世代

Pokolenie
1954年,ポーランド,88分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:ボフダン・チェシコ
脚本:ボフダン・チェシコ
撮影:イエイジー・リップマン
音楽:アンジェイ・マルコフスキ
出演:タデウシュ・ウォムニッキ、ウルスラ・モジンスカ、ズビグニエフ・チブルスキー、ロマン・ポランスキー

 ナチスドイツ占領下のポーランド、ドイツ軍の石炭を盗んで憂さを晴らしていたスターシュは仲間が殺されたのを機に工場で働くようになる。そしてそこで労働者の団結について知り、レジスタンス活動に関わるようになってゆく…
 アンジェイ・ワイダの長編デビュー作で『地下水道』『灰とダイヤモンド』とつづく“抵抗三部作”の第1作。情熱にあふれた意欲作。

 この作品は何も知らなかった青年スターシュが共産主義思想に触れて感化され、レジスタンス運動へ参加してゆく過程が描かれている。この作品が作られたのは1954年、戦争が終わって約10年、ソ連の強い影響下にある社会主義政権による検閲が映画に対しても行われていた。この作品はもちろん検閲にはまったく引っかからない。むしろマルクス主義の精神を賛美する作品として“文部省推薦”になってもいいくらいのものだ(そんな制度が当時のポーランドにあったかどうかは知らないが)。

 しかし、そんな体制迎合の作品であっても(実はそうではない部分もあるのだが、それは後述する)、アンジェイ・ワイダの才能はあふれ、これがデビュー作とは驚きだ。

 一人の青年の成長をレジスタンスとナチスドイツの対立を軸に語り、そこにもう一つのなぞの勢力を絡めるプロットのうまさ、スターシュを中心に思想と友情と少々の恋愛を描いてゆく物語のふくらみ、それらのストーリーテリングのうまさがまずひかる。

 そしてワイダを特徴付けるのはやはり映像だ。アンジェイ・ワイダの特徴はモンタージュ(映像の組み合わせ)によって語るという映画の古典的な文法の使い方のうまさなのかもしれない。クロースアップ、ロングとさまざまなサイズを使い分け、カットの切り替えによって物語を展開していく。

 たとえば、スターシュが材木運びの際にドイツ軍につかまってしまう場面、ほとんどセリフはないが、画面の動きやスターシュの表情によってそのエピソードの意味、スターシュとドイツ兵たちの感情は手にとるように伝わってくる。この手法はサイレント映画によって洗練されたモンタージュの技法を想起させる。ワイダ自身はサイレント映画を撮ったことはないが、サイレント映画を観ながら育った世代だろう。それが彼の映画美学を育てたのではないかとこのデビュー作から推察できる。

 さて、そんなワイダがデビューしたこの作品は社会主義体制のお気に召す必要があった。しかし彼自身は決してマルクス主義の信奉者ではなかった。彼はこの作品の中でナチスドイツを批判し、資本主義を批判している。ナチスドイツへの批判はもちろんのこと、資本主義への批判もある程度は本心だろう。しかしだからと言って彼が共産主義者だとはいえない。

 この作品が語りかけるのは体制への反抗である。体制というものは人々のことを考えてはくれない。ここで名指しされ批判されているのはナチスドイツだが、その背後に現在の社会主義体制に対する不満があることも今見れば明らかだ。

 そしてこの“世代”というタイトルも秀逸だと思う。その意味は最後の最後に明らかになり、観客はスターシュと同じ哀しみともあきらめとも、あるいは逆に希望とも取れる感情に襲われる。戦争の時代には一つの“世代”というのは10年20年単位ではなく、数年単位になってしまっている。その厳しい現実の中で若者はあっという間に年をとってしまう。それはなんとも悲しいことだ。

灰とダイヤモンド

Popiol i Diament
1957年,ポーランド,102分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:イエジー・アンジェウスキー
脚本:アンジェイ・ワイダ、イエジー・アンジェウスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:フィリッパ・ビエンクスキー
出演:ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、バクラフ・ザストルジンスキー

 1945年、ポーランド。ふたりの男マチェックとアンジェイが共産党の書記シチューカの暗殺を試みるが人違いで失敗。その日、戦争が終結し、祝賀ムードが漂う中、マチェックは偶然にシチューカを発見し、暗殺を実現しようとするが…
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダがその名を世界に知らしめた名作。『世代』『地下水道』につづく“抵抗三部作”の第3作。

