モンパルナスの灯

Montparnasse 19
1958年,フランス,108分
監督:ジャック・ベッケル
原作:ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本:ジャック・ベッケル
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:ポール・ミスラキ
出演:ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、レア・パドヴァニ

 1917年、パリ、画家のモジリアニはまったく絵が売れず、酒びたりの日々を送る。そんな彼を支えるのは女たちと隣人のズボロフスキーだけ。そんな彼がある日が学生のジャンヌとである。二人は恋に落ち、結婚を約束するが荷物を取りに家に帰ったジャンヌを待っていたのは…
 モジリアニの伝記をジャック・ベッケルが映画化。アヌーク・エーメの美しさ、ジェラール・フィリップのはかなさ。リノ・ヴェンチュラの不敵さ。伝記映画の傑作のひとつ。

 いかにもアル中というていの(悪く言えば型どおりすぎる演技の)ジェラール・フィリップをカメラがすっと捉えると、こちらもすっと映画に入ってしまうのは何故か? ジェラール・フィリップはあまりにはかなく、不運の画家を演じるのにうってつけすぎる。水のように赤ワインを飲み干すその大げさにゆがめた口元の演技の過剰さがむしろ自然に見えるのは何故か。物語はつらつらと進み、われわれはモジリアニを観察する。映像もそのあたりでは遠目のショットで捕らえることが多い。しかし、ジャンヌとで会ったあたりから、カメラは劇的に登場人物たちに近づき、われわれを彼らの視点に引き寄せる。
 そこから、ジャック・ベッケルの演出力とクリスチャン・マトラのカメラは見ている側の観客への感情移入を促すことに専念する。ただひたすら悲惨な境遇のふたり。どうしようもなかった男が愛に誠実に生きるようになる過程。そしてそれを納得させるアヌーク・エーメの美しさ。このメロドラマは周到に結末に向かってわれわれを物語の中に引き込んでいく。そこで登場する不敵な悪役。悪役のわかりやすすぎるキャラクターもすでにメロドラマに引き込まれているわれわれには違和感を与えない。かくして舞台はそろい、役者もそろい、ハッピーエンドに終わってくれという期待を高めながらわれわれはひたすらメロドラマに巻き込まれる。
 ジャック・ベッケルはこのように観客を映画に巻き込んでいく技術に長けている。それはあるときはメロドラマであり、あるときはサスペンスであるけれど、観客をひとつの視点・ひとつの立場に引き込み、結末に向かって突き進ませる力。それがジャック・ベッケルの映画にはある。この映画はそのジャック・ベッケルの演出力がうまく伝記という難しい題材を救った。
 私は伝記映画というのをあまり信用していないのですが、この映画はかなりのモノ。それにしてもこの話がどれくらい実話なのかというのは気になりますね。これがすべて事実だとしたら、モジリアニの人生(の最期)はあまりに劇的で、あまりにメロドラマ過ぎる。しかし、それでも本当だったのだろうと信じさせるものがこの映画にはあります。

家路

Je Rentre a la Maison
2001年,ポルトガル=フランス,90分
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
出演:ミシェル・ピコリ、アントワーヌ・シャビー、レオノール・シルヴェイラ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジョン・マルコヴィッチ

 映画は舞台から始まる。ベテラン俳優のジルベールの演じる舞台。その袖に不安げに控える3人の男。舞台の幕が下がり、ジルベールに交通事故で奥さんと娘夫婦がなくなったことが知らされる。孫と二人暮しとなったジルベールは今までどおりいつものカフェでコーヒーを飲み、仕事を続けるが…
 ポルトガルの巨匠オリヴェイラ監督らしい淡々とした物語。名優を使い、味わい深い映画を作るのはこの監督の十八番。

