おいしい生活

Small Time Crooks
2000年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ
出演:ウディ・アレン、トレイシー・ウルマン、ヒュー・グラント、エレイン・メイ

 レイは銀行強盗に失敗して2年間服役していた、今はうだつのあがらない皿洗いの初老と男。そんなレイが奥さんのフレンチーにチョコレートを買って帰る。何か裏があるとフレンチーが勘ぐったとおり、レイはさえない二人の仲間と銀行の2軒隣の空き家を買い取ってトンネルを掘るという計画を立てていたのだった。しぶしぶ計画に乗ったフレンチーはカモフラージュのためクッキー屋さんをはじめたが…
 ウディ・アレンとドリーム・ワークスが組んだメジャー向けドタバタ・コメディ。癖がなくなった分、いいところもいやなところもなくなってしまった感じ。

 この映画でいいところは小ネタのみ。ウディ・アレンがベチャベチャとしゃべるところは、ウディ・アレンらしさもあり、癖もあり、悪くない。それほど笑えるところがあるわけではないけれど、「ああ、ウディ・アレンを見ているんだ」という気になる。しかし、全体的に見ると、ウディ・アレンは普通の人になりすぎたと思う。ちょっと変わり者で、頭の足りない、初老の男。そんな薄いキャラクターでは映画も締まらない。
 それより何より、この映画でしょうもないのは物語。毒もなく、味もなく、感動もなく、意味もない。結局のところ貧乏人が小金をもうけて金持ちの振りしたってそんな金は身につかない。貧乏人は貧乏人らしくしてりゃいいんだと言っていると解釈したくなるようなお粗末な物語。貧乏人が金持ちに近づこうとすることで、金持ちを批判しようとするのかと思いきやそうでもなく、金持ちは金持ちで、いやなやつだけど別に悪い人ではないといいたいようだ。ひとつ言っているといってもいいことは「金持ちは孤独だ」ということくらい。だからどうした、それがなんだ。
 金持ちが貧乏人を馬鹿にして、貧乏人は馬鹿にされたまま終わる。貧乏人は金持ちになりきれなくて、貧乏人であることに満足して終わる。結局何の波風も立たず、状態は保存され、いたずらに時が過ぎただけ。
 何でウディ・アレンはこんなしょうもない映画を撮ってしまったのか。私はウディ・アレンはあまり好きではないけれど、彼なりのスタイルがあることは認めるし、それを好む人がいることも認める。私の好みにはあわないというだけ。でも、この映画はそんなアレンらしさもなく、ドリームワークスに寄りかかって、端っこで小さく自分の芸を見せているだけに見える。

M:I-2

Mission: Impossible 2
2000年,アメリカ,124分
監督:ジョン・ウー
原作:ブルース・ゲラー
脚本:ロバート・タウン
撮影:ジェフリー・L・キンボール
音楽:BT、ハンス・ジマー
出演:トム・クルーズ、ダグレー・スコット、タンディ・ニュートン、ヴィング・レームズ

 バケーション中のイーサン・ハントのもとに、ヘリがやってきて、新たな指令が伝えられた。それは偽装された飛行機事故によって盗み出された新しい病原菌を奪い返すというもの。そのパートナーとして、腕のいい女泥棒ナイアを指名してきた。早速彼女を見つけ、接触を図るイーサンだったが…
 トム・クルーズ製作・主演の『M:I』シリーズ2作目は、香港映画の雄ジョン・ウーが監督、ジョン・ウーらしく2丁拳銃にワイヤー・アクション満載の痛快ハリウッド映画になっている。