 この映画から真っ先に感じるのは「混沌」である。物語は第二次世界大戦が終わった日、ソ連の影響下で共産主義化しつつあるポーランドとそれを阻止しようとする勢力が対立する。この映画が作られた当時、ポーランドは完全に共産主義政権下にあったのでその抵抗勢力は“ゲリラ”として描かれている。しかし、“ゲリラ”である彼らの出自はワルシャワ蜂起にあることが見て取れる。

 ワルシャワ蜂起は1944年、ポーランド国内軍がドイツ占領軍に対して蜂起した事件である。この蜂起にはソ連軍による働きかけもあったのだが、ソ連軍はドイツ軍の抵抗にあってワルシャワに到達できず、ポーランド国内軍はドイツ軍に鎮圧され、国内軍の一部は地下水道を伝って南部の解放区に脱出した。

 最終的にソビエト軍はポーランドをナチス・ドイツから解放したわけだが、同時にこのワルシャワ蜂起の際の苦い記憶もある。映画の中でも描かれているようにブルジョワは共産主義体制が固まる前に西側に脱出してしまう。

 この映画が描いているのは、戦争が終わりドイツ軍はいなくなったがまだ次の支配者は確立されていない混沌がきわまった一日なのである。共産党の書記を暗殺しようという動きと、ゲリラを鎮圧しようという動き、共産党の書記はブルジョワの家とつながりがある。誰もが次の一歩をどこに踏み出すかを迷っているようなもやもやとした空気がそこらじゅうを覆っているのだ。

 そしてそのような政治状況とは別に個人の生活がある。戦時にはいやおうなく抗争や戦争に巻き込まれてしまったが、戦争が終わったのなら平凡な生活がしたいと望む人も多いだろう。しかし抗争は続き、平凡な生活は容易には手に入らない。

 『灰とダイヤモンド』というタイトルが意味するところは、戦火が生み出した大量の灰の中に埋もれる平凡な生活こそがダイヤモンドの輝きを放つものなのだということなのではないか。この言葉はポーランドの詩人ノルヴィトの詩の中の言葉ということだが、作中で語られた詩からは今ひとつこの言葉の意味をつかめなかった(単に私の理解力不足かもしれないが)ので、そんな意味にとって見ることにした。

 そのダイヤモンドをつかむため混沌という灰の中を這い回らなければならない人々、そんな人々にとってこの混沌の意味するところは何なのか。そこにワイダはある種の虚しさを見出してしまっているのではないか、そんな気がしてならなかった。

 アンジェイ・ワイダの演出はその混沌を非常にうまく表現する。逆さ吊りのキリスト像、突然現れる馬、楽隊の調子はずれの音楽、そして最後のゴミ捨て場、それらは整然と物語を進行させる映画の構築の仕方とは異なる混沌の表現に違いない。そして混沌の中で局面局面に生じる緊張感がこの映画を稀有なものにしているということができるだろう。

 このように混沌とした作品になった理由には共産主義体制化での検閲を通過しつつメッセージを伝えるために象徴的な表現を使わざるを得なかったことにも起因しているだろう。しかし、それがポーランドにとって決定的な終戦の日を描くのに最も適した方法でもあり、映画が作られた当時の状況をも表現しうる手段であったともいえるだろう。

 アンジェイ・ワイダが体現する世界をもっと掘り下げてみたいと思わせてくれる作品だ。

アフター・デイズ

Aftermath
2008年,ドイツ,87分
監督:クリストファー・ロウリー
脚本:スティーヴ・ミルトン
撮影:フランク・ヴィラカ
音楽:クリストファー・デトリック
出演:マイク・マッカーリー(声)

 今から1分後に全世界の人類が消滅したとしたら… 人類のいなくなった世界では数時間後に電力が止まり、動物が自由を得る。しかし同時に汚染物質や原子力発電所などは危機を招きうる…
 緻密な理論とCG技術によって人類消滅後の世界をシュミレートしたドキュメンタリーというかなんというか。

 「今突然人類が消滅したら」というまったくもってありえない前提ではじまるこのドキュメンタリーはもやはドキュメンタリーではないわけだがでもまあ劇映画ではないわけで、一応ドキュメンタリーの範疇に入れておく。

