晩春

1949年,日本,108分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:笠置衆、原節子、月丘夢路、杉村春子、桂木洋子

 北鎌倉に住む、大学教授の父と娘。甲斐甲斐しく父の世話を焼く娘ももう嫁に行かねばならない年頃。しかし娘はそんなそぶりも見せない。そんな娘に叔母が縁談を進め、父にも縁談を持っていくのだが… 結婚をめぐって微妙に変化する父と娘の関係を描いた。
 小津安二郎得意のホームドラマ、笠置衆と原節子というキャストと「東京物語」と並んでこのころの小津の代表的な作品。「東京物語」ほどの完成度はないが、そこに流れる叙情はやはり素晴らしい。

 基本的なスタンスは「東京物語」と同じで、笠置衆はやはり無表情で一本調子。しかし、原節子はかなり表情豊かで、一人体全体で物語を語っているという感がある。そのために、「東京物語」と比べると完成度が低いように見えてしまうのだろうか? 本当は異質なものと捉えればまた違う見方が出来るのだろうけれど、映画のつくりがかなり似通っているのでどうしても、ひとつの視点から比較してしまう。そうすると、「東京物語」のほうがやっぱりすごいということになってしまう。
 しかし、この作品もまた独自なものであると考える努力をしよう。そうするならば、この映画で印象的なのは、人のいない風景のインサートだろう。京都の石庭、嫁に行ってしまったがらんとしたうち、などなど。無表情な人間を取るよりも、完全に無表情な「モノ」を写すこと。そしてその完全に無表情な「モノ」から何かを読み取らせること。それはつまり観客が映画の中の「モノ」に自分の感情を投影させることに他ならない。そのような作業をさせうる映画であること。それが小津の目指したところだったのだろう。
 観客が能動的に映画の中に入っていける映画。それが小津の映画なのかもしれないとこの映画を見て思った。

 ということですが、この「モノ」というのは小津映画の特色であり、小津映画がどこか「変」である最大の要因なんじゃないかと思うわけです。小津映画といえば、「日本!」見たいなイメージ化がされていて、「変」というのと直接的には結びつかないような気がするけれど、よく見ると、あるいは何本も作品を見ていくと、「なんだか変」だということに気づく。もっと細かく分析していけば、その理由のひとつはカットのつながりにあるということもわかってくるのだけれど、もう一つ私が注目したいのは人のいない「モノ」だけのカットの頻出であるように思える。
 映画とは基本的に人物(あるいは擬人化された生き物やモノ)が主人公となって、物語が展開されているわけで、人物以外のものだけが映っている場合には、それは余韻であったり、必要な間として挿入されているものである。しかし、小津の映画では余韻あるいは間というにはあまりに不自然な挿入をされているのである。時には長すぎ、時には妙に短いカットの連続であったりする。
 あるいは、人が映っているのだけれど、物語とはまったく関係なさそうな行動であるようなシーンもある。このあたりはとても「変」で時にはつい笑ってしまったりするのだけれど、それが実は本当の小津映画の面白さであって、いわゆるイメージ化された「日本的なる物」の象徴としての小津なんて、表面的なものでしかないんじゃないかと思えてくる。

東京物語

1953年,日本,136分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:笠置衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、香川京子

 尾道、老境に差し掛かった夫婦が旅支度をしている。彼らは息子たちが住む東京へ旅行に出発し、一人家に残る末娘の京子がそれを見送った。果たして東京に到着した老夫婦はまず長男の家に厄介になり、続いて長女の家に厄介になりながら東京で過ごす。
 東京の子供たちを訪ねる旅を通して、親子の関係をじっくりと描いた歴史的名作。今見てもすごく感動的で、時代や地域を越えてたくさんのファンを持つ映画であることもまったくうなずける本当の名作。見てない人はいますぐビデオ屋へ。いや、ビデオじゃもったいないかも…

