上海

1938年,日本,81分
監督:亀井文夫
撮影:三木茂
音楽:飯田信夫
出演:松井翠声(解説)

 1937年、日中戦争勃発。軍部は東宝の文化映画部に働きかけ、現地での日本軍の活躍を映画として公開することにした。そうしてカメラマンの三木茂を中心にスタッフが現地に赴いて撮影を行い、監督の亀井文夫がそのフィルムを編集して一本の映画を完成させた。それがこの『上海』である。
 亀井文夫は三木茂が中国に渡る前に演出メモを渡し、従来の「行進する兵隊」のような典型的な映像ではないエレジーを感じさせる映像を撮ってくるように言ってあった。かくして、この映画はいわゆる国策映画とは違う映画となった。

 映画は上海についての説明から始まる。地図を使ってイギリスやフランスの租界、中国人街、戦場となっている場所などが説明される。それから、実際の上海の街の映像に。そこでは、映像も解説もそこが戦場であるとは感じられないということを表現する。高層ビルが建つ大都会上海、各国の国旗がはためく国際都市上海、そのようなイメージを観客につかませる。
 そこから、もっとミクロな方向へ描写は進む。中国人の抗日の動きや、それに対処する日本軍の活躍なども描くが、最も中心として描かれるのは上海の人々の暮らしだ。そこにはもちろん日本人も含まれるが、中国人も含まれる。そもそも見た目では日本人も中国人もあまり区別がつかない。しかも、松井翠声の解説は画面に映っているものをストレートに解説するのではなく、全体的な状況を語る。だから、画面に映っていることがいったいなんなのか、つまり何を伝えようとしてこのような映像を見せるのかが判然としない。
 もちろん、この映画は日本軍の活躍や偉大さや敵たちの卑小さや残酷さを伝えるために作られるべきだった。だから、この映画はその意味では失敗作といわざるを得ない。しかし、そのような意図で見られる必要がなくなった現在にこの映画を見ると、そもそも亀井文夫はそのようなことを伝えようとして映画を作っていないことが見えてくる。
 しかし、だからといって反戦とか、軍部批判とか言った攻撃的な意図から作られているわけでもない。この映画を見ていて感じるのはそれがあらゆる価値に対して中立であろうとしているということだ。どちらがいい悪いではなく、みんな人間なんだということ。大きく言ってしまえば、中国という雄大な自然の中ではみな卑小な存在に過ぎないんだということを言いたいのではないかと感じる。
 たとえば、日本軍が中国兵が閉じこもった倉庫を攻略したというエピソードを語るとき、そこに残されたパンと映画の包み紙が映され、解説ではそれが中国軍の卑小さの象徴のように語られる。しかし、その言葉はなんだか空々しく、その画面から受ける印象はむしろ、中国兵たちも生きようとしていたということだ。あるいは、日本兵たちはそれを見てうらやましかったのではなかろうかということだ。
 それは、戦争の勇猛さを伝えるのではもちろんなく、かといって戦争の悲惨さを伝えるのでもない。否定的に言えば戦争の無意味さというかむなしさを伝えるもので、あるいは戦争の日常性というか、戦争を戦っている人々というのは日常や自然とつながっているのだということ、そのようなことを伝えようとしているような気がする。

木と市長と文化会館/または七つの偶然

L’Arbre, le Maire et la Mediatheque ou les Sept Hasards
1994年,フランス,111分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:パスカル・グレゴリー、ファブリス・ルキーニ、アリエル・ドンバール

 ナントから少し離れた農村で市長を務めるジュリアンは国民議会に打って出ようとする一方で、地元の市に文化会館を立てようと計画していた。しかし、恋人のベレニスはあまり賛成していない。また、小学校教師のマルクは建設予定地の巨木を含めた風景を壊すことに強く反対していた。
 ロメールといえば恋愛というイメージがつきまとうが、この映画は少し恋愛からは離れたところで物語が展開される。しかし、このような論争的なことを取り上げるのもロメールの一つの特徴であり、恋愛も全くおざなりにされるわけではない。

