ゆきゆきて、神軍

1987年,日本,122分
監督:原一男
撮影:原一男
音楽:山川繁
出演:奥崎謙三

 反体制運動家の奥崎謙三、傷害致死、わいせつ図画頒布などで13年以上の独房生活を送った彼の活動を追ったドキュメンタリー。悲惨を極めたニューギニアから帰還した奥崎はそのニューギニアで起こった様々な悲惨な出来事の解明に乗り出す。
 今村昌平が企画をし、原一男が監督・撮影を行った日本のドキュメンタリー史に残る映画。斬新というか型破りというか、ドキュメンタリーというジャンルの典型からは大きく外れた映画。

 これは果たしてドキュメンタリーなのか、実際の起こったことを映しているという意味ではドキュメンタリーだが、この奥崎謙三という人物はエンターテナーだ。自分を見せるすべを知っていて、それをカメラの前でやる。しかしそれは彼の主義主張にあったものなのだから、作り物というわけではない。だから、フィクションかドキュメンタリーかという区分けをするならばドキュメンタリーの範疇に入る。ただそれだけのこと。ドキュメンタリーというのもあくまで程度の問題で、いくらかはフィクションの割合が入っているものである。カメラが存在することですでにノンフィクションというものは存立不可能になっている。したがって、完全にノンフィクションではないドキュメントをいかにノンフィクションらしくしかもドラマチックに見せるのか、それがいかにすぐれたドキュメンタリーであるのかという事。
 この映画はノンフィクションらしく見せるという点では余り成功していない。しかし、ドラマチックであることは確かだ。そしてそのドラマチックさはそれがノンフィクションであるということに起因している。リアルな喧嘩、省略なく行くところごとに繰り返される同じ説明、それらは見るものをいらだたせるまでに繰り返される。事実はこうであるのだということ。
 見る人によっては嫌悪感すらもよおすだろうし、私も好きなタイプの映画ではないけれど、すごいということもまた事実。

緋文字

Der Scharlachirote Buchstabe
1972年,西ドイツ=スペイン,90分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ナサニエル・ホーソン
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ベルナルド・フェルナンデス
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クナイパー
出演:センタ・バーガー、ハンス・クリスチャン・ブレヒ、イエラ・ロットランダー、アンヘル・アルバレス

 開拓期のアメリカ、原住民のガイドを連れ、セイラムという町を探してやってきたロジャーは街に着くなり、教会の前で裁判が開かれているのを目にする。その裁判はへスター・プリンの姦通の罪を裁き、相手を白状させようとする裁判だった。裁判中のへスターに近づき、意味ありげにヘスターに目配せをするロジャー、そのとき牧師が急に倒れた。
 ホーソンの緋文字をヴェンダースが映画化。ヴェンダースとしては最初で(今のところ)最後の歴史もの。違和感はあるがそれでも舞台にアメリカを選ぶあたりはヴェンダースらしさか。

 ヴェンダースの退屈さが、マイナスの方に働いてしまったかもしれない。映画自体は紛れもなくヴェンダース。回り道をしながら映像美を足がかりにゆるゆると進んでいくヴェンダースらしさ。映像美と単純に言い尽くせない映像の味をこの映画でもしっかりとこめている。
 この映画が撮られたのは「都会のアリス」から始まるロードムーヴィー3部作(って勝手に呼んでる)の直前。「ゴールキーパーの不安」で評価を得た直後に撮られている。こう考えていくとこの映画がヴェンダースの自由な意思によって撮られたのかということに疑問を感じてしまう。ヴェンダースという監督は結構人に頼まれた仕事をほいほいこなす監督のようで、最近の「ブエナ・ビスタ」しかり、「リスボン物語」しかりである。
 で、この映画がたとえ何らかの商業的な意図のものに作られたものであってもそれがそのまま映画としての価値をうんぬんということにはならないのだけれど、なんとなくこの映画には不自由な感じがしたので、そのようなうがった見方をしてしまうわけです。
 でももしかしたら、何度か見たら好きになっていくような気もする映画なんですね。最近のヴェンダースのパッとみのよさとは違う、退屈なんだけれどなんだかひきつけられる力のようなものがある気がする。「まわり道」あたりが生まれる要素になるようなものが。やはりそれは私がヴェンダースファンだからなのかしら。

河内カルメン

1966年,日本,89分
監督:鈴木清順
原作:今東光
脚本:三木克巳
撮影:峰重義
音楽:小杉太一郎
出演:野川由美子、伊藤るり子、和田浩治、川地民夫、松尾嘉代