 この映画のよさは前提が完全にありえないために、どのような結果になってもそれはあくまで想像上のことでしかないということが明らかになっている点だ。この作品は決して人類に警句を発しているわけではない。環境をテーマにしたドキュメンタリーというとどうしても見ている人を脅かすような警鐘になっている場合が多いが、これはそうではないということだ。

 見ている人はただ淡々と変わり行く世界を眺める。発電所が止まり、電力が止まることで汚染物質が流れ出したり、最終的には原子力発電所が臨界を起こしたりする。しかし人間のいない地球の時間は止まらない。人間の作り上げた多くの構造物は時間とともに劣化し、崩壊する。動物や植物は生き残り、環境は変化し、気候も変わる。

 ただそれだけだ。退屈といえば退屈だが、この作品からはいろいろなことが考えられる。今人間が地球に対して行っていることの意味、もし“人類が消滅しなかった”場合にどうなるかという予測、人類が今の生活を維持するために必要としているさまざまなこと。そんなことが頭をよぎり、いろいろと考える。

 この作品のシュミレーションはおそらく正確ではないだろうし、もしかしたら実際にはまったく違うことが起きるのかもしれない。シュミレーションの対象となっている地域が北米とヨーロッパの一部に限られているのも納得がいかない。しかし、そもそもが絵空事なのだから、そんな欠点にいちいち目くじらを立てる必要はない。足りないものは自分の頭で補って自分なりにこの素材を消化して、自分のものにすればいいのだ。

 そして、CGの質もかなりのものだ。明らかにアニメーションにしか見えないところもあるが、かなりリアルなところもあって、人間のいない世界を創造するのに十分なリアリティを備えている。絵空事ではあるけれど、ありえないことではない。そんな感覚を与えてくれる。

 この作品が与えてくれる人類が唐突にいなくなった地球のビジョンが私に語りかけてきたのは、まだ取り返しはつくということだ。人類が突然消滅するという大変革がおきなくとも、私たちは自分達人類の存在を薄めて地球の回復力を助けることができる。今の地球を病気の人だと考えるなら、人類の消滅というのはいわば決定的な特効薬だ。副作用もあるけれど病をもとから絶つことができる。しかし人類としてはそんな特効薬を使われてしまっては困るわけで、それならば地球に寄生する生き物のとして、宿主がなるべく長生きでき、かつ自分達が快適にいられるようにできる限りのことをするべきだ。そんなことを私は思ったが、果たして皆さんはどうでしょうか?

聖山

Der Heiling Berg
1926年,ドイツ,90分
監督:アーノルド・ファンク
脚本:アーノルド・ファンク
撮影:アーノルド・ファンク、ヘルマー・ラースキー、ハンス・シュニーベルガー
出演:レニ・リーフェンシュタール、ルイズ・トレンカー、エルンスト・ペーターセン、フリーダ・リヒャルト、ハンネス・シュナイダー

踊り子のディオティーマと登山家のコリ、コリの友人でスキーヤーのヴィゴ。ディオティーマが2人の山の男に出会い、恋物語が始まる。牧歌的な雰囲気だが、冬になると山は激変し人を死へと誘い込む世界になる。そんな冬の山に果敢に挑戦する男たち、それを待つ女。

『スキーの脅威』『アルプス征服』など山岳を舞台にした映画を主に撮るアーノルド・フィンクが後の女性監督となるレニ・リーフェンシュタールを主役に起用して撮ったサイレントのドラマ。レニ・リーフェンシュタールの女優デビュー作でもある。レニ・リーフェンシュタールは同監督の『死の銀嶺』『モンブランの嵐』などにも出演している。

レニ・リーフェンシュタールはそもそもダンサーで、それが女優になり、監督になって、ナチスにからめとられて、ナチスの宣伝映画のようなものを撮ってしまい、戦後は映画監督として世に出ることはできず、アフリカの先住民の写真などを撮ってカメラマンとして地位を築いたというものすごい人なわけですが、そのレニ・リーフェンシュタールの女優としての出発点がこの作品。

決して美人ではなく、しかしダンサーというだけに表現力はものすごい。やはりサイレントの時代には肉体に表現力のある人が好まれたのでしょう。とくにこの映画のように精神的というよりはある種のスペクタクルを見せる映画の場合は、ぱっとビジュアルで表現できる人が重宝される。だから、この監督はこれ以後もレニを使い続けたということ。