 ロメールの映画には、哲学的というか論争的な会話が必ずといっていいほど出てくる。恋人同士の間であったり、友達同士の間であったり、友達の恋人だったり、パターンはいろいろだけれど、言い争いというか議論がどこかで展開される。この映画はその議論の部分を映画の中心に据えて、全体をまとめた映画。恋愛はいつもとは逆に部分的なものになる。
 そのような論争的なことが物語の中心となるので、自然と映画全体が群像劇じみてくる。ロメールの映画というと2・3人の中心的な登場人物がいるというものが多いイメージ。その点でこの映画は他のロメールの映画と違うといえるかもしれない。
 しかし、ロメールはロメール。単純な映画であるにもかかわらず、いろいろな仕掛けがあきさせない。始まり方もなかなかステキで、そこで出てきた「もし」(フランス語では“si”)が各チャプター頭のキャプションが“si”で始まっているのがおしゃれ。

 この映画を見て、エリック・ロメールはゴダールとは別の意味で天才的だと実感する。ゴダールの天才は見るものを圧倒するものだけれど、ロメールの天才は見るものを引き込むもの。ゴダールの映画を見ると、よくわからないけれどとにかくすごい、という印象に打たれる。ロメールの映画を見ると、必ず何かが引っかかって、するすると映画を見てしまい、終わってみれば面白かった、という印象が残る。そのさりげなさが天才的。
 やはりヌーヴェル・ヴァーグはすごかったということか。ロメールとかゴダールとかヴァルダの映画を見ていると、世界はいまだヌーヴェル・ヴァーグを超えられてないんだと思わされてしまいます。

花子

2001年,日本,60分
監督:佐藤真
撮影:大津幸四郎
音楽:忌野清志郎
出演:今村花子、今村知左、今村泰信、今村桃子

 今村花子は重度の知的障害を持ち、両親と一緒に住んでいるが、その両親と会話をすることもできない。そんな彼女が意欲を発揮するのは芸術的な側面。キャンパスに絵の具を塗りたくり、ナイフで傷をつける。それよりもユニークなのは、食べ物を畳やお盆に並べる「食べ物アート」。それを発見した母親の知左が面白いと思って写真に撮り、それが数年にわたって続いている。
 そんな家族とともに生きる花子の姿を描いたドキュメンタリー。

 映画は忌野清志郎の歌声で始まる。少し割れたようなこの歌が妙に映画にマッチしている。歩き回る花子の姿と清志郎の歌声は映画への期待感を高める。
 映画自体は最初からアート、視覚アートの世界を描く。原色の油絵の具をキャンパスに塗りたくり、そこにペインティングナイフで傷をつけていく。それは何気ない、でたらめのように見える作業だが、そこから生まれてくる色彩のバランスは決してでたらめではない。意識的に何かをつくろうとはしていなくても、できてくるものに対する美醜の感覚を花子は持ち合わせているのだということをその絵を書くシーンは物語る。
 食べ物を並べて作る「食べ物アート」はほとんどの場合、父親が言うように「汚いことをしている」ようにしか見えない。にもかかわらずそれをアートとして捉え、写真に残すことにし、花子に好きなようにやらせることにした母親の知左はすごい。この映画はその知左という母親にほとんど集約していく。家族のそれぞれが対花子の関係を持って入るんだけれど、そこには必ず母親の知左が存在する。そんな微妙な家族の関係をこの映画はさりげなく描く。
 その家族の関係というのが非常に重要な問題で、それを考えさせることを主眼としているのだろう。しかし、それを眉間に皺を寄せて考えるのではなく、なんとなく考える。重度の障害者を抱えながらも、ゆったりと生きる両親を見ながらそんなことを感じる。

