2000年,日本,123分
監督:阪本順治
原案:宇野イサム
脚本:阪本順治、宇野イサム
撮影:笠松則通
音楽:coba
出演:藤山直美、豊川悦司、國村隼、牧瀬里穂、内田春菊、佐藤浩市

 昔ながらのクリーニング店で母親といっしょに働く少々アタマの弱い正子と、家を出てスナックで働く妹の由香里。二人はいつも衝突していた。そんなある日、二人の母常子が急死してしまう。その母の通夜の夜、ショックで母の通夜に出席できなかった正子は由香里を殺してしまう。そこから正子の逃亡生活が始まった。
 「どついたるねん」「トカレフ」などで知られる阪本順治監督が藤山直美を主演に撮った笑いに溢れたサスペンス。藤山直美の個性が前面に押し出されていて面白い。

 この映画面白かったのですが、監督の才能というより、出演者たちそしてカメラが素晴らしかった。まあ、それを引き出すのが監督の才能と考えれば阪本順治はすごい監督ということになるのでしょうが、さらっと見てしまうと、藤山直美はいいね。ということになるでしょう。何と言っても役者を見る映画、それぞれの出演者がやはりそれなりにいい個性を出していて、それが混沌とした魅力を編み上げているといった感じでしょうか。物語全編を通して登場する人物が少ないというのも役者の個性を重層的に積み上げる上で非常にいい作り方だと思います。
 もう一ついいのはカメラワーク。映像が斬新だとかいうのではなくて、非常に自然なカメラワーク。ほとんどが人の視線で撮られていて、見る側にまったく違和感を与えない。しかしその裏には相当な苦労があったとうかがわせる。そのようなカメラ。例を二つ上げると、一つは鏡のシーン。おそらく4回か5回鏡が出てきたと思いますが、映画で鏡を使うのは非常に気を使う。とくに、トイレで由香里の幻覚を見るシーン。正子ひとりが映っているところと後にいる由香里が映るところは多分ワンカットで撮られていたと思いますが、そのためには牧瀬里穂が映り込まないようにカメラを移動させなければならないという問題がある。そこがなかなか難しいポイント。もう一つは、由香里が殺されているシーン。かなりのローアングルで、正子の足から横にパンして由香里の死体、再び足を追ってパンして、正子がカメラから遠ざかって全身がカメラに収まる。というなんでもないようでいるけれど、これはかなり計算し尽くされたカメラでしょう。「うまい!」とうなりたくなるところでした。
 という感じです。いい感じの映画ですね。すごく面白いというほどではないけれど、見て損はなかった。

DRUG GARDEN

2000年,日本,89分
監督:広田レオナ
脚本:広田レオナ
音楽:坂井洋一
出演:広田レオナ、吹越満、マーク、クリスティーヌ・ダイコ★、マーガレット、HOSSY

 最初、元ドラッグ常用者のインタビューで始まるこの映画だが、それが終わると雰囲気は一転し、3人のドラァグ・クイーンが登場。
 レオナは夫のフッキー、息子のマーク、3人のドラァグクイーンとシンケンとチル(ともにモデル)と同居生活を送っている。みんなで食べる朝ご飯の席でレイナはパニック・ディスオーダーの発作で倒れてしまった。レオナはトラウマからパニック・ディスオーダーに陥り、8年前から大量の薬を常用しているのだった。
 レオナの物語、ドラァグ・クイーンコンテストを目指す3人、マーク、チル、それぞれの物語が交錯し、みんなの中で何かが変わっていく。
 広田レオナが自らの体験を映画化。シリアスなドラマを斬新な映像で切り取り、ドラァグ・クイーンの笑いの要素をうまくはめ込んだ秀作。

