ミリオン・ダラーホテル

The Million Doller Hotel
2000年,アメリカ,122分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原案:ボノ
脚本:ニコラス・クライン
撮影:フェドン・パパマイケル
音楽:ボノジョン・ハッセル、ダニエル・ライワ、ブライアン・イーノ
出演:ジェレミー・デイヴィス、ミラ・ジョヴォヴィッチ、メル・ギブソン、ピーター・ストーメア、アマンダ・プラマー

 ロサンゼルスのダウンタウンに立つおんぼろホテル「ミリオンダラー・ホテル」。その屋上から飛び降りるトムトムは振り返る。2週間前、エロイーズに恋をしたことから人生は変わったと。そのホテルは奇妙な人ばかりが暮らすただの安ホテルだった。しかし、2週間前、トムトムの親友イジーが屋根から飛び降りたことでFBI捜査官がやってきて、住人たちはその事件に巻き込まれていった。
U2のボノがプロデュースし、ヴェンダースが監督。ロードムーヴィの巨匠からさまざまな方向性を試みたヴェンダースが1件のホテルの中のみに舞台を限定して描いた不思議なドラマ。

 やはりヴェンダースはすごいと思う。ロード・ムーヴィーを捨て、世間の酷評にもまけず、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」で復活を遂げたヴェンダース。しかし、「ブエナ・ビスタ」はヴェンダースファンにはとても満足のいく作品ではなかったはずだ。そこにはヴェンダースらしさは存在せず、ライ・クーダーの作品を職人的にこなす姿しかなかった。私が望んでいたのは、「夢のはてまでも」のような煮え切らないヴェンダースらしさであって、あんな爽やかな語り部としてのヴェンダースではなかった。
 ヴェンダースがすごいのは、そんな「ブエナ・ビスタ」のヒットから一転、再びらしさを取り戻し、煮え切らない空間をそこにつむぎだしたこと。ボノのプロデュースという話を聞いて、「ブエナ・ビスタ」の二の舞かと心配したが、逆にヴェンダースはすべてのヴェンダース像を覆すような作品を作り出した。ロードムーヴィーとも違う、ドキュメンタリーとも違う、「ベルリン天使の詩」とも違う、そんな作品。これこそが私が望んでいたヴェンダースらしさなのだ。見ているものすべての期待を裏切り、映画であることを拒否するような姿勢。その姿勢こそがヴェンダースらしさだと私は思う。
 この映画は観客を拒否し続ける。そもそもの主人公たちがもれなくわれわれの理解の範囲を超えた存在である。トムトム、エロイーズ、捜査官さえもいったい何をしようとしているのか、何をしてきたのかわからない。そしてその一部(あるいは大部分)は明らかにされることがないまま終わる。しかし彼らは間違いなく「普通」とされる人々より魅力的で人間的である。
 どうも感想がうまく言葉にできないのですが、おそらく世の人々には受け入れられないであろうこの映画が実は歴史に残る名作かもしれないと言いたい。ヴェンダースはわれわれがまったく想像もしないものを作り出した。われわれの想像もしないことを作り出す、意表をつく、期待を裏切るということこそがヴェンダース映画の本質であり、この映画はそれを凝縮したようなものであると。「さすらい」の中で一番私の印象に残ったのは冒頭の、車が川に転落するシーンだった。
ロードムーヴィーとして有名な作品にもかかわらず、道行の途中のイヴェントではなく、旅に出る前の単純なひとつの意表をつく出来事が一番印象に残っている。これがヴェンダースだと私は思う。だから観客の意表をつきつづけるこの作品こそこの映画はまさにヴェンダースらしい作品であり、われわれの想像を超えたすごい作品だといいたいのです。

お熱いのがお好き

Some Like it Hot
1959年,アメリカ,121分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド
撮影:チャールズ・ラング・Jr
音楽:アドルフ・ドイッチ
出演:ジャック・レモン、トニー・カーチス、マリリン・モンロー、ジョージ・ラフト

 禁酒法時代のシカゴ。ギャング同士の抗争は虐殺ともいえる大きな事件になってしまう。それを目撃してしまった二人のバンドマン、ジョーとジェリーはギャングに追われることになり、二人は女だけの楽団にもぐりこむことを思いつく。
 ワイルダー、ジャック・レモン、モンローの豪華な顔ぶれで映画史に名を残すコメディの名作。30年代のフィルム・ノワールをパロディ化し、ワイルダーお得意の展開に持っていった。