 最初、尾道の場面、笠智衆の一本調子の台詞回しと、すさまじいほどの切り返しで映される顔のアップに戸惑い、違和感を感じる。それは東京に行っても続き、出てくる人々はみなが無表情で一本調子、そして会話はほとんどを顔のアップの切り返しで捉える。
  しかし、それも見ているうち徐々に徐々に気づかぬうちに、その違和感は薄れ、その無表情な表情のわずかな変化の奥に隠れた感情を読み取れるようになっていく。それはもう本当に映画の中へ入り込んでいくような感覚。あるいは気づくと映画世界につかりきっている自分に気づく感覚。
  もちろん、笠智衆と東山千栄子と原節子の3人の関係を描くところで特にそれが顕著になるのだけれど、それ以外の部分もすべてが間然に計算され尽くしていたんだなぁ… と自分の心にも余韻が残るような素晴らしさ。

 物語は、小津の定番である父娘というよりは、大きな家族関係の物語になっている。「核家族をはじめて描いた映画」といわれることもあるように、東京に住む人たちの間で家族関係や近所との関係が薄れていく様子が見事に描かれている。近所との関係といえば、尾道での冒頭のシーンで、隣のおばさんと思われる人が軒先から顔を出して、世間話をする場面がある。そして、このおばさんは葬式のシーンにも登場し、最後にも映画を締めくくるように登場する。これは単純に尾道の社会というかご近所さんの関係の緊密さを表しているだけなのだが、この関係性こそが物語を牽引していくエッセンスであるのだ。
  と言うのも、このような尾道の人間関係に対して、長男の幸一と長女の志げの近所の人とのつながりは非常に希薄である。交流があるにはあるのだが、その関係は医者や理容師という職業によるものでしかない。社会の観察者としての鋭い視点を持ち続ける小津は、そのような人間関係の変化を敏感に感じ取り映画に刻み付けた。家族の核家族化とともに、近所のつながりも希薄化し、その多くは商売を通すものになってしまった。
  これとは少し違う形で描かれているのが紀子の住むアパートである。このアパートでは近所との関係が濃い。このアパートは同潤会・平沼町アパートに設定されているらしい。つまり、紀子と近所の関係の濃さはこの同潤会アパートの特色によっているということであり、これもまた時代性を感じさせる味であるといえるのかもしれない。

 とにもかくにも、そのように家族や近所との関係が希薄化していく時代にあって、小津は家族を描くことで何を語ろうとしたのか。小津はその変化をどう思っていたのか。
  それが鋭く現れるのは、映画も終盤になり、原節子がいよいよ東京に帰ろうというときに香川京子にはくセリフである。香川京子演じる次女の京子は、とっとと東京に帰ってしまった兄たちに不満を言い、「親子ってそんなものじゃない」と言う。これにたいして原節子は「年をとるにつれて自分の生活ってものが大事になるのよ」と言う。そして続けて「そうはなりたくないけど、きっと私だってそうなるのよ」と言うのだ。これは、家族を中心とした関係性の希薄化に対する諦念なのではないだろうか。核家族化し、家族の生活が分離していけば、それぞれはそれぞれの生活が大事になり、お互いの関係は薄くなってしまう。それは仕方のないことだと考えているのではないか。
  笠智衆に「東京は人が多すぎる」とも言わせているし、小津にしてみれば拡大していく東京が人間関係を希薄化させるものであることは憂うべき事実であったのだろう。小津は下町生まれの江戸っ子だから、古きよき東京の温かみを知っていたはずで、それが東京からは失われ、田舎に求めるしかないことを寂しがっていたのではないだろうか。
  物語からはそのような社会の観察者としての小津の一面が見えてくる。一貫して「家族」をひとつのテーマとしてきた小津としては、まったく正直でストレートな主題であると思う。

