ピースメーカー

The Peacemaker
1997年,アメリカ,124分
監督:ミミ・レダー
脚本:マイケル・シファー
撮影:ディートリッヒ・ローマン
音楽:ハンス・ジマー
出演:ジョージ・クルーニー、ニコール・キッドマン、マーセル・ユーレス

 ロシアから解体処理の控えた核弾頭が盗まれた。その調査に当たるのは大統領付きの核兵器密輸対策チームのジュリア・ケリー博士。彼女はロシアの事情に通じた陸軍大佐トーマス・デヴォーとコンビを組むことになったが…
 ERのミミ・レダーがこれまたERのジョージ・クルーニーを使ってドリームワークス製作で撮ったアクション映画。設定にはかなり無理があるが、アクション・シーンなどは躍動感があって悪くない。

 しかし、この設定はかなり無理がある。いくら領空侵犯したからって、ロシアがアメリカのヘリをあんな簡単に撃つか? などという疑問が無数に浮かぶことは確か。まあ、しかしこの映画はかなり展開にスピード感があるので、そんな理不尽さに拘泥しないように見れば、意外と流せてしまうような気もした。
 この映画の一番いい点は、視点の転換だろう。ぽんぽんとカットが飛び、視点がどんどん変わっていく。もちろんそのクライマックスは爆弾を持った犯人を追い詰めていくシーン。車・ヘリ・スナイパー・レーダー・一般人・犯人とめまぐるしく視点が飛ぶ。ただ単に切り替わるのではなく、「飛ぶ」感覚を演出しているところがいい。

くちづけ

1957年,日本,74分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:舟橋和郎
撮影:小原譲治
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、三益愛子、若松健

 拘置所に父親の面会にやってきた欽一は選挙違反で拘留されている父親に「早く出してくれ」と囁かれ、10万円の保釈金を作らなければならなくなった。そんな時、拘置所で同じく父親が拘留されている章子に出会った…
 溝口健二や市川昆の助監督を勤めていた増村保造がはじめて監督をした作品。ヌーベルヴァーグを思わせるスタイルは当時では新鮮だったと思わせる、簡潔な青春ドラマ。

 いま増村的と考えるものとは少し違う。ロングショットが多用されていたりするし、直線的なパースペクティブが重要な場面で利用されていたりする。しかし、これは以後の映画でも所々に見られる手法で、増村の一つの「道具」ではあると思う。この映画では逆にそのような手法が前面に押し出され、「増村的」なものは小道具として利用される。一つの理由はこの映画がスタンダードで撮られていて画面の偏りを利用する構図が利用出来ないことだろう。
 それにしても、ドラマとしてはすごく分かりやすく爽やかな感じ。初期増村の映画はどれもさっぱりとしていて、テンポが速くて、爽快な作品が多いけれど、これもそんな作品でした。スピード感としては「青空娘」や「最高殊勲夫人」には劣るという気がしますが、それはおそらくストーリーがわかりやすいせいでしょう。74分という短さでこれだけのストーリーを展開させてしまうのはやはりかなりのスピード。

 さて、余談ですが、原作者の川口松太郎は川口浩の父親だそうな。共演の野添ひとみは後の川口浩の奥さん。母親役の三益愛子は本当に川口浩のお母さん(要するに松太郎さんの奥さん)というなんだかファミリーな映画なのでした。

ビッグ・トラブル

Big Trouble
1986年,アメリカ,89分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:アンドリュー・バーグマン、ウォーレン・ボーグル
撮影:ビル・バトラー
音楽:ビル・コンティ
出演:ピーター・フォーク、アラン・アーキン、ビヴァリー・タンジェロ、ヴァレリー・カーティン

 保険会社に勤めるレナードには、三つ子の息子たちがいる。しかも三人そろって大学へ進学、妻は三人をどうしてもエール大学に行かせたい。でも、レナードの給料ではとても無理。そんなレナードのところに奇妙な保険の依頼が…
 不思議なテンポで進んでいく、シュールなコメディ映画。まさにこれぞB級!といった味わいで、チープさと思い切りのよさが映画中にあふれている。この映画が気にいらない人は、B級映画とは肌が合わないということでしょう…

 最初の三つ子という設定からして不思議で、さらに音楽の才能があってどうしてもエール大学に行かなきゃならないという動機付けもよくわからない。しかし、映画が始まってしまうと、そんなことに疑問をはさませないスピード感を作り出すだけの才能をカサヴェテスは持っている。
 この映画のB級さ加減はすごくいい。金庫のつくりから、テロリストの登場の仕方まで映画のプロット自体が相当B級だが、それよりもどうにも笑ってしまったのが部長をさらって暗い道で止まり、レナードとスチーブ(この字幕もかなりB級)が歩き回る場面で、明らかに照明が人物を追っているところ。真っ暗な道で、人が動くと明るい部分も動くというなんともチープなつくり。現実に似せようという努力はまったく感じられないところがいい。
 というわけで、B級映画のよさを遺憾なく発揮した作品でした。

