空の穴

2001年,日本,127分
監督:熊切和嘉
脚本:熊切和嘉、穐月彦
撮影:橋本清明
音楽:赤犬、松本章
出演:寺島進、菊地百合子、外波山文明、沢田俊輔

 北海道の寂れた道沿いにある薄汚れたドライブイン「空の穴」。そこに立ち寄った登と妙子のカップルだったが、2人の間はギクシャクし、妙子は近くのガソリンスタンドで置いてきぼりにされてしまう。一方、「空の穴」をやっているのは競馬好きの父と料理人の息子市夫。競馬を見に出かけると言って父親が出かけてしまった翌日、「空の穴」に再びやってきた無一文の妙子は食い逃げしようとするが市夫につかまってしまう。
 「鬼畜大宴会」でデビューした熊切和嘉の第2作。PFFのスカラシップ作品でもある。前作とは一転して激しさは影をひそめる。

 市夫のキャラクターの描き方がとてもいい。とっつきにくく、自分勝手で、近くにいたら多分イライラさせられる性格だけれど、その殻を破ったところには違うものがあるだろうと思わせる。でも、そもそもそんな殻を一体破ることができるのか?という疑問も浮かぶ。それは妙子によって徐々に開かれていくのだけれど、それは本当に開かれたのか?
 その市夫の「殻」を象徴的に示すのはジョギングだと私は思う。走るという行為は自分に閉じこもるのには最適だし、最初の朝、妙子に「ジョギングですか?」と聞かれて、「ううん、ただ走ってるだけ」と答えたのも面白いと同時に意味深である。走ること=閉じこもること。物語が進むに連れ、このジョギングのシーンは姿を消す。これはつまり市夫が殻から出てきたということなのだろう。と、いいたいが、実際は決して殻から出ることはなく、妙子を自分の殻に引き込もうとしているに過ぎない。世界に対して殻を開くのではなく、二人の殻を作ろうと試みる。そういう考え方に過ぎない。
 それが悪いといっているのではない。誰しも社会に対して壁を持っていなければならないし、親しい人はその壁の中に引き込みたいと思う。しかし同時に引き込むことに恐れも抱く。市夫と妙子は2人とも他人を自分の殻の中に引き込むことにしり込みしている。そんな2人の無意識の駆け引きが、最終的にはどうなったのか、実際のところはよくわからない。市夫は何かを得たのだろうけれど、一体に何を得たのだろうか? 再び走り始めた彼の殻は妙子と出会う前の殻とどう変わったのだろうか?
 です。尻切れトンボのようですが、これは哲学なので疑問符で終わらなければいけません(勝手なポリシー)。
 で、他に気づいたことといえば、ロングショットが美しい、ガソリンスタンドの夫婦はひどい、寺島進はやっぱり渋い/確かに人相は悪い。かな。

秋日和

1960年,日本,128分
監督:小津安二郎
原作:里見弴
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:原節子、司葉子、岡田茉莉子、佐分利信、笠智衆

 旧友三輪の7回忌に集まった3人の友人と残された三輪の妻子は寺を後にし、料理屋で語る。その席で三輪の娘百合子のお婿さんを世話しようと話になるが、話はなかなかうまく進まず…
 小津は60年代に入っても親子の物語を撮る。原節子が娘役から母親役に回り、全体にモダンな感じになってはいるものの、本質的な小津らしさは変わらず、その混ざり加減がとても心地よい感じ。

