気狂いピエロ

Pierrot le Fou
1965年,フランス,109分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ライオネル・ホワイト
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、グラツィエラ・ガルヴァーニ、サミュエル・フラー

 ジュリアンが妻とパーティに参加する間、友人のフランクの姪が子供たちの面倒を見てくれるという、フランクに姪がいたかといぶかしがる彼だったが、現れた学生風の女性に子供たちを任せてパーティへ向かった。しかし、ジュリアンはパーティを中座し先に帰宅する。実はその姪という女性はジュリアンの元恋人だった。
 天才ゴダールの作品の中でも最も知名度が高いといえる作品。ゴダールらしさを維持しつつも単純なサスペンスとしても楽しめる(と思う)作品。

 ゴダールは初期の作品では白黒の画面にこだわり、カラーの映画は撮ろうとはしなかった。しかし「」で一転、カラーへの取り組みを始めると、カラー作品でもつぎつぎと名作を生み出す。しかも、激しい色使いでほかの映画との違いを見せつけながら。中でもこの「気狂いピエロ」と「中国女」は色使いに抜群の冴えを見せる。「中国女」では徹底的に赤が意識的に使われるのに対して、この映画で使われるのはトリコロール。赤と青と白のコントラストを執拗なまでに使う。マリアンヌと兄(?)の船に掲げられているトリコロールの国旗をみるまでもなく、繰り返し移される青い空と白い雲を考えるまでもなく、その3色のコントラストが頭にこびりつく。
 青い空と白い雲といえば、この映画で多用されるがシーン終わりの風景へのパン。つまり、人物が登場するシーンの終わりに空舞台の(人がいない)風景へとカメラが動く。これが何を意味するのかは天才ゴダールにしかわからないことかもしれないが、単純に感じるのは「いい間」を作るということ。単純にシーンとシーンをつないでいくタイミングとは異なったタイミングを作り出すことができるのではないだろうか? しかも、一ヶ所だけそのパン終わりを裏切るところがあります。人物から風景にパンして終わりかと思ったらまた人が映る。
 となると、このシーンをやりたかったがために繰り返しパン終わりをやったのかとも思えるのです。そこはゴダール、はかり知れません。気づかなかった人は今度見たときに探してください。私もその構成に初めて気づいたので、もしかしたら一ヶ所じゃないかもしれない。
 ゴダールをやるたびに理解できなさをその天才のせいにしてしまうのですが、本当に心からそう思います。

猥褻行為~キューバ同性愛者強制収容所~

Mauvaise conduite
1984年,フランス,112分
監督:ネストール・アルメンドロス、オルランド・ヒメネス・レアル
出演:ロレンソ・モンレアル、ホルヘ・ラゴ、レイナルド・アレナス、フィデル・カストロ

 1960年代、キューバにあったUMAPという強制収容所には密告により様々な人々が収容された。同性愛者をその一角を占めていたが、当時世界的な熱狂で迎えられたキューバ革命賛美の潮流の中ではそのような事実はなかなか認められにくかった。しかし1980年代までにキューバからは100万人規模の人々が亡命し、徐々に理想化された国の内幕が判明してきた。
 亡命を余儀なくされた有名人のインタビューを中心としたドキュメンタリーによってフィデル・カストロとキューバ政府の誤謬を暴く。トリュフォー作品や「クレイマー・クレイマー」などのカメラマンとして知られるアルメンドロスの初監督作品。

 言ってしまえば映画としてはそれほど面白くはない。ドキュメンタリーといってわれわれがイメージする経験者の証言と限られた事実を示す映像とで構成される単調なドラマ。しかし、そのドラマは強烈だ。日本では余り知られていないにしろヨーロッパなどでは比較的知られているキューバの作家や批評家達が登場し、強制収容所の実態を語る。全く信じられないようなことが公然と行われていたという事実に直面するということは常に衝撃的である。
 この作品にも登場した作家レイナルド・アレナスは収容所をはじめとした強烈な体験を「夜になる前に」という作品につづっている。この作品にはこの映画も出てくるのだが、その信じられない体験を目にしたときの衝撃が生々しくよみがえってきた。(この「夜になる前に」は昨年アメリカで映画化され、日本でも今年の秋頃に公開される予定。)
 ドキュメンタリーという枠を越えようとする映画的にすぐれたドキュメンタリーも面白いけれど、こういう古典的なドキュメンタリーもその内容さえすぐれていれば非常に面白いものになる。この作品は非常に陰惨な内容を語っているはずなのに、インタビューを受ける人たちは比較的明るい表情で陰惨な雰囲気はまるでない。そのあたりの奥に秘められたひそやかな憎悪を見るよりも彼らがそうやって振舞うことによって生じる雰囲気を素直に味わいたい。