 まず批判。果たして最初と最後のドラッグ常用者のインタビューは必要だったのか? 確かに、これがあればテーマがストレートに伝わるが、そこまで丁寧に説明しなくても、伝わるし、むしろ全体の映画のカラーを乱している印象を受けた。  という点はありますが、全体的にはかなりいい作品でした。この映画ではパニック・ディスオーダーというのは実はそれほど大きなテーマではなくて、むしろドラッグとやはり「人間」一般がテーマになっている。「ドラッグ」の持つ意味や人はなぜドラッグをやるのかということを言葉すくなに語っている。
 かなりさまざまな語り方が出来る映画だが、私が注目したいのは「ドラァグ・クイーン」。この映画に出てきたドラァグ・クイーンは本当に有名なドラァグ・クイーンたちで、本名(ではないか、現実での名前)で映画に出演している。彼ら(彼女ら?)がコンテストに出るというテーマ自体はどうでもよくて(カレンダーにバツをつけて行く映像はかなりいいけれど)、彼らの摩訶不思議な存在がこの映画を成立させている鍵だと思う。これだけ重いテーマを普通の(というとドラァグ・クイーンに失礼か)人たちだけでやってしまうと、深刻になりすぎる。そこにドラァグ・クイーンを入れることで映画全体がファンタジックで面白いものに変わってしまう。それはドラァグ・クイーンがゲイカルチャーの中で演じている役割と同じものであって、それこそがドラァグがドラァグである所以なのだ。
 映像についても語ることが結構ありそうだけれど、別に難解な映像を作り上げているわけではないので、単純に見た感じで「面白い」とか「きれい」だとか言っていればいいような気もする。チルの葬式の場面でひとりひとりを正面から映す過露出の映像はかなりきれいだった。じっと魅入ってしまうような澄んだ美しさだった。他にもサイレント映画風に仕上げたり、フレームを落としてコマ送りのようにしたりとさまざまな工夫が凝らされていて非常によかった。

鳥の歌

Para Recibir el Canto de los Pajaros
1995年,ボリビア,104分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス
撮影:ラウル・ロドリゲス、レルモ・ルイス、セサル・ペレス
音楽:セルヒオ・プルデンシオ
出演:ジェラルディーン・チャップリン、ホルヘ・オルティス、ギド・アルセリ、ネス・エルバス

 ボリビアのある映画製作集団が16世紀のスペイン人の征服を批判的にとらえなおす映画を撮影する。そのため映画製作集団は山奥の村の村長に約束のとりつけ、取材のために村へと入ってゆくのだが、村人たちは非協力的で撮影に協力しようとしない。一方村では祭りの準備が進み、撮影隊はその祭りを撮影したいという希望を持つのだが…
 ウカマウ自身が『コンドルの血』を撮影する際に出会った障害をもとにして、街に住む白人たちと農村に住む先住民たちの価値観の違いを描いた作品。さまざまな「偏見」がモチーフとなっている。
 全体に映像が非常に美しく、詩的な作品に仕上がっている。

