハーサルを重ねて作り上げたものだそうです。そう考えると、この映画の緊迫感や生々しさは非常に驚異的なものかもしれません。役者の身にせりふが染み込んでいる感じがする。小物なども注意が行き届いている。直也と勝裕が一緒に住む部屋のファーストカットで直也と直也の部屋にあった緑のチェックのクッションが映る。これが(今までの)直也の部屋でないことは明らかなので、くどくど説明しなくてもこの1カットだけで引っ越して二人ですんでいるということがわかる。このあたりは秀逸。
 さて、今回気づいたことは勝裕が直也の着ていた服を着ているということ。太陽みたいな柄のTシャツや、シャツなんかを共有しているのかお下がりで着ているのかはわかりませんが、とにかく直也が勝裕のダサさを克服しようと着せていると思われます。そのあたりの細かい設定も現実感を増しているのでしょう。
 後は、シーンからシーンのジャンプ。シーンの終わりが唐突で、いきなり次のシーンに飛ぶ。一瞬の黒画面やフェードアウトが入ることはあっても、かなり唐突な感があります。これは上映時間の都合上カットしたということもあるようですが、基本的には橋口監督のスタイルということですね。映画がテンポアップするとともに勝裕が風呂場で口を真っ青にするところのようなシーンの面白いつながり方をも生み出しています。

 これは余談ですが、誰もが心に引っかかる「怒るといつもアイス食べるじゃん」のアイスクリームはハーゲンダッツのバニラアイスクリームですが、橋口監督曰く、それは「世界で一番おいしい食べ物」だそうです。それはステキ。

満員電車

1957年,日本,99分
監督:市川崑
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:宅孝二
出演:川口浩、笠智衆、杉村春子、船越英二、川崎敬三、小野道子

 一流大学の平和大学を卒業し、駱駝ビールに就職が決まった茂呂井は東京でのガールフレンドたちに別れを告げ、新人研修に向かう。そこで十人のうち8人までが縁故採用だと知ったが、あくまで現実的な茂呂井はそれにもめげず赴任先の尼崎で退屈な仕事をしっかりこなす。しかしそんな彼のところにははが発狂したという便りが届いた。
 川口浩主演によるコメディ。前半はあたたかい雰囲気だが後半は一転ドライでシニカルな笑いに包まれる。

 今ならばテレビドラマという感じの軽めのコメディですが、そうは言っても市川崑しっかりと画面を構成しています。特に多いのは画面の真中で正面を向いた顔。単純なアップだけでなく、後景で何かが起こっているときに、画面の前面に顔があるというようなことが多いです。その正面を向いた人々(主に川口浩)の目はうつろ。空っぽの目をしています。
 前半は決してそんなことはなく、朗らかで明るい眼をしているのですが、後半になるとうつろで空っぽの目になってしまう。それはやはりサラリーマン生活は明るさを殺していくというメッセージなのでしょう。それ自体は特段変わったことでもないけれど、それでも着実なサラリーマン生活にこだわる川口浩の姿に皮肉を感じます。
 しかし、最後まであくまでコメディで暗い気分にはさせない。その時代のことがわからない今見てどうなのかというと、どうなんだろう。「今でも共通する部分はあるよ」という安っぽい言葉は吐きたくないので、別の言葉でいいますが、結局のところ、ずっとこういう「生きにくさ」を描いた映画はあったということでしょう。自分の居場所がない感じ。居場所を見つけたと思ったら他の人にすでにとられていたり、居ついてみたら追い出されたりする感じ。そんな感じがふわっと漂ってきます。
 一見すると、世間をシニカルに見ているような感じがしますが、そういう誰もが感じる居場所のなさを描くということは、実はむしろ世の中を正面から見ているかもしれない。川口浩がまっすぐみつめる先にいる我々というのが世間であるのかもしれない。最初明るい目でみつめ、次にはうつろな目でみつめ、最後サラリーマンをあきらめた彼が再びエネルギッシュな目でみつめる正面にある世間とはつまりわれわれのことなのかもしれません。そしてわれわれもこの映画の中にある世間をまっすぐみつめることになる。
 そういうこと。かな?

