チャイニーズ・ブッキーを殺した男

The Killing of a Chinese Bookie
1976年,アメリカ,107分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:フレデリック・エルムズ、マイク・フェリス、アル・ルーバン
音楽:ボー・ハーウッド
出演:ベン・ギャザラ、ティモシー・アゴリア・ケリー、シーモア・カッセル、アル・ルーバン

 場末のバーのオーナーコズモはようやく借金を払い終え、店を自分のものとすることが出来た。その勢いで店の踊り子達を連れてカジノへと足を運んだが、そこで大負けし、またも大きな借金を作ってしまった。カジノを経営するマフィアは中国人のおおボスを殺せば借金を解消してやると提案するが…
 カサヴェテスとしては珍しい、起承転結がはっきりとしたストーリーで「グロリア」のような雰囲気をもつ。コズモの微妙な心理の描き方がなんといっても秀逸な一作。

 この映画は完全にコズモの一人称で語られている。しかし、コズモは心理を吐露するようなセリフをはくことはなく、モノローグなんて入れるはずもない。しかし、すべてのシーンがコズモを中心に撮られ、われわれが経験することはコズモの経験以上のものでも以下のものでもない。それでわれわれに伝わってくるコズモの心理はどんな言葉で語られるよりも生々しく心に響く。出番を渋るミスター・ソフィスティケーションと踊り子達と楽屋で語るとき、何も知らない彼らに語りかける彼の複雑な心理は心を打つ。
 そんな彼を追うカメラは相変わらず大胆で、この映画では特に光の加減がかなり不思議。全体的に光量が少なくて、暗い感じの画面になっているだけではなく、ライトの逆光で度々目潰しを喰らったり、光のスペクトルが映り込んだりする。しかししかし、これがなかなかよくて、とくにクラブでコズモが逆行の中シルエットになるところなんていうのは素晴らしい。
 この映画はなんとなく起承転結がはっきりしていて、いわゆるカサヴェテスらしい映画とは違っているように見えるが、本質的には変わっていないと思う。カサヴェテスのどこへ向かうのかわからないストーリーというのをこの映画でもわれわれは感じる。それは、コズモの立場に立った場合で、自分の意志とは関係なくどこかへと流されていってしまうような感覚、と言ってしまうと月並みだが、先にある不安に向かっていくような感覚、がここにも存在している。

カリスマ

2000年,日本,103分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
撮影:林淳一郎
音楽:ゲイリー芦屋
出演:役所広司、池内博之、大杉漣、洞口依子、風吹ジュン

 刑事の藪池は廃墟のような警察署のソファーで毎日のように寝ている。ある日、人質に拳銃を突きつけて立てこもる犯人からのメッセージを受け取り戻ろうとした藪池の背後で銃声が聞こえ、人質は撃ち殺され、突入した警察官によって犯人も殺された。その直後休暇を取った藪池は「どこでもいい」といって人里はなれた森の中で一人車を降りた…
 全体的に荒廃したような印象のある日本のどこかでくたびれた刑事が経験する一本の気を巡る不思議な出来事。理由もわからない恐怖感が全体を覆うある種のサスペンス。

 「無言の人間の怖さ」というものがあるけれどこの映画は全体がそんな怖さに満ちている。誰もが多くを語ろうとはせず、真実を語ろうともしていない。それを最も象徴的に表しているのは大杉漣率いるトラック部隊の謎の隊員達だろう。彼らの怖さがこの映画の怖さであるのだ。
 黒沢清は「すべての映画はホラー映画だ」というほど「怖さ」というものを追及する監督であり、この映画もその一つと考えれば非常に納得はいく。全体の構成が謎解きであるような形をとりながら、結局何も謎は解かれず、恐怖と謎が残ったまま終わるのも、一つの怖さの演出だろう。
 惜しむらくは、なんといってもCGの拙さだろうか。普通の映画に効果的にCGを使うという手法ははやっているし、時には非常に面白いが、この映画で使われるCGは少し安っぽく、あらが見えてしまってよくなかった。

ミッション・トゥー・マーズ

Mission to Mars
2000年,アメリカ,114分
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:ジム・トーマス、グレアム・ヨスト、ジョン・C・トーマス
撮影:スティーヴン・H・ブラム
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ゲイリー・シニーズ、ティム・ロビンス、ドン・チードル、コニー・ニールセン