機械じかけのピアノのための未完成の戯曲

Neokonchennaya Plya Makhani Cheskogo Pianimo
1976年,ソ連,102分
監督:ニキータ・ミハイルコフ
原作:アントン・P・チェーホフ
脚本:ニキータ・ミハイルコフ、アレクサンドル・アダバシャン
撮影:パーヴェル・レーベシェフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:アントニーナ・シュラーノワ、アレクサンドル・カリャーギン、エレーナ・ソロヴェイ

 ある夏の日、ロシアのとある田舎、とある貴族の未亡人の家に集まる人々。それは未亡人の義理の息子の結婚披露パーティで、知り合いの地主や医者などいろいろな人が集まって様々な騒動を繰り広げる。
 原作はチェーホフの短編で、それを群像劇として映画にした。登場人物が多く人間関係の把握が難しかったりするが、非常な映像へのこだわりが感じられる作品になっている。

 物語としてはよくわからない。おそらく当時ソ連が抱えていた問題(冷戦真っ只中)なども絡みつつ、革命に対する考え方なども孕みつつ、しかし検閲もあるだろうということで何かを口に含みながら言い切らないという感じで物語りは進む。ニコライとソフィアの話がメインであることはわかるし、それはそれとして面白いので、それ以上は追求しません(できません)。
 それよりも、映像的な面がかなり気になる。フレームの奥行きの使い方がとても面白い。最も特徴的なのは建物のロビー(?)で登場人物全員を縦方向に配置して撮るシーンで、これはかなり何度も繰り返し出てきた。それ以外でも、冒頭すぐに、未亡人と男がチェスしているシーンで、手前で違うことをしている人がいたり、どこのシーンかは忘れてしまいましたが、場面の奥で話している手前にフレームの外側から人が入ってきたりかなり意識的に奥行きを使っている。
 映画空間に奥行きがあるということをわれわれは暗黙の了解として理解しているけれど、本当はあくまでも二次元の空間であり、奥行きというのは遠近法を使った錯覚である。アニメなどを見るとそれを意識することはあるが、普通に映画を見ているとそのことは余り意識しない。われわれはそれだけこの錯覚に慣れてしまっているのだが、この映画の極端な奥行きの表現は逆にそのことをわれわれに意識させる。だからどうということもないけれど、「そういえば、そうだったね」と当たり前の事実に気づくという経験がこの映画を見て一番印象的なことでした。

メトロポリス<リマスター版>

Metropolis
1984年,アメリカ,90分
監督:フリッツ・ラング
脚本:テア・ファン・ハルボウ、フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント、ギュンター・リター
音楽:ジョルジオ・モロダー
出演:アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、フリッツ・ラスプ

 地下で機械的な労働をする大量の労働者達を尻目に繁栄を誇る巨大都市メトロポリス。そのメトロポリスを治めるアーベルの息子フレーリッヒは地上で見かけた労働者の娘マリアを追って地下に降り、労働者の過酷な現実を目にする。
 ロボットのようにエレベータに向かう労働者達の衝撃的な映像で始まるフリッツ・ラングの不朽の名作をカラー処理し、音楽を加えた作品。そうすることが悪いわけではないのだけれど、原作がもったいないという気もしてしまう。

 果たしてこのリマスターに意味があったのか? と思ってしまう。最初に「現代的な音楽を加え」と書かれていたけれど、それはすでに現代的ではなくなってしまっている。大部分がテクノ風の音楽で近未来といえばテクノという単純な発想が感じられていまひとつ乗り切れない。そしてそれよりもひどいのは歌詞が映画を説明してしまっていること。フリッツ・ラングが考え抜いて作り出したサイレントの画面を台無しにしてしまう饒舌すぎる説明はむしろ邪魔。日本にくるとそれがさらに字幕で律儀に翻訳されて、迷惑この上ない。
 しかし、元の作品自体はさすがに傑作中の傑作。すべてのSF映画の原点、大量の労働者達を一つの画面に収めたシーンの数々は本当にすごい。もちろんすべてに本当の役者を使い、CGとか合成なんて使ってはいない。いまなら引きの絵はCG合成してしまうところだけれど、それを生身の人間で実現してしまうのは当時のハリウッドが得意とした力技だけれど、ドイツでもやっていたのね。やはり20年代のドイツの映画ってのはすごいのね。
 この映画はすべてがすごい。できればオリジナル版のほうを見て欲しいところ。