バットマン

Batman
1989年,アメリカ,127分
監督:ティム・バートン
原作:ボブ・ケイン
脚本:サム・ハム、ウォーレン・スカーレン
撮影:ロジャー・プラット
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マイケル・キートン、ジャック・ニコルソン、キム・ベイシンガー、ジャック・パランス

 罪を犯したものを罰する正義の味方バットマン。その正体は謎のままだが、そんなバットマンにライバルが現れた。
 有名なアメリカンコミック「バットマン」2度目の映画化。ティム・バートン監督、マイケル・キートンがバットマン、ジャック・ニコルソンがジョーカーと役者はそろったという感じだが、バートン作品としてもいまいち、バットマンとしてもいまいちという作品になってしまった観がある。

 ティム・バートンらしく、全体的に暗いトーンで展開されているところは好感が持てるが、そこはバットマン、正義の味方のお話なのだから、しゃきしゃきとしていないとやはり苦しい。だから娯楽作品バットマンとしても弱いし、バートン色も薄められてしまう。
 バートンとしては、「ビートルジュース」と「シザーハンズ」という2つの代表作の間に撮った作品で、力を抜いたというわけではないだろうが、どうも商業主義的なものに引っ張られてしまったんじゃないかという勘繰りをしてしまう。とことんバートン色を出したらそれはそれで面白い映画になったのかもしれないが、バットマンファンには反感を買うかもしれない。それなりにヒットしたのだから、ある意味では成功なのかもしれないが、純粋に映画としてはなんともという感じがしてしまう、なんとなくバブリーな感じのする映画でした。

黒の超特急

1964年,日本,94分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:増村保造、白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、藤由紀子、船越英二、加東大介

 岡山で細々と不動産業を営む桔梗のところに東京の観光開発会社の社長と名乗る男が儲け話を持ってきた。その男・中江によれば、桔梗の住む町に大きな工場が誘致されるらしい。大金をつかみたい桔梗はその男の話に乗り、地主達を説得するのだが…
 増村としては三作目の「黒」シリーズだが、シリーズとしては11作目(なんと2年ちょっとで)にして最後の作品。金と正義とが複雑に絡み合う社会派サスペンスで、なんといっても田宮二郎の熱演が光る。

 冒頭(タイトルの前)、激しいフレーミングで驚かされる。すごくローアングルだったり、腰の高さだけを切り取ったりという感じ。タイトルが出た後は少々落ち着くので安心。増村らしい構図は健在だが、それほど目に付かず、それよりも(黄金期の)ハリウッド映画を思わせるディープ・フォーカスのパースペクティヴが使われているのが印象的だった。それとローアングルが多い。この二つはおそらくサスペンスドラマとしての劇的効果を狙ってのことだと思う。
 しかし、映画としてはサスペンスというよりはメロドラマという感じで、硬派なドラマさよりは増村らしいウェットな雰囲気を感じる。それは増村ファンとしてはうれしい限りだが、サスペンスとしてはどうなのか? あるいは、完全に増村的ではない(例えば、主人公のキャラクターが他の作品と比べると徹底されていない)ところはどうなのか? などと、増村的なるものといわゆるサスペンスなるものの間で揺れ動いてしまった。

 この「黒」シリーズは基本的にメロドラマ的な要素が強く、サスペンスといいながら、ヒロインとのウェットな関係がいつも物語のスパイスというか、サブプロットというか、主人公のキャラクター作りの一つとして使われている。最終作になっても、増村は自分が作り上げたそのスタイルを守り、シリーズに一貫性を持たせている。そして、この2年間で11作というモーレツな勢いで作られてシリーズは、時代のモーレツさを象徴しているものかも知れなず、シリーズの最後はまさに時代を象徴するものとしての“新幹線”がテーマとなっているのだ。
 60年代は田宮二郎の時代と私は(勝手に)主張するが、その60年代の前半の時代的なものをすべて盛り込んだシリーズがこの「黒」シリーズであったのだと思う。そこには60年代という時代が描きやすい単純な時代の空気を持っていたということも大きく、今となっては時代を象徴するようなシリーズなんてものはどうあがいても作れないだろう。だから私がこの「黒」シリーズを賞賛するのは、自分が生まれていない時代へのノスタルジーでしかないということも言える。
 でも、時代なんてそんなものだとも思うし、ノスタルジーだって悪い面ばかりじゃないんだよといいたい。ハリウッド映画の未来への幻想と、日本映画のノスタルジーと、まったく違うもののようで、行き着くところは夢の世界に浸れる時間という同じものなのかもしれないと、ずいぶん大規模なことを考えてみたりもした。