 ビリー・ワイルダーの作品ははずれはないけど、傑作!というものも見当たらないという気がする。この作品はワイルダーの作品の中では有名でもあり、面白くもあり、代表作のひとつではあるのだけれど、やはり傑作といえるほどすごい出来ではない。別に傑作を生み出す監督ばかりが名監督ではなく、ワイルダーのように質のよい作品を並べる監督の方が本当の名監督と言えるのかもしれないけれど、名監督といわれるとどんな傑作があるのかと思ってしまうこともまた事実。
 だから、ワイルダーの代表作といわれる作品にも過度の期待をしてしまいがちで、それが逆にいまひとつワイルダーを認めることができないなってしまっているのかもしれない。と自己分析してみました。
 いま見てみると、ネタの大半は予想が尽くというのがコメディ映画としてはどうしても気になってしまう。もちろんマリリン・モンローはものすごい魅力を振り撒いているし、登場するキャラクター達はみんないいキャラ出してるし、細かいネタも面白い。だから、ある意味でコメディ映画の原風景であり、それなりに見る価値もあるとは思いますが、ワイルダーの師匠ルビッチと比べると、やはりルビッチの方が何倍もすごかったのではないかと思ってしまったりもします。ワイルダーの方がすぐれていると思うのは、ルビッチよりもふざけ方が精密なところ。たとえば、フロリダに向かう列車の車輪を繰り返し映しますが、たまにその回転が異常に速かったりする。その辺りのふざけ方は面白いと思いましたが。
 なんだか、誉めてるんだかけなしているんだか分かりませんが、可もなく不可もなく、それがワイルダーに対する私の評価なのです。

パルプ・フィクション

Pulp Fiction
1994年,アメリカ,154分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:アンジェイ・セクラ
出演:ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ユマ・サーマン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、クリストファー・ウォーケン、ブルース・ウィリス、クエンティン・タランティーノ、スティーヴ・ブシェミ

 レストランで強盗の相談をするカップルのエピソードに始まり、次にメインとなる2人組みのマフィアのエピソードが始まる。2人組みのマフィア、ヴィンセントとジュールスはアパートの一室にブツを取り返しに行くが、そのエピソードから、今度は八百長を持ちかけられるボクサーのエピソードへと飛ぶ。複数のエピソードがモザイク状に配せられた物語。確かに物語としても面白いけれど、むしろもっと面白いのは枝葉末節の部分。様々な脇役がいい味を出して、物語を通過していく。そのさまが格別によい。

 こういう風に、複数のエピソードを重ねられてしまうと、プロットの構成に頭を奪われがちだが、この映画の場合、どのエピソードもたいした内容ではない。それぞれのプロットは絡み合っているけれど、決してスリリングなサスペンスや複雑な謎解きがあるわけではない。なんとなく謎を残しながらエピソードの間を滑っていく。そんな感覚。その感覚がタランティーノの革新的なところで、この映画の後しばらく多くの映画が「パルプ・フィクションっぽく」なってしまうくらいのインパクトをもてたところだろう。
 そのすべるような感覚というのは、この映画のほとんどの部分は余剰の部分で、実際はどうでもいいようなことばかりだというところからきていると思う。たとえば、5ドルのシェイクがうまかろうとまずかろうとそんなことはどうでもいい。これをトラボルタとユマ・サーマンの間の心理の機微を映す鏡と解釈してもいいけれど、私はむしろシェイクの方がメインで、それが何かを語っているように思わせるのは単なるモーションだと思う。そんな思わせぶりなシーンばかりを積み重ねながら、何も語らずに物語りは進行していくわけだ。最初マーセルスが後姿(首のバンソウコウ)しか映らないことから、このボスは謎めいた存在なのかと思いきや、中盤であっさり顔が出てしまうのも、なんとなく思わせぶりながら、あっさり裏切ってしまう一つの例である。
 この「思わせぶり」という要素は、オフ画面を多用するという画面の使い方にも現れている。オフ画面というのは、フレームの外のもので作り出す効果のことを言うが、これは単純に隠されているということから「思わせぶり」な効果を生む。画面の外から聞こえる声・音、フレームの外に出て行ってしまう人。それによってシネスコの画面も有効に使うことができたのだろうと思います。特に、それを感じたのは、ユマ・サーマンが家に帰って(オープンリールの)テープにあわせて踊るところ。柱を挟んで右へ左へと移動するところかしら。
 この映画は「クールだ」とか「バイオレンスだ」とか何とか言われることが多いですが、こんなもんクールでもバイオレンスでもなんでもない暇つぶし映画ですら(語尾がおかしい)。映画という2時間の暇な時間をどう埋めるのか、なんとなく面白そうなことを詰め込んでいってあとはうまくつなげればいい。そういうことなんじゃないかしら。

