ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年,アメリカ,92分
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク
脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・G・デマーコ
音楽:スティーヴン・トラスク
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、マイケル・ピット、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク

 ヘドウィグはロックシンガー。今アメリカでドサまわりのようにしてオリジナル曲を歌っている。生まれは東ベルリン、名はハンセル。米国兵の父と東ドイツ人の母の間に生まれ、母の手一つで育てられた。ある日、米兵に見初められ、結婚を申し込まれた彼だったが、その条件は性転換手術を受けること。しかし、手術は失敗し、股間には1インチが残ってしまう…
 オフ・ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化。ミュージカルでも主演・演出のジョン・キャメロン・ミッチェルがそのまま監督・脚本・主演を努める。

それは今まで見た中で最も感動的な喧嘩のシーンだった。エスカレートするヘドウィグの歌に怒りを募らせ、ついに「このオカマ!」とわめいた一人のデブ(あえて差別的に)。そのデブに向かって思い切り、プロレスラーのように跳躍するバンドメンバー。デブのわめき声からデブが倒されるまでの間の絶妙さ。それは一面では笑いではあるけれど、本質的にはヒューマニックな感動を呼ぶシーンなのだ。だからその後のヘドウィグの長い跳躍シーンはなくてもよかった。飛ぶまではとても美しかったけれど。
 それに限らずこの映画は非常に感動的な映画だ。ヘドウィグの歌う「愛の起源」もとても感動的だし(歌に詠われている神話はギリシャの喜劇作家アリストパネスの話としてプラトンが「饗宴」が伝え、ホモセクシュアルにとっては一種の創世神話的な位置づけがなされる有名な神話である。たとえば、フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの「ガニュメデスの誘拐」p107)、もちろんラスト近くも感動的だ。この映画のすばらしいところはその感動が常に音楽か笑いに裏打ちされているということだ。恣意的な感動を誘おうというドラマではなく、音楽があり、笑いがあり、それで感動がある。そこにはもちろん人間がいて、人生がある。それは肉体をともなっているという印象であり、それはリアルなものと感じられるということでもある。笑いながら、あるいは体でリズムを取りながら感じる感動はただ言葉を聞き、映像を見て感じるだけの感動とは質の違うものとなるのだ。そこをひとつの戦略と言ってしまえばそれまでだが、ヘドウィグのアングリー・インチがそのような肉体的な感動を可能にするダイナモであることは確かだ。
 音楽が最高なのは言うまでもないかもしれない。ロック、グラムロック、パンク、そのあたりをソフトにたどり、大人が眉をひそめるようなものではなく(いまどきなかなか眉をひそめる大人もあまりいないが、映画の世界ではいまだによくある)、わかりやすく、しかし格好いい。映画のプロットに寄与する歌詞とヘドウィグのビジュアルが映画の中で音楽を浮き立たせていることは確かだ。そのように映画を引き立てる、それは逆に映画によって引き立てられているということでもあるけれど、それは映画音楽として最高のものだと思う。おそらくそれはもともとがミュージカルであったということも関係すると思うけど。

探偵マイク・ハマー/俺が掟だ

I, the Jury
1982年,アメリカ,111分
監督:リチャード・T・へフロン
原作:ミッキー・スピレーン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:アンドリュー・ラズロ
音楽:ビル・コンティ
出演:アーマンド・アサンテ、バーバラ・カレラ、アラン・キング

 私立探偵のマイク・ハマーは親友のジャックが殺されたと聞き、現場に駆けつける。ジャックはベトナムでマイクのために片腕を失ったのだった。マイクは犯人を突き止め、復讐をしようと独自の調査を開始する。最初に行き当たったのは「セックス治療」と称してセックスを売り物にするシャーロットだった…
 ミッキー・スピレーンの人気探偵小説の映画かで、この映画以降TVシリーズも作られた作品。あくの強い主人公マイク・ハマーが気に入れば、つぼに入る。