 基本的に役者を見せようという映画の気がする。オリヴェイラはかなり役者というものを非常に重くとらえている感があり、マストロヤンニの遺作となった『世界の始まりへの旅』なども名優マストロヤンニへの敬慕の念が画面からにじみ出る。
 だからこの映画も役者の味をじっくりと引き出す。その意味では音だけ、あるいは動きだけで演技させるオフ画面(フレームの外の部分)を多用するというのもよくわかる。最初のショーウィンドウのシーンも切り返しの連続で、常に映っていない側の音を拾っていくのはすごい。終盤のジョン・マルコヴィッチによるリハーサルの場面のかなりすごい。そのすごさはわかるけれど、ここまで徹底して使われると、ちょっと食傷してしまう。
 それはオリヴェイラ特有のゆったりとしたときの流れと関係あるかもしれない。とにかくオリヴェイラの映画は遅い。1カットが長く、1シーンが長く、物語の展開も遅い。もちろん物語で見せる映画ではないのでそれでいいのだけれど、その遅さはどうしても映画の細かな部分に注意を向かせる。勢いで突き進む映画だったなら、細部なんてそんなにこだわらなくても見られるのだけれど、これだけ遅いと、画面の隅々まで目を凝らさざるを得ない。あるいは画面の外側までじっくりと見なければならない。それはオフ画面を使ってもそれをとらえることが簡単だという一方で、慣れてしまうとそれが普通になり、退屈になってしまう恐れがある。この映画では先ほど述べたリハーサルの場面で再びキュッと締まり、ぐだぐだになってしまうのは避けられたけれど、中盤に眠気が訪れるのは(私にとっては)オリヴェイラの常である。
 しかし、この緩やかさがいい物を見せてくれることもある。この映画ではカフェの場面であり、新聞だ。ジルベールがカフェに行き、コーヒーを飲み、出て行くと、「フィガロ」を持ったひげのおじさんがその席に座る。別の日、ジルベールは「リベラシオン」を持ってカフェに行く、その日ジルベールは買い物をしてきたためつくのが少し遅く、「フィガロ」のおじさんが来たときまだ席が空いていない。「フィガロ」のおじさんは奥の席に着くが、ジルベールがったのでいつもの席に行こうとする。すると「ル・モンド」を持ったおじさんがするりとその席に座ってしまい、「フィガロ」はまた奥の席に戻る。まったくただそれだけのこと。フランス人が見ればおそらくそれぞれの新聞の意味がわかるのでしょう。私にはその意味はわかりませんが、そこに「味」があるのはわかります。それはこのゆったりとしたスピードがあってこそ可能な演出なのでしょう。

カラマリ・ユニオン

Calamari Union
1985年,フィンランド,80分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:カサブランカ・フォックスとあれやこれや
出演:マッティ・ペロンパー、プンティ・ヴァルトネン、サッケ・ヤルヴァンパー、マルック・トイッカ

 なぞの会合を繰り広げる男たち。男たちは「カラマリ・ユニオン」と名乗り、自分たちの窮状から逃れるべく、街の反対側にあるという「エイラ」を目指そうと話し合う。そしてその「エイラ」へのたびは困難を極めるという。男たちの名はみな「フランク」。彼らは地下鉄に乗り、街の中心へ向かう。
 アキ・カウリスマキが『罪と罰』についで撮った2作目の長編作品。とにかくわけがわからない設定とわけがわからない展開。カウリスマキ・ワールドここに極まれり。

 ちょっとわけがわからなすぎるかもしれません。わけのわかるところがひとつもない。それでも、みんな名前が「フランク」というのはかなり面白い。最初の会合の場面で、「じゃあ、フランクよろしく」「ああ、フランク」と受け答えるあたりでは何のことかわからないが、だんだんみんなフランクなのだとわかってくると、なんだかほほに笑みが浮かんでしまう。これはコメディなのか。『レニングランド・カウボーイズ』で名の売れた監督だけに、シュールな感じのコメディは得意分野なのだろうけれど、この作品はあまりにシュールすぎる。海辺(湖辺?)のホームレスに「泊めてやってくれ」と頼んだり(自分たちは車があるのに)、突然店を経営していたり、首をひねりながら笑うしかない場面の目白押し。
 このわからなさは、つまりありえなさ、そして作り物じみさ(そんな日本語はない)だろう。作り物じみさというのは逆にわかりやすさの賜物でもある。ホテルの名前が「ホテル・ヘルシンキ」だとか、イタリアにいて考えるときに「イタリア」というネオンサインのカットが挿入されたり、このあまりにわかりやすさがうそっぽく、作り物じみた感じを与える。作り物じみた感じは現実的でなく、リアルでないから、そこに何かあるのだろうと考えてしまうけれど、その何かが何なのか一向にわからない。そこに立ち現れるわからなさ。
 でも、途中からなんとなく予想がつくようになってくる。「車のドアに、コートのはじをはさむんだろうなぁ」とか「ああ、しんじゃうんだろうなぁ」とかそういう予想ですが。それが予想できるから何なのかといわれるとそれもまたわからない。
 あまりにわけがわからず、もう一回見てやろうと思ってしまった。それもカウリスマキの作戦か?