 そのように物語を分析してみるのも面白いが、この映画の面白みは、物語だけにあるのではなく、むしろ細部にこそ本当の味わいがある。それを最初に感じたのは杉村春子演じる志げが夫の中村伸郎に対して「やだよ、豆ばっかり食べて」というセリフである。このセリフは物語とはまったく関係がないが、その場にすごくぴたりと来るし、志げの性格を見事に示す一言になっているのだ。しかもなんだか面白い。このセリフに限らず、志げはたびたび面白いことを言う。キャラクターとしてはあまりいい人の役ではなく、少し強欲ババアという感じもするが、完全な悪役では決してなく、この生きるのもつらいような時代を生き抜いた人には当たり前の生活態度だったのではないかとも思わせる。戦争が終わって10年足らず、その段階ですでに使用人を使って理髪店を経営しているということは、戦争の傷跡が残る中、懸命に働いてきたのではないかと推測される。何もない焼け跡にバラックを建て、細々と再開した理髪店を懸命に大きくして、いっちょまえの店にした。そんな苦労がしのばれるのだ。しかし、その苦労が彼女を変えてしまった。
  両親が映画の後半で「あの子も昔はもう少しやさしかったのに」と言うその言葉からは彼女のそんな10年間が見て取れる。そしてそれは彼女が本来的に強欲ババアのようであったのではなく、時代がそうさせてしまったということを示しているのである。
  そのような志げの性格を小津は映画の序盤のたった一言のセリフで表現してしまう。そのような鋭く暖かい視線がこの映画の細部にはあふれているのだ。

 そのセリフにとどまらず、杉村春子の役柄には様々な含みと面白みがこめられていて、私はこの映画で一番味のあるのは杉村春子なのではないかと思った。笠智衆、東山千栄子、原節子の3人がもちろん物語の主役であり、この映画のエッセンスを伝える人たちであり、映画の中心であるわけだが、彼らを活かすのは杉村春子のキャラクターであり、見ていて面白いのも杉村春子と中村伸郎の夫婦である。主役の3人はいうなれば前時代に生きている。原節子は現代的でもあるのだが、過去に引きずられていることもまた確かだ。しかし、杉村春子夫婦はすごくモダンだ。スピードからして3人とは違い、60年代のモダニズムで描かれるような都市的な人々の先駆けであるように映る。しかし、彼女には温かみもある。最初の話に戻るが、香川京子が東京に帰る原節子に対して「親子ってそんなもんじゃない」というシーンで、彼女は死んですぐ形見分けを求める杉村春子を槍玉に挙げるが、原節子はそれを「悪気があって言った訳じゃない」と言う。それはまさにそうで、杉村春子の生活に流れる時間と、香川京子の生活に流れる時間が違うことで、そのような誤解というか、行き違いが生まれるのだ。杉村春子も彼女なりに母親痛いする愛情を示したはずで、行き違いがその捉え方の部分にあったというだけの話であるはずだ。原節子はその二つの時間の両方を理解していて、二人の行き違いに気づいている。
  このシーンは、尾道に暮らす3人の代表としての香川京子と、大都市に暮らす3人の代表としての杉村春子の衝突/齟齬を原節子がうまくとりなしているシーンなのである。それは田舎と都会という2つの社会の対比であり、なくなり行く社会とこれからやってくる社会との対比である。
  そして、都会/未来の象徴である杉村春子を面白いと感じるのは、彼女がそのように都市的で現代的であるからなのではないだろうか。つまり彼女は現代から見て一番理解しやすい存在であるということだ。映画としては原節子が全体の関係性の中心に来るように設定されているのだが、現代から見るならば杉村春子を中心とすると見やすいのかもしれないし、自然とそのように視点が行く。
  小津が未来を見通してそんな作り方をしたとは思わないが、社会の変化をあるスパンで捉え、それを親-子関係や、都市-地方関係といった様々な形に置き換えて表現したこの映画は、変化してしまった先にある社会から眺めると、また違う相貌を呈し、違った形で面白いものとして見えてくるのだと思う。
  だからこそ、作られて50年がたった今でもわくわくするくらいに面白く、何度見ても涙なしに見終えることができない。名作とは、繰り返し見ることで、それを見る自分の立ち居地の違いを感じ取ることができ、それによって新たな発見をすることができるものなのだという感慨を新たにした。それは映画でも小説でも変わらない「名作」なるものの真実なのではないかと思う。

忘れられぬ人々

2000年,日本,121分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:鈴木一博
音楽:リトル・クリーチャーズ
出演:三橋達也、大木実、青木富夫、内海桂子、風見章子