 どうでしょう、この手のアクションは。かなり暗く、激しく、あくの強いドラマで、人もたくさん死ぬ。マイク・ハマー自体10年ぶりくらいに見て、その昔見たのはこれではなく、ステイシー・キーチのTV版だったと気づきました。TV版のほうが当たり前ですが、ソフトで見やすかった気がします。もちろん激しく、エロティックな作品が悪いといっているわけではありませんが、作品全体としてそれが効果的かというとそうでもない。マイク・ハマーという人と、謎解きというメインのライン以外の見せ場として詰め込まれているという印象しかもてない。そこが今ひとつなわけです。
 よかったのはマイク・ハマーのポーカー・フェイスと最後の対決シーンですか。マイク・ハマーのキャラクターはかなりいい。さすがTVシリーズ化されるだけはあるという感じです。
 これだけ書くことが思いつかない映画も珍しいですが、濱マイクとも特に共通点はありません。魚(ハマーは熱帯魚、濱は金魚)を飼っているということくらいでしょうか。

ギター弾きの恋

Sweet and Lowdown
1999年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:フェイ・チャオ
音楽:ディック・ハイマン
出演:ショーン・ペン、サマンサ・モートン、ユマ・サーマン、ウディ・アレン

 ギタリストのエメットはジャンゴ・ラインハルトを除けば、世界で1番うまいと自認し、実際聞くものみなをひきつける腕の持ち主。しかし、酒でステージをすっぽかすことも多く、趣味はねずみを拳銃で撃つことと汽車を眺めることというかなりの変人。そんな変人の生涯をインタビューと再現ドラマで語ろうというドキュメンタリー風伝記。
 感動的なお話で、ショーン・ペンの演技はなかなか。ギターの音もとてもいい。しかし、ウッディ・アレン自身が冒頭に登場し、作りものじみたつくりになっているところがあまり…

 要するにこれは、ドキュメンタリー風ドラマを装った完全なドラマなわけで、映画の構造もウディ・アレンの遊びなわけです。おそらく、ジャズ好きのウディ・アレンが古きよき時代の雰囲気を引っ張り出すために作り出したキャラクター。最初は本当にいたのかと思わせるけれど、徐々にフィクショナルな人物であることがわかるという感じ。
 最後の2人の関係は『カイロの紫のバラ』ににて、なかなかいい。おそらくハティは結婚なんてしていなくて、でもエメットにはそういってしまった。その後の結末がちゃんとついているところは『カイロ…』と違うように思えるけれど、消息不明というところで、いろいろな可能性が考えられる。たとえば、やっぱりハティのところに戻り、ハティと一緒になったとか。
 というラストあたりの感情の機微以外は特に見るものはなく、後は音楽がなかなかいいというくらいのもの。さすがにギター弾きの映画だけあって、ギターの音色には気を使っていて、響き方でエメットのものだとわかるような音の使い方をしていたのが印象的。
 やはり最初からウディ・アレン自身が出てきてしまったのがよくなかったのでしょうか。こんな変なドキュメンタリー風ドラマにしないで、ひとつの架空の人物のドラマとして描けばこんなつまらないことにならなかった気もします。ストーリーテラーとしては一流だけれど、映画作家としてはやはりどうなのかというのが感想になってしまいました。どうも映画に対するスタンスが中途半端で、『カイロ…』の映画に対する哲学的な姿勢はたまたまなのかと思ってしまう。それとも真摯に映画に取り組むことに対するテレがあるのか…

カイロの紫のバラ

The Purple Rose of Cairo
1985年,アメリカ,82分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ディック・ハイマン
出演:ミア・ファロー、ジェフ・ダニエルズ、ダニー・アイエロ、ダイアン・ウィースト

 大恐慌期のアメリカ。シンシアは姉と同じ店でウェイトレスをし、仕事もなくぶらぶらしている夫に邪険にされながら、映画館に熱心に通う。彼女のお気に入りは『カイロの紫のバラ』、ミスを繰り返しウェイトレスをクビになった日、泣きながら映画を見ていると、映画の登場人物が彼女に話しかけてくる。
 ウッディ・アレンのラブ・ロマンス、その独特の世界観は理不尽なのだけれど、破綻をきたさずそこにあり、われわれの心の何かをくすぐる。