 話は音に戻って、音楽から始まるこの映画は花子の立てる言葉にならない言葉が大きく観客に作用する。声だけでなく、花子が自分の頭をたたいたり、頭を床にぶつけたりするその音も重要だ。おそらく音は現場での同時録音の時点の大きさよりも増長され、より観客に届くように編集しなおされている。少し画面と音がずれているところがあったりして、それはちょっと気になるところだが、それだけ、その音を伝えることがこの映画にとって重要だったということだ。言葉を話せない花子にとって、意思を伝えるために使えるのは、その音と強引に体で主張するという手段だけだ。だから、花子の家族たちも常に音に対して敏感になり、物音にすばやく反応する。そのような音に対する意識もこの映画は伝えようとしている。
 一つの事柄では表せない複数の要素が重なり合い、難しい問題を提起しているけれど、しかしそれを難解なものとして提示するのではなく、日常的なものとして提示する。この映画はそのような提示の仕方に成功している。

SELF AND OTHERS

2000年,日本,53分
監督:佐藤真
撮影:田中正毅
音楽:経麻朗
出演:西島秀俊、牛腸茂雄

 1983年、36歳という若さで夭逝した牛腸茂雄という写真家がいた。
 彼の生い立ちからの一生を、数々の作品を通して、映像作品や、本人の録音も交え、物語として紡いでいく。映画作家佐藤真を自己主張しながらも、牛腸茂雄の世界を再現することに心を配る。
 何かの物語が展開していくというよりは、漠然としていて、どこか夢のような、心地よい映画。

 ゆっくりとしたテンポと、繰り返し。それがこの映画の特徴であり、リズムである。同じ写真が何度も登場する。坂道でおかしなポーズを取ってこちらに笑いかける少年。斜めに日が射す壁の前に立つ青年、花を抱えた少女…
 それらの写真が何度も繰り返し写されることによって、そのまなざしがじわりじわりと染み入ってくる。「見つめ返されているような気がする」という言葉も出てきたように、この映画に登場する写真に特徴的なのは被写体の視線がまっすぐカメラのほうを向いているということだ。それはつまり写真を見ている、映画を見ているわれわれを見返しているまなざし。佐藤真は牛腸の写真にあるその眼差しを捕らえたかったのだろう。
 その試みは成功し、われわれ牛腸の世界に捉えられる。彼が捉えた眼差しに絡めとられ、夢の世界へといざなわれる。その夢のような感覚を作り出すのは自然の映像である。牛腸の故郷の水田とショベルカーの対比、その現実の風景と牛腸茂雄という夢。

 この映画はいわゆるドキュメンタリーというよりは、作家の思い込みを映像化したエッセイのようなもので、どこかフィクションに近い。まあ、ドキュメンタリーとフィクションとの区別というのはあくまで便宜的なもので、これがドキュメンタリーだといわれるのは「牛腸茂雄という写真家が実在した」という事実によってでしかない。
 しかし、この映画で描かれる佐藤真に思い込まれた牛腸茂雄は、あくまで佐藤真にとっての牛腸茂雄であって、それは一種のフィクションである。これはルポルタージュではなくてエッセイであって、客観性などというものははなから求めていない。だからもちろんフィクショナルな牛腸茂雄を描いてもいいわけで、この映画はそのようなものとして存在する。
 だから、この映画をドキュメンタリーというのはむしろ間違いで、「事実に基づいたフィクション」と呼ぶほうがふさわしい。とはいえ、これも単なる言葉遊びで、本当に存在するのは映画だけなのだ。見る側がこの映画をどう見るかということが問題で、その捉えたものをどう呼ぶかは見た人おのおのの問題でしかないはずだ。わたしがこれを「事実に基づいたフィクション」と呼ぶのは、わたしが捉えた(と思っている)この映画の性質をこの言葉がよくあらわしている、と思うからに過ぎない。

60セカンズ

Gone in Sixty Seconds
2000年,アメリカ,117分
監督:ドミニク・セナ
脚本:スコット・ローゼンバーグ
撮影:ポール・キャメロン
出演:ニコラス・ケイジ、アンジェリーナ・ジョリー、ジョヴァンニ・リビシ、ジェームズ・デュヴァル、ロバート・デュヴァル