レニ・リーフェンシュタールのことは勉強不足で語ることができないので、この映画について書くことにしましょう。

この映画はドラマとしてはあまり面白いものではない。おそらく上映された当時もドラマとして観客を引き込むというよりは「自然の驚異!」みたいな、今で言えば「ディスカバリー・チャネル」、ちょっと前なら「野生の王国」的なものとして人々の好奇心を満たすものだったのではないかと推測できます。

そのような点から見ると、この映画はとてもよくできている。当時の編集や特殊効果の技術を差し引いても、見るべきものはある。

なんといっても感心するのは縦の構図の使い方。映画の画面というのはスタンダード・サイズ(今のテレビと同じ1×1.33の画面)でも横長なわけで、基本的には横に構図を考えざるを得ない。だから縦の構図というのは非常に作りずらい。しかし、この映画では大胆に画面を切り取って縦の構図を作ってしまう。本当に画面の左右を黒で埋めて細長い画面を作ってしまう。これはちょっと反則という気もしますが、とりあえず縦の構図というものに意識を持っていくことには成功する。

圧巻はこの映画最大の見せ場とも言える、「聖なる北壁」の登頂場面。ここでは画面サイズはそのままに縦の構図をしっかりと見せる。このシークエンスは断崖絶壁を上るシーンの連続で、とにかく上へ上へと映画は進む。これが縦の構図で非常に美しい。崖以外の部分はそれで埋めて、時間や天気の変化を表現するので画面に無駄もない。

さらに、ここにインサートされるレニ・リーフェンシュタールの部屋のシーンの構図がうまい。ものすごいロングで部屋を捉え、ものすごく立てに長い窓がある。この縦長が縦の構図という共通性を山登りのシーンとの間に築くことでシークエンスに一体感を与える。

このシークエンスはうなります。この監督立てに山の映画(「山岳映画」というらしい)ばかり撮っているわけではないらしい。

こういう場面に出会うと、映画があまり面白くなくても、我慢してみていてよかったと思います。

獅子座

Le Sugne du Lion
1959年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ニコラ・エイエ
音楽:ルイ・サゲール
出演:ジェス・ハーン、ヴァン・トード、ミシェル・ジラルドン、ステファーヌ・オードラン、マーシャ・メリル、ジャン=リュック・ゴダール

音楽家を名乗って遊び暮らすピエールのもとに大金持ちのおばが死んだという電報が届く。遺産で大金持ちだといきまくピエールはパリ・マッチで記者をするジャン=ピエールをはじめとする友達を呼び、ジャン=ピエールにお金を借りて派手なパーティをする。しばらく後、ピエールは姿を消し、人々はピエールに遺産がはいらなっかったのだとうわさする…

「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集長として理論面でヌーベル・ヴァーグを支えてきたエリック・ロメールが39歳にして始めて撮った長編映画。現在ではヌーベル・ヴァーグを代表する監督のひとりとなっているロメールの見事なデビュー。

何が“ヌーヴェル・バーグ”か? という疑問は常に頭から離れることはないが、この映画が“ヌーベル・ヴァーグ”であることは疑いがない。それはある種の新しさであり、50年代後半にフランスの若い映画監督たちが作り出した共通する独特の「空気」である。緻密に分析すると、編集の仕方とか音の入れ方とかいろいろと分析することはできるのだろうけれど、そういう小難しいことを抜きにしても、“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさというものを経験として蓄積することはできる。この映画はまさにその“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさを全編に感じさせる映画だ。

などといっても、実質的には何も言っていないような気がする。イメージとしてのヌーベル・ヴァーグはこんなものだといっても、何にもならない。だから、これがヌーベル・ヴァーグかどうかはおいておこう。

この映画にもっとも特徴的に思えるのは、パン・フォーカス。パン・フォーカスとは焦点距離を長くして、画面の手前にあるもの遠くにあるものの両方にピントをあわせる撮影方法で、ビデオ時代の今となっては簡単にできる方法だが、フィルムでやる場合、(カメラをやる人はわかると思いますが)絞りを大きく(ゆるく)する必要があるため、大きな光量が必要になる。日本ではパン・フォーカスといえば黒澤明で、それをやるために隣のスタジオからも電源を引っ張ってくるのが日常的な光景だったというくらいのものなわけです。