 2020年、初の有人火星飛行に向かう宇宙飛行士たち。第1陣として出発したマース1の乗組員達は奇妙な山から現れた強靭な力に吸い込まれてしまった。突然消息を絶った飛行士達を心配する宇宙ステーションの飛行士達は…
 火星の謎をサスペンスタッチに描いた作品。物語り全体や、ここのエピソードに出会ってわれわれが期待するよりも全体的にソフトな仕上がりなのはディズニー製作のせいなのか? ファミリー向けSFというところでしょう。

 やはりディズニーが作ると、残酷シーンはなくなるし、火星人も非常に良心的になってしまうし、CGも Bug’s Life と同じになってしまうし、ということなのでしょう。ちょっとあのCG火星人はあまりにちゃち過ぎるんじゃない? と不満たらたら。わざわざ夫婦で宇宙船に乗せるもの「家族愛って大事よ」っていうメッセージを送るための仕掛けなんじゃない? とうがった見方しか出来なくなってしまう。
 山からの「力」に体が吹き飛ばされるシーンも、実際に体がちぎれるというシーンをせっかく入れたのに、そのCG具合が見え見えすぎてちっとも迫力がない。ティム・ロビンスが死ぬところも「あんなもんかー?」という疑問はつきません。やはりファミリー向けなのね。
 文句ばかりが口をつきますが、火星の風景あたりはなかなかうまく出来ていて、特に宇宙空間から火星を見下ろすところなんかはかなりきれい。そのあたりが見所かね。ストーリー的にも全員がいい人なのでどうしても厚みが出にくいのですね。火星人ですら基本的には善意だし、ルークもあっという間に正気に戻っちまうしね。やはりそのあたりがディズニー…(しつこい)

ブルワース

Bulworth
1998年,アメリカ,106分
監督:ウォーレン・ビーティ
脚本:ウォーレン・ビーティ、ジェレミー・ピクサー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ウォーレン・ビーティ、ハリー・ベリー、ドン・チードル、オリヴァー・プラット

 上院議員の再選挙を間近に控えたブルワース上院議員は選挙活動そっちのけで毎日テレビばかり見て、何も食べず、眠りもせずにすごしていた。そんな彼が考えたのは自分の暗殺依頼だった。怖いものがなくなった彼は腹の中の本音をぶちまけ始める。
 ウォーレン・ビーティが監督・脚本・主演したコメディ・ドラマ。振り返ってみるとたいした映画ではないけれど、なんとなく見ているぶんには十分楽しい。パート2とかあってもいいくらいの軽妙さです。

 何も考えずに見られるので、なかなかいいです。政治を舞台にして、人種問題なんかを持ち出してはいるものの結局のところサスペンス・コメディなわけで、それ以上の何かではない。ウォーレン・ビーティーのへたくそなラップが少しずつうまくなっていくのはなかなか面白かった。事件全体のからくりもうまく笑いの要素でこねてあって面白かった。
 ちょっと真面目なことを考えると、政治がらみのコメディが黒人を使うことが多いというのは(「ホワイトハウス狂奏曲」とか)、やはり現在は政治の世界がWASPにある程度支配されているということの反映であるような気がする。だから笑いを作り出すには黒人(しかもWASP階級にどうかしていない黒人)をその世界二歩織り込むことが一番わかりやすいということになる。この映画はそれを裏返してWASPの議員が黒人に「なる」という方法を取ったところが少々新しいのでしょう。
 ということで、なかなか目の付け所のよかったコメディ。ウォーレン・ビーティも捨てたもんじゃない。

リトル・ヴォイス

Little Voice
1998年,イギリス,99分
監督:マーク・ハーマン
原作:ジム・カートライト
脚本:マーク・ハーマン、ジム・カートライト
撮影:アンディ・コリンズ
音楽:ジョン・アルトマン
出演:ジェーン・ホロックス、ユアン・マクレガー、ブレンダ・ブレシン、マイケル・ケイン