 老境を迎えた三人の戦友。飲食店を営む、家族に疎まれながらすごす、一人引きこもる。 それぞれの老後を過ごす3人が「金山」という戦死した戦友の思い出をきっかけに再び誇りのために立ち上がる。
 『おかえり』で多数の国際映画祭で賞を受賞した篠崎誠監督の長編第2作。今年のナント三大陸映画祭で男優賞と女優賞をダブル受賞。

 こういう地味な映画がヒットしないのは仕方のないことだと思いますが、日本映画が好きな人なら、きっと引っかかる隠れた豪華キャスト。三橋達也に大木実に青木富夫、それに風見章子とはね。50年(青木富夫は70年)も映画俳優としてやってきたキャリアは伊達ではありません。小津に成瀬に川島と名だたる監督とともに仕事をしてきた人たち。そんな名優たちが埋もれたままではもったいないということなのだと思います。ということなので、やはり彼らの存在感・キャラクターはこの映画の中でも際立っている。
 なのでもちろん、彼らを中心に映画は展開されていくわけですが、そこから見えてくるものは何か? それは戦争体験の重み、戦争を体験していないものとのギャップ、生きていることの重み、他人というものの捉え方の違い。戦争を体験していない者には本当には理解できないその体験の重み。
 それを映画全体のメッセージと受け止めるのはあくまで私の見方ですが、このように戦争の記憶というものが前面に押し出され、現在との対比がなされると、そのようなことを考えずにいられない。その本当には理解できない体験の重みを、それでもあきらめずに理解しようと感覚を鋭敏にしていなければならないと思わせられたわけです。
 とはいっても映画全体は全く重苦しいものではなく、むしろ明るい感じ。それもまたお年寄りたちの明るさがなせるわざ。劇中で百合子が言っていた「元気をもらう」という言葉、それがまさに画面にあふれている感じ。
 あとは細かいところまで配慮が行き届いていてよかったということ。本筋とは関係なさそうなところまで含めて、何かひっかればいいという意図が感じられます。たとえば、病院の屋上で百合子が後輩の看護婦と話をするところなど、プロットとは無関係ですが、なんとなく意味のあるメッセージがこめられているような気がする。そのようなところが結構ある。ケンの存在もそうだし、店にやってきた2人連れのヨッパライとか、伊藤の家の家族とか、金山が朝鮮人であるらしいこととか、そういったいちいちがなにかメッセージを持っていそうな気がする。
それは人それぞれ引っかかるところが違うということも意味するような気がします。それは同じ人でも見るたびに引っかかるところが違うということも意味するかもしれない。まあ、とにかくいろいろに考えることができるということでしょう。映画は哲学するのですよ、やはり。

セックスチェック 第二の性

1968年,日本,89分
監督:増村保造
原作:寺内大吉
脚本:池田一朗
撮影:喜多崎晃
音楽:山内正
出演:安田道代、緒方拳、小川真由美、滝田裕介

 もと天才スプリンターの宮路はホステスのひもになって落ちぶれた生活を送っていたが、選手時代のライバル峰重に電気会社のコーチの仕事を進められる。しかし、その選手たちを見て宮路はそれを断った。しかし、その帰りバスケット部の練習で見かけた南雲ひろ子に宮路は類まれな素質を見る。そしてひろ子のコーチをはじめた宮路だったが、ひろ子はセックスチェックで半陰陽と診断され、女子選手としての資格が否定されてしまった…
 相変わらずすさまじいテンポで進む増村映画。さらにこの映画は半陰陽というなかなか難しいテーマを使って混乱は増すばかり。増村作品の中では少し典型から外れるかなという気もしますが、それは時代のスタンダードに近いということではなく、逆にさらにいっそう離れているということ。