好色一代男

1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。

クレイマー、クレイマー

Kramer vs. Kramer
1979年,アメリカ,105分
監督:ロバート・ベントン
原作:アヴェリー・コーマン
脚本:ロバート・ベントン
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:ヘンリー・パーセル
出演:ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレキサンダー

 広告代理店でバリバリと働くテッドは大きなプロジェクトを任され、成功の暁には重役への抜擢まで約束され、意気揚々と帰宅した。しかし、妻のジョアンナは子どもを寝かしつけ、荷物をまとめ、テッドに別れを告げようと待ち構えていた。結局テッドはジョアンナを引き止めることが出来ず、息子ビリーとの二人だけの新しい生活が始まった。
 離婚と子どもの養育という問題をハートウォーミングなドラマとして描いた作品。小技が効いていて物語りに入り込みやすいところがなかなかよい。

 良質なドラマではあるが、すごい映画というわけではない。プロットを構成する要素が非常に周到なところはいい。一番印象的で分かりやすいのはなのは「フレンチ・トースト」だけれど、朝のルーティンとか、学校へ送っていくところとか、同じシチュエーションが繰り返されることで、父子の関係性の変化を描くところがかなりうまい。
 メリル・ストリープのほうはある意味ではいい演技をしているのだけれど、ちょっと怖すぎる気がした。喫茶店からのぞいているところなんかはかなり強烈。今にも人を殺しそうなくらいの感じがある。だから、最後に感動的な場面を迎えてもなんとなく説得力がなく感じてしまったのは私だけだろうか。彼女はこの作品でアカデミー賞を受賞して、確かに演技としてはいいけれど、根本的にミスキャストなんじゃないかという気もしてしまった。
 あとは、昨日の「真夜中のカウボーイ」と比べると、非常に素直な映画で、悪く言えば平凡な撮り方しかしていないので、映画としてはそれほどすごくはないということ。このロバート・ベントンという監督もどうも監督よりも脚本家としての才のほうがあるようで、もともとは「俺たちに明日はない」や「スーパーマン」の脚本で有名な人です。

真夜中のカウボーイ

Midnight Cowboy
1969年,アメリカ,113分
監督:ジョン・シュレシンジャー
脚本:ウォルド・ソルト
撮影:アダム・ホレンダー
音楽:ジョン・バリー
出演:ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト、ブレンダ・ヴァッカロ、シルヴィア・マイルズ

 故郷テキサスを後にし、ニューヨークへと向かうジョー。彼はカウボーイスタイルで金持ちの女を引っ掛けて金を稼ごうと考えていた。しかし冷たい群衆の街ニューヨークで彼の計画は思うように進まなかった。そんな彼はある日、バーで足の不自由な小男ラッツォと知り合う。
 60 年代後半の生のアメリカ、二人の名演技、耳に残るテーマ曲、斬新な映像、どれをとっても当時のアメリカ映画の最先端を行っていただろうと思わせるアメリカン・ニュー・シネマの傑作。

 69年という時代、ヨーロッパではヌーベルヴァーグがもてはやされ、アメリカではインディペンデント映画が興隆した時代。ハリウッド映画の斜陽が囁かれはじめた時代。アメリカ社会はこの映画で描かれているような閉塞感に苛まれ、都市の人々の孤独かが進み… などという社会批評が頭をよぎる。リースマンが宣言していた群集の孤独化は間違いなく進んでいたのだろう。
 その「都市の孤独」がこの映画では(意図的に)強調されている。ジョーは故郷でも必ずしもいい思い出ばかりがあるわけではないけれど(過去をはっきりとさせないところもこの映画の秀逸な点の一つであるがこれは余談)、彼が夢を抱えてやってきた都会でであったのはより深い絶望であった。それは顔のない群集であり、行き倒れている人に見向きもしない孤独な人々である。「信用」というものが存在しない社会、そこで見出したラッツォとの友情(と呼んでいいかどうかは微妙)が彼にとってどのような意味を持ったのか? ラッツォのために初老の男を殴るとき、彼の頭によぎったものは何だったのか? そして息絶えてしまったラッツォの頭越しに眺めるフロリダの(街の)風景はどのような印象を彼に与えたのか?
 そこに浮かんでくるのは再び「孤独」。一瞬のかりそめの友情に孤独を忘れた彼が再び直面する孤独。それをどう受け取るかは映画「後」のわれわれの営為だけれど、わたしには永劫回帰する閉塞的な孤独しか浮かんでこなかった。しかし、この映画はそれでよくて、逆に希望にあふれた終わり方をしてしまったら私にとってはなんとも後味の悪い映画になってしまったことだろう。