 ジョン・ウーはすごいですねえ。ハリウッドにどっぷりつかっているのか、ハリウッドをおちょくっているのかわからないですが、ハリウッドに来て、ハリウッドよりハリウッドなハリウッド映画を作ってしまう。あるいは自分をもパロディ化した映画のパロディのパロディ映画なのか。とにかく「なんじゃそりゃ」というコメントしかできない映画。映画の最初から最後まで「なんじゃそりゃ」のオンパレード。これをすごいといわずになんという。面白いと思うかどうかは個人の好み。ある意味最後まで目をはなせない。
 ジョン・ウー的にすごいのは、自分の十八番(おはこ)2丁拳銃、ワイヤーアクション、そして鳩をすべてズガンと入れてしまったこと。ワイヤーアクションはどうもさえない。鳩はなかなかいい。2丁拳銃は…ただ銃を両手に持っているだけ。
 ハリウッド的にすごいのは、ハリウッド映画にありがちな先の先まで読めてしまうその筋立てがスパイ映画に適用されてしまっていること。敵のアジトから逃げるとき、なぜ急にバイクに乗った警備員が、しかも2人、しかもバイクは黒と赤、形も違う、が登場するのか… それはもちろんトムが乗り、もう一台には… この臆面ない過剰サービスがものすごい。
 スローモーションの過剰さもすごい。私はここで以前から『マトリックス』以後のアクション映画の過剰さについて語っていますが、この映画のジョン・ウーの作り方はそれらの過剰さとは別の方向に向きながら、やはり過剰さを前面に押し出しているところが面白い。『マトリックス』以後の過剰さを支える一つの要素であるワイヤー・アクションを以前から使っている監督であるにもかかわらず、そこでは勝負せずに、他の部分で勝負し、しかしそこでやはり過剰な演出をする。そのあたりがジョン・ウーのすごいところなのではないかと思います。
 この『M:I』シリーズはトム・クルーズのイメージ・ビデオという評判が高いですが、この「2」をみて、ジョン・ウーはそれを逆手にとって、トム君をだましているんじゃないかと思います。トム・クルーズをかっこよく見せる演出であるとトム・クルーズを納得させながら、映画を見るとそうでもない。「かっこいいだろ」光線が出すぎてかっこ悪い。この映画を見てまず感じるのは「トム・クルーズの背が低くない!」ということで、それはきっとそこまで気を使ってのキャスティング。そのやりすぎなところ(また過剰さ)を見るにつけ、逆にトムは道化にされてしまっているという印象も受けます。
 最後のエンドロールに香港映画ばりのNG集があれば、その疑惑は私の中で確信に変わったのですが、残念ながらNG集はなし。ジョン・ウーはやろうと思ったけれど、プロデューサーのトムに止められたという筋書きであることを私は望みます。

ファストフード・ファストウーマン

Fast Food Fast Woman
2000年,アメリカ=フランス=イタリア,98分
監督:アモス・コレック
脚本:アモス・コレック
撮影:ジャン=マルク・ファーブル
音楽:デヴィッド・カルボナーラ
出演:アンナ・トムソン、ジェイミー・ハリス、オースティン・ペンドルトン、ルイーズ・ラサー

 ダイナーでウェイトレスとして働くベラはまもなく35歳、突然道路に寝てみたり、バスタオルをアパートの下に住むホームレスに投げたりとちょっと変わったところがある。ボーイフレンドのジョージは20歳も年上で妻と子持ちで、いつまでたっても離婚しようとしない。
 ブルノは母親に預けていた自分の子とその弟を押し付けられててんてこ舞い。そんなベラやブルノやダイナーの常連たちが繰り広げる群像劇。

 こういう不思議なテイストの映画は好き。行き着く先というか、目的というか、おとしどころがよくわからない。
 群像劇には特に多いけれど、いろいろなケースを描いていくことでなんとなく一つのテーマ的なものが浮き上がってくる感じ。そしてそのそれぞれの登場人物が微妙に絡んでいく。この映画も断片でできていて、それぞれの断片が絡み合っていることは確かだけれど、そこから何かテーマ的なものが浮き上がってくるかと思うと、そうでもない。抽象的には「愛」ということ、しかも若くはない人たちの。明らかなのはそれくらいで、それ以上のことは断片ごとの面白さということになる。
 のぞき部屋の女ワンダの面白さ。のぞき部屋自体の面白さ。一つ一つの台詞回しのたどたどしさというか、伝わりにくさの面白さ。そのあたりがこの映画の魅力であって、ストレートに気持ちを表現したりしないところも面白い。このあたりがいいと思うのはおそらくそれがアメリカ的(ハリウッド的)ではないからだろう。ハリウッドのわかりやすさとは違うわかりにくさがある映画を私は愛してしまいます。
 アメリカを舞台にしていながら、イギリス英語を話すブルノが主人公のひとりとなっているのも示唆的なのかもしれません。ハリウッド映画も好きですがね。
 あとは、細かいところを見ていくと、なかなか面白いところはいろいろあります。

