平原の都市群

Cites de la Plaine
2000年,フランス,110分
監督:ロバート・クレイマー
撮影:リシャール・コパンス
音楽:バール・フィリップス
出演:ベンアメリー・デリュモー、ベルナール・トロレ、ナタリー・サルレス

 盲目の男ベンは少年に導かれて市場を歩き、なじみの人たちと会話を交わす。女性と一緒に医者のところに行き、治療について話をする。場面はいつの間にか同じ名前のベンという男を映し出し、工場で働き、カフェで何か悩んでいる彼の姿を映す。
 全体に暗いトーンで統一されたドキュメンタリーの映像素材とフィクションの映像素材をを幻想的な一編の物語/詩篇に構成する。クレイマーの遺作となったこの作品は非常に難解で、グロテスク、人の心を騒がせる作品になっている。

 はっきり言ってよくわからなかったです。とくに、おそらく盲目のベンの目に映っていると思われる空想の風景、砂漠と母とイグアナと、それらがつむぎだすイメージの意味というか映画全体の中での位置づけが。
 物語自体は一応筋が通っていて、何の解説もなく時系列が交わっていくのもひとつの仕掛けてして面白いし、盲目のベンの心のありようが非常にうまく伝わってくるのがいい。利己中心的で激しい気性のベンが自ら招いてしまった悲劇と、それによる心の変わりよう。本人が演じる(?)盲目のベンがとてもいい。
 最初のほうの仕掛けは、盲目ということを意識させるための黒画面に音声という仕掛け。これは非常にわかりやすく、お手軽な感じがする。しかし、その後もこの映画は音というかノイズを大きくすることで、聴覚に対する鋭敏さをを表現しているようだが、これがなかなか精神をさかなでされるというか、どうも落ち着いて見られない。わたしはどうもノイズに弱いようで、こういう作品はなんだか苦手。
 逆に意味はわからないけれど、静謐で美しい幻想世界のイグアナのほうに心惹かれる。光るうろこ、恐竜のような背中の棘、イグアナはベンなのか、それとも全体がベンでイグアナは彼の心に潜む何者かなのか、立ち去っていったものは誰か、肉の塊は何を意味していたのか、などなど疑問は尽きないのですが、イメージで語られるものはイメージで理解しろ、ということが映画を見る際に
重要なことだと思うので、イメージで考えてみます。
 寂莫、孤独、乾いた感じ、愛の欠如、生命、孤独、恐怖、愛、悲劇、ある種の適応、、、、、
 という感じですかね。
 イメージの言語化。

主人の館と奴隷小屋

Casa Grande & Senzala
2001年,ブラジル,228分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
撮影:ホセ・ゲラ
音楽:エイトール・ビジャ=ロボス

 ジウベルト・フレイレが1933年に著した『主人の館と奴隷小屋』という書物はブラジルという国がどういうものであるかを記したものだった。この映画はその著作を検証しながら、ブラジルという国について解説していく。
 映画は四部構成で、フレイレの著作にだいたいそって進む。教授という男が1軒の”Casa Grande”をアシスタントとともに訪れて解説をする。そこではその著作をモチーフにした映画をとっているという設定で、若い役者たちがいて、彼らへのインタビューも交えられる。

 ドキュメンタリー映画というよりはテレビの教養番組という感じで、ただただ淡々と教授という人とアシスタントがフレイレの著作について話をするということが映画の筋になっている。この話自体はブラジルという国と社会を解説しているだけなので、特に面白くもないが、ブラジルでこのようにブラジルという国を解説するテレビ番組をやらなければならないというところに、ブラジルという国の国家的アイデンティティの希薄さを感じる。それは、インタビューを受けている青年の一人がアメリカ(合衆国)の大学に行ったとき、「ブラジルという国を知らなかったことに気付いた」と言った言葉に象徴されている。国家的アイデンティティのよしあしは別にして、国家としてはそのようなアイデンティティが国民の間で形成されることを求めており、この映画はそのような国家の欲求を実現しようというものになっている。