 車泥棒のキップは強引な手口でポルシェを泥棒、アジトに持ってくるが、警察にアジトを突き止められ、これまでに盗難した車を放置して逃げてしまう。そのキップに50台の車を手配するように注文したカリートリーは、キップの兄で今は引退した伝説の車泥棒メンフィスに弟の尻拭いをするように言うが…
 1974年の『バニシングIN60』をもとに作られたクライム・アクション。車好きにはたまらない映画だと思うが、普通にアクション映画としてみるとちょっと退屈するかも。監督は『カリフォルニア』以来何故か沈黙していたドミニク・セナ。この映画に続いて『ソード・フィッシュ』を撮って復活。

 アクション映画としては中の中というところでしょうか。元ネタの『バニシングIN60』を見ていないのでわかりませんが、おそらく元ネタの方が面白いのでしょう。そもそも車を盗むというところにアクションの緊張感を求めるのはどうも間違っているようで、どんなに見事な手際でも、それ自体が面白いというわけには行かない。それでどうしても、カーチェイスということになるわけですが、そのカーチェイスの見せ場が出てくるのは後半だけ。ということでなんとなくだれたアクション映画になってしまうわけ。
 となると、ニコラス・ケイジとアンジェリーナ・ジョリーのセクシー・コンビのセクシー光線で攻めていくのかと思いきや、そうでもなく、ラブ・シーンらしきものも尻切れトンボで終わり、そこにも見所を求められません。なので、まっとうにアクション映画、ハリウッド映画を楽しもうとしてみると、どうにもならない映画といわざるを得ないということです。

 それでもわたしはこの映画は悪くないと思うわけですが、それはこの映画が全体的に持っている「へん」な雰囲気。アクション映画として物足りない部分を補うためか、それとも監督の性癖か、どうも「へん」な感じがあります。
 最初に感じたのは、スフィンクスがメンフィスを助けるシーン、スフィンクスは基本的にへんで、最後のオチまでへんで、わたしはとても気にってるんですが、とにかくその登場シーンのおおげささというか、過剰さというのがどうもへん。全体的に地味な映画を補うためなのか、豪勢に爆発します。最後のオチというのもかなりへんで、せっかくのオチなので言いませんが、映画の脈略から全く浮いているし、その意味がよくわからん。しかもそれでぷつりと終わってしまう。なんじゃありゃ?という感じ。
 あとは、犬のエピソードとか、ケイジがボロ車をガンガンにふかすシーンとか、なんか「へん」なんですよ。映画のプロットには乗っているんだけど、映画全体の雰囲気を壊すというか、全体的に一つの雰囲気にまとめるのを拒否するというのか、こちらがイメージするアクション映画というものや登場人物のキャラクターからはずした描き方をしていく。それも、あまり伏線もなく突然に。
 キップがメンフィスに料理を作ってて、塩のふたが取れちゃって、でも何事もなかったようにそのままさらに持ってメンフィスに食べさせて、メンフィスは、「ゲッ」と吐き出すんだけど、「うまい」というシーン。あれも相当へんだった
なー

 という、なんだか不思議な映画でした。
 あとは、「フレンズ」のコアなファンは気がついたかもしれませんが、キップはフィービーの弟(腹違いの弟)でしたね。

最後の戦い

Le Dernier Combat
1983年,フランス,90分
監督:リュック・ベッソン
脚本:リュック・ベッソン、ピエール・ジョリヴェ
撮影:カルロ・ヴァリーニ
音楽:エリック・セラ
出演:ピエール・ジョリヴェ、ジャン・ブイーズ、ジャン・レノ