光量の問題はいいとしても、この作品でもパン・フォーカスが多用される。この映画ではそのパン・フォーカスが画面に冷たい感じを与える。パン・フォーカスをしていながら、画面の奥にあるのがものだけだったりすると画面がさびしい感じがして、そこから冷たさが生まれてくるものと思われる。これが一番発揮されるのはピエールがパリの街をさ迷う長い長いほとんどセリフのないシーン、画面に移るパリの街や人々のすべてにピントが合いながら、それらと交わりあうことのないピエールの姿の孤独さを冷酷なまでに冷静に見つめる視線。その迫力は圧倒的な力を持って迫ってくる。

「絶望」という無限の広がりを持つ言葉を一連の映像として見事に表現したシーン。その言葉には言葉にならないさまざまな感情、怒り、あきらめ、などなどが含まれながら、それは非常に空疎で、やり場がなく、しかし自分には跳ね返ってきたり、などなど。やはり言葉にはならないわけですが、その言葉にならないある種の宇宙をそこに見事に表現したロメールの技量の見事さ。これはなんといってもパン・フォーカスとモンタージュの妙だ。最後にパリの空撮ショットが入れ込まれるのも非常に効果的になっている。

このシーンがものすごくいいシーンだったわけですが、いまのロメールにつながる物を拾うなら、自然さというかアドリブっぽさ、偶然性、というものでしょう。こっちのほうの典型的なシーンは最初のほうのパーティーのシーンで、たしかジャン=フランソワがドアを開けるときに、ドアが一回では開かず、2回か3回がたがたとやる。これが果たして演出なのか偶然なのかはわかりませんが、このアクションひとつでこのシーン、この映画に自然さとリアルさが生まれる。今に至るまでこのような自然さというのがロメールの映画にはあふれている。何気なく見ていると何気なく見過ごしてしまう。だからこそ自然なわけだけれど、そのようなカットやアクションをさりげなくはさんでいく。それこそが“ヌーベル・ヴァーグ”というよくわからない枠組みを越えて、ロメールがロメールらしくあるひとつの要素であると私は思うので、デビュー作のこの作品にもそれが垣間見えたことは非常にうれしいことだったわけです。

リュシアン 赤い小人

Le Nain Rouge
1998年,ベルギー=フランス,102分
監督:イヴァン・ル・モワーヌ
原作:ミシェル・トゥルニエ
脚本:イヴァン・ル・モワーヌ
撮影:ダニエル・イルセン
音楽:アレクセイ・シェリジン、ダニエル・プラント
出演:ジャン=イヴ・チュアル、アニタ・エクバーグ、ティナ・ゴージ、ミシェル・ペルロン、アルノ・シュヴリエ

法律事務所に勤めるリュシアンは身長が1m28cmしかないいわゆる小人、周囲の人々にバカにされている視線を感じつつも誠実に仕事をこないしている。その彼が担当した離婚問題で離婚を実現するための手紙の代筆をしていたが、その依頼主である伯爵夫人に手紙を気に入られて婦人の邸宅に呼ばれる。同じころリュシアンは旅回りのサーカスの少女イジスと知り合う…

ベルギーの監督イヴァン・ル・モワーヌの長編デビュー作。モノクロに粗い画面を使って意識的にクラッシクな雰囲気を作り出し時代設定も現在というよりは20世紀前半にしてある。地味ではあるけれど実力を感じさせる作品。

全体としては1930年代の映画を今作ろうとしているという感じがする。舞台から人物、小物、フィルムにいたるまでその時代の設定で完璧に作りこむ。そんな意気込みがこの映画からは感じられる。何も知らずに見たなら、昔の映画だと思ったままずっと映画を見てしまうかもしれない。その仕掛けの意図はよくわからないが、とりあえず出来上がった映像はなかなか面白い。どれだけ古典に親しんでいるかによって受け取り方は違うだろうけれど、映像の完成度は高く、あまり古典を見たことがない人ならば、古典の魅力を発見する助けになるかもしれないと思う。

物語としては心理劇というか、リュシアンという主人公に矛盾する人間の心理を表現させているという感じ。くよくよ悩んだり、ぐだぐだとくだを巻いたり、といった直接的な表現を使うのではなく、彼の行動によってその心理を推察させる。心理劇としてはよくあるというか古典的な手法ではあるが、主人公を小人に設定することで複雑さが生まれるとともに、観客の先入観を利用することで観客の意識を誘導するのを容易にしているということも言える。