 河内の山間の村に住む娘は病弱な父をよそ目に坊主の愛人になる母親に反感を抱きながら日々暮らしていた。そんな彼女は村に嫌気が差し、大阪に出て行くことに決めていた。
 清順が女を武器にしてのし上がっていく女を描いた。映画的にはかなり斬新な手法がつかわれ、清順的世界観を発揮。

 この映画は結構狂っていていい。「すべてが狂っている」ほどに驚愕するものではないけれど、「ふふ」とほくそえみたくなるような作り方。特に終盤はその傾向が強く、ひひじじいが映画を撮影するというときに照明とか、それが終わった後のマンションでのシーンとか、相当めちゃくちゃなことをやりながら、それを清順らしさという言葉で片付けてしまえるような味を出す。
 これがまさに清順的世界という感じなのでしょうね。ぎこちなさと狂気の描き出す美というところでしょうか。
 あとは、展開の速さがかなりいい。清順の映画はそれほど速いという印象はなかったんですが、この映画は相当速い。あっという間に物語が進んでいく。というより過ぎ去っていく。どんどん勝手に転がっていく展開の仕方は60年代らしさなのか、3時間分の物語を90分に無理やり収めたような印象がある映画がおおく、それがまた快感。

散弾銃の男

1961年,日本,84分
監督:鈴木清順
脚本:松浦健郎、石井喜一
撮影:峰重義
音楽:池田正義
出演:二谷英明、南田洋子、小高雄二、芦川いずみ

 山道を走るバス、乗り合わせた若い娘にお酌をさせようとする中年男に散弾銃を突きつけてそれをやめさせた男。男は散弾銃を担ぎ、通りがかりの村人に止められながらもあまり人が行かないという山に入っていく。実はその山はバスに乗り合わせた中年男が製材所を経営している山だった。
 清順映画常連の二谷英明の主演作。場所は日本の山奥だが、いわゆる西部劇。

 これは西部劇なのですね。場所は山、銃は猟銃ではあるけれど、女がいて、バーがあり、決闘がある。分かりやすい悪役と分かりやすいヒーローと分かりにくい悪役がいる。
 ということを加味しつつ考えると、かなり不思議な映画ではあり、パッと見退屈な映画であるようなんだけれど、いろいろと味わい深いという感じ。物語的にも、「なるほどね」「やっぱりね」という展開で、驚きはしないけれど関心はする。つまり全体としてみると崩れず均整を保った映画。細部に入っていけばもちろん不思議な魅力にあふれてはいるのだけれど。
 西部劇ということで基本的に人間の描き方は画一化されているところが清順らしいくずしを拒んだ一つの原因であるのかもしれないと思いながらも、端的な色彩や音楽や映像に清順らしさが垣間見える。たとえば、バーに並べられたビールジョッキの不均一さとか、山奥の酒場には似つかわしくない彩りの構成とか、そういったものです。保とうとする均衡とそれを崩そうとする力とが拮抗する点が清順映画の焦点だと私は思いますが、この映画は少し均衡がわに寄った映画なのではと。私はどちらかというとくずれた側に寄った映画のほうが好き。あるいは狂気の側に。

X-MEN

X-men
2000年,アメリカ,104分
監督:ブライアン・シンガー
脚本:クリストファー・マッカリー、ジョス・ウェドン
撮影:トム・シーゲル
音楽:マイケル・ケイメン
出演:パトリック・スチュワート、イアン・マッケラン、ファムケ・ヤンセン、ジェームズ・マースデン、アンナ・パキン

 第2次大戦中のポーランド、鉄の門を念力で曲げるユダヤ人少年がいた。時は下って、世界中に相当の数のミュータントが存在するようになった世の中、アメリカ上院は、ミュータントの脅威を払拭すべく、ミュータントの登録制度を法制化しようとしていた…
 アメリカの大人気コミックの映画化。もともとのコミックが面白いので、見応えは十分。CGもかなりの頑張り。子供の心で見てあげましょう。

 なんだか、世間的には賛否両論、しかし否の方が多いかな、というくらいの評判ですが、こいつはいいよ。何にも考えていなくて。本当のところ、人種差別がどうとかいう話なんだろうけれど、そんなことはどうでもよく、ただただ闘うミュータント。それがいい。そのほうが逆にその背景にある問題もふっと心にとどまることもあるような気もする。
 何かがすごいというわけでもないけれど、設定としてなんでもありという状況は逆に映画として作りにくい。全知全能の神がいたら、すべては解決してしまって映画として面白くないわけです。だからミュータントも何でもできたら困るので、設定としてそういうスーパーマンなミュータントは出てこない。みんな何か一点だけにすぐれている。そのあたりの設定勝ちというところでしょう。まあ、これはコミックでの蓄積がものを言ったというところですが、それをうまく映画に載せたブライアン・シンガーの腕前もなかなかかも。
 ということで、何はともあれ次が見たい。絶対に2ができると思いますが公開されたら見に行くでしょう。きっと、次のほうが面白そうだし… と思ってしまうのはなぜなのか?