 60年代、オフィス街、銀座、BG(ビジネス・ガール)とくると、どうしても増村保造の世界を思い浮かべてしまいますが、これは小津。なので、物語の展開もやはり小津。増村ならば、秋子を巡ってドロドロとしたり、いろいろあると思うのですが、小津なので最終的に母娘の物語になります。そして相変わらずカメラ目線で正面を向き、独特の節回しで「ねぇ~」と言う。
 小津の「ねぇ~」が好き。小津映画の女性たちは「そうよ」と「ねぇ~」だけでいろいろなことを語る。大体は女性同士が視線を交わしあいながら、なんだか企み気に「そうよ」… 間 …「ねぇ~」という。ついつい微笑んでしまうその光景が好き。小津映画を巨匠巨匠と構えて見るよりも、「ねぇ~」といいながら微笑んで見たい。この映画はそんな見方に最適です。
 この映画を見ながら60年代に暮らしたいと思いました。まあ無理ですが。増村を見ていてもそうですが、モーレツな生活の中に何か味わいのようなものがあるとは思いませんか? 何かかが新しくなっていく時期というか、古いものと新しいものが混在している時期という感じ。そして娯楽の中心は映画で毎週毎週こんな映画が封切られる。少々不便でもそんな生活って素敵だと思いますね。
 だんだん映画の感想ではなくなってきていますが、気にしない。私は普段歩くのが好きで、ふらふらと東京の町をさまよっているのですが、大通りを歩くのは楽しくない。それよりも細い道をふらふら歩く。それでも東京はどの道もしっかりと舗装され、つまらない。60年代の映像を見ていると、銀座ですらまだ舗装されていないところがあったりする。そんな道を歩くのは快適ではないかもしれないけれど楽しいことのような気がします。これは生きたことがない時代へのノスタルジー。現実は違うと思うけれどノスタルジックに見ることがとても楽しいのでいいのです。
 そうなったら、このメルマガもガリ版で作るしかないかしら。それもいいかもね。

麦秋

1951年,日本,124分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:原節子、笠智衆、淡島千景、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子

 紀子は両親と兄夫婦とその2人の息子と仲睦まじく暮らし、東京で重役秘書の仕事もしていた。しかしもう28歳、まわりは早く結婚をと考える。学生時代からの親友で同じく未婚のアヤと嫁に行った友達をいじめたりもしているが、本心はどうだかわからない。
 小津らしく家族を中心に、日常生活の1ページを静かに切り取った作品。晩年というほどではないが、かなり後期の作品なので、スタイルも固まり、いわゆる小津らしい作品となっている。

 小津映画の特徴といわれるものがもらさず見られる。ローアングル、固定カメラ、表情を正面から捉えての切り返し、などなど。もちろん映画からこれらの特徴が分析されたのだから、そのような特徴が見られるのは当然なのだが、分析の結果を知って映画を見るわれわれはそのことに目をやってしまいがちだ。
 しかし、そんな分析的な目で映画を見てしまうとつまらない。特に小津の映画は分析的な目で見ると、どれも代わりばえがせず、型にはまっていて退屈なものとなりかねない。しかし、小津が偉大なのはそのようなスタイルを作り出したことであり、そのスタイルは驚嘆に値するものだ。小津のスタイルとはあくまでも、よりよい描写のために作り上げられてきたものであり、まずスタイルありきではない。笠智衆の寂しさを捉えるのに、右斜め後ろからローアングルで撮るのが一番いいと思うからこそローアングルで撮るのであって、ローアングルがまずあるわけではない。
 だから、なるべく分析的な視点から逃れて映画を見る。するとこの映画は他の小津の映画と同じく不自然だ。カメラをまっすぐみつめて、棒読みでポツリとセリフをはく笠智衆はやっぱり不自然だ。ついついにやりとしてしまうような不自然さがあちらこちらにある。その不自然さはしかし空間をギクシャクさせるような不自然さではなくて、逆にほんわかとあたたかくさせる不自然さであると思う。それは映画全体の雰囲気とも関係があるのだが、その不自然な振る舞いや映像によって逆に人間くささのようなものが生まれる気もする。
 この不自然さという部分だけを取って何かを言うことは意味がないのかもしれないけれど、この映画で引っかかったのはその部分でした。もうひとつ「間」の問題も頭をかすめましたが、この小津的な「間」というのはもう少し考えてから書くことにします。
 で、この作品に限って言うと、特徴的なのは「戦争」の影。この作品が作られたのは昭和26年だから、戦争が終わってそれほど経っていない。映画の中でも言われているように、不意に戦争で行方不明になった家族が帰ってきたりもする頃、その戦争の影というものが映画全体に漂っているような気がします。特に、両親の表情にある曇りはその戦争が落としていったひとつの影であるような気がします。リアルタイムでこの映画を見た人たちにもまた、戦争の影というものが落ちていたのだろうとも思いました。