 サンヒネス監督はこの作品について、さまざまな人がさまざまな「偏見」を持っているさまを描いたといっていたがまさにその通り。先住民たちのために映画を撮っているという自負を持っている撮影隊が実は先住民たちに対してさまざまな「偏見」あるいは「差別」を持っているということ、それはボリビア社会が抱える大きな問題なのだろう。その中でもさまざまな「偏見」の形があり、例えばプロデューサーは最初から明らかに差別的な態度をとり、監督はかなり理解を示しているように見えるが、実際はなにも理解しておらず、先住民たちに取り囲まれた時についにその差別意識を露呈する。外見的には先住民であるクルーのひとりは「インディオ」と呼ばれたことを侮辱と感じる。
 そのような偏見や差別のいくらかかが解きほぐされ、なくなりはしないけれど和らいでゆく過程。そのクライマックスとしてのインディオからの贈り物の場面。この場面は感動的だ。ヤギや鶏やさまざまな贈り物をもらって喜びとも当惑ともつかない表情をするクルーたち。しかし彼らは贈り物をしっかりと抱いて坂を登ってゆく。最初から最も偏見が少なかったといえるフェルナンドが鳥の歌(先住民の声のメタファーだと思われる)が聞こえるお守りをもらうのは非常に象徴的だ。
 イデオロギー的な面を離れていると、この映画は素晴らしい色彩に溢れている。ウカマウとしては3作目のカラー作品だが、前作の「地下の民」の色彩より更に研ぎ澄まされた色彩感覚が見られる。「地下の民」の仮面のはっとさせられるような色合いが広げられ、全編に塗り込められたようなそんな色彩感。特に祭りに使う鳥の張りぼての色彩は心に残る。そしてやはりアンデスの山麓の村の風景は非常に美しい。おそらく標高4000メートルを越える場所にある村の澄んだ空気感までが伝わってきそうな映像だった。
 そう言えば、中の映画でインディオたちの家を焼き討ちする場面、インディオたちの家が草で出来ていたこともかなり不思議だったが、そこのインディオたちが裸だったのには度肝を抜かれた。あんなとこで裸で暮らしたら凍死するぞ。てなもんだ。このエピソードは映画クルーたちの偏見あるいは無知を象徴するエピソードのひとつなのだろうけれど、かなり不思議なところだった。

コンドルの血

Sangre de Condor
1969年,ボリビア,82分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、オスカル・ソリア
撮影:アントニオ・エギノ
出演:ウカマウ集団、ボリビアの農民たち

 3人の子供を亡くし、それ以後子供も生れなくなってしまったアンデス地方の先住民の村長のイグナシオは、多くの子供が死に、多くの村の女に子供が出来なくなってしまった自体を危ぶみ、周りの村にも調査をする。そこで浮き上がってきたのは、すべての不幸は北米人の診療所ができて以降に起こってきたということだった。
 ボリビアにやってきた北米の「平和部隊」と呼ばれる人々が秘密裏に行っていた不妊手術を告発するウカマウの長編第2作。いたって素朴な映画だが、先住民の共同体の内部が描かれていて非常に興味深い。物語の構成も時間軸に沿っていくのではなく、複雑に入り組み、物事の全貌を明らかにしていく上で非常に巧妙に練られたものであるといえよう。

 まず、イデオロギー的にこれが反米帝国主義映画であることは間違いない。我々がこの映画によって知ることになったこのような事実はもちろん重要なことだが、それだけでは今の我々がこの映画を見る十分な理由にはならないだろう。
 この映画はウカマウの映画の中でもかなりドラマトゥルギーがしっかりとした映画だ。主人公であるイグナシオが撃たれてしまう事件を発端に、それまでの事件の推移と撃たれて以後のイグナシオに起きる事件を平行させて描く。その2つの出来事の推移によって語られることは同じことであり、それはもちろん権力とその奥に潜むアメリカ帝国主義の不正の告発である。
 そしてなによりも、最後にイグナシオの弟パラシオス(村を出て都市化したインディオ、つまり旧来の伝統的文化・共同体的価値観から切り離されて生きているインディオ)が共同体に戻ってたち上がる。このエピソードこそがウカマウが映画を作った動機であり、それはつまり、この映画を見た都市にすむ先住民たちに、「君たちも共同体に帰ってたち上がるんだ!」というメッセージを送っているのだ。
 このメッセージの受け手ではない我々は、この映画がこれだけ力強くメッセージを伝えていることに驚嘆する。そして物語にひき込まれ、そのメッセージに共感している自分を見つめて納得する。映画にはこれだけの力があるんだと。
 映画の持つ「力」、それは『第一の敵』を見た時にも感じたものだが、この映画のほうがより直接的に人々を動員しうる「力」に溢れている。そのような「力」を映画から感じることが出来る。それだけでもこの映画を見る価値があると思う。

