イン&アウト・オブ・ファッション

In & Out of Fashion
1993年,フランス,85分
監督:ウィリアム・クライン
撮影:ウィリアム・クライン
音楽:セルジュ・ゲンズブール
出演:イヴ・サンローラン、ジャン=ポール・ゴルティエ

 写真家・映画作家として知られるウィリアム・クライン。彼が自らの写真・映像両方の作品をダイジェストにし、一種の自伝として語った映画。写真よりも映画に重点が置かれ、過去の映画のダイジェストに多くの部分が割かれる。
 全体的なセンスはさすがウィリアム・クラインという雰囲気で、物語ではなくていろいろな断片をコラージュした映像という感じに仕上がっている。

 ウィリアム・クラインの自己紹介映画というところでしょうか。ウィリアム・クラインを知らない人が見るとなんとなくわかる。そして映画が見たくなる。そのような映画です。これまでに撮られた断片が多いので、それぞれへのコメントは控えるとして、全体的にどうかというと、ウィリアム・クラインは常に時代を先取り、自身もそれを自覚し、むしろ自慢にしているということでしょう。自らの67年の作品『ミスター・フリーダム』を評して「10年早かった」というクラインの言葉は紛れもない事実(あるいは、30年くらい早かったのかも)であり、それを自ら言ってしまうところがクラインらしさなのだろうと感じさせます。
 そのような映画なので、わたしはクラインのすごさに納得したのでいいのですが、スノッブで鼻につくという見方ができるのも確か。
 さて、そんな映画で、わたしが引っかかったのは、クレジットの出し方。クレジットの出し方にまでこだわるところがクラインらしく、これまたスノッブな感じでもあり、面白くもある。特にエンドクレジットなどは、多くの映画はただただ字を流して音楽をかぶせるだけ。たまにエピローグ風のものが入る映画があったり、『市民ケーン』のように、ここの人物の映像に文字をかぶせたりすることはあるもののまず監督がやるようなものではないはず。しかしこの映画はエンドロールもあくまでスタイリッシュに、情報を伝えるよりもひとつの映像として表現するという姿勢が明確に出ています。
 エンドロールで面白いといえば、香港映画ではNGシーンがよく使われますが、個人的に一番印象に残っているのは『プリシラ』。ヴァネッサ・ウィリアムスのヒット曲(タイトルは失念)にあわせて、ドラァグ・クイーンがしっとり口パク。このエンドロールは必見です。
 話がすっかり飛んでしまいましたが、今日の映画はウィリアム・クラインでした。

息子の部屋

La Stanza del Figlio
2001年,イタリア,99分
監督:ナンニ・モレッティ
原案:ナンニ・モレッティ
脚本:ハイドラン・シュリーフ
撮影:ジュゼッペ・ランチ
音楽:アレッサンドロ・ザノン
出演:ナンニ・モレッティ、ラウラ・モランテ、ジャスミン・トリンカ、ジュゼッペ・サンフェリーチェ

 精神科医のジョバンニは妻パオラ、息子アンドレア、娘イレーネと仲睦まじくし暮らしていた。そんなある日、学校に呼び出され息子に窃盗の疑いがかかっていることを知る。息子を信じようとするジョバンニだったが、そこには一抹の不安が…。その事件をきっかけとして、家族の歯車が微妙に狂い始める…
 なかなかメジャーになれなかった寡作の監督ナンニ・モレッティがカンヌ・パルムドールを獲得し、一気にメジャーになった。作品としてはいわゆる感動作という感じだが、「家族の絆」などという安易な結論にいかないだろうという予想はできるかもしれない…