 というまさに教養番組という映画ですが、ドス・サントスはそこに微妙な「ずらし」を加える。まず、映画の舞台となる”Casa Grande”で映画が作られているという設定だが、その映画が本当に作られようとしているののかどうかはわからない。おそらくこの映画のために作っているフリをしているだけで、だとすると、役者として登場する人たちも実際のところはこの映画のために集められた人々で、なんだかさらにうそ臭くなってしまうが、まあそれはいいとして、この劇中劇となる映画が妙にエロティックだったりする。そんなエロティックなシーンを取り上げる必要があるのかといえば、ことさらそういうわけでもなく、教養番組としての意図とは別のものがありそうな気がしてしまう。
 さらには、教授と一緒に”Casa Grande”を訪ねるアシスタントが4話で毎回違うのですが、人種構成が違うので、最初はブラジルという国の多様性を強調するためなのか、と最初は思ったわけなのですが、第四部あたりになるとどうもおかしくて、そのアシスタントがやたらとクローズアップで取られ、カメラ目線で話してきたりする。さらには昼から夜になるにつれ、服装はどんどん薄着になり、夜のシーンでは教授と立ち話をする彼女の背後に思わせぶりにベットがのぞいていたりする。
 これは、そのような余分なものを徹底的に排除しようとする日本の教養番組と違うというだけのことかもしれませんが、それにしてもなんだかおかしい。そもそもこれのどこがドキュメンタリーなんだ、という疑問に駆られます。なんだか変な映画だったなぁ…

鳥のように – ラ・ドゥヴィニエール

La Deviniere
2000年,ベルギー,90分
監督:ブノワ・デルヴォー
撮影:ブノワ・デルヴォー
音楽:ブノワ・デ・クラーク

 いくつもの精神病院をたらいまわしにされ、どこでも受け入れてもらえなかった十代の少年少女たちのために作られた開放型の精神療養施設「ラ・ドゥヴィニエール」。それから20年後の療養所の様子を比較的軽度なジャン=クロードを中心に描いていく。
 監督はカメラマンとして『ロゼッタ』などに参加したブノワ・デルヴォー。初の長編作品となる。

 これは精神病院ではなくて療養所だけれど、精神病院を描いたようなドキュメンタリーは結構ある。フィクションも結構ある。それらと比べてこの映画に何か光るものがあるかといえば、あまりないといわざるをえない。全く解釈をせず、ただただ映し続けるだけという姿勢はいいのだけれど、そこから何かが浮かび上がってくるのかというと、それはなかなか難しい。映画の後半になってジャン=クロードが主人公のようになり始めると、映画は一種のメッセージのようなものを持ち始めるのだけれど、前半部分とのつながりは希薄である。最初からジャン=クロードが主人公然としていれば、彼を中心に映画を見ることができるのだけれど、前半にはただのひとりでしかなかった彼が急に主人公に成り上がってしまった印象があって、それが残念でならない。
 こういう映画はなんだかドキュメンタリーということに胡坐をかいたというか、ドキュメンタリーであることに価値を置きすぎている映画という気がする。ドキュメンタリーであっても映画なのだから、観客を楽しませたり、観客に伝わりやすくしたりする努力が必要なのに、この映画を見ていると、「わたしたちは現実を提示しているのだ」というある種の傲慢さが映画作りの根底にあるような気がしてしまう。
 この映画は時間について言及しないけれど、おそらく時系列どおりに構成されており、映画が主人公を発見していく過程と撮影者たちが主人公を発見していく過程は一致する。しかし、その過程にあまり必然性はなく、被写体との距離やたまたまおきたイベントによって左右される。だから映画の物語にまとまりがなく、観客の注意も散漫になってしまう。

 まあ、映画を見て、現実を見て、いろいろ考えさせようというのが意図であり、もちろん考えさせられることはあるわけですが、それだけでは映画としては並みの域を出ることはできないということです。

追臆のダンス

2002年,日本,65分
監督:河瀬直美
撮影:河瀬直美
出演:西井一夫

 画面に映っているのは病院のベットに寝ている男。河瀬直美は写真評論家の西井一夫に呼び出され、末期ガンでホスピスにいる彼の人生最後の日々を撮影してくれるよう頼まれる。映画は何の説明もないまま滑り出し、あいだに風景ショットなどを挟みながら、ただただ病人の姿を映し出す。
 人も、時間も、場所も全く説明がないが、それを映画から理解することは容易であり、その理解していく過程にある濃密な時間は観客が映画に参加するための重要な手がかりである。この映画は観客を観客としておいておかず、映画の中へ中へといざなってゆく。