だから、観客はリュシアンの心理の動きを的確に読み取ることができる。監督が衝撃を与えようと考えたところは衝撃的に、共感を得させようとしたところは共感を感じられるように、映画を見られる。もちろん個人差あると思うが、この監督は丁寧に丁寧にだれも映画に乗り遅れないように配慮している気がする。

そのために重要なのはなんといってもゆっくりとしたテンポ。ハリウッド映画のようにぱっと見てすぐわかる映画の場合テンポをあげて観客を引っ張っていくほうが観客を映画に引き込むことができるが、この映画のように観客に推察させて導いていく映画の場合、考える「間」を的確に配して観客が自発的に映画の中に入り込むようにするのがいい。

この映画でそれが最も感じられたシーンは、リュシアンが伯爵夫人の家に忍び込むシーンだ。これは伯爵夫人がいる家にリュシアンが忍び込んで酒を飲み、夫人の夫人のカツラをかぶり、化粧をするというシーンだが、ここでも物語を急速に展開させず、リュシアンの心理を酒とカツラと化粧という小道具を使って映像的に表現していく。そして猫を何度も何度もインサートすることで、考えるべき「間」を与える。そしていつ見つかってしまうのかという緊迫感もある。視線もほぼリュシアンの視線にカメラが置かれ、リュシアンに同一化してその場にとどまることができるように配慮されている。

だから、観客は迷うことなくリュシアンの立場に身をおき、苛立ちや安らぎや憎しみや愛情を感じることができる。ある意味では陳腐といえてしまうかもしれないが、非常に観客に優しく、全体の暗い雰囲気とは裏腹に決して暗澹たる気持ちになる映画ではない。

古典的な映像の作り方というのもこの映画の雰囲気にマッチして、まさに昔の映画を見たような観後感(読後感のようなもの)がある。1930年代の映画というのはもう増えることがなく、その良さを味わうには優れた映画を繰り返し見るしかないと考えるのが普通だが、この監督はそういう映画を自分で新たに作ってしまえばいいと考えたのかもしれない。古典映画の再生産とでも言えばいいのか、そのような古典映画を現代に作るということもひとつのジャンルとして面白いかもしれないとも感じた。

小さな兵隊

Le Petit Soldat
1960年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:モーリス・ルルー
出演:シェル・シュボール、アンナ・カリーナ、アンリ=ジャック・ユエ、ポール・ブーヴェ、ラズロ・サボ

カメラマンのブルーノはアルジェリアの独立を阻止しようとする諜報組織OSAに属し、スイスのジュネーヴにいた。ブルーノは友人にヴェロニカという女の子を紹介され、ブルーノは彼女をモデルにして写真を撮ろうと考える、同じころ、OSAは彼にスイスのジャーナリストであるパリヴォダの暗殺を命ずる。

『勝手にしやがれ』で世界の映画界に衝撃を与えたゴダールの長編第2作。当時フランスが抱えていたアルジェリア問題に真正面から切り込んだ社会派作品だが、展開はスパイサスペンス仕立てで、ゴダールにしてはわかりやすい。ゴダールの恋人だったアンナ・カリーナのデビュー作でもある。

ゴダールはやはりすごい。そしてアンナ・カリーナはやはりかわいい。

『勝手にしやがれ』は確かにすごい。しかし、ゴダールのゴダールとしての始まりはこの映画なのかもしれない。『勝手にしやがれ』はひとつの出来事であり、今となってはある種の記念碑であり、古典であり、ファッションであり、そしてもちろん面白い。しかし、『勝手にしやがれ』のゴダールらしさとはなによりもその新しさにある。ゴダール映画は常に新しい。今見ても新しいが何よりも時代の先を行っているわけ。『勝手にしやがれ』がどう新しかったのかは今となっては実感することはできないし、他にも新しい映画はあったはずだ。それでもゴダールが持ち上げられるのは彼が常に新しいものを作り続けているからだ。私の理解は越えてしまっているものが多いけれど、それでもこれまでのものとは違う何かがそこに表現されていることは感じ取ることができる。それがゴダールなのだろうと私は思う。そのような意味では『勝手にしやがれ』はもっともゴダールらしい作品のひとつであるといえる。

しかし、いまゴダールの作品をまとめてみることができ、それを比較対照することができるようになってみると、ゴダールのスタイルというのは『勝手にしやがれ』よりむしろこの『小さな兵隊』にその素が多く見られる気がする。アンナ・カリーナが出ているというのももちろんだけれど、モノローグの使い方、本や文字の使い方などなどなど。