 理不尽な映画、誰もがそう感じるだろう。スクリーンから現実に飛び出す人。スクリーンの中に残り、逃げ出してしまったことを何日にも渡って愚痴り続ける出演者たち。登場人物がスクリーンから逃げ出してしまったことをあまり不思議にも思わず受け入れてしまう人々。「そんなはずないだろう」という反論がすぐに口をつく。しかし、映画の中にそんな反論を言い出す人はいない。この反論する人を登場させないところがウディ・アレンの巧妙さだ。普通は、反論する人を登場させ、それがありえるかありえないかが物語のひとつの核になっていく。そうさせないためにウッディ・アレンは反論の芽を摘む。「スクリーンから人が出てきてしまうことはありうべきことなのだ」という了解を無理やり作り出してしまう。映画を見ているわれわれは最初は首肯じ得ないものの、いつしかそれに従わざるを得ないことに気付く。ストーリーはどんどん展開していくから、それがありえないんだという主張を映画に対して投げかける余地はなく、その疑問はいつしか気にならなくなってくる。このあたりが巧妙だと思う。この映画にはスクリーンと現実の世界の間に何らかのルールが存在し、登場人物たちはみなそれを了解している。それはもちろん彼らみながスクリーン上の夢の存在に過ぎないからだ。見ている側にそのルールは説明されていないが、聞く暇がない以上、そのルールを受け入れて映画を見るしかない。そのルールが受け入れられないと、この映画は恐ろしくつまらない映画になってしまう。だからウッディ・アレンは見ている人たちがそのルールを受け入れざるを得ないように巧妙に映画を組み立てているのだ。
 そのルールをわれわれが受け入れるということは、自分自身をシンシアと同じ立場におくということにも通じる。劇中劇を見ていたシンシアのようにわたしたちはこの映画を見ている。その二重性(あるいは三重性)もこの映画の作戦のひとつだ。ゴダールが『女と男のいる舗道』で『裁かるるジャンヌ』を引き合いに出したように、映画の中で映画を上映することで観客が存在している空間を映画の中の空間と不可分なものとする。この観客が存在している空間と映画の中の空間のつながりをファンタジックに描いたのがこの映画だ。この映画は『キートンの探偵学入門』と対比されることがあり(『キートン…』のほうはバスター・キートンがスクリーンの中に入り込む)、それと比べて「笑えない」という評価がされることが多いようだ。しかし、キートンのそれは映画の中の世界と現実の世界との断絶を笑いにしているの対して、ウッディ・アレンのそれはその境界の不明確さを笑いにしているのだから、この二つは似て非なるものだと思う。
 意地の悪い見方をすれば、確かにゴダールの域にも、キートンの域にも達していない映画となるのだろうけれど、わたしはこのようなあいまいな空間に見るものを引き込む映画は感覚的にわかりやすくていいと思う。映画の中のファンタジーと現実の関係性を包む映画全体がファンタジーであるという関係性が、この映画とわれわれにとっての現実との関係性の鏡像であるという感覚。ファンタジックに表現するならば、この映画を見ているわれわれを見ている観客がまた存在しているかもしれないということ。あるいは、劇中劇の役者が言っていたように、映画こそが現実で、われわれのいる世界こそが幻影なのかもしれないということ。そのような可能性が感覚として伝わってくるというのがこの映画の最もすばらしい点だと思う。
 わたしはこれをウッディ・アレンの最高傑作に推したい。ダニー・アイエロも好き。

悪魔のいけにえ

The Texas Chainswa Massacre
1974年,アメリカ,84分
監督:トビー・フーパー
脚本:トビー・フーパー、キム・ヘンケル
撮影:ダニエル・パール
音楽:ウェイン・ベル、トビー・フーパー
出演:マリリン・バーンズ、ガンナー・ハンセン、エド・ニール

 墓から死体が掘り起こされるという事件が相次いだテキサスのある街。フランクリン兄妹とそのともだちは、祖父の墓の安全を確認しつつ、今は廃屋となっている昔住んだ家を訪れようと計画していた。途中、気の狂ったハイカーを乗せ、ガソリンスタンドではガソリンがないといわれ、それでもとりあえず家にたどり着いた…
 実際に起きた事件をもとに、ホラー映画界の伝説的な一本が生まれた。衝撃的な内容と演出はこれ以降のホラー映画に多大な影響を与えた。