  伝書鳩を飼う無口な青年は仕事で行ったとある家で、これまた無口な少女LVに出会う。LVの母親は対照的に派手な性格で、ある日田舎のショーパブでマネージャーをしているレイを家に連れてくる。そしてひょんなことからLVの歌声を聞いたレイがその歌声に驚嘆し彼女を舞台に立たせようと奔走する。
 大ヒットミュージカルを『ブラス!』のマーク・ハーマンが映画化。舞台、役者などなどかなり『ブラス!』と似通っているので、『ブラス!』が気に入った人なら、きっと気に入るはず。

 LVを演じるジェーン・ホロックスはミュージカル版で主役を演じた女優さんで、この映画でもすべての歌を自分で歌っているらしい。そのあたりがかなりすごい。舞台での豹変ぶりなんかが笑い所なわけですから。
 しかし、ストーリーとしてはなんとなく物足りないかなという気もする。それぞれの登場人物はキャラクターがしっかりしていていいのだけれど、関係性のレベルでいまひとつ深さがないというか、LVを動かすための駒に過ぎないような気がしてしまって少々不満。
 結局、すごくイギリス映画らしい映画で、味のあるヒューマンコメディなのでしょう。

トニー・ヒル作品集

1984~93年,イギリス,44分
監督:トニー・ヒル
撮影:トニー・ヒル
出演:キース・アレン、ジェームズ・モーガン、ボニー・ヒル

 イギリスの映像作家トニー・ヒルの短編を集めたオムニバス。
 作品は「車輪の歴史」「ヴュアーを持つ」「時報映像」「ウォーター・ワーク」「拡張映画」「ダウンサイド・アップ」の6本。
 この作品群の特徴は人間と重力の関係の安定性を奪うカメラワーク。カメラを固定する点が重力とはまったく無関係に設定されるので、不思議な空間感覚を味わうことが出来る。

 最初の「車輪の歴史」で車輪に固定されたカメラが出てきてこれがかなり面白い。いってしまえば風景がぐるぐると回るだけだが、そのまったく変化させられて視線というのはなんとなく楽しく新鮮だ。それは他の作品でも継続していくが、より明らかになっていくのは「重力」に対する反抗心。「ウォーター・ワーク」の中で壁を蹴って歩く人なんかは完全に重力(ここでは浮力も)を敵にまわしてがんばっている。
 見て、感じて、それがすべてという感じ。大画面で見ればよりいっそうのトリップ感が得られたと思う。

17歳のカルテ

Girl, Interrupted
1999年,アメリカ,127分
監督:ジェームズ・マンゴールド
原作:スザンナ・ケイセン
脚本:ジェームズ・マンゴールド、リサ・ルーマー、アンナ・ハミルトン=フェラン
撮影:ジャック・グリーン
音楽:マイケル・ダナ
出演:ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー、クレア・デュヴァル、ウーピー・ゴールドバーグ

 ハイスクールを卒業したばかりの少女スザンナは自殺未遂を図り、両親の勧めで精神療養施設クレイモーアに入院することになった。その病棟には若い女性を中心に様々な種類の患者が入院している。スザンナもその患者達と打ち解けたり反目したりしながら、自らの悩みと対面していく。
 実体験を元にスザンナ・ケイセンが書いた原作の映画化に際してウィノナ・ライダーが製作・主演を買って出た作品。女性版「カッコーの巣の上で」と言われてしまうのはいたし方がないところだが、この作品でアカデミー賞を受賞したアンジェリーナ・ジョリーの演技は確かに見応えあり。

 いい映画ではあるけれど、どうしても心のそこから同感は出来ない。特にスザンナには。むしろリサのほうに気持ちが行く。それはアンジェリーナ・ジョリーの演技が素晴らしいからだけではなく、そもそものキャラクター設定の問題なのだろう。入院を一つの経験として(嘘にまみれた)実社会に復帰していくスザンナは結局、それだけなのだ。それに対してリサはといえば、その(病院にまで及んでいる)嘘と無関心に対して徹底的に対抗しようとしている。「精神病もまた個性だ」とまではいわないけれど、精神病を病気として徹底的に押さえつけようとする60年代の精神治療に対して批判的態度を示さないと言うのがどうも引っかかった。
 まあしかし、『カッコーの巣の上で』を考えてみると、ジャック・ニコルソンに当たるのはここではリサなわけで、となるとこの映画もむしろリサ中心に見ていったほうがいいのかもしれないし、そうすれば映画全体がすっきりとしてくる。というような見方をすればかなりいい映画という感じです。
 ということなので、原作に忠実にスザンナを主人公にして描いてしまったところが最大の問題なのかもしれない。
 ウィノナ・ライダーも案外いい演技をしているに、結局のところ主役なのに逆にアンジェリーナ・ジョリーの引き立て役になってしまった。その役割を逆にしてみれば二人とも光を放ったのではないかと思う。