映画というものを映像に一元的に還元するのではなく音や文字といったさまざまな要素の複層的な構造物として提示する。それがゴダールのスタイルだと私は思っている。映像も単純な劇ではない多量の情報をこめることができる映像にする。それがゴダールなのだと私は感じる。たとえば『中国女』は大量の文字を盛り込んだ映画、ゴダールが特にこだわりを見せるのは「言葉」だ。それもゴダールの特徴である。

この映画はモノローグという形で多量の「言葉」を発していく。そして美女は微笑んでいる、むくれている、そっけなくして見せる。ゴダールを語ると、その言葉が断片的になってしまうのは、ゴダールについて語る言葉もある意味ではゴダールの一部だからだろうか。

ラストシーンの唐突さもなんだかゴダールらしい。見るものに隙を見せないとでも言えばいいのか、「うんうん」といって映画館を出るのではなく「え?」といって映画館を出ざるを得ないように仕向ける。それもまたゴダールなのだと思う。

ただ、この映画には「音」がかけている。ゴダールの映画で非常に効果的に使われる音。効果音やBGMという概念を超越したところで作られ、使われる音、あるいは静寂。『はなればなれに』は音/静寂が非常に印象的な映画だった。その音がこの映画では意識されない。どのような音があったか。印象的だったのはブルーノとヴェロニカがバッハ・モーツアルト・ベートーヴェンについて語るところくらい。

ゴダールは音を獲得し、着実にゴダールになっていく。この次の作品は『女は女である』で、まだそれほどの複雑さはない。この作品にもそれほどの複雑さはない。

トスカ

Tosca
2001年,フランス=ドイツ=イタリア=イギリス,126分
監督:ブノワ・ジャコー
原作:ヴィクトリアン・サルドゥ
脚本:ジョゼッペ・ジャコー、ザルイジ・イリッカ
撮影:ロマン・ウィンディング
音楽:ジャコモ・プッチーニ
出演:アンジェラ・ゲオルギュー、ロベルト・アラーニャ、ルッジェロ・ライモンディ、マウリツィオ・ムラーロ

 プッチーニのオペラ『トスカ』をスクリーン上で演じた作品。舞台を映画化する、あるいはオペラをドラマとして見せるのではなく、映画という舞台装置の中でオペラを表現するという珍しい表現形式をとる。
 1800年のローマ、教会で壁画を描いていたマリオ・カヴァラドッシのところに政治犯として投獄されていた友人のアンジェロッティがやってくる。そこにカヴァラドッシの恋人トスカがやってきてマリオはアンジェロッティを隠した。そしてトスカが去った後アンジェロッティを逃がすが、そこに警視総監のスカルピアがやってきて…

 オペランファンにはたまらないのだろうか? 出ている人たちはオペラ界ではかなり名の売れた人たちらしい。オペラを愛好する人たちは結構いるとは思うけれど、一般的に知られているといえば、三大テノールくらいのもので、なんともマニアックな世界という気がしてしまう。だからこの映画がオペラファンにはたまらないものであっても、私には映画ですらない映画としか思えない。
 オペラとして面白いのかどうかはおいておいて、これが映画になっているのかどうかを考えてみると、オペラをそのまま映画にしたものではなく、映画のためにオペラを作り変えたものなので、多少は映画よりになっているということはいえる。そしてより映画的にするためにドキュメンタリー的要素も取り入れたということになるのだろう。
 しかし、このドキュメンタリー的要素として導入された収録現場の風景が逆にこの映画の映画との隔たりを物語る。映画にはやはり物語が必要であり、オペラ自体には物語がある。しかしこの収録場面には物語がない。これはつまり香港映画なんかでエンドロールに流れるNG集が映画の中に織り込まれてしまったようなもので、とりあえずの間は続くべきである映画空間を切り刻み、映画に擦り寄っただけの単調なオペラの切り売りに出してしまう。オペラによる劇がリアルであるかどうかという問題以前に、この映画は映画的空間を現出させるのに失敗しているといわざるを得ない。