追跡者

U.S. Marshals
1998年,アメリカ,131分
監督:スチュアート・ベア-ド
脚本:ジョン・ボーグ
撮影:アンジェイ・バートコウィアク
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:トミー・リー・ジョーンズ、ウェズリー・スナイプス、ロバート・ダウニー・Jr、ジョー・パントリアーノ、イレーヌ・ジャコブ

 ハリソン・フォード主演の「逃亡者」。そこでハリソン・フォードを追ったトミー・リー・ジョーンズが今度は主役。逃げるのはウェズリー・スナイプス。製作総指揮が同じキース・パリッシュとロイ・ハギンズということで、事実上「逃亡者」の続編ということになる。
 ストーリーは、飛行機事故で囚人が脱走。同じ飛行機に乗り合わせたトミー・リー・ジョーンズ扮するサミュエルがその犯人を「追跡」する。設定は前回と同じく「逃亡者」であるマーク・シェルダン(ウェズリー・スナイプス)は無実なんじゃないか? となっている。その奥のからくりは前作ところなりかなりひねってある。
 軽いタッチの作品になって、気持ちよく見られるので良い。これってシリーズ化されるのかな?

 まあ、いいんじゃないかしら。前作と比べると本当に軽い感じになって、さらりと見られる。やはり、「続編」という形をとるとどうしても肩に力が入って失敗するもの。その点ではいいと思う。なんとなく、リーサル・ウェポンみたいにシリーズ化されても行けそうな感じ。
 しかし、それは逆に、映画として何か新鮮味がないということでもあるわけで、組織の中で結束の固い自由な組織を作って、しかし上からは干渉されて、という、まさにリーサル・ウェポンな設定でもそれ。外部から入ってくるのが悪いやつというのも体外予想がつく。事故で囚人が逃げるってのも、「手錠のままの脱獄」以来アメリカのアクション映画の伝統になっているし。
 ハイウッドにこういった軽い感じのアクション映画が必要なのはよくわかる。軽い気持ちで見られるし、見た後で悩むこともないし。娯楽としてはとてもいい。こういう「あー、なんかさらっとビデオでも見たいな」というときに見られるビデオ(しかも見たことがないやつ)をストックしとくと、結構いいかもね。

ミス・ダイヤモンド

Mis. Diamond
1998年,ドイツ,96分
監督:マイケル・カレン
脚本:ヨアキム・ハマン
撮影:ポール・ヴァン・ダー・リンデン
音楽:H・サレット
出演:サンドラ・スパイシャット、ウド・キア、トーマス・クレッチマン、マイケル・メンドル、アーネスト・アメリカ

 最新の機器を使ってスマートにしのび込み、盗みを働くラナはドイツで取れたダイヤモンドを展示する宝石展示会場から見事にダイヤを盗み取った。すぐとらえられてしまったラナだったが、そのダイヤは偽物だった。警備をしていた保険会社からは、本物を差し出せば見逃してやると持ちかけられるのだが…
 ドイツの若手女優サンドラ・スパイシャットが美人怪盗に扮したアクション映画。何はともあれ、リアリティに欠ける。B級映画にすらなりそこねた作品。

 とにかく、リアリティがなさ過ぎる。スタントみえみえ、本人がやってるシーンは迫力がまるでない。設定が不自然過ぎる。
 ということで、いくつか例を上げてみましょう。見た人もほとんどいないと思うので、解説しながら。
 簡単なところでは、ラナが殺し屋に追いかけられるんだけど、まずラナの走り方がおかしい。絶対早くない。なのに殺し屋は追いつかない。殺し屋は途中でやたらと人にぶつかる(これは結構面白かったけどね)。
 それから、カーチェイスのシーン。夜、盗みを終えたラナはポルシェで(ここ重要)逃げる。そして追われるんだけど、追いかけるのは多分オパル。二つの車がスタート。次のシーンは朝のハイウェイ。2台はぴたりとくっついて走っている。(ここですでにおかしい。何で一晩走ってポルシェがオパルを引き離せないのか?)そのまま街中を走り、カーチェイス。ここで魅せばのジャンプシーン。ラナはちゃんと着地。追いかけるティムはトラックのうえに着地、少々あって地面に降りる。でもラナの車はちゃんとそこにいるんだな。早く逃げろよ。
 などなどです。もう少し頑張れば面白いB級映画になったかもしれないのに。もちろん笑えるという意味で。惜しかった。おかしいよと思うところを笑いに結びつければね。それも踏ん切りがつかなかったのか?
 スタッフ、キャストも聞いたことない人ばかり。ウド・キアーはちょいちょい脇役で見るような気もする顔でしたがね。