コヨーテ・アグリー

Coyote Ugly
2000年,アメリカ,101分
監督:デヴィッド・マクナリー
脚本:ジーナ・ウェンドコス
撮影:アミール・M・モクリ
音楽:トレヴァー・ホーン
出演:パイパー・ペラーボ、マリア・ベロー、アダム・ガルシア、ジョン・グッドマン

 ニュージャージにすむヴァイオレットはソングライターを目指してNYに上京した。早速空き巣に入られ落ち込んでいるヴァイオレットが入ったカフェでたまたま見かけた元気いっぱいの女の子達がバー「コヨーテ・アグリー」で働いていると聞き、翌日店に押しかけてみることに…
 NYの実在のクラブから着想を得た脚本にヒットメイカーのジェリー・ブラッカイマーがのって実現した映画。監督からキャストにいたるまでほとんどがノーネームの人材ながらかなりの完成度で、気軽に楽しく見られる作品。

 こういう種類のアメリカンドリーム話(恋愛付き)はハリウッド映画のお得意だが、数が多いわりに文句なく面白いものはあまりない。となると「プリティ・ウーマン」的な定評のある有名俳優が出演しているものを見てしまいがち。そんな中で有名な役者といえば、ジョン・グッドマンぐらいで、監督も何も聞いたことないというこの映画はかなりの掘り出し物ということになる。
 何がいいのかといえば、おそらくスピード感。ひっきりなしに流れる音楽というのもいいし、ほとんど止まることがないという印象を与える映像もいい。止まることがないというのはカメラが常に動いているというのもあるし(たとえば、ヴァイオレットと父親が会話する最初のほうの場面では、単なる切り返しなのに、カメラは緩やかにズームインしていた)、1カットが短いということもあるでしょう。後はやはり音楽ですか。屋上でキーボード弾いてるところをクレーン撮影で追うところなど、ちょっと前のMTVのミュージッククリップという感じです。映像が音楽のようにリズムに乗っていて見ているものを引き込む。そのもって生き方が非常にうまいと思います。

 そして、こういったアメリカン・ドリーム話というのは果てることがなく、人気も常にある。広大な田舎とほんの少しの都会、そんな社会状況がこういった物語を次々と生み出す。この映画の主人公の出身地はニュージャージーで別に相遠いわけではない。ニューヨークに通おうと思えば通えないわけではない。しかし、世界的に場所場所間の距離が縮まってきている現代では田舎とはそのようなものでしかないということ。日本ではその状況は特に強まり、ニュージャージというと東京に対する栃木・群馬あたりの感覚だろうか。通勤圏だけれど、そこから東京に出てくる人もやはりたくさんいる。そのような都会の夢というのは逆に都会から田舎へと出て行く人が増える中でも生きているのだなぁと思いました。
 すっかり映画とは関係のない話になってしまいましたが、要するにこの映画のニューヨークというのは田舎の人の視点から見たニューヨークで、それはもちろん日本人の見るニューヨークに近い。すさんだ都会ではあるけれど、知り合ってみればいい人ばかり。実際のところはどうかわからないけれど、イメージとしてはそういうものなのではないかしら。「都会は怖い」と言いはすれ、イメージする材料は自分の経験しかないので、尽きるところ田舎の延長でしかない。本当の経験ではもっともっと予想外のものに出会うんじゃないかという気もします。

 本当に映画とは関係のない話になってしまいましたが、この映画を2度見て、単純な娯楽としてみるその奥を見たら何が見えるか考えてみたら、そのようなことを思いつきました。広げれば「中心-周縁」の文化論見たいなものになるかもしれないので、こういうのも無駄ではないのではなかろうか。