 ミュージカル映画はそれが徹底して映画的空間であるがゆえに、ひとつのジャンルとして成立しえた。そこに違和感を感じる人がいたとしても、それはミュージカルそのものに対する違和感であり、いわゆるリアリズム的な映画との齟齬であり、映画というジャンルの中での差異による違和感である。いくら違和感を感じても、ミュージカル映画が映画的空間から逸脱するとこは(大部分の映画では)ない。
 この映画も収録場面の部分をはずすか、最後にもってくればある種の「オペラ映画」にはなったかもしれない。それはオペラの舞台装置を映画に変えたオペラファンに向けた映画にはなってしまうけれど、それはそれでひとつの映画になったはずだ。
 この映画がこのようにドキュメンタリー的な要素や異なった画面を使うことによって狙ったのは、オペラファン以外の観客に受け入れられようということだろう。しかしオペラファンではない私がこの映画を見る限りでは、「こんな映画を見るよりは生でオペラを見たほうが何十倍も面白いんだろうなぁ」という当たり前な感慨だけだ。

 だから、この映画はオペラファン以外にはまったく受け入れられる余地はないし、そもそも映画ではない。これも見て「オペラ見てみたいなぁ」と思ったらオペラを見に行けばいいし、私にもオペラのよさは多少伝わってきたけれど、やはりこれは映画ではない。

マーサの幸せレシピ

Bella Martha
2001年,ドイツ,105分
監督:サンドラ・ネットルベック
脚本:サンドラ・ネットルベック
撮影:ミヒャエル・ベルトル
音楽:キース・ジャレット、アルヴォ・ペルト、デヴィッド・ダーリン
出演:マルティナ・ゲデック、セルジオ・カステリット、ウルリク・トムセン、マクシメ・フェルステ

 ハンブルクのレストランでシェフとして働くマーサはすばらしい料理を作るが、スタッフには厳しく当たり、あまり打ち解けることもない。家に帰ってもしっかりと料理を作るが、食は進まず拒食症気味。休日に遊びに行くこともない。マーサを「街で2番目のシェフ」と評する友人でもあるオーナーの命令でセラピーにも通っている。そんなマーサのところに姉が交通事故死したという知らせが入る…
 女性監督であるサンドラ・ネットルベックが等身大のキャラクターを主人公にロマンティックな映画を撮った。ドイツを始めたヨーロッパでヒットし、さらにアメリカでもヒットした作品。女性ならほぼ全員が満足するでしょうという作品。料理もおいしそう…

 私はこの映画は好きですが、男性の中にはまったくもって面白くないという人も結構いるのではないかと思います。それに対して女性はほぼ全員が気に入る映画だとも思います。
 なんといってもこの映画は徹底的にロマンティックな映画。心を閉ざしていた主人公が徐々に心を開き、しかも成長していくわけですが、そこに一人の男性が現れ… とラブストーリー的な部分とシリアスな人生ものというか、ラブストーリーの枠からはみ出た部分でもちゃんと展開があり、それと主人公の心情がうまく結びついて、観客の共感を呼ぶようにできている。音楽の使い方なんかも、男っぽい観客には甘すぎる感じがするとは思いますが、映画にフィットした非常にロマンティックな音楽。それを奇をてらわずに盛り上がる場面にドンと流すので、それはもう盛り上がりをあおること請け合いです。とくにキース・ジャレットのナンバーが効いています。
 という感じですばらしいロマンティシズムの映画ということなので、展開の妙とかハラハラ感なんかはないわけです。「こうなって欲しい!」と思うとおりに物語りは展開する。マーサが運転し、リナが後部座席に座るというシーンが同じショットで2度出てくるなど映画の構成もわりにきちっとしていて、物語に入り込めるように作られているのも非常にうまいわけです。物語に入る込むことができて、あとは思うとおりに物語が展開してくれれば、それは一種の御伽噺の世界になるので、そこに浸るのは非常な快感。瞳を輝かせながら最後まで一気に… となるのです。これは皮肉でもなんでもなく、そのように観客を引き込める映画をきちっと作ったのはすごいことだと思うわけです。
 ただ、私はわずかながらロマンティックすぎると感じたわけで、それは男っぽさに価値を置いているような世にいる男性には受け入れがたい世界だということも意味しているのだと思います。

 そして、料理もとてもおいしそう。料理をおいしそうに撮るにはライティングなんかの工夫が必要なので、厨房という動きのあるところで料理をおいしそうに見せるというのはなかなか難しいと思うのですが、この映画の料理はとてもおいしそう。見終わったあとフレンチかイタリアンが食べたくなるのは男性も女性も一緒でしょう。