 近未来、ほとんどの人が死に絶えた世界、一人の男が砂漠化した地域のビルの一室に住んでいる。彼は一人過ごしながら、飛行機を作ろうとしていた。一方砂漠の中には、車ですごす一群がいる。そこに男が武器を持って向かう…
 白黒の画面にセリフなし(音がないのではなくてセリフがない。たぶん声を出すことができないという設定)というかなり実験的というか、不思議な条件で映画を作ったリュック・ベッソンの監督デビュー作。
 リュック・ベッソン自身でも、他の監督でも、こんな世界は見たことがない。この映画以前でも、この映画以後でも。

 この映画のリュック・ベッソンは自由だ。自由を利用してわざわざ不自由な映画を撮るところにリュック・ベッソンらしさというか、センスを感じてしまう。実験映画っぽくもあるんだけれど、コミカルな面もあり、とても不思議な感じ。
 言葉がしゃべれないことによって有効になるのは、謎が深くなるということ。ジャン・レノが荷物を持っていく家とジャン・レノとの関係はどんなものなのか、全く持ってわからないが、言葉を使ってしまうと、関係性はすぐにあかされてしまうだろう。それをなぞめいたままにするというところはなかなかうまい。
 最終的にこの映画はなんなんだ、ということになると、これはアクション映画で、やはりリュック・ベッソンの本領はアクション映画で、それはデビュー作から貫かれているということか。アクションとしては、なんともドン臭いけれど、言葉がないことで、逆に緊迫感が増す。

 なんとも書くことがないのは、この映画が哲学的な風を装いつつ、実はアクション映画であるということか。もちろん、純粋なアクション映画というのも賞賛するけれど、面白い!というと、それで終わってしまうような感じもある。特にこの映画の場合は哲学的な風を装っているので、なんか考えてしまうと、特に何かがあるわけではないという不思議な感じを伴っている。そのあたりはリュック・ベッソンのスタイルというか、普通のアクション映画とは違うしゃれた感じを作り出す秘訣というか、そんなものなんでしょう。
 全体的には音楽お使い方なども含めて、アニメっぽい印象を持ちましたね。リュック・ベッソンもフランス人に多いジャパニメーション・ファンの一人なのか?

HYSTERIC

2000年,日本,110分
監督:瀬々敬久
脚本:井土紀州
撮影:斉藤幸一
音楽:安川午朗
出演:小島聖、千原浩史、鶴見辰吾、諏訪太郎、寺島進、阿部寛

 「太く短く生きて死ぬ」といつも口走るトモに引きずられるように生きるマミとあるアパートで過ごす二人は、コンビニでマミを知る隣の住人に出会う。トモは男から金を奪おうと、マミが男を部屋に誘う計画を立てる…
 それと平行して、トモとの出会いから現在までに至るマミの回想が始まる。映画は現在と過去を交互に描き、二人の物語をつむぎだしていく。
 ピンク映画と一般映画の両方を撮り続ける瀬々敬久のいっぺんのラブ・ストーリー。破壊的な日常を送る男女というテーマは両ジャンルにまたがる監督らしいものといえる。

 映画はとてもいい映画だけど、それは普通の映画ではなく、やはり普通に映画監督となった人とは違う何かがそこにはある。そもそもこの映画は、主人公への感情移入を拒否する。「好きなように遊んで、早死にする」といいながら、果たしてトモは日々を楽しんでいるのか。これで遊んでいるといえるのか、そんな素朴な疑問が常に頭をよぎる。
 トモは自分の好き勝手にいき、自由な人間であるように見える。しかし、彼は決して自由ではない。悲劇という衣を常にまとっていなければいられない、悲劇に縛られた人間。だから安穏とした日常に(たとえそれが楽しいものでも)安住することはできず、それを捨て、それを壊し、再び悲劇へと突き進む。
 それに付き従うマミは逆に自由な人間だけれど、その自由をもてあまし、それをトモに明け渡す。それが破滅に向かうことが予見できようと、それを取り替えそうとはしない。時折自由が戻ってきてもそれをもてあます。