 「ホラー映画なんて…」とか「ホラー映画は嫌い」という前に、この映画は見なくてはならない。もちろん怖い、神経に障る、非常にいらだたしい映画。しかし、それは同時にこの映画がすごいということでもある。観客の心理をそれだけ操作する映画。しかも、血飛沫が飛び散ったり、グロテスクなシーンがあったりするわけではない。人が殺されるシーンでも、切られるシーンでも、首が飛んだりすることはない。それにしてこの恐ろしさ。それは緻密に計算された画面の構成、音楽の利用の仕方。惨劇のシーンを直接見せるのではなく、そのシーンを直視したものを映すことによって、その衝撃を伝えるというやり方が、非常に効果的。
 最初の殺人シーンはでは、何かありそうでいながらも、彼らの心情に合わせるかのように淡々と日常を切り取っていく。しかし、最初の殺人、そしてその痙攣(死ぬ人が痙攣するというのは映画史上初だという話もある)の後、カメラも音楽もいかにもホラー映画という調子に変わっていく。そのあたりの転調も見事だし、その変わる部分のシークエンスが最高。ちょっとネタばれになりますが、最初の殺人が起きるシーンには全く音楽が使われておらず、しかもロングショットで起きるというアンチクライマックス。その不意をつく見せ方がすばらしい。
 そして、後半の叫び声。これはかなり神経に来る。これだけ徹底的にやるのは本当にすごいと思う。チェーンソーとか、ハンマーとか、即物的なものに恐怖があると思われがちだけれど、この映画で一番恐ろしいのはこの叫び声だと思う。見ているものの心をつかんで引っ掻き回すような叫び声。このシーンにもう映像はいらないのかもしれない。彼らが何をやっていても、ただひたすら続く叫び声でその恐ろしさがあらわされてしまう。だから彼らが何をやっていてもあまり関係ない。そしてその叫び声がやむ瞬間、映画は新たに展開し、その終わり方もまたすばらしい。なんともいえない終わり方というのでしょうか。すべてが終わったとはわかるけれど、どこかに残る後味の悪さ。という感じです。
 怖いです、とても怖いです。最後まで見られないかもしれません。しかし、それはこの映画が面白いということの証明でもあるのです。現在も映画監督たちはこの映画を見て、その魅力にとりつかれ、引用を繰り返す。それほどまでにすごい映画。なのです。

 逃げ出す瞬間に感じる美しさは、それまでの不安感が一因にある。単純なくらい画面から明るい画面への転換、夜明けの空の美しさだけに還元できない心理的な美しさ。脳に直接突き刺さるかのような叫び声がやんだ瞬間に無意識に生まれる安堵感が、その画を「美しい」と感じさせる一因になっていると思う。
 つまり、この美しさは映画の文脈を離れては味わうことのできない美しさであるということ。しかもその原因がすぐには意識に上ってこないというのも面白い。ただ「美しい」と感じたとき、その原因は画面の美しさにあると感じる。しかし、仮にそのカットだけを見せられたときにそれほどの美しさを感じるかといえば、そんなことは無いように思える。

マジェスティック

The Majestic
2001年,アメリカ,152分
監督:フランク・ダラボン
脚本:フランク・ダラボン
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:マーク・アイシャム
出演:ジム・キャリー、マーティン・ランドー、ローリー・ホールデン、アマンダ・デトマー

 第二次大戦直後のハリウッド脚本家のピーターは自分の作品が映画化され、その主演女優は自分の恋人とこれから順風満帆な人生が待ち受けていると思っていた。しかし、当時ハリウッドを席巻していた赤狩りの標的になってしまう。まったく身に覚えのなかった彼だったが、逃れられない運命を悟り、あてもなく車を走らせて事故を起こしてしまう…
 『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』という感動作を撮ったフランク・ダラボンがオリジナル脚本で挑む意欲作。ジム・キャリーはすっかりシリアスな役が似合うようになってしまった。