グリーン・マイル

The Green Mile
1999年,アメリカ,188分
監督:フランク・ダラボン
原作:スティーヴン・キング
脚本:フランク・ダラボン
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:トーマス・ニューマン
出演:トム・ハンクス、デヴィッド・モース、ボニー・ハント、マイケル・クラーク・ダンカン、ハリー・ディーン・スタントン、ゲイリー・シニーズ

 老人ホームで暮らす老人が、一本の映画から60年前1935年の出来事を思い出す。その頃老人は死刑囚監房の看守を勤めていた。そしてある日そこに二人の少女をレイプして殺した巨体の黒人コーフィーが入ってくる。その血なまぐさい犯罪と外見とは裏腹にコーフィーは非常におとなしい男だった。そして彼にはある不思議な力が…
 フランク・タラボンが「ショーシャンクの空に」に続いてスティーヴン・キング作品を映画化。今回は3時間超という長尺。とくに真新しい点はないが、物語としては3時間という時間を感じさせないだけの力はある。

 結局のところ、誰が監督してもこの作品はこの程度の面白さには出来ただろう。この監督のいい点は役者の選択と、あくまで原作を尊重するところだろう。といっても、原作は1巻しか読んでないんですがね… とにかく、スティーヴン・キングの語り口を忠実に再現したという印象。それ以外では、特にメッセージも感じられないし、特筆すべき工夫もない。物語としてもことさら何か意外性があるわけではない。映画としては「ショーシャンク」と比べると格段落ちる。
 この物語はもちろんキリストの原罪と贖罪の物語であって、だからこそコーフィーは死ななきゃならなかったわけだけれど、それならばパーシーを廃人にしてしまったり、ビリーを殺してしまったりしてはいけないような気もする。そのような人たちの罪を背負ってこそキリストなのでは? 私のキリスト理解が間違っているのだろうか? それともこの映画はキリストの物語ではない?などという疑問も生じてしまいます。ポールの長生きすることの解釈もちょっと分かりにくいし、そのあたりの引っかかりがどうしても感動出来なかった理由でしょう。
 やはり、個人的にはスティーヴン・キングは「シャイニング」とか「ミザリー」とか「IT」みたいなおどろおどろしいほうが好き。下手に感動物にしてしまうとなんか落ち着きが悪いですね。ストーリーテラーとして一流ということは分かるけれど、何らかの「ショック」があってこそのスティーヴン・キングであるような気がするので。そういう意味ではこの映画は「ショック」を欠いているのではないかと思うわけです。

2回目の感想

 今回もやはり、キリスト教的善悪二元論というイメージは払拭できませんでした。2人の悪人がいて、他は罪も犯すけど根本的には善人で、その対決という話。しかし、ジョン・コーフィはキリストではないと今回は感じました。奇跡を行う神の使いではあるけれど、小物というか、すべてを背負えるだけの力はないのだという気がしました。それでも映画を見る場面で映写機がの光が後光のように輝くのを見ると、いやでも「神」を意識せずに入られないわけです。死を重要視している点も宗教的なものが感じられるし。

ギプス

2000年,日本,82分
監督:塩田明彦
脚本:堀内玲奈、塩田明彦
撮影:鈴木一博
音楽:ゲイリー芦屋
出演:佐伯日菜子、尾野真千子、山中聡、津田寛治

 アルバイトをしながら平凡な生活を送る和子はある日家の近くでギプスをし、松葉杖をついて歩く美しい女とであった。その女・環になぜか鍵を貰った和子は徐々にその環の魅力にとり憑かれて行く…
 塩田明彦監督がラブ・シネマシリーズの一作として撮った作品なので、ソースはデジタルビデオ。フィルムと比べると粗い画素と淡い色彩が女同士の微妙な関係を美しく怪しく描く。

 やはりこの監督はいいですね。ちょっと全体に自主制作っぽさがあるのは、デジタルビデオだからというわけでは必ずしもないのですが、そこがまたいい。二人の女性も非常に、すごく魅力的で、それだけで映画に引き込まれてしまう。特に二人とも「目」を中心とした表情で演技をしているのがすごく印象的なのです。 物語自体は「偽の」ギプスという発想を置いておけばそれほどものめずらしいものではない「女性同士の微妙な関係」で、関係性の揺れ具合もオーソドックスといっていいでしょう。
 そう、すべてがオーソドックスな感じ、そんな中で登場人物が魅力的であれば映画は非常に魅力的になるし、この映画のポイントとなる「ギプス」という発想の風変わりさがオーソドックスな映画の中で絵的にも物語的にも非常に効果的なスパイスとなっているのだろうということです。そういう意味で、デジタルビデオという方法を取って、全体的に素人っぽさをだしてはいるものの、非常に完成された映画なのでしょう。