楽園

2000年,日本,90分
監督:萩生田宏治
脚本:萩生田宏治
撮影:田村正毅
音楽:茂野雅道
出演:松尾れい子、荒野真司、谷川信義

 九州あたりのある島で、船大工をするじいさんが一人、孫娘と暮らしている。孫娘シズエはおばさんがやっている町の雑貨屋でアルバイト。そんな島にやってきていた南国風の獅子舞の楽団。スコールにあって最後まで出来なかったその舞台をニコニコしながらみつめていたじいさんに連れられて、船大工の小屋にやってきた獅子舞のリーダーは、気づくとそこにいついてしまっていた。
 不思議にぼんやりと雰囲気のなか、なんとなく進んでいくストーリーが快適。セリフも少なく、表情をクローズアップでとらえたりもしない非常に地味な表現が逆に味わい深い。

 メッセージもストーリーも笑いも涙もないけれど、なんとなくすっと心に染み入るような「いい雰囲気の映画」としか言いようがない。
 特徴としては、ロングショットが多い(というよりはクロース・アップがほとんどない)。セリフが少ない。音が同録っぽい。などということがあり、それは(「ブレアウィッチ」などとは逆の意味で)ドキュメンタリーっぽいつくりなのかな、という感じ。特にカメラとマイクの位置を(おそらく意識的に)同じにしているので、むこう向きの人の声がこもったり、間に遮蔽物があると声が小さくなったりして、それがなかなか場に溶け込んでいるような幻想を抱かせてくれる。 しかし、カメラはほとんど固定で、横や縦に振ることはあっても移動撮影や手持ち撮影といえるようなものはほとんどない。(一箇所だけ気づいたのはシズエと真司が舟の上にねっころがっている場面、波の音が強調され、手持ちカメラを一定のリズムで振ってまるで海の上であるかのような映像を作っていたところ。でもこれはいわゆる手持ちカメラではない。)それがすごく地味な感じと安定感を与えて、音の不安定さと微妙なバランスを保っている。
 というわけで、この映画はなかなかのもの。まさに佳作というのはこういう作品と言いたいところです。田村正毅はやはり現在の日本屈指のカメラマンであることは確かなようです。

弾丸特急ジェット・バス

The Big Bus
1976年,アメリカ,88分
監督:ジェームズ・フローリー
脚本:フレッド・フリーマン、ローレンス・J・コーエン
撮影:ハリー・ストラドリング・Jr
音楽:デヴィッド・シャイア
出演:ジョセフ・ボローニャス、トッカード・チャニング、ネッド・ビーティ、ルネ・オーベルジョノワ

 キティ・バクスターが設計した初の原子力バス・サイクロプスが運行しようというときキティの父カーツ博士のいるサイクロプスの研究所で爆弾騒ぎがあり、2人の操縦士が負傷してしまう。代わりの操縦士としてカーツ博士はキティの元婚約者ダンを指名した。
 最初のナレーションで、様々なパニック・ムーヴィーの一つとして紹介されるこの映画だが、実際はパニック映画の完全なパロディ。
 つまりこの映画はドタバタB級な笑い連発のアクション・SF・パニック・コメディ(何じゃそのジャンル)

 最初のほうはB級な笑いのセンスがなかなかよくて、「もしかしてこれは!」と思わせるのだけれど、結局そのままだらだらと最後までいってしまうので、並みのB級コメディという感じになってしまった。何より設定の部分がテキトーすぎる。爆弾がことごとく意味がないとか、結局石油王の仲間達は何にもしていないとか、その部分もパロディなのだろうけれど、設定の部分までパロってしまうと、何がなんだか脈絡がなくなってしまう。ある意味では「オースティン・パワーズ」に似た感じの設定の作品だが、こう見ると「オースティン・パワーズ」ってのはなかなか優秀なパロディなんだと思ってしまう。
 意外と面白いところがあったのに、それが全体に生きなかったのが残念。バスのじゃまをする親分みたいな人がもっと表面に出てきて対決構造が明らかになったらよかったのに。字幕にはでてなかったですが、なんかおじいさんがタイタニックを沈めた見たいなことを言っていたので、そのあたりの設定は意外と深そうなだけに残念。