{ 映画はなんとなく進む。息子が死んでしまった後の家族の話が眼目となるのだろうけれど、そこもまたなんとなく進む。家族は議論をしているようで全く議論はしていない。自分の信条を吐露するだけの一方的な発話。果たして監督はそんなことを描きたかったのだろうか?
 それはさておき、この映画のラストシーンは秀逸だ。ラストシーンの話をしてしまうのはなんだけれど、その浜辺とバスの切り返し(多分違う場所で撮影していると思うけど)からは家族としての結論が見えてくる気がする。それは浜辺に佇む家族の姿の美しさがそう錯覚させるのだろうか?
 そのラストシーンについて考えていると、そこに至るまでの心理的な道筋がわからなくなってくる。果たして彼らはどうしてそのような結論に行き着くことができたのか? あまり人物の心理を直接的に描こうとしないこの映画からそれを読み取るのは難しい。涙や笑顔や無言の歩みからそれを読み取るのは難しい。主人公のジョバンニはさまざまなことを語り、彼自身の想像する場面も描かれるから彼の心理を推測するのは、ある程度は可能だけれど、この家族の変化を捉える鍵は彼よりもむしろ妻のパオラや娘のイレーネにある気がする。それにしては彼女たちの心理をとらえるためのヒントが少なすぎる。
 だから、美しいラストにもかかわらず、なんとなく消化不良な感じが残ってしまった。一人称で語ることは決してできないはずの家族の物語を一人称で語ってしまった作品。その視点を持つジョバンニに自分を同定できればこの映画に浸ることができるのだろうが、それができないと厳しい。そして監督は主人公(それはつまり自分)の視点に観客を引き込む努力をしていない。
 これは監督が主演する映画にたびたび見られる欠点でもある。監督で主演ならば、その視点に自分が立つのは当たり前だ。監督と主演の両方をして、自身が映画に没入しすぎないようにするのは難しいのだろう。そんな中で観客の位置を正確に把握していくのはさらに難しい。

惑星ソラリス

Солярис
1972年,ソ連,165分
監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
脚本:フリードリッヒ・ガレンシュテイン、アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:ナタリーヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルヴェット

 惑星ソラリスの軌道上を回る宇宙ステーションに向かうクリス。彼の旅立ちに先駆けて、父の友人で以前ソラリスで幻覚を見るという体験をしたもと宇宙飛行士の記録を見せられる。実際にクリスがステーションに行くと、3人の研究員のうちの一人で、クリスの友人であるギバリャンは自殺してしまっていた。
 アメリカの『2001年宇宙の旅』(1968)と常に比較されるソ連のSF映画の金字塔。『2001年』のような技術力はないけれど、その哲学的な内容がSF映画の枠を超えて議論を呼ぶ。

 この映画にとって、外惑星、あるいはSFという要素は舞台要素に過ぎない。完全に哲学として作られた映画、そのような印象だ。人間とは何か、存在とは何か、意識とは何か、他者とは何か。そのような問いを自分に投げ返すものとして存在する自己の意識の鏡像。つまり、果てしないモノローグ、自分との対話、どのように生きるかという姿勢。
 それなのに夢の実体化として現れるハリーの立場が中途半端なのは不思議だ。夢の具現化でありながら、人間として完璧ではない存在。ドアの開け方もわからない存在。なぜ、最初から完璧な夢の実体化として現れないのか、なぜ学習し、成長する存在として描かれねばならないのか、そしてなぜ自意識を持つまでに成長しなくてはならないのか。
 この映画のわからなさはその辺りにある。単純に自己の意識と向き合うのではなく、自己の意識から生まれながら徐々にそこから離れてゆくものと向き合うということ。そのことにどのような哲学的な意味があるのか。そのように考えていくと、この映画は哲学的な思索ではなく、哲学的な問いかけであるような気がしてくる。
 この映画は絶望的過ぎる。この映画が問いかける問いは「失うことこそ人生なのではないだろうか?」ということかもしれない。「存在とは何か」という問いかけにこの映画は「存在とは失われるものだ」とこたえているような気がする。しかし、それはわれわれに用意された答えではなく、そのような絶望的な答えを映画によって表現することで、それ以外の答えがないかと問いかけようという声なのだろう。「ありはしない」とつぶやきながら、「誰か他の答えを知らないか」とすがるように問いかけるその問いかけに、われわれは失われていくものを愛しむという以外の答えを用意することができるのだろうか?