 これを映画にすることができたのは紛れもない河瀬直美の才能だ。死期が迫るの病人が寝るベットの傍らに座り、カメラを回す彼女は冷徹な観察者とはならず、看護の手伝いをしいろいろな話をする友人としている。片手でカメラを持ちながら、もう一方の手で水の入ったボトルを差し出す。そのようにして被写体との距離を置くことをやめた映像は、ホームビデオのように映画であることをやめてしまうことが多い。しかし、この映画はそうはならず、映画が進むとともに被写体と撮影者との距離も変化し、その変化が手探りの試行錯誤であるがゆえに、観客と被写体の距離の変化に呼応する。そのように映画を構成することのできる河瀬直美の才能に賛辞を送る。

 この映画は何を語っているかを考える。被写体となった西井一夫は「記録」と言った。自分が生きてきたことの記録、それを残すために映画をとってもらうんだと言った。河瀬直美もまた自分が生きるために映画を撮るんだと言った。しかし、他方で河瀬は「記録」(という言葉)は嫌いだと言う。映画の中では言葉の問題として片付けられているこの「記録」の問題は決して言葉だけの問題ではなく、映画全体にかかわる問題となっている。
 この映画はある意味では「記録」である。それは間違いない。西井一夫が息を引き取る瞬間に回っていたカメラが切り取ったものは紛れもない生の記録であった。しかしその記録は映画の中に埋没する。この映画を構成する要素である「記録」は監督河瀬直美によって映画の要素へと還元され、「記憶」あるいは「追体験」の材料にされてしまう。これらの記録の断片はそのことが呼び起こした感情や考えを再び呼び起こすための材料であり、観客にとっては河瀬直美がどう感じどう考えたかを追体験するための材料となるのだ。
 そうならば、何を語っているのか。
 それは…

 ただひとついえるのはこれが河瀬直美にとっての死の現実であると同時に死のイメージであるということだ。自分が「死」というものに対峙したときに受け取ったものをそのままイメージ化して提示する。それは大部分は静かで淡々としている。しかし烈しくもある。静かではあるが平和ではない。そのようなイメージが提示されるので、何かを語っているとは言い難い。語るべき言葉はなくなり、沈黙があたりを支配し、鎮魂歌が流れ、語るべき言葉などないことを死者自らが認めて映画は終わる。

とべない沈黙

1966年,日本,100分
監督:黒木和雄
脚本:松川八州夫、岩佐壽弥、黒木和雄
撮影:鈴木達夫
音楽:松村禎三
出演:加賀まり子、平中実、小沢昭一、長門裕之、山茶花究

 北海道の小学生が夏休み、チョウをとっている。チョウ好きの少年は見かけたチョウがデパートで見かけたナガサキアゲハであることに気付いて、必死で追う。ついに捕まえた少年は誇らしげに学校に持っていくが、先生は北海道にいるはずがないといって少年を信じない。少年がチョウを捕まえたところにいくと、不思議な女がいた。
 黒木和雄の劇映画第一作、非常に幻想的な物語の中で社会的なテーマも失わない。全体的に不条理で理解しがたいが、いまや名カメラマン鈴木達夫のカメラの流麗さが全体に統一感を与える。

 冒頭の、少年がチョウを撮るシーン、ここの映像は本当にいい。少年の視線、チョウの視線、外からの視点、それらの視点を織り交ぜながらカメラはあくまでも自由に飛び回り、少年の緊張感や躍動感を伝える。これだけのシークエンスを作るには才能と努力が必要に違いない。ドキュメンタリーっぽいといえば、そんな感じもするが、ドキュメンタリーで培われた被写体に密着するとり方というか、執拗に被写体を追い、その視線を捉えようとするとり方がこのような映像を可能にしたということはいえるだろう。
 そのような冒頭部に対して、本編のほうは映像よりもむしろテーマ性が先にたつ。もちろん映画のどこまで行ってもカメラの流麗さは失われず、はっとするようなカットがあるのだけれど、映画としてはそのチョウの旅路自体よりもその場所場所で描かれる、現代日本の病のようなもののほうに主眼を置く。長崎での描写は亀井文夫の『生きていてよかった』を思い出させずにはいない。おそらく、積極的に映画の材料として取り入れているのだろう。
 戦争に限らず、現代の(当時の)日本が抱える問題、あるいは監督が日本に対して感じる不安を映像として提示したという感じだろう。