昼下りの情事

Love in the Afternoon
1957年,アメリカ,134分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー
撮影:ウィリアム・C・メラー
音楽:フランツ・ワックスマン
出演:オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー、モーリス・シャヴァリエ

 パリで浮気調査をする私立探偵のシャヴァス、旅先から戻ってきた夫に結果を報告すると、夫はその相手の男を殺そうとピストルを持って出て行く。それを聞いていた私立探偵の娘アリアンヌは殺されそうな男フラナガン氏の身を案じ、ホテルや警察に電話するがとりあってくれない。そこで直接ホテルに行くことにするが…
 パリを舞台に繰り広げられるオードリー&ワイルダーのラブ・コメディ。オーソドックスな作りながら、オードリーの魅力が際立つ一作。

 なんといってもオードリー。そもそもオードリーなので、画面にいればそれだけで華やかなのだけれど、この映画はその輝きがさらにいっそう増している感じ。そのあたりがワイルダーのうまさなのか。ワイルダーは職人的にオードリーの魅力を引き出していく。
 まずチェリストという設定がとてもよい。細身のオードリーに大きなチェロケースを持たせる。そしてチェリストといえば、ロングスカートかパンツルック。特にパンツのスタイルがとても新鮮でいい。ショートカットにパンツルック。なるほどね。
 というわけでどこを切ってもオードリーなわけですよ。あとは脇役のミシェルと「夫」と楽団がなかなかいいキャラクターで、この脇役たちによって物語全体が面白くなっているという気はしますが、それもやはり結局はオードリーに行き着くわけです。
 そして、オードリーで一番すごいと思うのはやはりその表情。フラナガン氏と会っているとき、気丈なふりをして話すその表情。そして、大きな目からは心の中の呟きがこぼれ落ちそう。
 というわけで、2時間強の間私の目にはオードリーしか入ってこず、映画の感想といわれてもオードリーのことしかかけないわけです。オードリーがすばらしいのか、ワイルダーがうまいのか。両方だとは思いますが、ワイルダーの役者の生かし方のうまさは今で言えばソダーバーグに通じるものがあると思います。念入りに舞台装置を組み立てて、いかに役者を生かすかということを常に考えている。そんな気がします。それが一番端的に出ているのはこの映画ではチェロだと思いますね。

 あと興味を魅かれるところといえば、パリの風景。フラナガン氏が滞在しているのがリッツホテルの14号室で、映画もそのリッツホテルを覗き込むシャヴァスのモノローグから始まり、リッツホテルを中心に展開されるといってもいい。今から見れば少し昔のパリの風景は、いまも「憧れ」の対象であるのだと思った。

第七天国

Seventh Heaven
1927年,アメリカ,119分
監督:フランク・ボーゼージ
原作:オースティン・ストロング
脚本:ベンジャミン・グレイザー
撮影:アーネスト・パーマー、J・A・ヴァレンタイン
音楽:エルノ・ラペー
出演:ジャネット・ゲイナー、チャールズ・ファレル、ベン・バード、デヴィッド・バトラー

 パリの貧民街で暮らすディアンヌは酒飲みの姉に鞭打たれ、こき使われていた。そんな二人のところに金持ちの叔父が外国から帰ってくるという便りが来る。精一杯におしゃれして待つ二人だったが… 一方、チコは地下の下水で働きながら地上に出て道路清掃人になることを夢見て崩れ落ちそうなアパートの天井裏に暮らしていた。
 この二人が出会い、展開される愛の物語。サイレント映画というよりは動く絵本。とにかくメロメロのメロドラマ。主演のジャネット・ゲイナーは第1回アカデミー賞の主演女優賞を受賞。