SHOAH

Shoah
1985年,フランス,570分
監督:クロード・ランズマン
撮影:ドミニク・シャピュイ、ジミー・グラスベルグ、ウィリアム・ルブチャンスキー
出演:ナチ収容所の生存者

 ナチス・ドイツの絶滅収容所のひとつヘウムノ収容所のただ2人の生存者のうちの一人シモン・スレブニク、当時14歳の少年で、とても歌がうまかったというその男性が監督に伴われてヘウムノを訪れるところから映画は始まる。
 そこから当時からヘウムノの周辺に住んでいたポーランドの人たちへのインタビュー、他の収容所の生存者たちへのインタビュー、もとSS将校へのインタビュー、ワルシャワ・ゲットーの生存者へのインタビューなどホロコーストにかかわりのあるさまざまな人へのインタビューと、収容所跡地の映像、これらホロコーストにかかわるさまざまな資料を9時間半という長さにまとめた圧倒的なドキュメンタリー映画。
 ユダヤ人である監督はもちろんホロコーストの本当の悲劇を世界に伝えるべくこの映画を撮った。これでもかと出てくる衝撃的な証言、映像の数々。

 まず、この映画を見る前に、この映画をほめるのは簡単だと考えた。「ホロコースト」という主題、9時間半もの長さ、貴重な証言の数々、それは歴史的に重要な映像の重なりであり、われわれに戦争の悲惨さとそれを繰り返してはならないという教訓を投げかけるということ。それは見る前から予想ができた。その上で私はこの映画を批判しようという目線で映画を見始めた。その視線が見つめる先にあるのは、この映画の視点が一方的なものになってしまうのではないかという恐れ、現在存在するパレスチナ問題にもつながりうるユダヤ人の自己正当化、そのようなものが映画の底流に隠されているのではないかという危惧を持って映画を見始めた。
 見終わって、まず思ったのはこの映画は紛れもなく必要な映画であり、見てよかったということ。この映画を見ることは非常に重要だということだった。それは単純に映画を賛美し、そのすべてに賛成するということを意味するわけではないが。

 それでも私は9時間半、批判することを忘れずに見続けた。そして批判すべき点もあるということがわかった。
 映画の序盤、映画に登場するのは監督と証言者と通訳。私がまず目をつけたのはこの通訳だ。通訳を介し、通訳が翻訳した言葉で伝える。オリジナルではもちろんそのまま音声で、字幕版でも証言者本人の証言に字幕がつくのではなく通訳の翻訳に字幕がつく。最初これが非常に不思議だった。
 しかも、証言者たちはカメラのほうを見つめることなく、ほとんどカメラを意識させず、監督のほうを見つめる。このような撮り方は監督の存在を強調し、映画が監督によるレポートであるということを明確にする。われわれは証言者の証言を直接聞くのではなく、そのインタビュアーである監督のレポートを見ることになる。

 そして、次に疑問に感じたのが、人物の紹介のときに出るキャプション。ユダヤ人、ポーランド人、もとナチスという線引きは果たして中立的なのか、ユダヤ人とそれ以外という線引きを強調しすぎてはいまいか? と考える。
 そして登場する元SS将校。「名前を出さないでくれ」というその元将校の名前を堂々と出し、隠し撮りをし、隠し撮りであることを強調するかのようにその隠し撮りの状況を繰り返し映す。
 この「隠し撮り」がこの映画における私の最大の疑問となった。果たしてこのようなことがゆるされるのか?