ピストルオペラ

2001年,日本,112分
監督:鈴木清順
脚本:伊東和典
撮影:前田米造
音楽:こだま和文
出演:江角マキコ、山口小夜子、韓英恵、永瀬正敏、樹木希林、沢田研二、平幹二郎

 ライフルを構え、何者かを撃ち殺した男。その男が別の男に殺され、東京駅にぶら下がる、あやしげな笑みを浮かべながら死ぬ。撃った男は車に乗り込み、逃げてゆく。黒い着物に黒いブーツ、殺し屋ナンバー3通称野良猫は殺し屋のギルドの代理人小夜子から仕事を受ける。仕事はこなしたが、そこにナンバー4通称生活指導の先生が現れた。
 「殺しの烙印」を自らリメイクした鈴木清順は、全く違う作品に仕上げる。白黒世界とは全く違う鮮やかな色彩世界、男の世界とは違った女の物語。

 江角マキコは美しい。あの衣装もとても素敵。それに限らず色使いに関してはいうことなし。清順映画の色使いはやはりすごいです。初めから終わりまで画面の色使いを眺めているだけで「美」というものに対する並々ならぬ意識を感じずに入られない。
 と、美しさという点ではいうことはない。して、物語に行けば、
 どうしても「殺しの烙印」を意識しながら見てしまうのですが、基本的に全く違う作品。前作を意識して、あてはめをしながら見てしまうと作品自体を楽しめなくなってしまう。殺し屋のランキングがあるということ以外は共通点もあまりない全く別のお話として見なければいけないのでした。
 そんなことを考えながら話がまとまらないのは、映画もまとまらないから。清順映画を理解しようという試みはというの昔にあきらめていますが、この映画はその中でもかなり混迷の度合いが高い部類に入ると思います。物語というよりは個々の描写/表現が。特に撃ちあいのシーンなどは何がどうなっているのやらさっぱりわからない。それは映画としての表現もそうだし、関係性の描写もそう。画面やプロットを構成する各要素が一体どんな意味を持っているのか、あるいはどんな役割を果たしているのか、そのあたりがなかなか見えてこない。清順映画は何度も見ればそれが徐々に見えてくるという感じのものが多いので、これもまたそのひとつではあるのだろうけれど、困惑したまま映画館を出るというのはなかなかつらいものです。
 全く違う心構えで、もう一度見れば、また違うことを考えられるのではないかなと思います。「ツィゴイネルワイゼン」は見るたびに驚きを与えてくれる映画であり、それはわけのわからなかった部分が少しずつわかってくることや、それまでは気づかなかったカットや小道具に気がつくことの喜びがある映画だったわけです。果たしてこの映画はどれほどそれに近づけるのか、それはもう一度見てのお楽しみという気がします。

バトル・ロワイヤル

2000年,日本,117分
監督:深作欣二
原作:高見広春
脚本:深作健太
撮影:柳島克己
音楽:天野正道
出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、山本太郎、安藤政信、柴咲コウ

 近未来の日本、暴力化する子供達を恐れた大人は通称BR法と呼ばれる法律を定め、毎年全国の中学三年生の中から1クラスを選び出し、最後の一人が残るまで殺し合いをさせるというゲームをすることに決めた。
 衝撃的な内容で話題を呼んだ小説「バトル・ロワイヤル」を深作欣二が映画化。基本的には原作に忠実な物語だが、映画としてはさすがに構成に工夫をしてある。