愛しのタチアナ

Pida Huivista Kiinni, Tatjana
1994年,フィンランド,62分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:サッケ・ジャルヴァンバ、アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ヴェイッコ・トゥオミ
出演:カティ・オウティネン、マティ・ペロンパー、マト・ヴァルトネン、キルシ・テュッキュライネン

 ヴァルトは母親のところでミシンを踏んでいるが、コーヒーが切れたといって家を出る。その足で車を修理に出していたレイノの所に向かう。車の修理は終わっていて、2人で試運転に出かけるが、その途中でよったバーでバスが故障して立ち往生していた二人の女性を港まで乗せていくことになった。
 カウリスマキはいつでもカウリスマキだ。本当に不思議な空間を彼は作る。フィンランドがそうなのか、それともカウリスマキが変なのか…

 コーヒーとウォッカはほとんどしゃべらず始終ブスリとしているけれど、2人の間には何か通じるものがあるらしい。それにしてもあまりにしゃべらない。この映画はおそらく台詞の量では世界で指折りの少なさを誇る映画だろう。ひとつの台詞から次の台詞までの間は果てしなく長い。その間に文脈というものはなくなる。ただひとつ文脈のある台詞はロシア人の女の「あなたたちって本当に話好きね」という台詞だけだ。
 この台詞と台詞の長い間は物語の断絶も意味する。ロシア人の女が宿屋の女主人に「イヤリングありがとう」というけれど、そのイヤリングは映画には登場しない。そのように物語りはばっさりと断たれ、夜から昼、昼から夜と時間ばかりが流れていく。その時間の流れの中で台詞を使わずに、登場人物たちの心理を着実に描いていくのがカウリスマキの真骨頂。この映画でもそれは健在。
 カウリスマキ映画のもうひとつの特徴(?)といえば、主人公たちがさえないこと。それは冒頭2つ目のカットでバイクに乗る4人を見た時点で明らかになる。このカット、物語と何の関係があるのか最初はよくわかりませんが全部見終わって振り返ると、なるほどね、というカットです。

!!ここからややネタばれ目!!

 この2番目のカットに現れた4人は誰だったろうか? どうにも思い出せないが、旅に出た4人と同じだった気がする。それならば、すべての謎は明らかに。みながらずっと思っていたのは「お母さんは!?」という疑問。こんな何日も閉じ込めて置いたら死んじまうよ。このまま旅を続けて帰ってみたらお母さん餓死っていうオチだったらそれはそれですごい映画だと思いながら見ていましたが、こういうオチなら、それはそれでなるほどねという感じ。「夢」のこういう使い方もあるというか、こういう使い方が本当はいいんだと思います。
 『シックス・センス』以来、何本も同じような映画が作られている中、『ビューティフル・マインド』なんて映画も現れましたが、そんな映画作る前にこの映画を見ろ!! といいたい。人間すべてがアメリカ人みたいに単純だと思ったら大間違いだぞ!! といいたい。この映画のラストシーンの淡白さをロン・ハワードに見習ってもらいたいですね。

嘆きの天使

Der Blaue Engel
1930年,ドイツ,107分
監督:ジョセフ・フォン・スタインバーグ
原作:ハインリッヒ・マン
脚本:ロベルト・リーブマン
撮影:ギュンター・リター
音楽:フリードリッヒ・ホレンダー
出演:エミール・ヤニングス、マレーネ・ディートリッヒ、クルト・ゲロン、ハンス・アルベルス