 この元SS将校の生の証言によってこの映画の真実味が飛躍的に増すことは確かだ。被害者や近くにいたというだけの第三者の証言だけでなく、加害者であるナチスの直接の証言は強烈だ。
 しかし、「名前は出さない」と約束し、撮影していることも(おそらく)明らかにせず得た映像と情報を臆面もなく映像にしてしまう。名前を全世界に向けて明らかにする。その横暴さはどうなのか? 確かにそのナチの元将校はひどいことをした。反省をしてもいるだろう。繰り返してはいけないと思っているのだろう。だから証言をした。「正々堂々と名前と顔を出して証言しろ」といいたくなることも確かだ。しかしその元将校にも彼なりの理由があって名前を伏せることを条件にした。その条件があって始めて証言することに応じた。そのような条件を踏みにじることが果たして赦されるのか?
 監督はこの映像がこの映画に欠かせないと考えたのかもしれない。それはそうだろう。せっかく得た映像を使わないのは馬鹿らしい。しかし、私はそれは決してやってはいけなかったことだと思う。それをやってしまうことは一人の映像作家として、表現者として恥ずべきことであり、映像作家であり、表現者であると名乗ることは赦されるべきではない。表現者とは許された条件の中で自分の表現したいことを表現するものであり、禁じられたものを利用してはいけないはずだ。
 映画に限っても、映画とはさまざまな制限の中で作られるものだ。その制限の中に以下に自分を表現するのかが勝負であるはずだ。予算や、機材や、検閲や制限に程度の差こそあれ、その制限を破ることなく作るのが映画であるはずだ。この監督がやったことはたとえば「予算が足りないから銀行強盗をして予算を増やそう」ということと変わらない。
 そこに私は大きな憤りを感じた。

 映画のちょうど真ん中辺りにあるアウシュビッツの映像。生存者の証言にあわせてカメラがアウシュビッツの跡地を進む。その映像は徹底して一人称で、見ているわれわれは自分がその場所に立っているかのような錯覚にとらわれる。そしてそこに40年前に起こっていたことが陽炎のように表れるのを体験する。そのシークエンスは非常に秀逸だ。この映画の中で最も映画的で、最も感動的な場面といっていいだろう。想像させるということは、どんなにリアルな再現よりも効果的である。
 しかし、批判の眼を忘れないように見続ける私はその感動と衝撃の合間に監督の意図を探る。このシークエンスの意図は明確だ。当時のユダヤ人の衝撃と悲しみの疑似体験をさせること。それは殺されていったユダヤ人たちを理解するための近道である。しかしこのような近道を作ることで見ているわれわれはユダヤ人の視線に追い込まれていく。それは中立な視線を保つことの困難さ、ユダヤ人の受難を自分自身の身に降りかかったことであるかのように思わせる誘導。そのような誘導を意識せずに見ると、この映画は危険かもしれない。ひとつの見方に押し込められてしまう危険があるということを常に意識していなければいけない。
 そのような観客の感情の誘導はそのあたりがピークとなる。その後、感情の高ぶりはやや抑えられ、逆に生依存者たちの心理の複雑さも垣間見えるようになる。生存者のほとんどは「特務班」と呼ばれる労働者だった。それは到着してすぐにガス室に送られるユダヤ人とは違う境遇にある。彼らは被害者であると同時に、ナチスの虐殺にある種の加担をする立場でもある。自分が生きながらえるために仕方ないとはいえ、その仕方なさはそれ以外によりどころがないという仕方なさであり、それにすがるしかないというのは心理的に非常にきついことなのだ、ということが証言の端々から感じられる。

 このあたり、映画の後半の証言はほとんど直接に字幕がつく。それは英語であったり、イスラエル語(?)であったりする。それは言語の問題なんだろうか? 単純に監督が通訳を必要とせずに話せるというだけの理由なのだろうか?しかし、字幕なしにすべての言語を理解できる人は少ないだろう。
 この、通訳を介するということから直接の証言への変化はこの映画のつくりのうまさのようなものを感じる。ドキュメントは虐殺の中心、より悲惨な生存者の少ないところから、虐殺の周辺、より生存者の多いところへと移動していく。それとは裏腹に、証言者たちは通訳を介した間接的な存在から、通訳なしで語りかけてくる直接的な存在へと変化する。虐殺の中心から周辺へという移動は、最初で一気に観客をつかむとともに、物語の強弱によって9時間半という長さを退屈にならないようにする。一つ一つのエピソード(たとえばチェコ人のケース)も非常にドラマティックだ。
 このような映画のつくりのうまさは監督の手腕を感じさせると同時に、なんとなく姑息な感じというか、計算高さを感じてしまう。観客を自分の側に取り込んでいくための周到な計画がそこに感じられる。
 もちろんそれが悪いわけではない。ホロコーストという想像を絶する悲惨な体験を自分のものとするためには並大抵の衝撃では無理である。この映画はその並大抵ではないことをある程度実現しているという点ですごい映画であり、この体験をすることは非常に有益である。しかし、映画を見終わってその自分の体験を客観視することが必要になってくる。単純に映画に浸るだけで終わってしまっては、描かれた歴史的事実のはらむ根本的な問題は見えてこない。
 この映画もまたひとつの暴力であるということを見逃してはいけない。私があくまでもこだわる元SS将校の証言はその具体的なものだが、全体としてこれがナチを一方的に攻撃していることは確かだ。そしてそれはユダヤ人を正当化することにつながりうる。