白い花びら

Juha
1998年,フィンランド,78分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ユハニ・アホ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:アンシ・ティカンマキ
出演:サカリ・クオスマネン、カティ・オウティネン、アンドレ・ウィルム

 フィンランドの片田舎。ユハとマルヤの夫婦はサイドカーつきのオートバイで走り、自分達で作ったキャベツを町の市場で売る。仲睦まじく暮らす二人だったが、ある日ユハが車が故障して立ち往生していた男シュメイッカを家に連れてきたことで二人の関係が変化し始める。
 淡々としたスタイルを貫くカウリスマキ監督がサイレント風に描いた異色作。役者もおなじみのカティ・オウティネン。

 サイレント映画というよりはセリフのない映画。多彩な音楽に加え、効果音も入っているので、決してサイレント映画ではない。しかし、映画の作り方はサイレント映画の方法を踏襲し(少々誇張して)描いている。身振りだとか表情だとか、そういったものがセリフの変わりに様々なことを語るように描く。しかし、その大げささがいまひとつ。パロディにしているとは思えないけれど、ちょっと質の悪いサイレント映画風になってしまっている。
 それに対して、ものの描き方はうまいと思います。シュメイッカの車の名前というかエンブレムを映すことが効果的だったり、キャベツが夫婦の姿を端的に映していたりその辺りは面白かったですが、やはり全体として能弁すぎるというか、サイレント映画であるがために逆に説明しすぎたという気がしてしまいます。サイレント映画にはサイレント映画としてのもっと洗練されたスタイルがあったはずだとサイレント映画好き(初心者)の私としては思ってしまいます。
 カウリスマキのスタイルが進化していく一つの実験であるとして納得はしました。この映画を糧にもっととんでもないものを作ってくれるのではないかと期待したりします。(サイレントのミュージカルとかね)

ベンゴ

Vengo
2000年,スペイン=フランス,89分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:ティエリー・ブジェ
音楽:アマリエ・デュ・シャッセ
出演:アントニオ・カナーレス、ビリャサン・ロドリゲス、アントニオ・ペレス・デチェント、フアン・ルイス・コリエンテス

 アンダルシアの小さな町で開かれるパーティー、それを主催するカコ。彼は体の不自由な甥ディエゴを溺愛し、娼婦の世話までしようとする。しかし陽気に振舞う2人はカコの娘ペパの面影を忘れることができなかった。
 途切れなくフラメンコの音楽がかかり、情熱的に迫ってくるこの映画は「観る」というより「浴びる」のがいい。

 映画を「浴びる」。圧倒的に迫る音楽は冷静に映画を見せてはくれない。ひたすらに降り注ぐ音楽と映像を浴び、その中に浸り、それによって押し付けられる感情に浸る。否応なく感じさせられる怒りあるいは苦悩にもいらだつよりは身を任せ、映画が押し進むその方向に押し流されていくことで何とか映画を消化できる。
 連続するクロースアップや(過度といっていいほどに)雄弁にものを語る登場人物の表情が暴力的ではあるけれど確実に見るものの感情をコントロールする。
 という映画です。確かに力強いけれど、ちょっと暴力的過ぎるかなという気がします(内容ではなく映画として)。そして音楽の映画ということで、さすがに音楽は素晴らしいですが、演奏シーンはすごく長い。兵隊が寄ってくるところのようにちょっとまわりにエピソードを加えたり、カコの夢と現の間のようなシーンみたいに映像的な工夫がなされているとその長さも苦にならないのだけれど、ひたすら演奏を映しているシーンはちょっと長すぎるかなという気はしました。
 音楽に浸って忘我したいという気分にはぴったりかもしれません。プロットもそれなりに練られていたし。やはりガトリフは自分の世界をしっかりと構築しているので、着実にいい作品を作ります。大きくはずすことはない。この映画はガトリフとしてはちょっと平凡な映画になってしまった感も無きにしも非ずですが、これが彼の世界なのでしょう。

ポーラX

Pola X
1999年,フランス=ドイツ=スイス=日本,134分
監督:レオス・カラックス
原作:ハーマン・メルヴィル
脚本:レオス・カラックス、ジャン・ポル・ファルゴー、ローランド・セドフスキー
撮影:エリック・ゴーティエ
音楽:スコット・ウォーカー
出演:ギョーム・ド・パルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ、カテリーナ・ゴルベワ、デルフィーヌ・シュイヨー