 わかりやすくお涙頂戴。当時の現代版の御伽噺で、「シンデレラ」とか「白雪姫」とかいうレベルのお話です。しかも、キャプションがたびたび挟まれ、趣としては動く絵本。サイレント映画を娯楽として突き詰めていくとたどり着くひとつの形という気がする。
 今回は後にオリジナル・ピアノがつけられた英語版(日本語字幕なし)で見ましたが、サイレント映画を見るといつも、今の映画環境に増して映画というものが一期一会だったのだと実感します。完全に無音だったり、弁士が入ったり、オケがついたりする。これだけ見方うと、ひとつの同じ映画だと言い切ってしまうのは無理があると思えるほどだ。ピアノが単純なBGMではなくて、たとえばこの映画で重要な時計のベルに合わせてピアノを鳴らしたりするのを聞くと、「これがあるとないとではこのシーンの印象はずいぶん変わるなあ」と思ったりする。しかし、どんな見方をしてもこれはひとつの映画で、映像以外の部分は見方の違いに過ぎないのだ。だから、いろいろな見方で見てみるのも面白いと思う。たとえば、小津の『生まれてはみたけれど』を弁士つきと完全に無音の2つの見方で見たことがあるけれど、それはなんだか違うもののような気がした。私は完全に無音の方が好きだったけれど、本来は弁士つきのような見方が一般的だったのかもしれない。
 この一期一会というのはサイレントに限ることではない。今では映画本体は変化しなくなったものの、上映する劇場の設備やサイズによってその印象は違ってくる。もちろんビデオで見る場合などはまったく違うものかもしれない。それにともにそこに居合わせた観客、隣に座っている人なども映画の印象を変えてしまう。
 何の話をしてるんだ? という感じですが、何度も同じ映画を見てもいいよということをいいたいのかもしれません。
 とにかく映画に話を戻して、この映画でかなり印象的なのは画面の色味がカットによって変わること。最初の青っぽい画面から、ディエンヌの家に入ったときにオレンジっぽい画面になる。この2種類の色味がカットによって使い分けられるのが面白い。1シーンでもカットの変わり目で色が変わるところがあったりして、結構効果的。この作品は音が出なかったり、色がつけられなかったりする難点(と監督は考えている)克服しようという工夫がかなり凝らされた作品。サイレント/白黒なりの表現形態を模索したものとは違い、トーキー/カラーに近づこうと努力している映画といえる。この移行期にのみ発想できたこの色の使い方はなかなか気に入りました。

マップ・オブ・ザ・ワールド

A Map of the World
1999年,アメリカ,126分
監督:スコット・エリオット
原作:ジェーン・ハミルトン
脚本:ピーター・ヘッジズ、ポリー・プラット
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:パット・メセニー
出演:シガーニー・ウィーヴァー、ジュリアン・ムーア、デヴィッド・ストラザーン、クロエ・セヴィニー

 アメリカのごく普通の田舎町で牧場を営むハワードのところに嫁に来たアリス。地域の学校で保険の教師をやりながら夫と二人の娘とごく普通の生活を送っていた。夏休みに入り、それまで迷惑をかけっぱなしだった親友のテレサの二人の子を預かったアリスだったが、ちょっと目を話した隙に下の子リジーがいなくなってしまった…
 誰にでも起こりうるような出来事を描いてベストセラーとなった小説の映画化。監督のエリオットはこれが初監督作品。

 話としてはよくわかるのだけれど、脚本というかプロットの組み立て方がなんとなく違和感がある。それは確実なひとつの物語があるにもかかわらず、それを組み立てるそれそれのエピソードがどうも散漫だから。エピソード自体を見せるような映画ならば散漫でも一向に構わないのだけれど、この映画のようにすっと筋が通ったメッセージ色の強い映画の場合、散漫な印象派物語全体をぼやかしてしまう恐れがある。
 それぞれのエピソードが散漫な印象になるのは、それが全体のプロットの中でどのような役割を果たすものなのかが判然としないからだろう。たとえば刑務所でのけんかのエピソードなどは、いったいなんでこんなものが挿入されたのかよくわからない。
 しかもそれぞれのエピソードが同じようなバランスで描かれていて、重点が見えてこないというのもある。一つ一つの舞台の話が同じくらいの分量であるので、どれが重要なのかわからなくなってしまう。
 考えてみると、これはベストセラーを原作に持つ映画にありがちなことであるような気もする。ベストセラーを映画化するとなると、あまり原作から離れすぎてもいけない。しかし、忠実に再現するには映画の2時間という時間は短かすぎる。そこで多くの場合、重要なあるいは面白いエピソードだけをピックアップして、それをつなげることで、全体のトーンは原作のままを維持しながらコンパクトにまとめるという方法が取られる。この映画はそんなやり方が今ひとつうまくいかなかった例だろう。
 メッセージとか、問題意識とかは今のアメリカの社会ではとても重要なことで、しかも世間の風潮に流されずに強く生きるという点で啓蒙的ではあるけれど、それと映画の面白さは別ということですかね。やはり。