 いわゆる感動作ですが、どうでしょう。ストーリーはなかなか。予想の範囲は出ませんがまあよくできているという感じです。
 いいと思ったのは脇役の使い方。特に「マジェスティック」の人々はとてもいいキャラクターを持っている。タラボン監督というのは脇役の作り方、使い方がうまい人なのかもしれない。それも一人重要な脇役を配するというのではなく、何人も脇役を作ることで、主役を食うほどのキャラクターは生まれないというのがいいのかもしれません。
 ひとつどうかなと思ったのは、今頃、このように赤狩りを批判的に描き、それに立ち向かった(フィクショナルな)ヒーローを描くということはどうなのかと思います。過去を顧みる意味ではいいけれど、こんなに正々堂々と自分は正義の代弁者だというスタンスを取るのはどうなんだと思ってしまいました。
 時代による価値観の違いを見つめることはしないで、今の価値観から過去を無批判に評価しているように見えてしまう。そのような一面的なものの見方はその視線を現代に向けたときに大きな問題を生む危険があるような気がします。現代の多様な価値観もどこか一点から見てしまいはしないかという危惧。
 そんな勝手な推量からこの映画を批判するのもなんなので、批判はしませんが、「ちょっと臆面なさ過ぎるんじゃないの?」と感じたということです。まあ、あくまで娯楽作品なので、それほど小難しく考えることはないかと思いますがね。

おしゃれ泥棒

How to Steal a Million
1966年,アメリカ,126分
監督:ウィリアム・ワイラー
原作:ジョージ・ブラッドショウ
脚本:ハリー・カーニッツ
撮影:チャールズ・ラング
音楽:ジョニー・ウィリアムズ
出演:オードリー・ヘップバーン、ピーター・オトゥール、ヒュー・グリフィス、シャルル・ボワイエ

 オークションに出品されたセザンヌの名画、実はその持ち主ボネ氏は娘と2人で暮らす屋敷の屋根裏で日々贋作を作り続ける贋作者だった。そんなボネ氏が娘の反対を押し切って先代の作った「ビーナス」の彫像を展覧会に出品することにした。その展覧会が始まった日の夜、ボネ家に泥棒が忍び込む…
 パリを舞台にオードリーの活躍を巨匠ウィリアム・ワイラーが撮ったロマンティック・コメディ。間違いなく名作です。

 やっぱり、オードリーなのですよ。ウィリアム・ワイラーはすごいかもしれません。ジバンシーも素敵かもしれません。でもやっぱりオードリーなのですよ。どんなにすごい人たちでも引き立て役にしてしまうのがきっとオードリーなのですよ。この映画のオードリーはなんといってもサングラスですね。特徴的な大きな目を隠す大きなサングラス、これですね。そのサングラスをはずすと顔の半分くらいもありそうな大きな目。吸い込まれそうな目ですね(なんだか淀川長治のような文体になっていますが、気にしないように)。『昼下がりの情事』の時にはチェロでした。それが今回はサングラス。クレジットにジバンシーの名前が出ていましたが、あのサングラスもやっぱりジバンシーなのでしょう。そのあたりはあまり詳しくありませんが、今も『おしゃれ泥棒』モデルとして売られていることでしょう。それくらい魅力的なオードリーのサングラスでした。
 とはいってもサングラスだけで映画が作れるわけではありません。この映画の作りはかなり周到です。コメディとしてジャンルわけされる映画ですが実際のところ「謎解き」というか「気になる展開」が大きなウェイトを占めています。このダルモットという男は何者なのか、お父さんは捕まってしまうのか、ビーナスはどうなるのかなどなど。このように複数の「謎」があることで映画が展開力を持ちます(「展開力」というのはわたしが勝手に言っている用語ですが、要するに観客に先の展開を気にさせる力のことですね)。このような展開力のある映画は観客に受け入れられやすく、「面白かった」となりやすい。これはいいことですね。
 さて、この映画で一番よかったところといえば、クローゼットの一連のシーンですね。「鍵を動かすとき、角のところはどうしたんだ!」などという細かい疑問はありますが、あの狭い空間を表現するのにほぼ一つのフレームだけを使い、その固定されたフレームで十分なドラマを描く。それはかなりいいです。時間とともに変わっていく2人の間の緊張感と距離感がとてもよい。あの場面をもっとじっくり撮ってもよかったんじゃないかと思ってしまいます。
 そういえばひとつ不思議に思ったのは、オードリーの作品にヨーロッパが舞台のものが多いのは何故か?ということです。オードリーは(確か)ヨーロッパ系なので、それが理由といってしまってもいいのですが、何かそこに当時のアメリカ人のヨーロッパに対するイメージのようなものが見えてくるのかもしれないとも思いました。アメリカ人にとってオードリーとはある種のヨーロッパの鏡像であるというと大げさですが、アメリカ人にしてみると、オードリーはなんだかヨーロッパな香りなのでしょうかね?