出来ごころ

1933年,日本,100分
監督:小津安二郎
原案:ジェームス槇
脚本:池田忠雄
撮影:杉本正二郎
出演:坂本武、伏見信子、大日方傳、飯田蝶子、突貫小僧(青木富夫)、谷麗光

 隣同士の喜八と次郎は同じ工場で働き、いっしょにおとめの店でめしを食う。喜八はやもめで息子の富夫と二人暮らし、次郎もひとり身だ。二人は富夫も連れて浪花節を身に行った帰り、分けありげな女に出会う。お調子ものの喜八は宿がないという女をおとめの店に連れていく。その女春江は結局おとめの店で働くことになった。
 少年もので人情ものでメロドラマ。サイレント期の娯楽映画の要素がぎっしり詰まった作品は、テンポよくほのぼのとしてなかなかいい。

 なんてことはない話、なんとなく面白い。サイレント映画なんてほとんど見たことはないし、見る作法もわからないし、飽きちまうんじゃないかと思うけれど、これが意外と見れてしまう。この映画はかなりセリフが出てくる(もちろん文字で)ので、なんかどこか漫画的な、でもしっかりと映画で、不思議な感覚。それもこれもやはりストーリテラーとしての小津の才覚、そして細かいところに気を配る小津の映画術のおかげなのか? といっても、どこがどうすごいといえるほど細部に目がいったわけではなく、ただ人の身振りってのはセリフがないほうがよく見えるとか、そんなことにしか気づきはしなかった。
 でも、他のも見てみたいと思わせるくらいには面白く、富江を演じる伏見信子も色っぽく、突貫小僧も面白い。日本人にとっての原風景といってしまうと陳腐になってしまうけれど、映画に限っていえば「これが原点だ」といってしまえるようなそんな雰囲気のある映画。確かに成瀬やマキノもいるけれど、やっぱり小津かな、そんな気にさせる不思議な魅力でした。

DEAD OR ALIVE 犯罪者

1999年,日本,105分
監督:三池崇史
脚本:龍一朗
撮影:山本英夫
音楽:遠藤浩二
出演:竹内力、哀川翔、田口トモロヲ、大杉漣、杉田かおる、寺島進

 刑事の城島は新宿で起こった2つの殺人事件になにかきな臭いものを感じ、部下の井上と捜査をはじめる。そこに浮上してきたのは帰国した残留孤児たの息子たちのチンピラグループ。中国系マフィアとヤクザが絡み、新宿を舞台とした生きるか死ぬかの大戦争が始まった。
 と、書くとまったくアクション映画ですが。そして確かにアクション映画ですが、この映画の真髄はそこにはない。本当にアクション映画のフリをしながら、あらゆる映画作法を壊して壊すはちゃめちゃさ。「おもしろい」という言い方しか誤解を招かず説明するやり方がない。そんな面白さ。傑作です。