 フランス・ノルマンディ、古城で暮らす小説家のピエール。正体を明かさぬまま小説を出版し、成功した彼は婚約者のリュシーとも仲良く付き合っていた。しかし、母マリーのところには無言電話がかかり、ピエールの周りには謎の黒髪の女がうろついていた。
 レオス・カラックスがハーマン・メルヴィルの『ピエール』を映画化。2つの天才と狂気がであったこの作品は全編にわたってすさまじい緊張感が漂う。「ポンヌフの恋人」とは違うカラックスらしさがぐいぐいと迫ってくる作品。

 陽光にあふれた昼と、街灯の明かりすらまばらな夜。この昼と夜、明と暗の対比がこの映画の全てを語る。最初は多かった明の部分が物語が進むに連れて陰っていく。リュシーのブロンドとイザベルの黒髪までも明と暗を比喩的に表しているのではないかという思いが頭をかすめる。暗闇から現れたイザベルに、暗闇で語られたことによって、ピエールはぐんぐん闇へと引きずり込まれる。ここで暗闇は狂気と隣り合わせの空間で、明の象徴であったはずのリュシーまでも暗部へと引きずり込む。
 映っているものすらはっきりしないほど暗い画面は見ている側に緊張を強いる。そして、カットとカットの繋ぎの違和感が焦燥感をあおる。エレキギターとパーカッションで奏でられる交響曲もわれわれの神経を休めはしない。ただいらいらしながら、結局何も解決しないであろう結末を予想しつつも、ことの成り行きをみつめる。
 「汚れた血」は厳しすぎ、「ポンヌフの恋人」はゆるすぎたと感じる私はこの「ポーラX」がぐっときた。どれもカラックスの世界であり、同じ描き方をしているのだけれど、狂気と正気のバランスというか、物語と映像のバランスというか、その偏りがちょうどいい感じ。
 カラックスの映画はカットとカットの間がスムーズにつながらないところが多々あって、この違和感というのは相当に見ている側にストレスになると思う。それがカラックスの映画の緊張感の秘密だと私は思います。この映画でいえば、一番はっきりと気づいたのはピエールとティボーがカフェで会っている場面。ティボーがカウンターに行って、ティボーの視点でピエールを(正面から)映すカットがあって、次のカットで画面全体をバスが横切り、その次のカットではピエールを後ろから映す。これは後ろからのぞいているイザベルの視点であることが直後にわかるのだけれど、この瞬間には「え?」という戸惑いが残る。こんな風に見ている側をふっと立ち止まらせ、映画に入り込むことを拒否するような姿勢が緊張感を生み、カラックスらしさとなっているのではないでしょうか。

アラン

Man of Aran
1934年,イギリス,77分
監督:ロバート・J・フラハティ
脚本:ジョン・ゴールドマン
撮影:ロバート・J・フラハティ
音楽:ジョン・グリーンウッド
出演:コールマン・キング、マギー・ディーレン、マイケル・ディーレン

 アイルランドの西に位置する島アラン。過酷な自然に囲まれた不毛の土地で暮らす人々の姿を描いたドキュメンタリー。ほとんど草も生えず、始終激しい波にさらされる土地でも人々は力強く生きる。
 20年代から30年代を代表するドキュメンタリー作家のひとりフラハティの代表作の一つ。

 最初、字幕による説明があり、オーケストラに合わせて淡々と映像が流れる。「サイレント?」と思うが、始まって10分くらいしてセリフが話される。しかしセリフは極端に少ない。音楽を背景に映像を流しつづけるドラマ。セリフはなくともドラマとして成立し、しかも紛れもなくドキュメンタリーだ。
 しかし、ドキュメンタリーとしては少々作りこんだ感がある。一台のカメラで追っただけでは作れないような映像が多々ある。一つ印象的な場面である。少年とサメのカットバックのシーンなどもそうだ。この映画はおそらく、基本的にはドキュメンタリーだが、それをドラマ化するために、不足した部分を後から足したのではないかと思われる。それでドキュメンタリーではないということは自由だが、この映画は単純に現実の脅威というものを表していることに変わりはない。 誰しもが目を見張りひきつけられるのはやはり波の表情。断璧に打ち付けられた波は高々とその壁を登り地面をぬらす。その迫力はすさまじい。ただただ浜辺に打ち寄せる波もすさまじい。あとは、ボートに打ちつけられるサメの尾鰭の立てる音、ボートが波のまにまに消えるそのひとたび毎にふっと襲ってくる緊迫感、そんなものが心に迫ってきた。
 こんな映画を見ていると、やはりドキュメンタリーというのは現実の一瞬間をふっと切り取るものであり、それはあまりにドラマチックであるのだということを実感させられる。フィクションでは作り上げることのできない現実ならではの迫力というものがやはりある。