市民ケーン

Citizen Kane
1941年,アメリカ,120分
監督:オーソン・ウェルズ
脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ
撮影:グレッグ・トーランド
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、エヴェレット・スローン

 フロリダに建てられた他に類を見ない豪邸ヴァロワ邸。そこで孤独のうちに死んだ元新聞王のチャールズ・F・ケーン。彼が臨終の際に残した「ローズバッド」という言葉。その言葉の謎を解こうと新聞社は生前の彼を知っていた人たちを訪ねてまわる。そこから経ち現れた新聞王の姿とは…
 斬新な手法とスキャンダラスな制作背景が話題を呼び、オーソン・ウェルズの名を不動のものとした作品。そのドラマと手法のすばらしさから現在でも名作の一つに数えられる。

 まずは、ドラマを見てみましょう。最初の長いニュース映画のプロローグ。この長さが尋常ではないことは確かです。そしてこのニュース映画が謎解きの大きなヒントにもなっている。「ソリ」というのが頭にインプットされてしまってみると、その複線のおき方はかなりあからさまです。そして始まる「ローズバッド」の謎解き。その謎解き自体はいわゆるサスペンス映画とか、推理もののようにはらはらするものではありません。しかし面白いのは、それぞれの証言者の語り口と再現ドラマ。オペラハウスの場面が全く同じ編集で2度繰り返されるというのもなかなか面白かった。
 さて、ドラマ自体はそれほどことさらに傑作というものではない。つくりは斬新だけれど、今見てもはらはらどきどきというほどに洗練されているわけではない。ということは、この映画が名作とされるゆえんはやはりその手法にあるのか?ということになります。
 一番よく言われるのは「パンフォーカス」。これはつまり、手前にある被写体と奥にある被写体の両方にピントがあっている状態で、奥行きのある画面でも、手前のものと奥のものの両方がくっきりと見えるということ。マニュアルのカメラなどを持っている人はわかると思いますが、そのためには絞りをゆるくする必要があるわけで、それはつまり光量がかなりないといけないということ。それはつまり、スタジオで撮る場合膨大な証明が必要となるということです。
 そんな技術的な話はさておいて、画面上でそのパンフォーカスがどのような効果を生むかというと、想像に難くないことすが、手前と奥で同時に2つの出来事を展開することができるということです。 ビデオカメラではかなり簡単にできてしまうので、テレビを見慣れてしまったわれわれには特に目新しいものでもなく、この映画を見ていても気づかずにすっと通り過ぎてしまうことが多いかと思います。
 このパンフォーカスにしても、激しい仰角のアングルにしろ、いろいろ言われていることもあって、それほど驚きはないものの、それが以外に自然に映画の中に取り込まれていることがすごい。斬新な手法を(実際はそれほど斬新でもないのですが)斬新なものとしてではなく、映画を作る一つのピースに過ぎないものとして扱うところにこの映画のスケールの大きさを感じました。それはつまり、ドラマと手法が分かちがたいものとしてひとつになっているということ。だから、そのそれぞれはことさらに傑作というものではなくても、それがあいまってすばらしいものになるということ。

トレーニング・デイ

Traning Day
2001年,アメリカ,122分
監督:アントワーン・フークア
脚本:デヴィッド・エアー
撮影:マウロ・フィオーレ
音楽:マーク・シンシーナ
出演:デンゼル・ワシントン、イーサン・ホーク、スコット・グレン、エヴァ・メンデス

 麻薬捜査課に転任して初出勤の日の朝、ジェイクはチームのリーダーであるアロンソにダイナーに呼び出された。とっつきにくそうなそのベテラン刑事は犯罪者たちが恐れる伝説的な刑事だった。彼の型破りなやり方に最初は戸惑い、反発するジェイクだったが、徐々に彼には逆らえないことに気づいていくのだった…
 デンゼル・ワシントンが強烈なキャラクターでアカデミー主演男優賞を獲得。主演二人の演技なくしては持たない映画だったことは確かだろう。