 それにしてもやはり、アメリカのコミックもので、子供とか若者向けに作られているこういう作品はちょっとちゃちい。ミュータントの設定事態はいいんだけれど、全体的なつじつまとか、心理的な動きとか、そういったものがあまりに単純で、世界を単純に割り切りすぎている気がしてしまう。子供には複雑な心理の動きなんか和歌欄だろうという発想で作っているのだろうけれど、ひねた見方をする大人より、むしろ子供にこそ複雑なものを見せなきゃいけないと私は思います。できれば、複雑に作られているんだけれど、単純に見えるもの。そのようなものがいいと思います。

 で、2はやはりできていて、まだ見に行っていませんが、映画館に行くほどではないような気もしてきました。2本立てになったら見に行こうかな…

裸女と拳銃

1957年,日本,88分
監督:鈴木清太郎
原作:鷲尾三郎
脚本:田辺朝巳
撮影:松橋梅夫
音楽:原六朗
出演:水島道太郎、白木マリ、南寿美子、二谷英明、芦田伸介、宍戸錠

 繁華街のキャバレーで、雲隠れした麻薬密売組織のボスらしき人物を見かけた新聞記者とカメラマンの健作。その男は見失ってしまうが、その夜健作はそのキャバレーの踊り子を助け、その踊り子の家にいくことになった。しかし、そこで想像もしていなかった事件がおきる…
 まだ若かりし清順が撮ったサスペンス。ハリウッドのフィルム・ノワールのような雰囲気で展開力のあるドラマという感じ。

 清順にしては素直な映画といっていいのか、主にプロットのほうに趣向が凝らされていて、衝撃的な映像とか、シーンとかがあまりない。しかし、50年代の話としてはかなり現代的な感じがする。
 なんとなく007を連想してしまった理由はよくわからないけれど、なぜか清順の映画の主人公はみなもてる。この映画のさえない顔した水島道太郎でさえもてる。それから小道具がさえてる。この映画はカメラマンということで、いろんなカメラを使ってみる。しかし、あの拳銃型のようなカメラはどうかと。あんなもんつかったら普通は殺されるがな。
 という映画ですが、やはりちょっと映像にこだわってみると、この映画でのポイントはアングルかな。ボーっと見てると、なんとなく過ぎていく映像ですが、なんとなく全体にいいアングルだったという印象がある。清順はクレーンとかをよく使うし、この映画でもクレーンの場面があったっと思いますが、なかったかな… まあ、いいです。 それよりも、この映画のポイントはローアングル。ローアングルといえば、小津安二郎と加藤泰の専売特許のように言われますが、清順のローアングルもなかなかのもの。ローアングルというよりは、至近距離で人を下から撮るという感じ。たとえば座っている人の視線で立っている人を撮るとか、そういうことです。
 そういうアングルで映された人の表情が非常に印象的だったので、こんなことを書いてみましたが、まったくまとまる様子もなく、今日はこのままふらふらと終わります。

すべてが狂ってる

1960年,日本,72分
監督:鈴木清順
原作:一条明
脚本:星川清司
撮影:萩原泉
音楽:三保敬太郎、前田憲男
出演:川地民夫、禰津良子、奈良岡朋子、芦田伸介、吉永小百合

 街でちょっと悪い遊びをし、バーにたむろするハイティーンの若者達、そんな若者達のひとり次郎は母に限りない愛情を持っていたが、日ごろから反感を持っていた母の情夫である南原が理由で家を飛び出してしまう。
 物語としては特別どうということはなく、物語の前半60分は清順らしいと関心はするものの感動というほどではないけれど、最後の10分は息が止まるほど素晴らしい。
 まだまだ新人の吉永小百合もちょい役で出演。