 そのような人間像を理解はできる。そして面白い。しかし、どうしてもそれをひきつけて考えることができない。1時間半ほどの映画を見ながら感じるのは、それがあくまでもスクリーンの向こうの出来事であるということだ。日常とは違う空間、自分とは無関係な人間、その受け取り方には個人差があるのだろうけれど、わたしには完全な絵空事にしか見えなかった。
 脚本のもとにあるのは実話らしいが、もとが実話だからといってそれが現実的であるとは限らない。
 あくまでもハードボイルドに描くのは、この監督のスタイルのような気もするが、わたしが見たいのは、このような行動の原動力となる一種の「弱さ」で、行動そのものではなかったというのが大きい。このような行動を描く一種のパンク映画はたくさんあって、それ自体は新鮮なものではない。モノローグまで使ってストーリーテリングさせるんだったら、もっと内心の葛藤のようなものを描いても良かった気がする。それとも葛藤がないこと自体が問題なのか?

チョコレート

Monster’s Ball
2001年,アメリカ,113分
監督:マーク・フォースター
脚本:ミロ・アディカ、ウィル・ロコス
撮影:ロベルト・シェイファー
音楽:アッシュ・アンド・スペンサー
出演:ビリー・ボブ・ソーントン、ハル・ベリー、ピーター・ボイル

 州刑務所の看守ハンクは病気の父と同じく看守をする息子のソニーと暮らしている。ハンクは父の人種差別意識を引き継ぎ、息子のソニーを訪ねてきた黒人の少年たちを銃で追い返す。
 黒人の死刑囚マスグローヴの死刑執行の日、息子のソニーは執行場へと付き添う途中に戻してしまう。執行後、ハンクはソニーを激しく怒り、殴りつける。
 演技には定評のあるビリー・ボブ・ソーントンと、この作品でアカデミー主演女優賞を獲得したハリー・ベリーなんといってもこの二人がいい。特にハリー・ベリーはとても美人でいい。

 映画自体はたいした映画ではありません。アメリカの白人の中にいまだ人種差別主義者がいっぱいいることなどは繰り返し描かれてきたことだし、実際にそうであることも理解できる。この映画は人種差別を中心として、家族や死刑というさまざまな問題を含んではいるけれど、それが行き着く先は結局のところ恋愛で、セックスで、人を愛するということが異性間の関係に集約されてしまっている。
 ハンクが息子を「憎んでいる」といってしまったり、父親を施設に入れてしまったりする、そのことを考える。そのことを考えると、この男はやはり自己中心的で、他人を思いやっていると見える行動もヒューマニスティックなものというわけではなく、実は弱さの顕れでしかない。もちろん人間は弱いものだけれど、この映画はそこには突っ込まない。
 この映画から人種の問題を取り去ったら何が残るだろうか。それは単なるメロドラマ、息子を失った男女が出会い、互いに慰めあう。新たな愛に出会う。そういう話。

 果たして、ハンクは人種差別主義を克服したのだろうか? この2時間半の時間を見る限り、それは克服されていない気がする。レティシアに大しては差別もないが、それはおそらく「黒人」という意識がないだけのこと。近所の自動車修理工場の家族とも仲良くし始めるけれど、それも彼らを「黒人」の枠からはずしただけのことのような気がする。「黒人」一般に対する差別は温存したままで、「仲間」として認められる黒人は受け入れる。そのような態度に見えて仕方がない。
 そう見えるからこそわたしには、この映画が人種差別主義の根深さを示す映画だと思うのだけれど、製作者の側にはそんな意識はなく、一人の男が差別を克服する映画という考えだろうし、見るアメリカ人もそういう映画としてみているような気がする。
 それは、本来は黒人と白人のハーフである、ハリー・ベリーを「黒人初のアカデミー賞女優」といってしまうアメリカの人種意識から推測できることだ。それはアメリカの人種意識が「白人」を中心として作られていることを示している。「白人」でなければ、白人の血が半分入っていようと「黒人」になってしまう。つまりちょっとでも黒ければ「黒人」、ちょっとでも黄色ければ「アジア系」となる。
 この映画はそんなアメリカの人種意識をなぞっているだけで、何も新しいものもないし、アメリカの人種意識を変えるものではないと思う。だからわたしは、「たいした映画ではない」という。