 この映画を見終わって、監督があまりに感情的であることに救われる。もしこのようなドキュメントを冷静に描いていたらこの9時間半は鼻持ちならない時間になってしまっていたことだろう。そうではなくて、この映画があくまで監督の憤りの表現であることがわかると、納得できる。果てしなく果てしなく果てしないモノローグ。他人の口を借りたモノローグ。それがモノローグであることを理解したならば、そのメッセージを冷静に噛み砕くことができる。そしてその部分部分は歴史的証言として非常に価値がある。そしてまたこのモノローグが吐露する憤りはユダヤ人といわれる人たちに(少なくともその一部に)共有されている感情なのだろう。
 そのように自分なりに客観的に見つめてみて、あとはこの映画からはなれて、しかしこの映画とかかわりのあるさまざまなことごとと接するたびに思い出すことになるだろう。

シャンプー台の向こうに

Blow Dry
2000年,イギリス,95分
監督:バディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ビューフォイ
撮影:シャン・デュ・ビトレア
音楽:パトリック・ドイル
出演:ジョシュ・ハートネット、アラン・リックマン、ナターシャ・リチャードソン、レイチェル・グリフィス、レイチェル・リー・クック

 イギリスの田舎町キースリー。市長が記者会見場で高らかに宣言したのは、「全英ヘアドレッサー選手権」の開催地に決まったということだった。報道陣たちは興味を失って去っていく中、一人興味を示したブライアン。父親のフィルとともに田舎町で美容院をやっているが、実はその父がもと全英チャンピオンだったのだ。しかし、父親は選手権に興味を示そうとはしない…
 また、イギリスらしいイギリス映画ひとつ。イギリス映画らしい風景にイギリス映画らしい感動。イギリス映画好きにはたまらない作品ですね。

 イギリス映画らしい田舎町に、イギリス映画らしい家族の物語、イギリス映画らしいストーリーがあって、アメリカ育ちの娘がやってきて… 羊も出てくる。何もかもが絵に書いたようなイギリス映画。このイギリス映画らしさはどうもアメリカから見た「イギリス映画」像のような気がしてしまう。主役級の若者2人もハリウッドの若手スターとなると、どうもハリウッド向けという「臭さ」ぷんぷんが漂う。それはつまりなんとなくうそ臭さを感じてしまうということ。周到に感動できるように組み立てられてはいるけれど、その「臭さ」を感じてしまうと、その感動の押し付けがましさが気になってくる。そうはいってもちょっと感動してしまったのですが、そんな風に感動してしまった自分が悔しい気分。
 というようなうがった見方をしさえしなければ、なかなかいい作品です。レイチェル・リー・クックはかわいいし、ジョシュ・ハートネットも情けなくていい味出してるし、感動できるし、その割にコメディの要素も忘れないし。 さて、そんなイギリス映画らしいイギリス映画だったわけですが、ひとつレズビアンという要素が出てきたところがちょっと毛色の変わった感じ。これもアメリカ向けという気もしないでもないですが、奥さんが女の人と逃げるというのはイギリス映画ではなかなか見ない展開。これを見て真っ先に思い出したのは、テレビドラマの「フレンズ」で、それはそれだけアメリカ的なトピックだということなのかもしれません。
 そういう意味でも、絵に書いたようなイギリス映画でありながら、どうもハリウッドの影が見えてしまうという映画。