 生徒に馬鹿にされる高校の英語教師ラート教授。彼は授業中に生徒が眺めていたブロマイドを取り上げる。放課後、同じブロマイドを持っていた優等生を問い詰めると、そのブロマイドに写っているのは“嘆きの天使”というキャバレーの踊り子だという。教授はその夜、”嘆きの天使”に向かうが…
 ディートリヒとスタンバーグという黄金コンビの最初の作品。ディートリッヒがアメリカでブレイクした作品でもある。

 この映画が語られるとき、常にいわれるのはディートリッヒの脚線美ということだ。ドイツで端役をやっていたディートリッヒを見出し、主役に抜擢し、アメリカに売り込んだスタンバーグ監督が、そのとき売りにした脚線美。それはもう本当に美しく、白黒の画面でもその美しさは伝わってくる。
 しかし、この作品が成功したのは単純に脚線美だけではなく、その脚線美が生み出すドラマのせつなさ。抗いがたい魅力を持つ脚線美という土台の上に気づかれた物語がまた心をつかむ。前半はコメディタッチでテンポよく進んでいくのだけれど、後半それが一転、ドラマチックな展開になっていくその変わり方も見事だし、終盤のドラマの見ごたえがすごい。
 なんといっても最後の最後、ロラロラと教授の間で交わされる言葉にならない言葉。ロラロラの考えていることが教授に伝わらないもどかしさ。あるいは伝わっているのかもしれないけれど、それを素直に受け入れられない教授のプライド。それはもう切ないのです。その切なさをしっかりと表現できるディートリッヒとそしてエミール・ヤニングス。ヤニングスといえば、ムルナウの『最後の人』なんかに出ていた名優ですから、その名優の向こうを張ってがっちりと演じきってしまうディートリッヒにはやはり脚線美という売りを超えた才能があったということでしょう。そう、その二人が舞台と舞台袖で視線を交わし、無言で語らいあう。ロラロラのほうは教授の考えていることがわかっているのだろうけれど、教授のほうはロラロラの考えていることがよくわからない。とらえられない。そのディートエイッヒの視線はどのようにも解釈できる視線。私は彼女はいまだ教授を愛していて、彼をある意味では励まそうという視線を送っているように見えた。教授はそれを受け入れることができない。そのあたりがもう切ない。
 それから、ディートリッヒは歌も見事。何でも、スタンバーグは舞台に出て歌っていたディートリッヒを見て、主役に抜擢することに決めたということなので、歌がうまいのも当たり前です。この歌を聴いて、観客は「これがトーキーのすばらしさか」と納得したことだろうと想像します。ひとつの完成形となっていたサイレントからトーキーに移行するには、このようなトーキーでなくては作れない名作の出現が重要だったのだろうと想像します。映画史的に見れば、そういった意味で重要な作品だったんじゃないかということです。

ニコラ

La Classe de Neige
1998年,フランス,96分
監督:クロード・ミレール
原作:エマニュエル・カレール
脚本:エマニュエル・カレール、クロード・ミレール
撮影:ギョーム・シュフマン
音楽:アンリ・テシエ
出演:クレモン・ヴァン・デン・ベルグ、フランソワ・ロイ、ロックマン・ナルカカン

 寝てもさめても悪夢ばかりを見る小学生のニコラはスキー教室に参加することになった。しかし、両親が数日前におこったバス事故を気にして、ニコラはバスではなく父親の車で合宿場所まで行くことにした。みんなから少し送れて合宿場所に着いたニコラは父親が帰ってしまった後荷物を車に積んだまま忘れてしまったことに気づく…
 不思議なモチーフでスリラーの雰囲気を持つドラマだが、基本的には少年ニコラの内的世界を描いたものなのか。