  本当にすごい。まず最初のモザイク上の一連のシーンで圧倒される&笑える。そこから落ち着いて普通のアクション映画になったと思いきや、そこここにちりばめられた笑える効果。しっかりとしたアクション映画なのに、どうしてそんなに笑えるの。ああすごい。しかもばか笑いではなくて、にやりというかなんというか、味のある笑い。バカ映画というのではなくすごい映画。本当にこれは見なきゃわからないね。この面白さは。
 少々冷静に分析すると、何といっても意表を突くすごさがあるでしょう。
 たとえば、車の爆発するシーン。見ていて「ああ、二人は死んじゃうんだろうな」とは思うけれど、そこであの大爆発はねーよな。という驚き。最初でいえば、もちろん撃たれてラーメンが噴出したりと。最後のほうでは、「これでラストシーンてわけか」というセリフ。最後の盛り上がり場の撃ち合いシーンで、なぜか後ろで聞こえる鳥の囀り。そしてもちろんラストシーンは最高です。
 いえば切りのない素晴らしい発想の数々。この映画を見ていない人は人生損しているとは思いませんか? ねえ皆さん。

 この作品はシリーズ化され、3作目まで作られていますが、続編は今ひとつという感じ。そして、三池崇史は驚くほどたくさんの映画を作っていますが、結構当たりはずれが激しいという感じ。この作品のヒットなどもあってすっかり大物監督という感じになってしまったものの、基本的にはVシネのチープさが売りなので、そういう映画のほうが面白い。そういえば、『ゼブラーマン』をまだ見ていないけれど、あれは面白いかもしれない。などと思ったりする。

地下の民

La Nacion Clandestina
1989年,ボリビア,125分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス
撮影:セサル・ペレス
音楽:セフヒオ・プルデンシオ
出演:レナルド・ユフラ、オルランド・ウアンカ、ボリビアの人々

 村を出て街で暮らしていた先住民のセバスチャンは生まれ故郷に戻ることを決意した。理由あって数年前に村を追放された彼は少年時代に見た「死の踊り」を踊って罪滅ぼしをしようと街の仮面職人に、踊りの神の仮面を注文する。
 彼が仮面を背負って村へと向かう道中、彼は自分の反省のさまざまな場面に遭遇する。現在と過去が入り組み、セバスチャンのアイデンティティの危機を描く。果たして彼は先住民としのアイデンティティ再生することができるのだろうか?
 これまでの作品と比べて作風が様変わりし、純粋に映画としてみても素晴らしい作品になっている。ほとんどが1シーン1カットで撮られた物語世界は圧倒的な力を持っている。

 ボリビアならびにペルーの先住民たちを出演者として革命映画を撮ってきたウカマウのこの作品は1960年代初頭から彼らが行ってきた活動の延長にあるのは間違いない。しかしこの映画から彼らの映画のスタイルは大きく変わった。『第一の敵』のような直接的な教育映画ではなく、先住民もまた複雑な問題を抱えた人間であるということにスポットを当て始めた。
 街で働くセバスチャンは子供の頃に村を出て、街の人々のメンタリティを体得してしまった。そこから彼の悲劇が始まり、彼は決して村に戻ることのできない人間となってしまう。
 しかしそこで主張されるのは、「街」というものへの批判だけではなく、街へ出ざるを得ない先住民たちの複雑な状況である。途中で出てくる鉱山労働者との協力といったことからもわかるように、先住民は農村にのみ存在する人間ではなくなっているのだ。そのような状況を無視して農村の先住民たちを教化することだけに力を入れてはいられないということだろう。
 それでもしかし、西洋人に対する批判は痛烈だ。自らを「アンデス人」と語るサンヒネス監督は西洋人の脆弱さを容赦なく暴く。この映画のな化でもっとも象徴的なのは過激派の白人の青年。セバスチャンにポンチョを売ってくれと話すこの青年は西洋人の無知と脆弱さ(特にアンデスという土地での脆弱さ)を象徴している。これはウカマウたちが自己への反省も込めて盛り込んだ人物像だろう。ウカマウたちもまた西洋人でしかなかったということは「コンドルの血」の撮影にまつわるトラブルを自己反省的に映画化した「鳥の歌」によく描かれている。
 この映画の話に戻ると、純粋に映画としてみれば最大の特徴といえる1シーン1カット、これは監督の話によれば「わかりやすく」するためだという。それは一つは出演している先住民たちにとってわかりやすいということを意味し、もう一つには技巧によって複雑になってしまった西欧(アメリカ合衆国とヨーロッパ)の映画と対比しての「わかりやすさ」であるだろう。
 とはいうものの、サウンドの次のシーンへのオーバーラップなどヨーロッパ的な(ゴダール的な?)映画技術の影響も見られることは確かだ。果たして彼らはこれからどのような方向へ進んでいくのか? 彼らなりのオリジナリティをどのように出してゆくのか? そのような楽しみな疑問が次々と沸いてくるウカマウにとっての転換点となる映画だろう。