EUREKA ユリイカ

2000年,日本,217分
監督:青山真治
脚本:青山真治
撮影:田村正毅
音楽:山田勲生、青山真治
出演:役所広司、宮崎あおい、宮崎将、斎藤洋一郎、光石研

 九州で起こったバスジャック事件。6人の乗客と犯人が殺され、運転手の沢井と、中学生と小学生の兄妹だけが生き残った。心にキズを抱えた3人は以前の生活に戻ることができず、沢井は失踪し、兄妹は家に閉じこもるようになってしまった。しかし2年後その沢井が帰ってくる…
 現代の日本を代表する作家の1人青山真治が白黒シネスコ3時間半という、非現代的非商業的なフォーマットで撮った挑戦的な作品。これも現代の日本を代表するカメラマンである田村正毅とともに作り上げた映像は研ぎ澄まされており、美しい。

 確かに見事な映像。白黒シネスコというのもとても好き。しかし、これが「新しい」映画なのか? という疑問が付き纏う。どの画面を切り取ってもどこかで見たことがあるような気がしてしまう。ヴェンダース、ソクーロフ、アンゲロプロス… 彼らの面影をそこに見てしまうのは私だけだろうか? この映画が70年代に、いや80年代でも作られていたら新しい映画であっただろう。しかし、2000年の今、この映画は果たして「新しい」のか? そんな疑問が生じてしまう。先駆者たちが作り上げた新しい世界観(それはもちろんその先駆者達からヒントを得てのことだが)を組み合わせ、作り出した画面に果たして新しい世界観はあるのか? あえて白黒シネスコというオールドスタイルを取ったこの映画はそれゆえにその古きよき映画を乗り越えていなければならないはずだ。
 自らをあえて苦しい立場に置いた作家はその責務を果たすことはできなかった。しかし、巷にあふれる映画と比べるとその完成度は高く、またその挑戦自体にも意味があることだったと思う。だからこの映画は見られる必要がある。そしてそれが見られやすいようにドラマ的なプロット、哲学的なテーマも用意されている。しかしそのどちらも(連続殺人事件の犯人は誰かというドラマとなぜ人を殺してはいけないのかという哲学的テーマのどちらも)それほど完成度は高くない。ドラマは結末が見えてしまうし、哲学的には踏み込みが甘い。だから、ドラマや哲学という入り込みやすい要素によって映画に取り込まれた観客も映画そのものに立ち返らざるを得ない。
 誰もがこの映画を見ることによって映画が抱える問題に直面せざるを得ない。映画を愛するものならばこの映画を見なくてはならない。こういう映画を作ってくれる作家が日本にいることはうれしいことだとも思う。
 最後に、この映画を語るときどうしても「長い」という問題が出てくる。しかし映画の長さが1時間半あるいは2時間というのは神話でしかなく、実際はどんな長さでもいいはずだ。キェシロフスキーは1時間×10話からなる「デカローグ」をとった。わずか15分の「アンダルシアの犬」はいまだ映画史に残る名作である。だから、そもそもことさらに長さを意識する必要はないはずだ。それでも「長さ」を問題とするならば、この映画が突きつける問題を考えるならば、映画にこれくらいの余裕がなければいけないと言おう。映画からはなれて自分の考えに浸れる時間をこの映画は提供していると思う。

光の雨

2001年,日本,130分
監督:高橋伴明
原作:立松和平
脚本:青島武
撮影:柴主高秀
音楽:梅林茂
出演:萩原聖人、裕木奈江、山本太郎、高橋かおり、大杉漣

 若手の映画監督阿南は知り合いのCMディレクター樽見の初監督作品のメイキングを撮影することになった。その映画は連合赤軍の浅間山荘事件を描いた小説「光の雨」を映画化するものだった。その時代を生きた樽見とそんな事件のことすら知らない若者によって取られる映画がどのようになるのか、阿南は興味を持ってみつめるが…
 単純に小説を映画化するのではなく、それを映画化することを映画に撮るという二重構造をとることで、ドキュメンタリー的な要素を入れ込んだ。