妖婆・死棺桶の呪い

ВИЙ
1967年,ソ連,78分
監督:ゲオルギー・クロパチェフ
原作:ニコライ・ゴーゴリ
脚本:ゲオルギー・クロパチェフ、アレクサンドル・プトゥシコ、コンスタンチン・エルショフ
撮影:フォードル・プロヴォーロフ、ウラジミール・ピシチャリニコフ
音楽:K・ハチャトリアン
出演:レオニード・クラヴレフ、ナタリーヤ・ワルレイ、ニコライ・クトゥーゾフ

 ロシアの新学校の学生3人が学校が休みの期間荒野を旅する。道に迷い、野宿を覚悟した彼らの前に現れた怪しげな農家。そこにいたのは一人の老婆だった。怪しみながらも他に家もなく、そこに泊まることにした彼らだったが、その夜老婆が神学生の一人ホマーに迫ってきた。
 奇想天外なソ連時代の怪奇映画。いわゆるソ連B級SF作品のひとつ。原作はゴーゴリとなっているが、果たしてどれくらい原作に忠実なのか…

 見ている間も、見終わってからも頭にはずっと?が出続ける。果たして何個の?が頭に浮かんだだろうか。ひとつ明らかなのは、この映画は限りなくB級であるということ。冒頭から背景があっさりと書割で、とてもそれをリアルに見せようとしているとは思えない。書割になったり、実景になったりするその変化がさらに書割の安っぽさを強調する。しかも、時間の描き方がかなり適当で、朝なんだか昼なんだか夜なんかよくわからないまま、時間だけはたっているようなのだ。
 そして特撮は駆使されるが、その稚拙さは言うまでもない。おそらく、ハリウッド映画なら1カットに使われるであろう予算くらいで1本の映画を作ってしまったという感じ。しかし、この極彩色の不思議な特撮空間は魅力的でもある。かなりコアなB級映画ファンはこのあたりの作りはたまらないものがあるでしょう。私は生半可なB級映画ファンなので、ちょっとつらかったですね。同じソ連のSF映画といえば『不思議惑星キン・ザ・ザ』を思い出しますが、あの作品ほどの圧倒的なばかばかしさがこの映画には欠けている。そのように思います。マニアックに見ることはできるけれど、普通の見方をする観客を引き込むことはできない。そんな映画だと思います。
 ところで、原作はゴーゴリらしく、原作となっている『ヴィー』は読んだことないんですが、きっとこんな話ではないと思います。この映画でも「ヴィー」と呼ばれる妖怪のようなものが出てくるんですが、それは一瞬。たいした役回りもない。どうなってんの?

愛の世紀

Eloge de L’Amourohn
2001年,フランス,98分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:クリストフ・ポロック、ジュリアン・ハーシュ
出演:ブルーノ・ピュッリュ、セシル・カンプ、クロード・ベニョール

 パリ、エドガーはある企画をもっている。出会い、セックス、別れ、再開という愛における4つの瞬間を若者、大人、老人という3組のカップルについて描くというもの。果たしてその出演者たちを探し始めたエドガーは役にぴったりの女性に以前であっていたことを思い出す。
 ゴダールはあくまでゴダールである。美しいけれど理解できない。すべてを理解することはできないけれど、何かが引っかかる。それがゴダールでいることはわかっている。