 かなりすごい。「えー、そうなのー?」という感想がまずわいてくる。そしてやはり人が一人狂ってしまう。果たして、実際擬半陰陽といえるような外性器をもって生まれてくる人はいるだろうし、それを医者が半陰陽と誤診することもあるだろうし、その擬半陰陽の人が初潮が遅いということもあるのだろうという気はするけれど、果たしてそれが毎日セックスすることで早まるのかといわれるとかなり?????という感じ。
 増村は映画的にはかなり先へ先へといっているすごい作家だけれど、思想的な面では、時代より少し先をいっているに過ぎないのかもしれないと思った。この映画から出てくるのは結局は男と女の二分法であって、半陰陽である人の生き様ではない。半陰陽であることを嫌がり、結局女になれた(正確には女であることがわかったということだが、その区別はここでは重要ではない。ひろ子の主観としては、「女になれた」ということであるだろうから)人間の物語でしかない。ここでは半陰陽というものが扱われていながら、いわゆるトランスジェンダーやインターセクシュアルということは問題にならず、単純に「男」と「女」の愛の物語に終始してしまっているわけだ。そのあたりが現在のこの時点から見ると甘いというか、その時代の発想にとらわれているのだと言わざるをえない。
 まあ、それは仕方のないことなのでしょう。ジェンダーなんて思想が日本にやってきたのはたかだか20年位前。この映画が撮られたのは30年前。それを求めるほうが無理というもの。それよりもこの映画の映画的な美点を誉めるべきでしょう。でも、それは、ほかの増村映画の解説の繰り返しになってしまうのでやめておきます。ただひとつ言いたいのは、安田道代の眼差しがすごいということ。増村映画のヒロインは若尾文子も野添ひとみも原田美枝子もみんな眼差しがすごいのだけれど、この映画の安田道代は本当にすごい。見られた人間を後ずさりさせるような鋭さ。小川真由美も狂ってしまうほどの鋭さ。峰重の奥さんが狂ってしまったのは宮路に振られたことよりも、その事実を突きつけたのがひろ子であったから何じゃないかと思ってしまうくらい、重い眼差しをしていたのが非常に印象的でした。

最高殊勲夫人

1959年,日本,95分
監督:増村保造
原作:源氏鶏太
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、川口浩、船越英二、丹阿弥谷津子、宮口清二

 結婚式の披露宴、新郎新婦は三原家の次男二郎と野々宮家の次女梨子。兄一郎と姉桃子も結婚しているため、みなは三男三郎と三女杏子も予想していた。そしてその通り事を運ぼうとたくらむ長女の桃子。桃子は三原商事社長の一郎をすっかり押さえ込み、自分の思うように事を運んでいた。
 増村らしいハイテンポの恋愛ドラマ。比較的初期(8作目)の作品だけあって、後期のどろどろとした感じよりも、爽やかなコメディタッチの作品に仕上がっている。

 若尾文子主演はこれが二作目で前作は「青空娘」。実はこの「最高主君夫人」と「青空娘」は原作者も同じ源氏鶏太ということで、かなり似た感じの作品になっている。しかし、この作品は川口浩、船越英二といった増村作品おなじみの顔ぶれがずらりと顔を並べ、増村的世界がより完成されている。しかし、ハイテンポは相変わらずで、セリフも早いし、セリフの継ぎ目はないし、プロポーズしてから結果を告げるまでもあっという間だし、振られてあきらめるのも早いというわけ。とにかく展開の早さにはついていくのが大変。一番おかしかったのは、杏子に野内がプロポーズしたと知って、桃子が「転勤させてしまいなさいよ」というところ。そりゃねーよ、いくらなんでも、話が手っ取り早すぎりゃぁ、と口調も江戸っ子になっちまうくらい。
 そんな感じですので、こちらも展開を早く。とにかく気になったことをずらずら羅列。
 杏子と三郎の二人が映っているシーンの構図が素敵。二度目に二人でバーで会った場面、三郎の背中・杏子の横顔・バーテンの立ち姿が微妙な配置で美しい。ロカビリーのところ、少しはなれてカウンターに座っている二人の位置取りが美しい。一郎の家で、一郎と桃子をはさんで、画面の両端に三郎と杏子がいるシーン、むしろ端にいる二人が中心なんじゃないかと思わせる素晴らしさ。
 なんといっても面白いのはわけのわからぬうちに進んでしまう展開だけれど、たとえば、杏子が岩崎と宇野をくっつけてしまうところなんかは、なんのこっちゃといううちに、すっかり話がまとまってビール6本飲まされて、結婚がまとまって、みんなめでたそうな顔をしている。いいのかそんなテキトーで?と思うけれど、そのテキトーさがむしろ正しくて、自然なものなのかもしれないと思えてくる。内面の葛藤がー、とか、三角関係のギクシャクとか、そんなことは笑い飛ばせよ、そんなことしてる暇はねーよといわれている気がして、なんとなくスカッとしました。別に内面の葛藤があるわけではないですけどね。