 映画の映画とすることで、単なる昔話ではなくできたことは確か。しかし、結局物語の焦点がそれを経験した世代にあるのか、経験しなかった世代にあるのかがはっきりしない気もする。若者達が映画に出ることによってその内容に影響され、自分の中の何かが変わるということは理解できる。それは私が70年には生まれてもおらず、経験していなかった世代に親近感を覚えるということもあるかもしれない。しかも、そもそも映画全体をみれば、より興味を持ったのは連合赤軍の話自体で、撮影に関する話にはあまり興味が湧かなかった。したがって、個人的には単純に原作をそのまま映画にしてくれたほうがよかったといいたい。
 しかも、映画としても中身の映画のほうが、撮影に関する話よりうまくできている気がする。一番気になったのは、ロケハンをしている阿南が抜けている床から落ちる場面の、落ち方の下手さ加減だったりするのだけれど、そもそも撮影に関する話で印象に残っているところといえば、弟が兄のメイクをふき取りながら話すシーンくらい。
 このように撮影に関する話がいまひとつな理由を考えてみると、結局のところ、ドキュメンタリー的な要素といいながら、あからさまにフィクションであるということ。これはドキュメンタリーとフィクションの境界を越える作品ではなく、ドキュメンタリーという看板を借りた完全なフィクションでしかないということ。つまり、最近はやりのドキュメンタリー風をちょっとアレンジしただけのもの。それは単なるドキュメンタリー風よりも性質が悪い。原作の描いた世界をまっすぐに映画化できないから、そこから逃げるために回りくどいやり方をとったのではないかと穿った見方をしたくなる。原作自体を描いた部分は面白かったのだから、それだけでがっちり勝負して欲しかったと、その事件を知らない世代としては思います。

 これは余談ですが、この映画はなんとなく「バトルロワイヤル」に似ている。山本太郎が出ているというのは別にしても、映画の空気が似ている。死んだ人の名前が字幕で出るところも似ている。だからどうだということもないですが、細かく見ていけばもっと似ているところが見つかる気がします。

日本鬼子 リーベンクイズ

2001年,日本,160分
監督:松井稔
撮影:小栗謙一
音楽:佐藤良介
出演:日中戦争を経験した方々

 8月15日の靖国神社には様々な人が集い集まる。「英霊」と称えられる人々が戦場でやってきたこととは何なのか。1939年の満州事変に始まり、日本が無条件降伏をするまでの15年間休むことなく続いた日中戦争において中国に渡り拷問・強姦・虐殺などを行ってしまった兵士たち本人の証言によってそれを問う貴重な記録映画。時間軸にそった日中戦争の展開も解説されており、戦争を知らない世代にとっては非常に勉強になるお話。

 この映画で語られていることを知ることは非常に重要だと思う。情報としては様々なメディアで紹介され、文字として読むこともできることで、ことさらこの映画を見なければならないということはないけれど、実行した本人が証言している映像を見ることは文字を読むことよりも何倍かは伝わりやすいと思う。そしてあわせて歴史が解説されるというのもいい。文字でこういう構成をとられると、なんとなく流れが分断される気がして読みにくかろうと思うが、映画にしてしまうと、ぐっと集中してみる時間に区切りがついて見やすくなるという効果もあると思う。
 ということで、内容をここで繰り返すことには全く意味がないので、やめることにして、映画を見ながら思った(あるいは思い出した)ことを書いてみましょう。ちょっと映画の主張からは外れますが、ひとつは古参兵の命令は絶対だったというのを見ながら「兵隊やくざ」を思い出す。「兵隊やくざ」(1965)は勝新太郎演じる正義漢の初年兵が古参兵の命令にもはむかって正義というか仁義を貫くという映画。当時の観客達は自らの軍隊経験と重ね合わせて、感慨を持ちながら見ていたんだろうなぁと想像する。もうひとつはここに登場する人たちはおそらく一度ならずどこかでそれをかたったり書いたりしている人たちなんだろうと思う。一部の人はどこかに書いたということやしゃべったということが明らかになっている。そういう体験を経ているからこそカメラのまえで冷静に(あるいは冷静さを装って)体験を語れるのだろう。逆に語れないままいる人や、語ることの出来ないままなくなってしまった人のほうが多いのだろう。彼らがそれを語れるのはやはり中国の軍事法廷の寛大さが大きな要因となっていると思う。中国人民に謝罪し、感謝した彼らはそれを他の人たちに伝え、二度と繰り返さないようにするという義務感を重く感じただろう。それは自分や家族の恥となることを厭わないほどに。