ボーイズ・ドント・クライ

Boy’s Don’t Cry
1999年,アメリカ,119分
監督:キンバリー・ピアース
脚本:キンバリー・ピアース、アンディ・ビーネン
撮影:ジム・デノールト
音楽:ネイサン・ラーソン
出演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード

 ネブラスカ州リンカーン、1993年。性同一性障害を持つブランドンはゲイの従兄ロニーのところに居候していたが、「レズ、変態」とののしる男達に家を襲われたことでロニーに追い出された。沈んだ気分でバーで飲んでいたブランドンは隣に座ったキャンディスに声をかけられ、友だちのジョンと共に出かけることにした。
 実際にアメリカであった事件を元に作られた衝撃的な映画。同性愛者に対する偏見、性同一性障害に対する無理解がいまだ蔓延していることを強烈に主張する。

 性同一性障害というのは、つまり本来の性(セックス)とは異なる肉体的な性をもってしまった障害(つまり病気)とされているが、その本来の性は脳が認識している性であり、脳もまた肉体であるのだからその「肉体的な」という表現は誤っていると思う。むしろそれは外面的な性に過ぎないということ。だからブランドンは表面的な部分以外は完全に男性であって、それが彼が「自分は同性愛者ではない」と主張する理由になっている。
 そんなことを考えると、この映画の取り上げる事件の原因となったのは単なる同性愛憎悪ではなく、むしろ同性愛恐怖(ホモフォビア)であると思う。ジョンは同性愛者が憎いのではなく、同性愛者が怖い。自分のマチスモ(男らしさ)が損なわれてしまうことに対する恐怖。自分の彼女が女に寝取られてしまうことに対する恐怖。それを振り払うためにブランドンに対してああいった行動に出てしまう。その本当の原因は同性愛に対する偏見ではなくて、根深い男性主義にあるのだろうと私は思いました。「あいつはいい奴だが、腰抜けだ」とジョンは言いました。そういう意味では、ブランドンもまた男性主義に染まっていて、男性であること=強くなくてはならない。という強迫観念がある。そのことで彼は自分をよりいっそう生きにくくしてしまっている。その辺りが本当の問題であると思います。レナはそれを何らかの形で和らげることができそうな存在だったということなのですが。
 この映画はどうしても映画の話より、その中身へと話がいってしまいますが、なるべく映画のほうに話をもっていきましょう。この映画はかなり人物のいない風景(それも長時間撮影したものをはや送りしたもの)が挿入されますが、この風景による間がかなり効果的。それは考える時間を生じさせるという意味で非常にいい間を作り出しています。しかも、それが単なる固定カメラではなくてパン移動したりもする。これは見たことがないやり方。やはりカメラをすごくゆっくり動かしていくのか、それとも他に方法があるのか分かりませんが、相当大変なことは確かでしょう。そんなこともあってこの風景のところはかなりいい。
 深く、深く、考えましょう。

猿の惑星

Planet of the Apes
1968年,アメリカ,113分
監督:フランクリン・J・シャフナー
原作:ピエール・ブール
脚本:ロッド・サーリング、マイケル・ウィルソン
撮影:レオン・シャムロイ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:チャールトン・ヘストン、キム・ハンター、ロディ・マクドウォール、リンダ・ハリソン

 高速で宇宙探索を続ける宇宙船。半年が経ち、船長のテイラーも長期睡眠に入ることになった。半年といっても地球では数百年に当たるときが立っていた。その睡眠がけたたましい非常ベルと共に醒める。不時着した惑星を探索して行くと、その惑星は去るが人間を支配している惑星であることが分かった。
 斬新な発想で、SFの古典となった作品。猿の特殊メイクも当時の技術力の粋を集めたもので相当なもの。リメイク版と比べても見劣りしません。