 アロンソが繰り返し言うジェイクの「目」。その「目」がすばらしかったというわけではないけれど、そのようにアロンソが言った後、ジェイクの目をしっかりとアップで捉えるその描き方は役者の演技にすべてをゆだねているということだろう。イーサン・ホークがそのような「目」を演じることができるという確信。そのような確信を持たなければ、そこに素直なアップを持ってくることはできないはずだ。
 同様にデンゼル・ワシントンにもセリフ以外のことを語らせる。ジェイクが踏み込んだそのベットルームで見せるアロンソの無表情な顔。その全く感情のこもっていない冷静な無表情さをデンゼル・ワシントンが演じられるからこそそこには無表情が存在する。その無表情さの奥に秘められたアロンソの作戦をその表情からわからせられると確信したからこそ、その場面は全く無表情に進められるのだろう。
 果たしてその監督の確信は半ば正しかった。そのような控えめな演出で役者は生き、映画は救われた。これがもしCGゴテゴテのマトリックス風の映画だったならばとても見れるものではなかっただろう。ましてやアカデミー賞など…という感じ。
 結局のところ、デンゼル・ワシントン自身はいつもと変わらぬ好演をしていて、それを強調する演出をする監督にめぐり合えたということでしょう。ある意味ではこの監督はソダーバーグのような、役者のいいとこ引き出し型の監督であると思います。
 最大の問題点は脚本でしょうか。前半はなかなか面白いのですが、物語が転換したあたりからはぐずぐずずるずるの偶然に頼ったつじつま合わせのやわなスリラーになってしまう。メッセージ性も特にない。脚本がよければ作品賞も夢じゃなかった?
 そういえば、ブラックミュージック界の大物たちがたくさん出ていました。一番目だったのはメイシー・グレイですが、他にもドクター・ドレイとスヌープ・ドッグが出ています。ブラックミュージック好きの人は探して楽しみましょう。

フローレス

Flawless
1999年,アメリカ,111分
監督:ジョエル・シューマカー
脚本:ジョエル・シューマカー
撮影:デクラン・クイン
音楽:ブルース・ロバーツ
出演:ロバート・デ・ニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ミラー、クリス・バウアー

 もと警官のウォルトの住む安ホテルで銃声が聞こえた。現場に駆けつけようと拳銃を手にして部屋を出たウォルトだったが途中の階段で倒れてしまう。意を取り戻した彼を待っていたのは、脳卒中で半身不随という診断だった。リハビリに歌うことを勧められた彼は上の階に住むドラァグ・クウィーンのラスティにレッスンを頼むことを思いつく。
 ちょっととらえどころのない風変わりなドラマ。コメディなのか、アクションなのか、ヒューマンドラマなのか…

 この映画はたぶんヒットしていない。それはこの映画があまりに普通すぎるから。ギャングとかいった設定も月並みだし、ドラァグ・クウィーンが出てくるというのも珍しくはないという映画的な普通さに加え、登場人物たちがあまりに人間的過ぎるという日常的な普通さ。
 普通、ハリウッド映画というのは人物をステレオタイプに押し込み、設定をわかりやすくした上でドラマを展開していく。この映画もぱっと見では、マッチョなもと警官が障害を負うことで、弱い人たち(主に女性的な人たち)のことが見えてくるという設定であるように見える。そのような反マッチョの象徴的な存在であるドラァグ・クウィーンと徐々に打ち解けていくこと、それに対して元同僚の警官たちとは徐々に反目していくということ。そのような展開になりそうだ。
 しかし実際は必ずしもそうではなく、元同僚たちとドラァグ・クウィーンが一緒にパーティをしていたりする。彼らは完全にステレオタイプな人間たちではないのだ。もちろん日常的にはステレオタイプではない人間のほうが普通であるのだけれど。
 しかも最終的に彼を救うのはドラァグ・クウィーンではなく「本物の」女性だ。そのあたりのわかりにくさというのがとても不思議だ。撃たれて負傷するのではなくて、現場に向かう途中に脳卒中で倒れるという設定も不思議だ。
 つまりハリウッド映画の文法に乗るのか乗らないのかはっきりしないところがどうもわかりにくい理由だろう。