ワンダフルライフ

1999年,日本,118分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
音楽:笠松泰洋
出演:ARATA、小田エリカ、寺島進、内藤剛志、谷啓、伊勢谷友介、香川京子、阿部サダヲ

 死んだ人が、まず行くところ。それは生前の一番の想い出を唯一の記憶とするためにそれを再現する場所だった。その場所で働く人々を中心に、22人の死んだばかりの人々との対話を描いたファンタジックなヒューマンドラマ。
 ドキュメンタリー畑出身の是枝監督らしいドキュメンタリーに傾いた描写がそこここに見られる。発想もユニークで面白いので、すっと映画に入りやすい。

 それぞれの人がその想い出を考える場面、特に彼らが真正面から固定された画面の中で語る姿はまさにドキュメンタリー風の映像であり、そのそれぞれの思いがこの映画で一番面白い部分。複雑な思いを抱えて死んだ人々の心のほつれがほどけていく過程がうまく表現されているような気がする。
 この映画が素晴らしいのは、映像がどうのというよりも、私たちに語りかけてくること。この映画を見ながら、自分が今死んでしまったら「一番印象に残ったこと」といわれてなんと答えるだろうか? という明確な問いがひとつ投げかけられる。もちろん私たちはまだ死んでいないので、それを考えたところからこれからの「生」に対して何か考えが変わるかもしれない。あるいは変えなくていいんだと気付くかもしれない。そのように今ある「生」に向き合うことこそこの映画がわれわれに投げかけていることなのだろう。この映画を見て、考えてみましょう。「一番印象に残ったこと」とは何か?
 そのあたりは明確です。ちょっと文章で書くと空々しいですが、映画を見れば実感です。さて、映像がどうのといいながら、この映画はとてもきれい。舞台設定がなんか古い学校だか病院っぽいところで、それ自体がフォトジェニック(フィルムジェニック?)なのに加えて、季節が冬というのも印象的です。一番はっとしたのはARATAと小田エリカが雪の中を歩いて建物まで行き、建物の中に入るシーン。ただそれだけのシーンですが、うーんなんかいいんだよね。
 難を言うなら、後半のプロットでしょうか。言ってしまえばなくてもよかった。まあ、あってもマイナスではないし、21人の人々がいなくなって静かになったところでじっくりと見られるという利点はあるけれど、前半のスピード感から一転、急にスローになるので、ちょっと気が抜ける感じもします。個人的な好みとしては、人々がいなくなって、次の人たちがくる。その単純な1サイクルを描くだけでよかった気もします。
 でも、ラストカットはとてもよかった。ということは後半も必要なのかな?