 ニコラの悪夢や想像と現実との境目をあいまいなものにするやり方はなかなかうまいと思う。これはニコラの主観からすべてを描いた映画であるといえ、だからこそ現実とそれ以外との境界がないということだろう。今見ているものが現実なのか、悪夢なのか、想像なのかということはそれを見ている時点で判断できるものではなく、あくまで時間が経過してから始めて判断できるものである。しかし、それはあくまで相対的なもので、あるひとつのつながりを現実と判断することでそれ以外は現実ではないと判断するしかないわけだ。
 この映画は基本的には現実とそれ以外というものを分けて描く。それは最初の父兄への説明会の場面と最後のホドゥカン一人の場面というニコラの主観ではない場面の存在によって固定されている。しかし、それ以外の場面が(多分)すべてニコラの視点から描かれていることを考えると、これら場面もニコラの見ている場面であると考えることもできる。それはつまりこの映画の文脈からいうとニコラの想像ということになる。両方があるいは少なくともどちらか一方が。
 そう考えると、どんどんわけがわからなくなっていく。合宿場所へと向かうニコラが車の中で寝入ってしまったことを考えると、それ以降は全部現実ではないのかもしれないと思えたりする。
 どれが現実で、どれが想像か。さらりと見ただけだと、一つの当たり前の解釈が成り立つようだけれど、果たして本当にそれでいいのかということはわからない。「もしかしたら」と考える可能性。それがこの映画のいいところだと思います。

アメリ

Le Fabuleux Destin d’Amelie Poulain
2001年,フランス,120分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
撮影:ブリュノ・デルボネル
音楽:ヤン・ティルセン
出演:オドレイ・トトゥ、マチュー・カソヴィッツ、ヨランド・モロー、ルーファス

 子供のころ、両親に心臓病と決め付けられ、他の子供と遊ぶことなく育ったアメリは想像の世界で遊ぶことが大好きだった。22歳になり、家を出て、パリのカフェで働くようになってもそれは変わらなかった。そんなアメリがある日、自分のアパートで40年前その部屋に住んでいた少年の宝箱を見つけた…
 これまでは暗く奇妙な世界を描いてきたジュネ監督が一転、陽気なファンタジーを撮った。

 この映画はさまざまな見方ができ、それによってさまざまな評価ができると思う。一番単純には、素直に明るい物語とその世界を追っていく方法。そのように表面をさらりとさらうととてもポップで明るいお話で、とても女の子受けもよい感じ。それはジャン=ポール・ジュネ独特の鮮やかな色彩や奇妙な世界観。それは現実とかけ離れているという意味で非常に浸りやすく、それだけに見終わった後も楽しく宝物のように映画をとって置くことができる。
 しかし、そこから掘り下げてゆくと、ジャン=ポール・ジュネはやはりジャン=ポール・ジュネだという話になる。現実とかけ離れた奇妙な世界観は細部を気にし始めるといろいろと理解しがたいところが出てきて、そこから先は好みの問題となっていく。ジュネの世界の人たちはとにかくおかしい。それをファンタジーとしてとらえるか、ありえないとして拒否するか、あるいは自分の内的現実との共鳴を感じるか。
 そもそも、アメリというキャラクターに共感できるのかどうか? そして、その周りの変な人たちを受け入れることができるのかどうか? たとえば、アメリと下の階のガラスの骨のおじいさんは互いに覗き見していることを知りながら、それを受け入れている関係。よく考えるとこの関係も相当不思議。アメリだっていたずらといえば聞こえはいいけれど、よく考えるとかなり悪いことをしている気もする。
 となるわけですが、私はこの世界観が非常に好きです。そもそもジャン=ピエール・ジュネは好き。それは彼の描く特異なキャラクターたちも含めてです。そして、アメリも好き。アメリのような人は大好きです。なかなか言葉で表現するのは難しいところを、ジュネがうまく映画という形で表現してくれたといいたいくらいとっても好きなキャラクター。私にとってはアメリはそれくらいしっくり来るキャラクターでした。
 アメリはこの映画で3つのことをしようとしているわけです。人を幸せにすること、一人の人をいたずらでいじめること、自分が幸せになること。そのそれぞれは成功したり失敗したりしますが、面白いのはそれが成功するかどうかということではなくて、その過程。そのいたずら心。その過程の面白さはみているわれわれを幸せにしてくれる。それが素敵(一番はやはり小人かな)。
 それにしてもジュネ監督の細部へのこだわりは相変わらず。一番思ったのは、アメリが作ったパスタの湯気。本物の湯気があんなにしっかりとカメラに映るはずもなく、ということはわざわざ映像に湯気を足したということなわけで、しかしその湯気がことさら重要なわけでもない。その辺りのこだわりがとてもいいのではないかと思う。