 体外の人は物語を知っているだろうということでネタばれは恐れずに書いていきます。で、結末を知った上で見てみると、ちょっとこの物語は冗長すぎる。つまり、転がっていって欲しい物語がなかなか転がらず、先の展開へ時が行くものとしてはじれったさを感じる。基本的にはかなり社会に対する批判的な姿勢が明確に打ち出されており、その要素がプロットの遅滞を生み出しているということ。その批判的な要素がプロットの遅滞を補って余りあるほど魅力的であれば、そのようなじれったさは感じないのだろうけれど、この映画の場合は補いはするけれど余りはない、という程度。なので、2時間弱の作品を2時間弱に感じさせてしまう。わたしは映画は90分がちょうどいいと思っているのですが、その90分というのは物理的な(地球の)時間ではなくて、体感的な時間なわけです。だからこの映画はちょっと長い。その点では、ティム・バートン版のほうが勝っているでしょう。スピード感という点では。
 しかし、特殊メイクを見てみると、ほとんど遜色がない。というよりむしろ、古い方が自然に感じる。それはおそらく、この「猿の惑星」のころに始まったILMの特撮にわれわれが慣らされているからなのでしょう。よく考えれば全く作り物なのだけれど、いまILMがCG技術などなどを使って作ったティム・バートン版のよりもリアルに感じるのはなぜ? みんなはそうは感じないのだろうか?
 しかも、この映画は60年代の作品。「2001年」とほぼ同じ時期に製作されたもの。そう考えるとすごいのかもしれない。純粋娯楽作品としてこれだけしっかりとSFを作っているというのは。きっと文句をいわれながらも見られつづける作品だと思います、これは。

ユージュアル・サスペクツ

The Usual Susupects
1995年,アメリカ,105分
監督:ブライアン・シンガー
脚本:クリストファー・マッカリー
撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル
音楽:ジョン・オットマン
出演:スティーヴン・ボールドウィン、ガブリエル・バーン、チャズ・パルミンテリ、ケヴィン・スペイシー、ベニチオ・デル・トロ、ジャンカルロ・エスポジート、ダン・ヘダヤ

 カリフォルニアのサン・ペドロ港に停泊していた船で殺される男、彼は向かい合った男を見て「カイザー」とつぶやいた。それをさかのぼる6週間前、銃強奪事件の容疑者として5人の曲者が集められた。そのうちのひとりヴァーバルが語り手となってそこに至る物語が語られていく。
 アカデミー脚本賞も受賞したクリストファー・マッカリーの一筋縄では行かない脚本が秀逸。マフィア映画でおなじみな人たちにスティーヴン・ボールドウィンとケヴィン・スペイシーが加わったという感じの配役も見応えあり。

 サスペンスの基本はが隠すことであるのは確かで、この映画も「隠すこと」によって物語が成り立っているわけだが、最初のうちは一体なにが隠されているのかわからないというのが面白い。(ネタばれ防止のため多くは語りませんが)後半になると「隠されているもの」が何なのかが明らかになり、その謎解きに収斂するわけだが、その謎解きというサスペンスの本質的な部分よりも、その前のなにが謎なのかわからない状態の方が面白い。
 後半の謎解き部分がつまらないというわけではないけれど、前半の曖昧模糊と部分の方が真実じみていて、どこに向かっていくのかは一行にわからないけれどリアルな感じがするのでした(終わってみて考えるとそれはかなりすごいことなわけですが…)。
 個人的には、出てくる人のほとんどが悪人顔のところがとてもいい。チャズ・パルミンテリなんてどう見てもマフィア顔なのに捜査官。ダン・ヘダヤもそう。ジャンカルロ・エスポジトだけがまっとうそうな人。この物語だけでは終わらない物語がきっとある。そう感じさせる配役。
 まあ、多くは語らない方がいいでしょう。うんうんうなりながら見るよりは、全く無心で予備知識なく見たほうが絶対に面白い。
 ところで、このブライアン・シンガーとクリストファー・マッカリーは「Xメン」で再びコンビを組んでいます。なるほどね。わかるようなわからないような…

ビートルジュース

Beetlejuice
1988年,アメリカ,92分
監督:ティム・バートン
脚本:マイケル・マクダウェル、ウォーレス・スカーレン
撮影:トーマス・エーカーマン
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マイケル・キートン、アレック・ボールドウィン、ジーナ・デイヴィス、ウィノナ・ライダー