ビューティフル・マインド

A Beautiful Mind
2001年,アメリカ,134分
監督:ロン・ハワード
原作:シルヴィア・ネイサー
脚本:アキヴァ・ゴールズマン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ラッセル・クロウ、エド・ハリス、ジェニファー・コネリー、アダム・ゴールドバーグ

 プリンストン大学に入学した天才数学者のジョン・ナッシュ。人付き合いの苦手な彼はルームメートのチャールズを最初は避けるが、チャールズの人柄もあって徐々に打ち解けてゆく。しかし彼の頭の中にあるのは「独特な、斬新な、この世のすべてを支配する心理」を見つけることだった。しかし、彼の奇異な行動は人々の笑いの種になり…
 実在の高名な数学者ジョン・ナッシュを描いた伝記小説の映画化。ドリームワークスの中ではちょっと毛色の変わった作品を撮るロン・ハワードらしい作品といっていいだろう。

 予備知識なしに、1回見れば非常に面白い。しかし、2度目に見たらどうなのかという気はする。物語のからくりと、ジョン・ナッシュという人間の面白さがこの映画の眼目だから、からくりがわかってしまった2度目には1度目ほどの面白さは味わえないと思う。まあ、でも2度目はいけるかな。からくりを知った上で見る2度目はまだ面白いかもしれません。いかにうまくからくりが隠されているかを観察するのが面白いかもしれない。見てない人には何のことやらさっぱりわからないと思いますが、ネタばれ厳禁なのでそのまま押し切ります。
 これはつまり、この映画の面白さはあくまで物語にあるということ。一つ一つしっかりと組み立てられた物語であるだけに、2時間長に時間も一気に見せてしまう面白さがあります。この辺はドリームワークス作品に共通して見られる要素かもしれない。それは徹底的なエンターテインメント。ハートウォーミングな感動作でも、そこにあるのは哲学ではなく、娯楽。2時間、あるいは2時間超の時間、観客を別世界に引き込むことができる力。それは「ドリーム・ワークス」という社名にも現れていること。
 そんなことを考えていると、この物語自体、かなりドリーム・ワークス的なものかも知れない。現実の生活に「夢」を埋め込む作業、それがドリーム・ワークスの仕事だとするならば、このジョン・ナッシュは…(ネタばれ防止)
 確かに、これがアカデミー賞? という気はしますが、振り返ってみればアカデミー賞とは芸術的な映画やメッセージ性の強い映画ではなく感動できる娯楽作品に贈られてきたもの。だから、この映画はまさにアカデミー賞にふさわしい。「名作」といえる作品ではないけれど、今のハリウッドに典型的な作品といっていいでしょう。もちろんこの映画から何らかの「哲学」を読み取ることはできます。しかし、それはあくまで可能だというだけで、作り手としては映画を見ている間、その世界に没頭してくれればいいという考えで映画を作っているような気がします。そこから自分の現実にひきつけて哲学したい人はご自由にどうぞという感じ。
 私はちょっと考えてみました。ジョンが暗号を解読するシーンで。CGを使って浮き上がってくる文字を見ながら、確かにアイデアが浮かぶ時ってこうだよな。と。視覚というのは非常に選択的で、すぐ隣にあるものでも見たくないときには見ないでいることができる。特に物語に集中しているときはそうだなと。それは、いわゆる現実とは違っている。つまり、すべてのものが平等にものである世界とは違う選択的な世界である。何が現実で、何が非現実であるかなんてそんな程度の問題だと私は思います。そこに線を引くことすらナンセンスだと。