緋文字

Der Scharlachirote Buchstabe
1972年,西ドイツ=スペイン,90分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ナサニエル・ホーソン
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ベルナルド・フェルナンデス
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クナイパー
出演:センタ・バーガー、ハンス・クリスチャン・ブレヒ、イエラ・ロットランダー、アンヘル・アルバレス

 開拓期のアメリカ、原住民のガイドを連れ、セイラムという町を探してやってきたロジャーは街に着くなり、教会の前で裁判が開かれているのを目にする。その裁判はへスター・プリンの姦通の罪を裁き、相手を白状させようとする裁判だった。裁判中のへスターに近づき、意味ありげにヘスターに目配せをするロジャー、そのとき牧師が急に倒れた。
 ホーソンの緋文字をヴェンダースが映画化。ヴェンダースとしては最初で(今のところ)最後の歴史もの。違和感はあるがそれでも舞台にアメリカを選ぶあたりはヴェンダースらしさか。

 ヴェンダースの退屈さが、マイナスの方に働いてしまったかもしれない。映画自体は紛れもなくヴェンダース。回り道をしながら映像美を足がかりにゆるゆると進んでいくヴェンダースらしさ。映像美と単純に言い尽くせない映像の味をこの映画でもしっかりとこめている。
 この映画が撮られたのは「都会のアリス」から始まるロードムーヴィー3部作(って勝手に呼んでる)の直前。「ゴールキーパーの不安」で評価を得た直後に撮られている。こう考えていくとこの映画がヴェンダースの自由な意思によって撮られたのかということに疑問を感じてしまう。ヴェンダースという監督は結構人に頼まれた仕事をほいほいこなす監督のようで、最近の「ブエナ・ビスタ」しかり、「リスボン物語」しかりである。
 で、この映画がたとえ何らかの商業的な意図のものに作られたものであってもそれがそのまま映画としての価値をうんぬんということにはならないのだけれど、なんとなくこの映画には不自由な感じがしたので、そのようなうがった見方をしてしまうわけです。
 でももしかしたら、何度か見たら好きになっていくような気もする映画なんですね。最近のヴェンダースのパッとみのよさとは違う、退屈なんだけれどなんだかひきつけられる力のようなものがある気がする。「まわり道」あたりが生まれる要素になるようなものが。やはりそれは私がヴェンダースファンだからなのかしら。

ぼくの国、パパの国

East is East
1999年,イギリス,96分
監督:ダミアン・オドネル
原作:アユブ・ハーン=ディン
脚本:アユブ・ハーン=ディン
撮影:ブライアン・テュファーノ
音楽:デボラ・モリソン
出演:オム・プリ、リンダ・バセット、ジョーダン・ルートリッジ、イアン・アスピナル

 1971年、イギリスの小さな町に住むジョージはパキスタンからやってきた移民。イギリス人を妻にして6人の息子と1人の娘に恵まれた。長男ナシムの結婚式の日、父親の決めた結婚に納得のいかないナシムは式場を飛び出し、そのまま姿を消してしまう。父親と残された6人の子供達の戦いは続く…
 移民・人種という問題を意識させつつ、衝突する家族の物語を撮ってみたという感じ。

 なんだか惜しい。面白くなりそうな要素はたくさんあるのに、なんとなくそれが通り過ぎていってしまう感じ。「フード」だってあそこまで固執しておきながらなんとなく描き切れていいない気がする。隣にすんでる壊れためがねをかけた子なんかも、かなりいい味を出しているのにね。
 やはり人種や移民という問題を持ってきて、それを中心に据えてしまったために、父親とパキスタン人コミュニティの関係性とか、その父親の意図と子供達の考え方の違いなんかがどうしても大きな割合を占めてしまうようになる。キャラクターが少し紋切り型過ぎたのか、という気がする。むしろこの映画が終わった時点から、親父が気持ち丸くなった(でも芯の所ではちっとも変わっていない)時点からの話の方が映画としては面白くなりそう。
 映画の中でも親父側のエピソードより子供側のエピソードの方が面白い。隣の女の子とその親友とか、かなりナイスなキャラが盛りだくさん。テレビドラマ化できるくらいかもしれない。「サンフランシスコの空の下」よりは面白いかもしれない。