 田舎の一軒家に仲良く暮らす若夫婦、夫は模型作りが趣味だった。しかしある日、車ごと川に落ちて二人は死んでしまう。ゴーストとなってその家に残ることになった新しい住人を追い出そうとするが、うまく行かない。その時、「バイオ・エクソシスト」なるビートルジュースの広告を目にするのだが…
 奇才ティム・バートンが一気にメジャーになったヒット・ホラー・コメディ。毒々しいながらもユーモアにあふれた不思議な世界。ウィノナ・ライダーもかわいい。

 これぞティム・バートン!という感じ。「猿の惑星」とか「バットマン」の大掛かりな感じも悪くはないけれど、ティム・バートンにはなんとなくB級な味わいを残して欲しい。この作品は実質的なデビュー作と言えるだけにまさにB級テイスト満載。ユーモアの作り方がとてもいい。独特のキャラクターの作り方も、もとアニメーター(しかもディズニーの!)だけあってとてもうまい。この映画の脇役のキャラクター達は一本の映画の脇役にしておくにはもったいないくらいいいキャラクターがそろっているとは思いませんか? ビートルジュース自身はそれほどとっぴというわけではないけれど、脇に脇に行くほどティム・バートンのオタクぶりがうかがえる凝りようになる。その当たりの細部に対する配慮が映画にとって生命線になっているような気がする。それはティム・バートン映画のすべてに通じて言えることでもあるような気はします。
 この作品が決して一般受けしないのはなぜだろうと考えてみる。わけがわからない。ナンセンス。安っぽい。しかし、ティム・バートンというのはお金をかけてわざわざ安っぽいものを作っているような気がする。アレック・ボールドウィンが顔を変形させるところだってクレイアニメだから相当手間も金もかかっているはず。しかしパッとみ異常に安っぽい。この当たりが受け入れられるかどうかが境界というところでしょうか。でも俺は好き。この作品と「シザー・ハンズ」は何度見ても飽きない。2つの作品はウィノナ・ライダー出ているということ以外はかなり違う映画ですが、どちらもとてもいい。あわせてみれば「猿の惑星」が何ぼのもんじゃい! と思うと思う。多分。

アイドル・ハンズ ぼくの右手は殺人鬼!?

Idle Hands
1999年,アメリカ,92分
監督:ロッドマン・フレンダー
脚本:テリー・ヒューズ、ロン・ミルバウアー
撮影:クリストファー・バッファ
音楽:グレーム・レヴェル
出演:デヴォン・サワセス・グリーン、エルデン・ラトリフ、ジェシカ・アルバ

 マリファナを吸いながら怠惰な生活を送る高校生のアントンの家で、両親が惨殺される。実は街では連続殺人事件が起こっていた。しかしアントンはそのことも知らず、両親が殺されたことにも気づかず、友達の家に遊びに行ってしまう。そして帰ってきて両親が殺されていることに気づいて…
 アメリカではヒットを飛ばし、デヴォン・サワを一躍若手人気俳優へと押し上げたB級ホラーコメディ。確かに安っぽいけど面白い。

 序盤はあくまでB級で、安さ満開。オープニングの妙におどろおどろしいイメージビデオみたいのから、両親の惨殺シーン辺りは普通にホラー映画なのかと思わせつつ、それをすっかりひっくり返してしまうところがいい。ホラーのグロテスクさとB級コメディのばかばかしさの混ぜ具合がちょうどいいというところ。とくにアントンの友だち2人が異常にいい。まさにグロさとバカさのバランスをとる存在として、映画の要になっています。あとは、右手。CGなんかを使った特撮の右手ではなくて、デヴォン・サワ自身がやっているアナログな特撮?の右手。これだけで演技がうまいということはできないけれど、それはそれで特殊な演技力だと思う。
 日本の配給会社が二の足を踏んだのは、きっと全く有名な人がいない(本当にひとりもいない)のと、日本ではヒットしにくいB級コメディだということだったのでしょうが、これは公開してもよかったかも、と思う。夏休みの夜にはぴったりなどーでもいい感じです。B級入門にもいいかもしれない。これがダメな人はきっとB級映画は全部ダメな人だと思います。

季節の中で

Three Seasons
1999年,アメリカ,108分
監督:トニー・ブイ
脚本:トニー・ブイ
撮影:リサ・リンズラー
音楽:リチャード・ホロウィッツ
出演:グエン・ゴック・ヒエップ、チャン・マイン・クオン、ドン・ズオン、ハーヴェイ・カイテル