 たいしたことない話が長くなってしまいましたが、わたしがこの映画で一番気に入ったのはハリー・ベリー。『X-メン』などではちょっとわかりませんでしたが、この映画のハリー・ベリーは本当に美人。さすがミス・オハイオ、ミス・コンも捨てたものではないですね。わたしはこのハリー・ベリーの美しさはいわゆる「ブラック・ビューティー」ではない、一般的な美しさだと思います。黒人でなくても受け入れられる美しさ。この映画は本当にハリー・ベリーの映画。主演女優賞をとっても当然、という感じです。
 映画にとって美女が重要だということもありますが、人種の問題に立ち返っても、彼女のような美女の存在こそが人種の壁を突き崩すきっかけになる可能性を持っている。そんな気が少ししました。

地獄の警備員

1992年,日本,97分
監督:黒沢清
脚本:富岡邦彦、黒沢清
撮影:根岸憲一
音楽:船越みどり、岸野雄一
出演:久野真紀子、松重豊、長谷川初範、諏訪太郎、大杉漣

 タクシーで渋滞に巻き込まれる女性、彼女は一流企業曙商事に新しくできた12課に配属された新人社員。同じ日、警備室にも新しい警備員が雇われる。ラジオでは元力士の殺人犯が精神鑑定により無罪となったというニュースが意味深に流れる…
 ホラーの名手黒沢清の一般映画監督第2作。日常空間がホラーの場に突然変わるという黒沢清のスタイルはすでに確立されている。怖いことはもちろんだが、映画マニアの心をくすぐるネタもたくさん。いまや名脇役となってしまった松重豊のデビュー作でもある。

 この映画にはいくつか逸話じみた話があって、その代表的なものは、大杉連が殴られて倒れるシーンは、日本映画で初めて殴られ、気絶する人が痙攣するシーンだという話です。実際のところ、人は痙攣するのかどうかはわかりませんが、普通の映画では殴られた人はばっさりと倒れて、そのままぴくりともしない。この映画では倒れた人がかなりしつこく痙攣します。アメリカのホラー映画なんかでは良く見るシーンですが、確かに日本映画ではあまり見ない。
 わたしはあまりホラー映画を見ていないのでわからないのですが、有名なホラー映画のパロディというか翻案が多数織り込まれているという話もあります。

 まあ、そんなマニアじみた話はよくて、結局のところこの映画が怖いかどうかが問題になってくる。一つのポイントとしては、最初から富士丸が怖い殺人犯であるということが暗示されているというより明示されている。というのがかなり重要ですね。誰が犯人かわからなくて、いつどこから襲ってくるかわからないという怖さではなくて、「くるぞ、くるぞ、、、、来たー!!」という恐怖の作り方。それは安心して怖がれる(よくわかりませんが)怖さだということです。 そんな怖さを盛り上げるのは音楽で、この映画では「くるぞ、くるぞ、、、、」というところにきれいに音楽を使っている、小さい音から徐々に音が大きくなっていって「くるぞ、くるぞ、、、」気分が盛り上がるようにできている。このあたりはオーソドックスなホラーの手法に沿っているわけです。だからわかりやすく怖い。
 しかし、(多分)一か所だけ、その音楽がなく、突然襲われる場面があります。どこだかはネタばれになるのでいいませんが、見た人で気付かなかった人は見方が甘いので、もう一度見ましょう。
 そういう場面があるということは、そういう音による怖さの演出に非常に意識的だということをあらわしていて、それだけ恐怖ということを真面目に考えているということ。もちろん、考えていないと、これだけたくさんホラー映画をとることはないわけですが、こういうのを見ていると、恐怖を作り出すというのは、本当に難しいことなんだと感じます。