ゴダールはアインシュタインなのかもしれない。ゴダールを全く理解できるのはゴダール自身と世界中にあと幾人かしかいないのかもしれない。それでもゴダールがすごいと思えるのが天才たるゆえん。アインシュタインの相対性理論も理解できないけれどそれが何かすごいことを説明していることはわかる。ゴダールの映画も理解できないけれど、それが何か新しい表現であることはわかる。こじつけていろいろと理解してみることはできるけれど、その理解は全きゴダールとはおそらく異なっているだろう。しかし、相対性理論と同じく、ゴダールも一部分を利用しただけでも新しいものが生まれるのかもしれない。
 断片化されたこの映画を見ながら、そのそれぞれの断片が何かを含んでいることはわかる。前半のモノクロの鮮明なフィルムの映像と、後半のカラーの濁ったビデオの映像。その違いが表現しているのはフィルムの優越だろうか?あるいは質の違いが必ずしも価値の違いを生みはしないということだろうか?実際その結論はどちらでもいいのだろう。映像をとどめるためにはフィルムとビデオがあり、その質には違いがあるということ。そこまでをゴダールは明らかにし、それを併用することによって表現できることもあるということを示してはいるけれど、その先は…
 「愛について」という言葉と「さまざまな事柄」という言葉のどちらが先に出るのか、その順番を変えることにどんな意味があるのか? それもまたわからない。
 私はこの映画でゴダールがこだわっているのは「言葉」だと思った。冒頭の「映画、舞台、小説、オペラのどれを選ぶ?」という質問の答えは「小説」だった。それは小説という言葉による芸術。つまり「言葉」の象徴。ゴダールはこの映画で言葉を多用しながら、それと決してシンクロすることのない映像の断片を重ねていく。それは「言葉」への反抗、映像を使った新しい文法、新たな世紀の文法であるかのようだ。アインシュタインが相対性理論を発明したように、ゴダールは映画という新たな文法を発明したが、われわれは従来どおりの文法でそれを見るから理解できない。それは仕方のないことだ。「何度も繰り返し眺めていれば、ある日ふっとわかるかもしれない」という頼りない望みを抱きながら、私はゴダールを見続けるのだろう。

吸血鬼ノスフェラトゥ

Die Zwolfte Stunde
1922年,ドイツ,62分
監督:F・W・ムルナウ
原作:ブラム・ストーカー
脚本:ヘンリック・ガレーン
撮影:ギュンター・クランフ、フリッツ・アルノ・ヴァグナー
出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック、グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー

 ヨナソンはブレーメンで妻レーナと仲睦まじく暮らしていた。ある日、変人で知られるレンフィールド社長にトランシルバニアの伯爵がブレーメンに家を買いたいといっているから行くようにと言われる。野心に燃えるヨナソンは妻の反対を押し切ってトランシルバニアに行くが、たどり着いた城は見るからに怪しげなところだった…
 「ドラキュラ」をムルナウ流にアレンジしたホラー映画の古典中の古典。ドラキュラの姿形もさることながら、画面の作りもかなり怖い。

 ドラキュラ伯爵の姿形はとても怖い。この映画はとにかく怖さのみを追求した映画のように思われます。この映画以前にどれほどの恐怖映画が作られていたのかはわかりませんが、おそらく映画によって恐怖を作り出す試みがそれほど行われていなかったことは確かでしょう。そんななかで現れたこの「恐怖」、当時のドイツの人たちを震え上がらせたことは想像にかたくありません。当時の人たちは「映画ってやっぱりすげえな」と思ったことでしょう。
 しかし、私はこのキャプションの多さにどうも納得がいきませんでした。物語を絵によって説明するではなく、絵のついた物語でしかないほどに多いキャプション。映像を途切れさせ、そこに入り込もうとするのを邪魔するキャプション。私がムルナウに期待するのはキャプションに頼らない能弁に語る映像なのです。その意味でこの映画はちょっと納得がいきませんでした。なんだか映画が断片化されてしまっているような気がして。
 しかしそれでも、見終わった後ヨナソンの妻レーナの叫び声が頭に残っていて、それに気づいて愕然としました。ムルナウの映画はやはり音が聞こえる。

パリのランデヴー

Les Rendez-vous de Paris
1994年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:パスカル・リビエ
出演:クララ・ベラール、アントワーヌ・バズラー、ベネディクト・ロワイアン

 エリック・ロメールがパリを舞台に3つの恋を描いたオムニバス作品。
 第1話は「7時のランデヴー」。恋人に浮気の疑いを抱いた大学生を描いた作品。第2話は「パリのベンチ」。恋人と一緒に暮らしながら違うタイプの男とデートを重ねる女性の姿を描く。第3話は「母と子 1970年」。ピカソの「母と子」が恋物語を展開させる。
 どの話もパリの風景がふんだんに出てきて、ちょっとした旅行気分が味わえる小品たち。