 蓮沼で蓮を摘む仕事に雇われた少女、1冊の本を愛するシクロの運転手、毎日ホテルの前に一日中座っているアメリカ人、たばことガムを売って暮らすストリートチャイルド。現代のベトナムを舞台にの四人の同じ数日間を並行して描いたノスタルジックな一作。
 トニー・ブイはベトナム出身のアメリカ人監督で、この作品が長編デビュー作となった。サンダンス映画祭でグランプリと観客賞をダブル受賞。

 悪くはないと言っておきますが、決してよくはない。一言で言ってしまえば「いまだオリエンタリズムに凝り固まったアメリカ人の稚拙なアジア描写」と言うところでしょうか。確かに映像などはかなり計算されていてまとまっているけれど、結局のところハーヴェイ・カイテルが具現するアメリカ人たちは平和になったヴェトナムに変わらぬオリエントを求めているに過ぎず、続々建設される高級ホテルはあくまで「本当の」ヴェトナム人とは別世界のもので、「本当の」ヴェトナム人はシクロを運転したり、蓮の花を売ったりする。しかも寡黙で悪態をついたりはしない。例え娼婦やストリートチャイルドだったとしても、素朴でアジア人らしく控えめに生きている。そんなヴェトナムしか見ようとしない。  そんなオリエンタリズムに凝り固まった目ではこんな風にしか見えてこないのだろうといういい見本なのです。ああやっぱりアメリカって…
 さて、そんな映画と大いに関係ある憤りはさておき、もう一つ不満な点は4つのエピソードの絡まなさ。完全に並行させる形で描いているんだからもう少し複雑な絡み方をしてもよさそうなのに、結局のところ同じ時間を描いているだけで、たまにすれ違うだけで、プロットに影響を与えるようなからみ方はしない。うがった見方をすれば、1エピソードだけで2時間撮れそうにないから、4つもってきたというように見えてしまう(あくまで穿った見方ですが)。そこも不満。 いい点をあげるならば、まずは映像と言うことになります。別段こっているというわけではないものの、コカコーラの壁面を使って色合いに変化を出したり、蓮池と建物でコントラストを強調したり、細かい配慮がなされています。あくまで「オリエンタリズム」的映像美ですが…(しつこい)
 細かい配慮と言えば、この映画で私が一番気に入ったのは「汗」。とくに女性の登場人物たちの首筋ににじむ汗。この汗はかなりいい。もちろん意図的につけなければできないものだし、しつこくない程度に出てくるところもいい。風景だけではなかなか伝わらない蒸し暑さをうまく伝えるにくい演出。これはぐっと来ました。

PLANET OF THE APES/猿の惑星

Planet of the Apes
2001年,アメリカ,119分
監督:ティム・バートン
原作:ピエール・ブール
脚本:ウィリアムズ・ブロイルズ・Jr、ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マーク・ウォールバーグ、ティム・ロス、ヘレナ・ボナム・カーター、マイケル・クラーク・ダンカン

 2029年、スペースステーション・オベロン号はチンパンジーを宇宙飛行士として教育し、宇宙探査を行っていた。壮絶な磁気嵐に遭遇したオベロン号はチンパンジーのペリクリーズを探査船で送り込むがペリクリーズは消息を絶ってしまったそれを見た宇宙飛行士のレオは独断でポッドを発進させ、ぺリグリーズを追った。
 1968年の名作SFをティム・バートンがリイマージュした意欲作。前作とはまったく異なる物語展開を見せ、ILMの技術を駆使した猿もすごい。

 一言で言えば期待通りのティム・バートン・ワールド。とにかく面白ければいいんだという監督の姿勢がとてもいい。そのためには原作のストーリーなんて曲げてしまえばいいし、使える技術は使えばいい。それだけばさっと割り切った作品なので、前作のような明確なメッセージがないのがむしろいい。
 猿のリアルさは相当なものだけれど、やはり不自然さは否めない。ティム・ロスはまったくもってすごいけれど、ヘレナ・ボナム・カーターの顔は今ひとつ。全般的にいってメスの猿の造作があと一歩というところ。ゴリラ系の猿たちはかなりいい。
 ネタばれは避けなくてはならない映画なので、短めにとめておきます。とりあえず娯楽映画としてはよいと思います。