 原作を読んでしまっていたので、先の展開に対するハラハラ感というのは減じてしまったけれど、原作を読まずに見れば、もちろんその展開の仕方にかなり興味を惹かれるだろうし、映画として原作の物語の展開力をしっかりと再現している気はする。バトル・ロワイヤルという環境は全く人が信用できないという状況なわけで、その前提が存在すれば、見る側の頭の中には様々な推論が去来する。だからこの原作が映画として面白くならないはずはないという気はした。
 さて、原作を読んでいたがため逆に映画としてのよしあしが見えてくることもあると思うのですが、この映画はまさにそんな感じ。原作との比較という意味ではなく、プロットの部分を除いたいわゆる映画的なものについてということですが。
 この映画で最も特徴的と言えるのは字幕、文字の使い方。人の名前なんかを字幕で出したりするのは、洋画のテレビ放映のようで気に入らないのですが、この映画はそういう状況説明の字幕だけでなく、唐突に黒バックに白文字でセリフが字幕として入る。この唐突さはなんなのか、そしてこの唐突な中断による断絶はなんなのか? 壮絶な描写に対する一種の間として機能していると考えることもできるし、教訓めいたお言葉と理解することもできるし、表面的な暴力性とは裏腹な内面の人間性の描写とでも言うこともできるかもしれない。そのどれかひとつということではなく、それらの要素をあわせ持つものとして存在していると私は思う。それは、ラストの字幕。その一種の違和感すら覚える字幕をみたときに感じた爽快感のようなものから感じたこと。
 このような映画が暴力をあおるために作られることはもちろんなく、そこに何らかの反面教師的な性格を持たせていると受け取るのが普通であり、この映画もそのようなものとして作られたと思うのだけれど、この字幕の存在とそれが作り出す間がそれを確信させる。この映画の公開に反対したバカな国会議員もいたけれど、そんな大人が結局BR法のようなものを作ってしまうんだろうな、などとまっとうなことも考えてみたりしました。

DEAD OR ALIVE 2 逃亡者

2000年,日本,97分
監督:三池崇史
脚本:NAKA 雅 MURA
撮影:田中一成
音楽:石川忠
出演:竹内力、哀川翔、遠藤憲一、青田典子

 スナイパーのミズキは仕事を請け負い、屋上から標的を狙っていた。すると、その標的と一緒に歩いていた男が標的を後ろから撃ち、周りの男達をも皆殺しにしてしまった。自分でしとめたことにしてちゃっかりと金を懐に入れたミズキだったが、銃を乱射した男に見覚えがあった。
 一部に熱狂的なファンを生んだ「DOA」の続編。しかし、前作と共通するのは竹内力と哀川翔のコンビというキャストのみで、設定などは全く違う。前作よりさらに壊した映画となっているが、その結果はいかに。

 これはコメディです。「DOA」といえば、なんといってもあの強烈なラストにつきるのですが、続編になってそのノリを極端なまでに推し進めたという感じ。そうすると、リアリズムからは遠くかけ離れ、ただただ笑いを誘うのみ。 最初のあたりは結構まともで、哀川翔が背中からブロックを出すあたりまでは納得がいくものの、その後のワルノリぶりは一部は面白いけれど、一部はくだらなすぎて笑えない。だからコメディとしても中途半端、アクションとしても中途半端、ということになってしまいます。しかし、よく見ると細かなところに小さくたくさんのネタが詰め込まれていて、細かくつぼをヒットしてきます。たとえば、中国人の三人組は名前がブー・フー・ウー(三匹の子豚かっ!われぇ)。
 だから、面白くないわけでもないし、見ていて退屈するわけでもない。何がいけないのかと一言で言ってしまえば、くどい。子供とか天使の羽とかとにかくくどい。「DOA」のすごさは、とんでもないことをさらっとやってしまうことだったのに、すごいことをすごいこととして描いてしまった。これでは何の意味もない。ただ普通に変わった映画になってしまうのです。
 でも、哀川翔はやっぱりいいな。私はいまの日本の俳優の中で一番だと思います。役所広司よりも浅野忠信よりも哀川翔。哀川翔がいるだけでその映画はなんとなく面白くなる。そんな気がします。だてに年に10本も20本も出てるわけではないね。

エコエコアザラク

2001年,日本,91分
監督:鈴木浩介
原作:古賀新一
脚本:小林弘利
撮影:橋本尚弘
音楽:北里玲二、笠松広司
出演:加藤夏希、大谷みつほ、光石研、遠藤憲一、津田寛治

 郊外の森で起きた高校生を含む5人の男女の虐殺事件。その事件をただひとり生き残った少女ミサは病院に入院していた。そんな中現場からは奇妙にねじれたナイフが見つかり、それが凶器と断定された。その事件に密着するディレクター前田はそれを「悪魔」と結びつけて報道する。
 吉野公佳や菅野美穂が主演し、話題となった「エコエコアザラク」シリーズのリニューアル版。