第一の敵

El Enemigo Principal
1974年,ボリビア,110分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、ウカマウ集団、出演者たち
撮影:エクトル・リオス、ホルヘ・ビグネッティ
出演:ペルーの先住民たち

 フリアンは地主に盗んだ牛を返してくれるよう頼みに行くことを決意した。家族の静止も聞かず、逆に家族を引き連れて地主のところへ直訴しに行ったフリアンだったが、怒った地主に首をはねられてしまう。それに怒った村人たちは地主を捕まえて判事のところへ連れてゆくのだが、判事もまた地主の味方をし、逆に村人たちは捕らえられてしまう。
 そんな村に休息を求めに偶然やってきた反政府ゲリラ。果たして彼らと村人たちが共同し、地主を倒すことができるのか、というのがこの物語の最大のテーマとなる。
 この映画はそもそも先住民(農民)たちの意識を喚起することを目的に作られたため、内容はイデオロギー的で、とっつきにくい。しかし、最初はぎこちなかった農民たちの表情が徐々に活気を帯びてくるのを見れば、映画の持つ力の強さというものが実感でき、何らかのメッセージを受け取れることだろう。

 まったくなじみのない風景にまったくなじみのない人々、画面は白黒で音響も単調。決して楽しいとはいえない重たい物語。農民たちのたどたどしい演技。そんなとっつきづらい要素に溢れていながら、我々は徐々にこの映画に引き込まれていく。それは物語の力なのか?それとも映像の?あるいは登場人物たちの?
 この映画を理解する上でまず考えなくてはならないのは、この映画に登場するゲリラというものが果たすのと同じ役割をこの映画自体が果たすということ。それはつまり農民たちを「意識化」するということ。ゲリラが村にやって来て果たした最も大きな功績は地主を倒したというそのことではなく、村人たちに革命の意識を植え付けたこと。自分たちの窮状の元凶がどこにあるのかをはっきりと認識できたことなのである。だからこそこの映画は「第一の敵」と題されているのだ。そして、この映画はこの映画を見るすべての人民に「第一の敵」が誰であるのかを教える。
 あるいは、教えるのではなくともに学ぶ。先住民たちの言葉で語る(この映画の大部分はペルーの先住民の言葉であるケチュア語で語られる)ことによって、先住民にとって身近な問題であることが実感できる。そのようなものとしてこの映画があるわけだ。
 果たして、このような前提を理解したわれわれがこと映画から受け取るメッセージとは何なのか?
 映画として見れば非常に素朴な作品だが、「語り部」の導入とロングショットの多用という面に、この映画のオリジナリティが感じられる。この作品の十数年後に撮られることになる「地下の民」(明日お届けします)あたりから、かなり作り方が変わり、純粋に映画として語ることも可能になるのだけれど、この作品の時点では、映画としてよりはイデオローグとして情報を効果的に伝えることに重点をおかれている感が強い。それでも、広い荒野を何十人もの村人が地主を引っ立てていくシーンなどはかなり強い印象を残す。
 映画としての評価はその程度ですが、映画がもつ一つの可能性を示すものとして見る価値はある、あるいは見なくてはならない作品なのかもしれません。