罪と罰

Rikos Ja Rangaistus
1983年,フィンランド,93分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ドストエフスキー
脚本:アキ・カウリスマキ、パウリ・ペンティ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ペドロ・ヒエタネン
出演:マルック・トイッカ、アイノ・セッポ、エスコ・ニッカリ、マッティ・ペロンパー

 生肉工場で働くラヒカイネンは一人の男のあとをつけ、家まで行く。電報と偽ってドアを開けさせ、家の中に入り込む。ラヒカイネンは「お前を殺す」と言って、ピストルを突きつけ、その男を撃ち殺してしまう。そこに買い物袋を提げた若い女が入ってくる。彼女はその家で当夜開かれる予定だったパーティのために呼ばれたケータリング店の店員だった。
 フィンランドを代表する映画監督アキ・カウリスマキの処女長編。処女作にしてこれだけの作品を作ってしまうのはさすがとしか言いようがない。

 映画監督同士の類似や影響をあげつらって作品を論評するのはあまり好きではないですが、それがともに好きな監督である場合にはどうしてもいいたくなってしまう。この映画をみて思うのはやはりヴェンダース。映画のリズムなどはぜんぜん違いますが、映像がとてもヴェンダース。ヴェンダースというよりはロビー・ミューラーと言ったほうが正しいのかもしれません。ヴェンダースとミューラー、そしてカウリスマキとティモ・サルミネン。このコンビが作り出す映像が似ているということだと思います。それはなんとなくざらざらした映像に盛り込まれた暗いトーンの色のアンザンブル。全体に暗いトーンなのだけれど、そこには多彩な色が盛り込まれている。そのイメージがとても好きです。
 ドストエフスキーの『罪と罰』は私が最も好きな小説のひとつ。これまで何度となく読んできた小説です。その面白さは、どのようにでも解釈できるところ。ラスコーリニコフの殺人の動機というか意味というか、そのようなものは明らかにならないまま終わり、その解釈を読むたびに考えることができること。この映画はその『罪と罰』のあいまいさをそのまま映画に閉じ込めているところがすばらしい。大体好きな小説が映画化されるとがっかりすることが多いですが、これはかなりしっくり来ました。舞台も登場人物も設定もすべて変えていながら、物語にとって重要な抽象的なプロットは忠実になぞる。その描き方が絶妙です。
 ということなので、そもそも好きな要素が好きなように盛り込まれているので、気に入らないわけがない。そしてこの映画は面白い。カウリスマキと言うと、『レニングラード・カウボーイズ』の楽しさと『ラヴィ・ド・ボエーム』のような作品の淡々として雰囲気の両極端という感じですが、この作品は基本的には淡々としたものながら、サスペンス色が強いということや、音楽の使い方なので全体的な雰囲気はドラマチックなものになっている。そのあたりが処女作ということなのだろうか? しかし、この作品の完成度はかなり高く、逆にそれ以降の作品がこの作品に追いつけてないのかもしれないと思うくらいである。この処女作が到達した高みに再び上り、それを超えるために試行錯誤を繰り返しているという見方すらしてしまう。

恋の秋

Conte d’Automne
1998年,フランス,112分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
出演:マリー・リヴィエール、ベアトリス・ロマン、アラン・リボル、ディディエ・サンドル、ステファン・ダルモン

 マガリは夫と死に別れ、二人の子供も独立し、一人で親から引き継いだブドウ畑でワインを造っていた。親友のイザベルがある日マガリをたずねると、マガリは息子レオの恋人のロジーヌと一緒にいた。そのロジーヌは哲学の先生のエティエンヌと分かれてレオと付き合い始めたばかりだった。孤独に暮らすマガリに男の人を世話しようとイザベルとロジーヌはそれぞれ考えを持っていて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の最後の作品。主人公の年齢が高いのは人生の「秋」という意味なのだろうか。