 アイドル映画と割り切ってみれば、なるほどねという気もしますが、これを映画といってしまうのはあまりにもあまり。出来事は収まるべきところにおさまらず、投げかけられた疑問は解決されず、消化不良ばかりが残る。
 映画としてので寄付で記はともかく、プロットがお粗末すぎる。映画の展開上都合が言い様に事実は歪曲され、どんどん説得力を失っていく。刑事もTVディレクターもセラピストも何もかもが胡散臭い。ありえない。そもそも薄暗い部屋で一人で司法解剖をするなんてありえない。刑事は二人しかいないのか?などなど疑問はつきません。
 見所といえば、やはりアイドル映画なので美少女を見ましょう。あとは、意外と掘り下げていけば面白くなりそうな物語の背景を読み込みましょう。悪魔崇拝ってなんじゃ?とかね。そもそも「エコエコアザラク」ってなんじゃとかね。
 そもそもこの映画の原作はコミックですが、それがどんな内容なのか逆に気になってきます。

黒の報告書

1963年,日本,94分
監督:増村保造
原作:佐賀潜
脚本:石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:宇津井健、叶順子、神山繁、殿山泰司、小沢栄太郎

 社長が自宅で殺されるという殺人事件。この担当になった城戸検事は凶器も判明し、指紋も出て、簡単な事件だと考えた。思い通り簡単に容疑者を捕まえ、尋問を開始するがなかなか自白をしない。そしてそこに現れたのは腕利きとして知られる弁護士山室だった。
 「黒」シリーズ、宇津井健シリーズの最初の作品。増村得意の法廷もので、重厚なドラマ。

 被疑者がいて、いかにも悪徳っぽい弁護士がいてという設定で、どう考えても城戸検事に肩入れせざるを得ない設定の作り方なので、このドラマはとてもいい。映画に対してはなれた視線で見ると、こういうドラマチックなドラマは醒めてしまうし、特に斬新なものがあるわけでもないので耐えがたくなってしまうが、映画の中に簡単に入り込めると、眉間にしわを寄せながら次の展開へと心はあせる。 ということなので、映画の冷静な分析など望むべくもなく、叶順子はきれいだなとか、宇津井健は眉毛つながって見えるなとか、そんな感想しかなく、これが最初からシリーズ化される予定だったとしたならば、「これからどうなるんだ城戸検事」と思わせる終わり方は見事だなということぐらいしか言いようがない。
 ひとつ思ったのは、殿山泰司のすごさ。最近「三文役者」という映画をやっていて、殿山泰司を竹中直人が演じていました。すっかり見逃してしまいましたが、もともと殿山泰司は知っていたもののそれほど思い入れがなかったというのもあります。しかし、この作品の殿山泰司はすごい。映画の中でひとり浮くぐらい味がある。水をいっぱい飲むだけで、「何かある」と思わせる演技をしています。これが名脇役といわれる所以かとはじめて実感したわけです。ほかに増村に出ていたので思い出すのは、「清作の妻」くらいでしょうか。とにかく、ようやく殿山泰司再発見でした。

裸足のピクニック

1993年,日本,92分
監督:矢口史靖
脚本:鈴木卓爾、中川泰伸、矢口史靖
撮影:古澤敏文、鈴木一博
音楽:うの花
出演:芹沢砂織、浅野あかね、あがた森魚、泉谷しげる

 ごく普通の女子高生がキセル乗車を見咎められたことをきっかけに、どうにもならない不幸のどん底へと陥って行く。ただただそれだけの映画。
 しかし、どんどん繰り出されるブラックな笑いの渦に巻き込まれると、どんどん映画に引き込まれて行く。矢口史靖監督の長編デビュー作。