 どのエピソードも何か言っているようで何もいっていないような感じ。2番目のエピソードがちょっと毛色が違うような気がするけれど、どれも結局のところ漠然と「恋」というものを描く。一つの映画でひとつの恋を描くのではなく、3つの恋を完全に独立したエピソードで描くことで浮かび上がってくることもある。
 単純にひとつの恋を描く映画、これはつまり「恋」をモチーフとしたひとつの単純なドラマを描いているということ。それは単純なひとつのケースとして描きたいことが描けるし、そこから何か恋の全体像が浮かび上がってくる必要はない。
 複数の恋をひとつの物語で描く映画、これはおよそ人間関係が複雑であったりして物語として面白くなる。ここではとりあえず「恋」というものに絞って考えるなら、このような複数の恋をひとつの物語で描く映画では概してそれぞれの恋の差異が浮かび上がってくる。それは登場人物が複数の鯉の中からひとつを選んだり、選ばなかったりということがおきるからで、そこで生じる比較が「恋」についての差異を浮かび上がらせてゆく。
 複数の恋を複数の物語で描く映画。これはこの『パリのランデヴー』のような映画のことだけれど。この場合、それぞれの恋の関係性は特にないので、あまり比較にはならない。共通点や違いがあったとしても、それが差異として浮かび上がってくるというよりはそれも含めて「恋」の全体像が浮かび上がってくるという感じ。
 と、唐突に「恋」に関する映画を分析してしまいましたが、このようなことがいえるのは何も「恋」に限ったことではなく、映画にテーマを読み取るとするならば、そのテーマについて描く描き方一般に言えることだと想います。
 だからどうしたというわけでもないですが、パリといえば「恋の街」ということで、そんなことを考えてみた次第であります。

私が愛したギャングスター

Ordinary Decent Criminal
2000年,イギリス,95分
監督:サディウス・オサリヴァン
脚本:ジェラード・ステムブリッジ
撮影:アンドリュー・ダン
音楽:ダイモン・アルバーン
出演:ケヴィン・スペイシー、リンダ・フィオレンティーノ、ピーター・ミュラン

 ダブリンで次々と強盗を成し遂げていくマイケル・リンチと仲間たち。2軒の家に帰れば妻と義妹とたくさんの子供たちが待っている。警察を挑発し、子供たちにも警察を信じるなというおとぎ話を聞かせる。そんな彼が妻と見に行ったカラヴァッジョ展で名画「キリストの逮捕」に心魅かれる。
 売れっ子ケヴィン・スペイシーがイギリスに呼ばれちょっと変わったギャング映画を撮る。ケヴィン・スペイシーはイギリス映画の雰囲気にもよくはまり、むしろアメリカでやっているよりいい感じ。

 まず、映画の表層をなぞっていくと、面白いのは音楽のミスマッチ感と、空想と思わせるシーン。人のクロースアップになった後、シーンが続くとそれがその人の空想であるように思えるのはわかりやすい映画の文法だが、この映画はその文法を使いながら、そのようなシーンが必ずしも空想ではなかったりする。あるいは空想があまりにぴたりとあたっているのか。そうでなければ未来の出来事が前倒しで映像化されているということなのか。その出来事のつながり方のギクシャクした感じもなかなかいい。
 それにしても、この映画はなかなかとらえどころがない。マイケル・リンチは冷酷なところも見せながら人をひきつけるキャラクターだ。そもそも人は何故か「よい泥棒」というものに惹かれるらしい。このマイケル・リンチは必ずしもよい泥棒ではないかもしれないが、味のある泥棒であることは確かだ。その味のある泥棒が名画を盗み、もとの持ち主である教会に帰す。別に教会は明確に「返してほしい」といっているわけではない。それがオリジナルであっても複製であっても同じという態度だ。その複製を気づかれないようにオリジナルにすりかえておくマイケル・リンチの意図は何なのか。単純に絵が教会にふさわしいと考えただけなのだろうか。
 展覧会で警備員に守られて飾られているときより、教会で神父たちが食卓を囲む上にかかっていたほうが光景として美しいことは確かだ。それをうまく映像によって伝えている。観客はマイケル・リンチの視点になってそれを満足げに眺める。それでいいということなのかもしれない。
 単純にサスペンスとは言い切れないかなり不思議な味わいの映画でした。