野火

1959年,日本,105分
監督:市川崑
原作:大岡昇平
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修、稲葉義男

 第二次大戦中のレイテ島。壊滅状態の日本軍の中で、肺病にかかった田村は口減らしのため、病院に入院するように命令される。しかし、立ち上がれないような傷病者であふれかえる病院でも受け入れてもらえない田村は、同じような境遇にある数人の兵士と病院の隣の林で過ごしていた。しかし、そこにもついに、アメリカ軍の攻撃の手が及んだ。
 攻撃と飢餓という要素から極限状態に置かれた兵隊たちの心理を描いた作品。この映画のためにかなりの減量をしたという船越英二の演技が素晴らしい。

 確かにすさまじい映画で、戦争の経験がわりと身近なものではある時代にしか作れなかったものであるような気がする。映画にたずさわる誰もが戦争を経験し、それを表現したい欲望に駆られている。そんな雰囲気が伝わってくるような作品である。
 しかし、今見れば手放しで賞賛できるような内容ではないことも事実。どこまでが事実でどこまでがフィクションなのかという問題ではなく、ひとつの戦争をこのように描くことによって伝わってしまうものは何なのかという問題。この映画は「人食い」というショッキングな題材を扱っているわけだが、その描き方が何となく薄い気がする。人を「人食い」に駆り立てるもの、「人食い」によって人はどう変わってしまうのか、そのあたりがあまり見えてこない。そこが見えてこないとこの映画の主旨も見えてこない。そんな気がしてしまう。途中でひとりの気が狂った将校が登場する。その存在は「人を食う=狂う」という単純な因果関係を想定してはいないだろうか。私が問題にしたいのは「人を食うことでなぜ人間は狂うのか」という部分である。それはあくまで私の興味ではあるが、ただ「人を食う=狂う」という等式を提示するだけでは説得力がないし、インパクト以外の何かを与えることはできないと思う。この映画からたち現れてくるのは結局のところ「人は食うな」というメッセージであり、そんなことは分かっているといいたくなる。私にとって問題は「なぜ人を食ってはいけないのか」ということであり、それを分かりきったこととして片付けてしまうのは納得がいかない。もちろんこの映画は極限状態にある人々を描くことで、「人を食うこと」に対する葛藤を描き、「なぜ」を考える材料にはなる。しかし、その「なぜ」の答えへと至る路のすべてが見ている側に任されていて、この映画自体はその「なぜ」の答えを出そうとしていない。その答えを提示する必要はもちろんないけれど、その「なぜ」を問題化するぐらいはしてもよかったと思う。
 なんだか難しい話になってしまいましたが、こういうとことんシリアスな映画をみる場合には仕方のないこと。船越英二もいつもの女ったらし役とはまったく違う役を、素晴らしく演じている。やっぱりこの人はすごい役者だったのね。セリフは棒読みだけど、そういう味なんだと思う。

DEAD OR ALIVE FINAL

2001年,日本,90分
監督:三池崇史
脚本:石川均、龍一郎、鴨義信
撮影:田中一成
音楽:遠藤浩二
出演:哀川翔、竹内力、テレンス・イン、ジョシー・ホー

 時は西暦2346年、荒野に囲まれた国際都市横浜では人口抑制のため、不妊化薬が強制投与されていた。その政策を推し進めるのは中国系の市長ウー。しかし一部の人々はその政策に反対し、投薬を拒否していた。そんな市の警察のひとりホンダがひとりの少年を追い詰めたとき、人間とは思えない動きをするひとりの男リョウがあらわれた。
 DOAシリーズの完結編はSF。ジャッキー・チェン事務所の全面協力で複数の言語が飛び交う国際的な作品になった。アクションも香港アクションを採用。