ヴァージン・スーサイズ

The Virgin Sucides
1999年,アメリカ,98分
監督:ソフィア・コッポラ
原作:ジェフリー・ユージェニデス
脚本:ソフィア・コッポラ
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:エア
出演:キルステン・ダンスト、ジェームズ・ウッズ、キャスリン・ターナー、ジョナサン・タッカー、ジョシュ・ハーネット、マイケル・パレ

 70年代、アメリカ。美女ばかりがそろったリスボン家の5人姉妹。その姉妹に異変が起きたのは末娘のセシリアの自殺未遂からだった。かみそりで腕を切ったシシリアは一命を取り留めるが、リスボン家には不穏な空気が流れる。もともとしつけに厳しかった両親は、娘たちをあまり外に出さなくなり、秘密めいた雰囲気が流れた。
 フランシス・フォード・コッポラの娘ソフィア・コッポラの監督デビュー作。役者としてはいまいちだったソフィアも、監督としてはなかなか。コッポラファミリーは生まれながらに映画に対する感性を持っているのかもしれない。

 なんとなくいい。未熟な断片が折り重なって、そこに秘められたメッセージも、見え隠れするプロットも、思わせぶりなだけで何かそこに確実なものがあるわけではないとわかっていながら、そこに何かある気がしてしまう。
 たとえば、ユニコーン。ほんの1カット、1秒あるかないかのカットに映ったユニコーンが抱えるメッセージは何なのか? そこでユニコーンが映ることによって生まれる解釈はそれが現実ではない夢物語であるということ。
 姉妹と時をすごしたかつての少年が回想する姉妹の物語、同じときを過ごした当時から空想を重ねた少年の記憶は、主観性を失う。ひとりの少年の視点から一貫して語られるのではなく、さまざまな視点が混在するのはおかしい。
 現実と空想が、正気と狂気が入り混じる空間で語られたことは何一つとして確実ではない。だからこの映画にはとらえどころがなく、しかし空想や狂気の世界とは、甘美そのものであるから、この映画は甘美である。
 テレビ・レポーターという現実世界の陳腐な表象。この陳腐さはそれが現実ではないことを立証しているかのようである。唐突に現れ、繰り返し現れるというのもなんだか現実感がない。
 振り返ってみるとこの映画のすべてが現実感を持っていない。
 死とは甘美なものかもしれない。
 この映画の映像の断片やひとつの台詞や一片の音楽が心に引っかかってくるのはその一つ一つが甘美なものだからだろう。一人一人の人間が持つ甘美な空想世界。その空想世界と重なり合う世界がこの映画の中に断片として含まれている。だからその断片に出会ったとき、その甘美さが心に引っかかる。
 13歳の女の子ではなくっても、13歳の女の子と甘美さの一片を共有することはできる。それがこの映画が成功した秘密だと思う。そしてソフィア・コッポラにはそのように断片を積み重ねることができるセンスがあるということ。

ゴーストワールド

Ghoat World
2001年,アメリカ,111分
監督:テリー・ズウィコフ
原作:ダニエル・クロウズ
脚本:ダニエル・クロウズ、テリー・ズウィコフ
撮影:アフォンソ・ビアト
音楽:デヴィッド・キティ
出演:ゾーラ・バーチ、スカーレット・ヨハンソン、スティーヴ・ブシェミ、ブラッド・レンフロ

 イーニドとレベッカの仲良し二人も高校を卒業。しかし、他の仲間とはなじめない変わりものの二人組みは。卒業した後も変わらずふらふらしていた。そんななか、レベッカはコーヒーショップに勤め、まともな道を歩み始めるが、イーニドはいたずらで引っ掛けた男イーモアのことが気になってしまう…
 アメリカで人気のコミックの映画化。他のティーンズ・ムーヴィーとは一線を画した独特の雰囲気がとてもいい。スティーヴ・ブシェミを起用したのもかなり効果的。