 情夫がどうとか、若者がどうとか、戦後がどうとか、そういった安っぽいメディアにいたるまでありとあらゆるところで語られてきた問題を、あえて取り上げているのだけれど、この映画の本質はそんなところにはない。
 冒頭近くの交差点のシーン、カメラは平然と幹線道路のトラフィックの中に平然ととどまる二人の女を平然と俯瞰からとらえる。その画があまりに平然としていることに戸惑う。日常的ではあるけれど、映画では実現しにくいようなシーンがさりげなくちりばめられる。
 最後の10分になると、そのようなシーンも勢いを増し、それにもまして美しい構図と力強いカメラワークが引き立つ。その最後の10分間の始まりは、敏美がオープンカーの後部座席にうつ伏せで乗り込むシーンだろう。その非日常的な、しかし美しい構図にはっとし、そこから先は目くるめく世界。
 ホテルの一連のシーンはまさに圧巻。見てない人はぜひ見て欲しい。この1シーンに1500円の料金を払ったって惜しくはない。そのくらいのシーンでした。多くは語るまい。アップのものすごい切り返しと、足によって切り取られた三角形と、緊迫したシーンに突如入り込んでくる笑いの要素。見た人はそれですべてが分かるはず。

ザ・カップ 夢のアンテナ

Phorpa
1999年,ブータン=オーストラリア,93分
監督:ケンツェ・ノルブ
脚本:ケンツェ・ノルブ
撮影:ポール・ウォーレン
音楽:ダグラス・ミルズ
出演:ジャムヤン・ロドゥ、ネテン・チョックリン、ウゲン・トップゲン

 インド、ヒマラヤ山麓の僧院。チベットから亡命してきた院長はまた新たにチベットから逃れて来る2人の少年を待ちわびていた。そんな僧院の若い修行僧ウゲンはサッカーのワールドカップに夢中。部屋にはサッカーの写真を張り、僧衣の下にはロナウドのシャツを着ていた。そして夜中にこっそりとサッカーを見るために僧院を抜け出す。
 チベット仏教の高僧が脚本・監督をし、出演者も本当の僧たちというかなり異色な映画。ブータン映画はこれが日本初公開作品となった。

 特にすごいところはないけれど、全体的にすっきりしていて悪くない。役者からカメラまですべてが素人っぽいのだけれど、拙いということではなくて素直な感じ。しかし、2回くらい「クローネンバーグか?」と思わせるシュールな映像もあったりして、なかなか。全体としてはヒマラヤらしいすんだ風景と密教僧特有の僧衣や装飾のきらびやかさが対照的で実に鮮やかな映像となっている。
 などという大部分は自然な映像で、密教僧とワールドカップという面白い組合せを存分に生かし、お話としてはとてもよい。コメディというわけではないけれど、主人公のウゲンはなかなかコミカルで、ほのぼのとした笑いを誘う。サッカー雑誌がどこからやってくるのかが謎だったけれど、そういうことはあまり気にしない。
 2002年のワールドカップでも続編が作られたりするんだろうか… それか、日本サッカー協会推薦らしいので、僧達を招待したりして。で、それを映画にしてみたり。多分大森一樹あたりが(特に理由はないけど、なんとなく撮りそうな気がして…)。それもなかなか面白そう。

ぼくの国、パパの国

East is East
1999年,イギリス,96分
監督:ダミアン・オドネル
原作:アユブ・ハーン=ディン
脚本:アユブ・ハーン=ディン
撮影:ブライアン・テュファーノ
音楽:デボラ・モリソン
出演:オム・プリ、リンダ・バセット、ジョーダン・ルートリッジ、イアン・アスピナル

 1971年、イギリスの小さな町に住むジョージはパキスタンからやってきた移民。イギリス人を妻にして6人の息子と1人の娘に恵まれた。長男ナシムの結婚式の日、父親の決めた結婚に納得のいかないナシムは式場を飛び出し、そのまま姿を消してしまう。父親と残された6人の子供達の戦いは続く…
 移民・人種という問題を意識させつつ、衝突する家族の物語を撮ってみたという感じ。

 なんだか惜しい。面白くなりそうな要素はたくさんあるのに、なんとなくそれが通り過ぎていってしまう感じ。「フード」だってあそこまで固執しておきながらなんとなく描き切れていいない気がする。隣にすんでる壊れためがねをかけた子なんかも、かなりいい味を出しているのにね。
 やはり人種や移民という問題を持ってきて、それを中心に据えてしまったために、父親とパキスタン人コミュニティの関係性とか、その父親の意図と子供達の考え方の違いなんかがどうしても大きな割合を占めてしまうようになる。キャラクターが少し紋切り型過ぎたのか、という気がする。むしろこの映画が終わった時点から、親父が気持ち丸くなった(でも芯の所ではちっとも変わっていない)時点からの話の方が映画としては面白くなりそう。
 映画の中でも親父側のエピソードより子供側のエピソードの方が面白い。隣の女の子とその親友とか、かなりナイスなキャラが盛りだくさん。テレビドラマ化できるくらいかもしれない。「サンフランシスコの空の下」よりは面白いかもしれない。