 DOAシリーズは過剰であることによって笑いを生み出してきた。もちろんその最高のものは1作目のラストだけれど、それに代表される非人間的なまでの過剰さというのが生命線である。この3作目は2作目に比べて救われている。しかし、この作品はまじめな中に存在する過剰さという笑いではなく、基本的に過剰である。だから、これは笑えるアクション映画ではなくて、アクションを基本としたコメディ映画であると言えるだろう。2作目ではアクションだかコメディだかわからない中途半端な作品で、消化不良でしたが、この3作目では完全にコメディ化してしまうことによってシリーズとしての収拾も何とかつけられたと言うことができるだろう。
 だからアクションとしてもパロディ的な要素が多い。いわゆる「マトリックス後」のアクションの安っぽいコピーを提示することでそれをパロディ化するという方法。そんな方法がとられています。意図的に安っぽいコピーを作ることでその傾向を茶化すという感じ。だからワイヤーアクションも相当しょぼい。昨日の「最終絶叫計画」に共通するようなパロディ傾向があると思います。
 さて、他に言うことといえば、複数の言語が登場することでしょうか。世界が国際化されれば一つの場所で複数の言語が存在することは容易に想像できることで、その間でのコミュニケーションというのがどのように成立するのかというのもなかなか興味深いところではあります。基本的にはそこにデュスコミュニケーションが存在しそうですが、この映画では互いに異なった言葉を話していながらコミュニケーションが成立している。これはかなり不思議です。ちょっと不自然です。これを見ながら同じく哀川翔が複数言語状況を体験する映画「RUSH!」を思い出しました。それと比べると、この映画のコミュニケーション状況は不自然で、なじめない、腑に落ちない感があります。せっかく複数の言語を使っているのにその意味がない。それなら全部日本語でもよかったんじゃないかと思う。そのあたりも考えたんだろうけれど、いまひとつ実を結ばなかったというところ。
 ということで、これでシリーズ終わりでよかったよ。という感じです。オチもまあまあだし。

ぼんち

1960年,日本,105分
監督:市川崑
原作:山崎豊子
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、草笛光子、山田五十鈴、船越英二、京マチ子

 隠居暮らしの喜久治は腹違いの息子達のことを客に聞かれ、思い出話をはじめる。話の始まりは昭和の初め、喜久治が大阪は船場の足袋問屋のボンボンだった頃に遡る。当時はいいように放蕩を続けていた喜久治だったが、家の中で発言力を持つ母と祖母の勧めに従って結婚することにした。しかし、しきたりや世間体ばかりにこだわる母と祖母はそう簡単に嫁の弘子を受け入れはせず…
 市川崑に宮川一夫、市川雷蔵と当時脂の乗り切っていた人材が集まって作られた、ちょっと時代がかった題材をモダンな感じで撮った秀作。

 宮川一夫がカメラを持つと、どんな映画でもいい映画になってしまうのだろうか? 宮川一夫らしさというものが特段何かあるわけではないけれど、「いいな」と思ってスタッフを見ると、宮川一夫の名前があることが50年代、60年代の映画には多い。この映画でも映像の素晴らしさには感心するしかなく、昔の話が始まった冒頭の数シーンを見るだけで、それが自然で滑らかでありながらどの瞬間を切り取っても美しいことに気付く。その映像にどんな特徴があるとかいうことを説明できないのがつらいのですが、なんとなくのイメージとしては上からの視線が多く、色彩が鮮やかで、動きのある画面が多い。という感じでしょうか。あとは意外な視線から物を眺めることも多いかもしれません。この映画の冒頭で記憶に残っているのは、母と祖母の2人が足早に廊下を歩く足袋のアップと舟がフレームを横切るところを真上から撮ったところ。ともに日常的ではない視点で撮られているということがあるので、そう考えると、意外な視点というのも特徴のひとつなのかもしれません。
 まあしかし、宮川一夫が名カメラマンであるということはすでに定説となっているようなので私がことさらに言うまでもないかもしれません。そういうすごいカメラマンがいたんだよ。ということです。見たことない方はぜひ一度見てみてくださいな。
 映像の話が長くなってしまいましたが、ほかにこの映画で気に入ったところといえば、喜久治の人間性でしょうか。「ぼんち」という言葉の意味はいまひとつ分かりませんが、確かにボンボンではあるけど、ただの穀つぶしの放蕩息子ではないということでしょうか。とにかく、この喜久治という人のやさしさと自然に出てくる改革精神(というと大げさですが)は素晴らしいですね。こういう人になりたい、というと御幣があるかもしれませんが、こういう心のもちようで暮らしたい、と思った次第であります。