月はどっちに出ている

1993年,日本,109分
監督:崔洋一
原作:梁石日
脚本:崔洋一、鄭義信
撮影:藤澤順一
音楽:佐久間正英
出演:岸谷五朗、ルビー・モレノ、絵沢萠子、小木茂光、磨赤児、萩原聖人

 在日朝鮮人の姜忠夫は同級生の金田が経営するタクシー会社で働いている。二人は友人の結婚式に出席、忠夫はそこで女に声をかけ、金田は同級生の新井と商売の話をする。そんなある日、忠夫はいつものように母の店で働くフィリピン人を店に送っていくが、そこに新しくチーママとして入ったコニーがいた。
 忠夫とコニーの恋愛を中心として、在日朝鮮人の姿を描いた。梁石日の小説「タクシー狂躁曲」を崔洋一が映画化したこの作品はある程度まで事実に基づいているという。全体としてかなり完成度の高いドラマ。

 「在日」というのは身近にあるようでなかなか考えない問題ですから、こういう映画がメジャーなものとしてるというのは非常にいいことなのでしょう。この映画の中に出てくる萩原聖人のようなスタンスが(誇張されて入るけれど)日本人の基本的なスタンスなのかもしれません。差別はしていない、けれど、無意識に差異化してはしまっている。普通に接していれば気がつかないけれど、名前とか、出身校とかそういったことから気づいてしまうと、なんとなく意識してしまうようなもの。
 ここまでは日本人である私の率直な感じ方として書きましたが、しかし、この文章にも在日の人たちがいるかもしれない、というよりむしろいるだろうということも意識せずにいられません。それはつまり、「差異」に対する意識というものが常に差別の培養土となりうるものであり、差異化される側がマイノリティである場合には特にそうであるということを意識しながら、慎重に話を進めてしまうということです。
 そのような(自分の)意識に気づきながらこの映画を振り返ってみると、まずこの映画は誰に語っているのか? ということ。もちろん映画というのは全世界に向けて語りかけられているものであるからには、世界中の人々に向けてということになるのだけれど、第一義的には誰に向けてかということで言えば、日本のマーケットに向けられた日本語のこの映画はまず「日本に住む日本語をしゃべる人々」に向けられているわけです。そこにはもちろん在日の人たちも含まれるわけですが、「日本人」と呼ばれる人に見られることを意識して作られたと考えるのが自然なわけです。
 話が回りくどくなってしまいましたが、そのようなものとしてこの映画を受け入れた上で私が感じることは、「差別を茶化すことによってその差別を回避しようとする姿勢」ですね。これは差別に対応する古典的な手法で、極端な例ではドラァグ・クイーンのようなものがありますが、この映画では、最後に忠夫が、コニーを乗せたときに、「運転手の姜(が)です」といったところがそれを象徴的に表しています。萩原聖人の差異化と無意識の差別をここで茶化し、笑い飛ばすことによって無意味化した。そのようなスタンスで撮られた映画だと私は思いました。
 どうですか? 

893タクシー

1994年,日本,79分
監督:黒沢清
脚本:釜田千秋、黒沢清
撮影:喜久村徳章
音楽:岡村みどり、岸野雄一
出演:豊原功補、森崎めぐみ、大森嘉之、大杉漣、寺島進

 悪徳金融業者に手形を盗まれ、多額の借金を抱えてしまった田中タクシーの社長を助けようと幼馴染のヤクザの親分が自分の組・猪鹿組の子分たちをタクシー運転手に仕立てた。ヤクザたちはかたぎの仕事に戸惑いながらも、一人残った運転手木村の指導のもと徐々に運転手らしくなっていくが…
 黒沢清が主にVシネマで活躍した時期、「地獄の警備員」と「勝手にしやがれシリーズ」の間に作られた作品。作品自体は非常にオーソドックスで派手さはない。しかし、画面画面に映像へのこだわりが感じられる作品。
 ちなみに、青山真治が助監督で参加している。