 最初のシーンで遠くのほうに移る工場の煙突。田舎の風景の中でなんとなく浮いているその煙突は物語が進んでから人々の話題にのぼる。映画というのは、そういう細かい部分の「気づき」が結構重要だと思う。もちろん映画自体のプロットとか、登場人物のキャラクターとか、メインとなるものはもちろん重要なのだけれど、それだけではただの物語としての面白さ、ドラマとしての面白さになってしまう。それは、映画としての面白さと完全に一致するものではないような気がする。本当に面白い映画とは、一度見ただけではすべてを見切れない映画であるような気がする。1時間半や2時間という時間で捉えきれないほどの情報をそこに詰め込む。
 この映画はそれほど情報量が多いわけではないけれど、その煙突のようなものがメインとなるドラマの周りに点々とある。その点は映画的な魅力となりうるものだと思う。たとえば、イザベルとジェラルドが初めて会ったとき、出されたワインのラベルが画面にしっかりと映る。こういうのを見ると「ん?後々なんか関係してくるのかしら?」と思う。具体的にいえば、「マガリの作ったワインかしら?」などと思う。実際、このラベルは後々の話とはまったく関係なかったけれど、そういう周囲のものにも注意を向けさせる撮り方というのは映画にとって重要なんじゃないかと思ったりする。
 さて、これは「四季の物語」最後の作品で、4本撮るのに10年もかかってしまったのですが、全部見てみると、結局のところどれも恋の話で、結局いくつになっても恋は恋。ジェラルドが言った「18歳のときのように怖い」というセリフがこのシリーズをまとめているかと思われます。最後の作品で少し年齢層が高めの物語を持ってきたというのは、ロメールなりのそういったメッセージの送り方なんじゃないかと思ったりもしました。

キプールの記憶

Kippur
2000年,イスラエル=フランス=イタリア,127分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、マリー=ジョゼ・サンセルム
撮影:レナート・ベルタ
出演:リオン・レヴォ、トメル・ルソ、ウリ・ラン・クラズネル、ヨラム・ハタブ

 ヨム・キプール戦争の勃発とともに、部隊から呼び出された予備役兵のワインローブとルソ。しかし、国境地帯はすでに交戦中で、自分たちの部隊にたどり着くことができない。どうしようかと思いあぐねていたとき、車が故障して困っていた軍医に出会い、彼を連れて行った救急部隊に入った。
 ギタイ監督に実体験をもとに撮ったというだけあって、とにかく戦場から負傷者をヘリで運び出す彼らの姿は非常にリアル。

 ギタイ映画はサウンドがとても印象深い。この映画の冒頭も、町中に響く祈りの声が閑散とした街の中にこだまするさまがとても美しい。そして、全般にわたって耳にとどろくヘリコプターの音。それはとにかくうるさい。まさにセリフをかき消す音。しかし、それはその音がやんだとき、あるいはその音にならされてしまったとき、不意に襲ってくる何かのための伏線か? 
 それにしても、負傷者や爆撃がこれほどリアルに描かれているということは、相当予算もかかっているはずで、それはつまりアモス・ギタイが世界的に認められてきたということだろう。それはさておき、このリアルさにもかかわらず、この映画には敵の姿が一度も現れないというのがとても興味深い。戦争映画というと、必ず敵が存在しているはずで、この映画でもシリアという具体的な敵が存在して入るのだけれど、それが具体的な像として映画に現れることは一度もない。現れるのはシリア軍が打ち込んでくる砲弾だけ。この敵の不在にはいったいどのようなメッセージがこめられているのか? 戦争において敵の存在とはいったいなんであるのか? 当たり前のように敵の兵士が登場する場合よりも、この方が敵というものについて考えさせられる。シリアとその背後にあるソ連という漠然とした敵は存在し、そこに兵士が存在していることは明らかなのだけれど、そのシリアの兵士たちと、イスラエルの兵士たちの間にどれくらいの違いがあるのか?シリアのワインローブたちも砲弾の下をくぐって負傷兵たちを運んでいるのだろう。
 そのように考えると、どんどんわからなさは増すばかり。日常からすぐに戦場へと赴き、戦場からすぐに日常へと復帰したワインローブにとって戦争といったいなんだったのか? 人を狂気に追いやりすらするほどの恐怖を伴う戦闘をどのように受け入れているのか?