 それにしても、物語というかはなしのプロットがなかなかわかりずらく、物語に入っていくのが難しい。全編に共通する登場人物は加賀まり子だけで、しかもセリフもあまりしゃべらない。このとらえどころのない物語はフィクションやドキュメンタリーという区別を超えたところにあるのかもしれない。確実にフィクションではあるが、フィクションというにはあまりに断片的である。
 論争的にしようという監督の目論見はおそらく外れ、加賀まり子のかわいさとカメラの(映像の)素晴らしさだけが引き立ったそんな作品になってしまった。いっそドキュメンタリーにしてしまったほうがいいものが取れたんじゃないかとも思ってしまう。

恐怖のワニ人間

The Alligator People
1959年,アメリカ,74分
監督:ロイ・デル・ルース
脚本:オーヴィル・H・ハンプトン
撮影:カール・ストラス
音楽:アーヴィング・ガーツ
出演:ジョージ・マクレディ、ロン・チェイニー・Jr、ビヴァリー・ガーランド

 精神科医がたまたま看護婦の心に潜む恐ろしい記憶を探り当ててしまった。彼が友人の医師にも聞かせたその秘密は、彼女は一人の男と結婚したが、新婚旅行中に電報を見た彼が忽然と姿を消し待ったというものだった。果たして彼のみに何が起こったのか…
 このころのアメリカの流行のB級恐怖映画。サイレント時代からいわゆるB級の映画をとってきたロイ・デル・ルースの晩年の作品であり、『エクソシスト』や『ゴッドファーザー』などで活躍することになる特殊メイクのディック・スミスがメイクに名を連ねていることにも注目。

 この監督さんはよく知らないし、代表作がなんだかもわかりませんが、フィルモグラフィーを見ると、100本近い監督作品があります。きらびやかな経歴を誇る監督がいる一方でこういう地味な仕事をしている監督もいるということです。それこそがハリウッドというような気がします。
 映画のほうはというと、完全に古典的な恐怖映画(タイトルの頭に「恐怖の」とついている時点で怪しい)で、それはまさに時代を象徴しています。50年代後半から60年代にかけてはこういった恐怖映画が多く作られた時代で、「ホラー映画」と呼ばれる70年代以降の作品を見てしまうと、子供だましにしか見えず、とても恐怖を覚えるのは難しいですが、そのチープな味わいが好きだというB級映画ファンは多いはず。
 その場合、どうしても笑いのほうに近づいてしまいますが、この映画も最後のオチの部分ではついつい笑ってしまいました。やっているほうは大真面目なので、笑っては失礼なのですが、意外な展開だった上に全く怖さがなかったもので。
 えー、映画史的にはこういう作品も重要で(この作品が重要というわけではないけれど)、1本くらいこんなん見てても罰は当たらないかなという気がします。もしかしたら、心の底に隠れていたマニア心をくすぐられるかもしれないし…

マニュファクチャリング・コンセント – ノーム・チョムスキーとメディア

Manufacturing Consent: Noam Chomskyand the Media
1992年,カナダ,167分
監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック
撮影:マーク・アカバー、ノルベール・ブング、キップ・ダリン、サヴァ・カロジェラ、アントニ・ロトスキー、フランシス・ミケ、バリー・パール、ケン・リーヴス、ビル・スナイダー、カーク・トゥーガス、ピーター・ウィントニック
音楽:カール・シュルツ
出演:ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン

 世界で一番重要といわれる思想家ノーム・チョムスキー。言語学者として画期的な学説を発表する一方で、ベトナム戦争の反戦運動をはじめとしてさまざまな政治活動にも参加する。多くのテレビ・ラジオに出演し、講演を行い、自分の考えを率直に述べていく。そんな彼がメディアと国家の陰謀を指摘した著書『合意の捏造』。これをネタにしてチョムスキーを追ったドキュメンタリー。
 とにかく膨大な映像を材料として手に入れ、それをうまく構成したという印象が強い。チョムスキーという人物の人物像と思想がわかりやすい形で浮かび上がり、小難しくなく見ることができる秀逸な作品。