 いい意味で、普通な作品。ヤクザ映画だけれど、基本的にはヒューマンコメディで、派手なアクションシーンがあるわけではない。まあ、Vシネマなので、それほどお金をかけられないということもあるんだろうけれど。
 それにしても、撮り方は決してオーソドックスではない。この映画では特に「引き」の画が多い。タクシー会社でも、がらんとしたガレージの上から取ってみたり、近くにいる人をなめて、奥の人にピントを合わせたりと画面の奥行きを使って人物と人物の距離感を表現しているような気がした。やはりその辺の画面へのこだわりがテレビドラマとは一線を画している理由といったところでしょうか。
 あとは、枝葉のところがとてもいい。タクシーの中でいちゃつく男で出てくる大杉漣が面白い。刑務所から出てくるとき2度とも、まったく同じカット割だったのもよかった。あとは、ユウジ(だったっけ?豊原功補)が二人のチンピラに絡まれて、次のカットで叩きのめされた二人を置いて車で去るシーン、あのシーンはいかにも最近の日本映画らしいシーンという感じ。

でんきくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:遠山雅之
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:渥美マリ、川津祐介、永井智雄、玉川良一、西村晃

 水商売で暮らす母と母の男とともに暮らしながら洋裁学校に通う由美だったが、ある日母の男に強姦される。それを母に告げると、母は男を刺し殺してしまった。刑務所に入った母のためにも水商売の世界に入った由美はその美貌と体を生かしてのし上がっていく。
 瞬く間にスターダムにのし上がり、まもなく消えていった渥美マリの代表作。その魅力で男をとりこにする女という増村が好むテーマ。しかし、この映画の場合、男をもてあぞぶ悪女というイメージでは必ずしもない。

 男をとりこにし、破滅させるというのは『刺青』や『痴人の愛』に通じるテーマだが、この3つの作品はそれぞれかなり異なっている。『刺青』は男を破滅させ、最後に自分も破滅してしまう。『痴人の愛』は一度は二人とも破滅するが、最終的にはある種のハッピーエンド。『でんきくらげ』は最初のうちは他の2作より男が優遇されているが、最後に破滅するのは男だけである。だからこそ電気くらげなのだろうが、終わってみれば一番たちが悪いのがこの由美だったりする。
 しかし、見ている我々は悪いのは由美ではなく男なんだと思う。そこが増村のすごいところ。この人はフェミニストなんじゃないかと思ってしまうくらい、女が勝つことが多い。まあ、勝ち負けの問題ではないのだけれど、概して女が強く男は弱い。その典型的な映画がこの『でんきくらげ』なのかもしれない。
 この映画を見てひとつ思ったのは、由美が野沢とともに母親に面会に行ったとき、由美が母親と話しているカットで、奥にいる野沢が妙に無表情なこと。脇にいる人が無表情というのは『卍』なんかでも思い当たる節があるんですが、かなり不思議な感じです。
 それから、この映画はワイドスクリーンなんだけれど、画面の焦点が中心にない。大概、話している人物が画面のどちらかによっている。これまたかなり不思議な映像で、巧妙なというか奇妙なフレーム使いでかなり気になりました。どういうことかといえば、普通ワイドスクリーンの場合、画面の中心に焦点を当てる人物がいて横の広いスペースに均等に小物を置く。しかしこの映画は、話している人が右側にいたら左側の画面が大きく開いている。しかもそこに何かがあるわけでもない(ことが多い)。普通こういうことをすると画面がさびしくなるものなのだけれど、この映画はまったくそういうことがない。なぜなんだろう? そのなぞは解けません。
 これは余談ですが、『グループ魂のでんきまむし』の「でんきまむし」はこの映画からとられたそうです(監督談)。どんな意味がこめられているのかはいまいちわかりませんが、人々をしびれさせる(笑いで)ということでしょうかね。

大地の子守歌

1976年,日本,111分
監督:増村保造
原作:素九鬼子
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:中川芳久
音楽:竹村次郎
出演:原田美枝子、佐藤祐介、岡田英次、梶芽衣子、田中絹代