 ホラー映画が好きでなくても、映画ファンならホラー映画を見なければなりません。ホラーというのは新たな手法を次々と生み出しているジャンルで、そこには映画的工夫があふれている。ホラーではそれが恐怖という目的に修練されていて、その工夫の部分がなかなか見えてこないけれど、実は工夫が目につくような映画よりも新しいこと、すごいことをやっている。
 だから、たまにはホラー映画も見ましょうね。

女は二度生まれる

1961年,日本,99分
監督:川島雄三
原作:富田常雄
脚本:井手俊郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、山村聡、フランキー堺、藤巻潤、山茶花究

 九段で「ミズテン芸者」をやっているこえんは芸者といいながら、芸はなく、お客と寝てお金をもらう。そんな彼女は芸者屋の近くでしょちゅうすれ違う学生やお得意さんに連れてこられた板前の文夫なんかにも気を遣る。
 そんな女の行き方を川島雄三流にハイテンポに描く。若尾文子が主演した川島雄三の作品はどれも出来がいい(他に『雁の寺』『しとやかな獣』)。この作品も単純なドラマのようでいて、非常に不思議な出来上がり。細部の描写が面白いのはいつものことながら、この映画は若尾文子演じるこえんのキャラクターの微妙さがいい。

 淡々としているようで、驚くほど展開が速い。スピード感があるというのではなく、時間のジャンプが大きい。そのあいだあいだを省略する展開の早さが川島雄三らしさとも言える。このテンポによって描かれるのは主人公こえんの心理の変化である。心理の変化といっても、その内面を描こうとするのではなく、外面的な描写からそれを描こうとする。つまり実際に映画に描かれるのは、主人公の心理に与える影響が大きいエピソードだけで、その出来事と出来事の間は時には1日、時には1年離れているという感じ。
 いろいろな「男」が登場しますが、一番気になったのはフランキー堺の板前ですね。必ずしも彼が一番好きだったというシナリオではないと思いますが、わたしはそのように見ました。藤巻潤の学生さんはそれほどではないように思えるのは、やはり一度(ではないけれど)肌を合わせたかどうかの違いなのでしょうか。こえんのこのキャラクターならば、そのことが意外に大きな要素になるような気もします。その辺りが川島雄三というか、この時代の日本の(というより大映の)映画らしいところということもできるかもしれません。
 フランキー堺の板前といえば、この映画で一番好きだったシーンが、こえんが二の酉の日に一人ですし屋を尋ねていく場面。シーンが切れてすし屋が映ると、何故かベートーベンの『運命』がかかる。それがラジオかレコードか何かだということはすぐわかるんだけれど、すし屋このBGMというミスマッチが気をひく。そして、風邪気味だといった文夫にこえんが「熱があるの?」ときくと「いいえ」とそっけなく言う。それはその前のシーンのこえんと全く同じセリフで、その辺りが非常に詩的。

 プロットの展開の仕方は川島雄三「らしい」ものといえるけれど、このあたりの描写は川島雄三「独特」のもの。この細部の描写を描く感性は川島雄三しか持っておらず、彼の映画でしか見ることができない独自性だと思う。もちろんそれが絶対的にいいというわけではないけれど、この日本映画の黄金時代に独特のキャラクターを持つことができた川島雄三の偉大さを今でも認識できるのは、この独特さにある。
 山村聡のキャラクターが他の映画とちょっと違うのもステキ。べらんめい調で話しながら、ちっちゃいエプロンをしてすき焼きの用意なんかをしているところを見ると、これも一種のミスマッチで、しかしそれが面白みを出しているそんな場面。
 ミスマッチと奇妙な符合。それがこの映画のキーになっていて、物語は奇妙な符合で展開され、映画の細部はミスマッチで彩られる。その辺りがなんだか微妙でいい感じ。最初はそうでもないけれど、見ているうちになんだかだんだん気持ちよくなっていく、そんな映画でした。