 この映画はチョムスキーという人を徹底的に追って、彼の思想をわかりやすく描こうという意図で作られていると思うけれど、それがそのまま監督(たち)が完全にチョムスキーに同意しているというわけではないと思う。もちろんチョムスキーに賛同し、その意見を人々に広めたいという意図はあるだろう。しかし、そもそも人の意見が完全に一致するはずなどなく、彼らも結局のところチョムスキーの思想を「メディア」として自分の都合のいいように媒介しているに過ぎない。
 と書くと、かなりの誤解を生みそうですが、この映画はそれくらいの疑いをメディアに対して持たせる。もちろんこの映画はそのあたりも織り込み済みで、大手企業に独占されるメディアの状況や、独自の意見を表明し続ける独立系のメディアを描いて、自らの正当化を図る。この映画はそもそもメディアについてメディアにおいて語るチョムスキーを描いたメディアなので、問題は複雑だ。
 彼らの意図は、政府や大手メディアのようにチョムスキーの意見を曲解することではなく、チョムスキーの意見を広くわかってもらうために都合のいい部分だけをピックアップする。そのような意味で自分が伝えようとする部分意外は排除するわけだから、完全にチョムスキーに同意しているわけではない。
 この辺りがなかなか難しいところで、時間の限られたテレビショーが話の長いチョムスキーを拒否するのとある部分では似通っている。しかし、ぜんぜん違うというのも確かだ。
 つまり、この映画を見るわれわれはこれはチョムスキーの解説映画であって、チョムスキー自身ではないのだと了解することは必要だ。そのようなものとしてわたしはこの映画もこの映画に登場するチョムスキーも全面的に支持する。この映画はユーモアにあふれているし、人々の目を開かせるような事実を(チョムスキーを介して)明らかにしている点で衝撃的だし、理論的にも整然としているし、チョムスキーの人柄も垣間見える。チョムスキーについてどんな入門書よりもわかりやすく解説していると思う(多分)。

 チョムスキーの思想自体は映画を見てもらえばわかると思うので、あまり深くは触れないが、彼の思想もなかなか複雑だ。ともかくメディアと大衆の関係性について語り、巨大企業と一部のエリートに操作されている大衆に警句を発する。しかし、他方で大衆を完全に信頼しているわけではない。チョムスキーを見ていると、言い方は悪いが大手メディアとの間で洗脳合戦をしているという気もする。ちょっと考えればチョムスキーのほうが正しいということは頭では理解できるのだが、彼もいうように現在の状況から逃れることはなかなか難しい。根本的な社会制度の改革、そんなことが可能なんだろうか。

ルート1

Route One USA
1989年,イギリス,265分
監督:ロバート・クレイマー
脚本:ロバート・クレイマー
撮影:ロバート・クレイマー
音楽:バール・フィリップス
出演:ポール・マッカイザック、ジョシュ・ジャクソン、パット・ロバートソン

 10年ぶりにアメリカに帰り、再会したロバート・クレイマート友人のドク。ふたりはカナダ国境からNYを通り、フロリダのキーウェストまで続くルート1をたどる旅に出ることにした。
 彼らが長い旅路で出会ったのはアメリカが抱えるさまざまな問題、そして問題を抱える人々。カメラに映る医者のドクはアフリカでの経験もあり、それらの問題に対処して、それがどのように問題であるのかを明らかにしていく。
 そして、4時間の旅の果てにはアメリカという国の全貌が浮かび上がってくるに違いない。

 これはロード・ムーヴィーなのだけれど、疾走感はなく題名ともなっているルート1は一つの場所と別の場所を区別するための区切りでしかない。それでも北から南に進むにつれ、着実に気候が変わり、風景が変わる。これは狙いか偶然かはわからないが、結果的にアメリカの多様性を示す一つの要素となっている。
 もちろん、この映画で示されるのは人種をはじめとした人々が持つ多様性であり、そこに存在するさまざまな問題である。最初からインディアンの問題がクローズアップされるようにこの映画で一番目をひくのはマイノリティの問題だ。もちろんその問題は重要だが、クレイマーは必ずしもそればかりを問題にするわけではない。彼の捉えるマイノリティとはおそらく人種や民族という問題にはとどまらない。NYのような都会と広大な田園地帯というアメリカのイメージとは違う荒廃した土地に住む人々のすべてが彼にとってのマイノリティなのだろう。しかし、本当にアメリカを支えているのは、そんな名もない人々であり、それはアメリカと第三世界の関係が国内にも鏡像のように存在していることを示している。
 にもかかわらずアメリカがアメリカでいられるのは戦争のおかげなのかもしれない。ドクが戦没者の名前が刻まれた長い長い碑の前に何日も佇むとき、そこに刻まれた名前を持っていた人々について考える。名前にしてしまえば何の違いもなくなってしまう人々。これはおそらくアメリカの平等幻想を象徴的に示している。決して平等ではないのに、平等であるかのような気分に浸る。そうして人々はアメリカ人でいられる。
 アメリカとは一種のフィクションによって成り立っている国なのではないか。人々が共通して抱える幻想、それを一種の紐帯として人々が結びつき、一つの国家として成り立っている。この映画を見ていたら、そんなイメージが頭の中に浮かんだ。