 山奥の山村で「ババ」と暮らす13歳の少女りん。いつものように猟から帰ってくるとババが冷たくなっていた。りんはババの死を隠そうとするが村人にばれ、しばらくしてやってきた人買いにだまされ瀬戸内海の島の女郎家に売られてしまう。そんなりんのこれまでの生をお遍路参りをするりんの姿を挟みながら展開させる。
 やはり焦点を当てられるのは女性。といっても少女。増村と少女、男を惑わす妖艶な女性とは違った女性像を増村が描く。

 なんといっても原田美枝子が素晴らしい。暴れまわるシーンにスカッとしたり、ヌードのシーンにドキッとしたり、いかにりんを魅力的に描くかというのがこの映画の最大の焦点なのだろう。自由奔放で純粋、勝気で芯が強い。しかし不安定で、わがままで弱い。そんなりんに感情移入せずに入られない。
 物語として完全にりんに焦点を絞っているのもいい。りんの周りの人々はりんと関わるところ意外はばっさりと切ってしまっている。りんがはじめて恋をする漁師の息子なんかはもう少し引っ張りたくなるのが心情というものだけれど、あっさりと映画から立ち去る。そういう意味では人買い(名前忘れた)が死ぬエピソードが挿入されたのはちょっと納得が行かなかった。それもバサリと関係ないものとして、切り捨ててほしかったというのが正直なところ。
 りんのキャラクターに比べて映画全体のトーンはそれほど荒々しいものではなく、映像的にも落ち着いている。最後の最後で幻想的なシーンが出てくる以外は、意外と普通に撮っている。なぜ?と考えると、画面の中でりんが動き回っているわりにはカメラはどっしり構えている、あるいはりんが動き回るからカメラは動かす必要がない。からでしょう。思い返してみれば、移動カメラを使ったシーンというのはひとつもなかった気がする(多分あると思うけど)。それくらいどっしりとカメラが構え、りんがフレームアウトするとカメラを切り替えるという場面構成になっていたような気がする。やはりこういう強弱が映画には重要。人も動けばカメラも動くじゃ、メリハリがなくっていけねえ。
 頭に残るのは音楽。映画全体を通して流れるテーマ曲が耳に残り、エンドロールで少しだけ歌詞つきのが流れるのにはつい笑ってしまった。ギターの音なのに妙に和風。不思議。

アンゴウ

2000年,日本,74分
監督:古本恭一
原作:坂口安吾
脚本:古本恭一
撮影:三本木久城
音楽:野口真紀
出演:古本恭一、高井純子、平出龍男、小林康雄

 タクシードライバーの矢島は、妻の交通事故で二人の娘を失い、妻自身も入院してしまった。妻の退院が間近というある日、妻が延滞していた図書館の本から数字が書かれたメモのようなものが出てきた。
 カラーとモノクロの映像が混在し、中心となる物語に、ラジオから流れてくる原発事故のニュースが挟み込まれる。淡々とした展開ながら、様々な要素が織り込まれ、見ごたえのある作品になっている。
 2000年ぴあフィルムフェスティバル審査員特別賞を受賞した自主制作映画。

 まず、プロットがとてもよく、映画に入り込むことができた。とにかく、自主制作映画と思ってみているから、どうしても見下すというか、批評してやろうという気になってみてしまうけれど、ストーリーテリングが巧妙でそんな者に構えた態度を払拭してくれるくらいの力があった。
 モノクロとカラーの映像の混在も、特にどういう意味があるというわけではないのだけれど、静と動、緩急つけるという効果はあったと思う。出演している役者たちもなかなか達者で、「十分いけるじゃん」という感想でした。
 ひとつ難点を挙げるなら、音楽や音響効果が単調になってしまったこと。映像やプロットにはかなり強弱があり、緩急がついているのに、使われている音楽が全体に似たトーンで(一度だけ、図書館でロック系の音楽が使われてはいるが)ちょっとだれるというか間延びするというか、そんな感じになってしまったような印象。
 しかし、全体的にはかなりいいです。