 「アドレナリンドライブ」を見ると、むしろ「裸足のピクニック」のすごさが際立ってくる。これだけお金をかけずに、これだけめちゃめちゃな映画なのに面白い。役者もほぼ無名な人たちばかり。身代わりの人形はあまりにしょぼい。なのに面白い。あるいはそこが面白い。
 この映画を見ると、「映画の面白さっていったい何なんだ」と考える。よくできていて、その世界にすんなりと入り込める映画も面白ければ、この映画みたいに明らかに作り物で、ただそこに変なことをやっている人たちがいる面白さもある。このような映画(いわゆるインディーズ映画)を「いわゆる映画的なものを壊している」という表現でくくってしまっていいのか?と考える。
 分析して行くとますます違うもののように思えてくる、いわゆる「映画」といわゆる「インディーズ映画」が実際は同じ「映画」でしかないことを考えると、こんな区別が果たして意味があるのかという疑問がわいてくる。
 「インディーズ映画」というのは結局のところ「インディーズ=低予算」であるということだ。気をつけなければいけないのは「インディーズ=実験的」では(必ずしも)ないということ。実験的なのではなくて、お金がないがゆえに工夫に富んでいるだけかもしれない。
 そう考えると、徐々に「インディーズ映画」もまた映画であることが納得できて行く。「映画」になるために工夫を凝らされた「映画ではないもの」が本当に「映画」になった瞬間がインディーズ映画であるといえるんじゃないか。(だとすると、PFFのスカラシップっていうのは、まさしくインディーズ映画の工場みたいなもの「映画」を作りたくてうずうずしている若い監督に1000万(多分)という、「映画」を作るには少なすぎるお金を渡して「映画」を作らせる試み。そこから生まれてくるものは常に「インディーズ映画」と呼ぶにふさわしいものなのかもしれない)
 ならば、「裸足のピクニック」という素晴らしいインディーズ映画をとった矢口監督が「映画」を作ろうとして本当に「映画」を作ってしまった「アドレナリンドライブ」がいまいち納得できなかったのもうなずける気がする。

風花

2001年,日本,116分
監督:相米慎二
原作:鳴海章
脚本:森らいみ
撮影:町田博
音楽:大友良英
出演:小泉今日子、浅野忠信、麻生久美子、香山美子、鶴見辰吾

 明け方の桜の木下で目覚めた男女、男は前の晩の事をまったく覚えていなかった。ゆり子はピンサロ嬢、何か考えがあって実家に帰ろうとしている。澤城は官僚、よって万引きまがいの事をしてしまったために停職処分にされている。雪山を見に行こうと約束した二人だったが、しらふに戻った澤城はゆり子を置いて、帰ってしまう…
 相米慎二監督の遺作となった作品。小泉今日子と浅野忠信の二人芝居という感じ。

 口笛というと、うきうきした気分のときに出るものという暗喩がまかり通っているような感じだけれど、実際に口笛が口を突いて出るのは、そんないい気分のときばかりではなく、悲しさを隠したいときや気まずさをごまかしたいときだったりする。小泉今日子演じるゆり子の口笛はそんなごまかしの口笛であり、彼女の笑いもまたそんなごまかしの笑いである。一人になって遠くを、あるいは手元をじっとみつめるときのまなざしに何らかの意味を感じ取れるのは、そのようなごまかしの陽気さとの対比がはっきりしているからだろう。口笛というほんの小さな舞台装置で他の部分に意味を埋め込むことができるというのは素晴らしい。
 この映画のゆったりとしたスピードは、移動するカメラとそれによって実現される1シーン1カットのリズムだ。回想シーンはカット数が多く別のリズムだが、本編の大事なシーンでは1シーン1カットが使われていることが多い。一番印象的なのは頭を怪我した澤城をゆり子が手当てするシーン、ここは(多分)カメラも固定で、縦方向の移動を使って動きを作り出して、1シーンの長さを感じさせない。1シーン1カットという方法は映画の基本といういえるが、1シーンがある程度の長さになると演じるのも難しいだろうし、演出としてもリズムを作るのが難しい。しかし、カットが細切れになると、どうしてもそこにひとつのスピードが生じてしまうので、1シーン1カットがうまく行くと非常にゆったりとしたリズムを作り出すことができるのだろう。
 ちょっと甘っちょろい気もするが、ゆったりとしていて味わい深いヒューマンドラマというところでしょうか。