 フィクションといえば、この映画の主人公ドクとはいったい誰なのか。映画の言葉を信じてクレイマーの友人の医者、アフリカに10年間いて久しぶりに帰って来た。としておいていいのだろうか。彼の本当の旧友らしい男と会ったり、兵隊にいたころの思い出話をしたりする。しかし、他方で彼はクレイマーの分身であり、クレイマーとして振舞っていることもあるだろう。
 彼は一つの町で医者の仕事に戻るといって急に旅をやめる。それからしばらくはクレイマーの、つまり被写体のいないカメラの、一人旅となる。しかし、キーウェストで唐突にドクはカメラの中に復帰し、そこの病院に仕事を見つける。恋人らしき人もできる。
 ドキュメンタリーと信じてみたらならば、そこに違和感はない。しかし、疑い始めたらいくらでも疑える。そのような自体から感じられるのは、それがドキュメンタリーであるかフィクションであるかを問うことの無意味さだ。
 クレイマーが追求しているのはリアルなアメリカを描写することであり、そのための手段がドキュメンタリーといわれるものであってもフィクションといわれるものであってもいいのだ。それは彼の映画を撮るということに対する姿勢をも示している。カメラを向けられたとき、人は日常そのままではいられない。そこには一つのフィクションが成立し、被写体となる人々は日常の自分を演じるようになる。クレイマーがそこにフィクションといわれるものを導入するのはそこで日常を演じるのが本人でなくてもいいと思ったからだろう。それをうそというのは自由だが、そのうそを写した映画は、現実で本当であることを映した映画よりも、現実の本当に近いものになるだろう。だからクレイマーはドキュメンタリーにフィクションを導入する。

生物みなトモダチ<教育編> トリ・ムシ・サカナの子守歌

1987年,日本,165分
監督:亀井文夫
撮影:菊池周
出演:小林恭治(朗読)

 映画はサケが故郷の川をさかのぼるところから始まり、まずはサケの生態が紹介される。さらに自然の生物たちの生態が紹介されるが、この映画の焦点は明らかに現代文明批判、人間批判にあり、映画の後半はそのことに終始する。 亀井文夫は映画の冒頭に「鳥になった人間(亀井文夫)のシネ・エッセイ」とタイトルを出すように、超然とした存在として人間の世界を眺める。
 さまざまな映画会社の協力を得てフィルムを使い、ボランティア・スタッフのみによって完成された映画。亀井は病に倒れながらも編集を続け、完成とともにこの世を去った。

 亀井文夫については思想的な部分でさまざまなことが言われている。共産党員であったり、しかし一方で共産党から批判されたり、賞賛されることもあるが、どのセクトからも攻撃されることもあるというような立場に立たされる。それは彼がそのような思想のフォーマットから自由であるということを意味している。「共産主義」とか「反戦」とかいうレッテルのついた思想にこだわることなく、自分なりの思想性を確立させていく。そのような映画作家であると思う。人々はそのときそのときの作品を見ながら、これはどうであれはどうだとか、亀井文夫は変わったとかいうけれど、亀井文夫自身には全く関係のないことだ。
 この作品から離れ、亀井文夫作品全体の印象になってしまうが、わたしには亀井文夫の思想の根底にあるのは民主主義とキリスト教であるような気がする。無理やりに当てはめるならば原始キリスト教的共産主義。もちろんこの当てはめも亀井文夫にとっては意味を成さないが、そのようなものに近い思想と考えれば理解しやすいかもしれない。
 共産主義を唱える人々はこの映画で亀井文夫が回帰したムラ共同体について批判する。しかし、別に亀井文夫はそれが人間のあるべき姿だといっているわけではなく、人間が自然と共存するための生き方の原型であるといっているだけである。果たして彼にとって、まず人間があるのか、それともまず自然があるのかはわからないが、少なくとも人間は自然の一員でしかないということを強調する。そのために歴史上でもっともふさわしかった形がムラ共同体だったということをいっているだけで、そこに回帰せよといっているわけではない。
 どうも、形にはまらないということは、論じにくいということになってしまいますが、自然と人間との関係性を深く考えることこそ必要だということかもしれない。