 このビジョンはとてもいい。イーニドはとてもいい。これがアメリカの10代の女の子に受けるというのがどういうことが考えてみる。アメリカのティーンズといえば典型的に言えば「ビバヒル」の世界に憧れるというイメージがある。それは他のいわゆるティーンズ・ムーヴィーを見てもそう。しかし、もちろん実態はそんな華やかなものではなく、憧れは憧れだ。しかししかし、もちろんみんながみんなそれに憧れているわけではない。それには気づくのだけれど、映画の世界では真面目少女のように例外として描かれていても、本当はみんなと同じ憧れを持っているという描かれ方をすることも多い。
 そんな映画的環境の中で、完全に例外であるイーニドはとても魅力的だ。型どおりのティーンズたちから見ればクィアなやつに過ぎないけれど、そのものの見方には非常な強さがあり、ゆるぎない自己というか、揺らぎはするけれども決してプライドと自信は失わないという力を持っている。
 男は誰もがレベッカのほうに声をかけるということ。イーニドがシーモアの魅力に気づき、彼を想うようになること。この対比がイーニドと他の世界との隔絶を表しているのだろう。その壁を壊すのか、越えるのか、それとも壁のこちら側にとどまるのか。壁を壊すには自分の中のさまざまなことを犠牲にしなければならず、壁を越えようとすれば、向こう側にはそれを邪魔する人たちがいる。一緒に壁のこちら側にとどまってくれる仲間を求めても、それはなかなか見つからない。いたずらやとっぴな行動で時々壁に小さな穴を穿つだけ。
 そのように描かれるイーニドは私にはすごく魅力的なキャラクターにうつる。イーニドにとってシーモアがヒーローであるように、イーニドを尊敬できるヒロインと見よう。
 映画はといえば、細部へのこだわりが非常に伝わってくる。それはキャラクターと映画空間のつくりへの気の使い方の表れなのだろう。イーニドの部屋の一つ一つの小物と、とても病院とは思えないつくりの「Hospital」と書かれた病院。それら、違和感を生じさせるものどもがこの世界を形作る不可欠な要素である。そのひとつひとつのものへのこだわりがとてもよい。

ジキル博士とハイド氏

Dr. Jekyll and Mr. Hyde
1941年,アメリカ,114分
監督:ヴィクター・フレミング
原作:ロバート・ルイス・スティーヴンソン
脚本:ジョン・リー・メイヒン
撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ
音楽:フランツ・ワックスマン
出演:スペンサー・トレイシー、イングリッド・バーグマン、ラナ・ターナー、ドナルド・クリスプ

 高名な医師のジキル博士は教会で見かけた狂人を友人の医師ジョンのもとに連れて行く。博士はその男を自分の研究の実験材料に最適だと考え、ジョンにそれを伝えるが、彼はそれは倫理的に許されないとして拒否する。あくる日、婚約者とともに出席した晩餐会の席上で自分の理論を夢物語だといわれた博士は自分の体で実験することを決意する。
 『ジキル博士とハイド氏』3度目の映画化。スペンサー・トレイシーとイングリッド・バーグマンを主役に据え、ハリウッドらしい華やかな雰囲気に。

 つくりはいかにもハリウッドらしく、主登場人物の2人の女性も美しく、スペンサー・トレイシーもなかなか骨太の演技を見せるので、言うことはないのですが、やはり60年まえだからなのか、戦争中だからなのか、どうしてもちゃちい印象は否めない。変身シーンの特撮(?)が稚拙なのは仕方がないにしても、普通の場面の背景などが書割丸出しなのはなんだか残念。いわゆるハリウッド黄金時代だったなら、あんなちゃちな書割は使わなかったんだろうな… と考えてみる。
 それはさておきこのお話、これを見るまではもっとSF的な話だと思っていたんですが、意外に倫理的な話だった。二重人格といった神経的な話ではなくて、もっと理性的な話。ジキル博士とハイド氏は人格はひとつで、性質と外見が違う。外見が違うのに、人格が2つというのはかなり不思議なものだという気がしました。同じ人とは言えないにしても、ずっと記憶を保っているし、ひとつの人格であることは間違いない。