 ところで、この映画で気になったのは、あまりに「種の保存」を強調しすぎること。「種の保存」を強調することは人間が自然に反していることを立証することにつながるが、「種の保存」から人間の生活を説明することは難しい。それはあまりに自然に回帰しすぎ、人間の生活には近づいていかない。果たして人間が一つの「種」として存在しえるのか、本当に生物は「種の保存」のために生きているのか、ということをこの映画は説明しないまま、とにかく人間が「種の保存」の原則に反しているということを繰り返す。果たして、「種の保存」とはそんなに異論の余地のない理論なのだろうか? 
 などという疑問を抱きながら、まとまらないまま映画を見終わる。亀井文夫の遺言は結論ではなく、新たな疑問をいくつも提起するようなものだった。

戦争と平和

1947年,日本,100分
監督:亀井文夫、山本薩夫
脚本:八住利雄
撮影:宮島義勇
音楽:飯田信夫
出演:池辺良、岸旗江、伊豆肇、菅井一郎

 太平洋上で撃沈された軍艦。そこに乗っていた兵士の一人健一は中国に流れ着き、そこでホームレスのような生活を送る。一方、健一の妻町子のもとには健一の戦士を告げる通知が届く。そんな時、健一の親友で精神に異常をきたして戦争から戻ってきていた康吉が町子の名を呼んでいると言われて町子は病院に赴く…
 戦争に振り回された人々の戦中から戦後への生活史。そして、戦争に翻弄された家族と愛の物語。物語は地味で味わいのあるものだが、映像はなんだか恐怖映画のようで妙。

 戦死の誤報による二重結婚、それは実際にかなりの数起こった事態だろう。それを戦争直後に映画にするということは、かなり自分たちの生活に密接した映画であるという印象を与えたことだろう。そして、戦場のショックによる精神障害というものもまた、かなりの数に上ったことも想像に難くない。だから、この映画は当時の観客たちにとっては身につまされるというか、あまりに身近なことであったに違いない。映画に映っている風景も、自分たちの生活そのまま(健一が夜の街をぶらぶらするシーンなどは、あまりにリアル)なのだと思う。そのような映画であると考えると、これを今見ることは一種の過去を知る資料的価値という意味が一番大きくなってしまうのかもしれない。
 物語は、地味だけれど、そのような要素もあってとてもリアルで、あいまいなところもとても意味深い。

 ただ、登場人物の心理の機微なんかはあまりうまく表現されていない。それは、おそらくクロース・アップのやたらの多用と、人物への妙なライティング(下からライトを当てているので、影のでき方が恐怖映画のよう)が原因だろう。
 そして、これは多分戦争直後の物資難、映画の制作に際してもライトなどの道具が不足し、もちろんフィルムも十分ではなく、そのような環境で撮っているせいだろう。特に、ライティングという面がこの映画ではかなり問題で、恐怖映画のようなライティングというのは一つのわかりやすい不合理さだが、クロースアップの多用というのも、光量の不足から、表情をしっかり映すためにはクロースアップにするしかなかったということもあるのだろうと思われる。
 そんな事情の中で撮られた映画であることは創造できるけれど、今この映画を見る場合には、映画としての評価はマイナスにならざるを得ない。この映画にこのライティングや編集はやはり妙だし、ミスマッチである。歴史的(一般的な歴史でも映画史でも)にはいろいろ考えさせられることもあるけれど、単純に映画としては、あまり成功しなかったといわざるを得ない。

 ところで、この主演の女優さんは岸旗江といって、あまりよく知りませんが、なんだかちょっと原節子にのなかなかの美人。第1期東宝ニューフェイスということですが、どうもあまり主役級の作品はなく、地味に長く女優さんをやっていたようです。どうして、スターになれなかったんだろうなぁ…