ぼくのエリ 200歳の少女

 ストックホルム郊外に住む少年オスカーはいじめられっ子、いじめっこへの反撃を夢想し、木にナイフを突き刺しているところを隣に住むという少女エリに目撃される。同じ頃、近くの森で男が木に吊るされて血を抜かれるという殺人事件が起き、さらに別の事件を目撃したという証言も出てくる…
少年とヴァンパイアの少女の交流を描いたファンタジー・ホラー。ハリウッドで『モールス』としてリメイクされた。

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TOKYO!

 田舎から出てきて東京で友達の家に居候するカップルの苦難を描いたミシェル・ゴンドリー監督の『インテリア・デザイン』、下水道に住む怪人がマンホールから現れ、東京のまちを混乱に陥れるレオス・カラックス監督の『メルド』、10年間引きこもりだった男がピザの配達員の少女の目を見つめてしまったことから起きる事態を描いたポン・ジュノ監督の『シェイキング東京』。
東京が舞台という以外共通点はないが、どの監督も目に見えるそのままの東京を描いてはいない。それぞれにストーリー的な面白さもしっかりある佳作揃い。

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レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカー

 アイスランドを観光で訪れたアネットはホエールウォッチングに参加するが乗客の一人の悪ふざけで船長が重症を負い、助手も逃げてしまう。そこに助けが来るが、安心したのもつかの間、連れていかれた捕鯨船はホエールウォッチング客を目の敵にするいかれた一家のものだった…
捕鯨が禁止され、ホエールウォッチングを観光の目玉にしたアイスランドを舞台にしたブラック・スプラッター・コメディ。裕木奈江が重要な役どころで出演。

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プロジェクト・ニム

1970年代、コロンビア大学のハーバード・テラス教授はチンパンジーが人間のように言語を覚えられるかを研究するため、生後2週間のチンパンジーを元教え子のステファニーの元で育てさせることを考える。ニムはステファニーの元ですくすくと育つが、放任しすぎて研究にならないと考えたテラスはニムを訓練に専念できる環境に移し、研究を続けるが…
70年代に「手話ができるチンパンジー」として有名になったニムの生涯を資料映像と関係者へのインタビューで構成したドキュメンタリー。いろいろモヤモヤ。

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君を想って海をゆく

 フランス北部の街カレーにはイギリスに渡ろうという不法移民が集まっていた。イラクからやってきた17歳のクルド人ビラルもその一人。彼は家族とイギリスに渡った恋人を追って海を渡ろうとするが密航は失敗に終わり、あとはドーバー海峡を泳いで渡るしかないと考えプールに通い始める。そしてプールで妻と離婚調停中のコーチ・シモンと出会う…
『パリ空港の人々』のフィリップ・リオレ監督が移民問題をテーマに描いたヒューマンドラマ。

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マルタのやさしい刺繍

老人たちの活躍が心温まりスカッともするスイス映画の佳作

Die Herbstzeitlosen
2006年,スイス,89分
監督:ベティナ・オベルリ
原案:ベティナ・オベルリ
脚本:サビーヌ・ポッホハンマー
撮影:ステファン・クティ
音楽:リュック・ツィマーマン
出演:シュテファニー・グラーザー、ハイジ・マリア・グレスナー、アンネマリー・デューリンガー、モニカ・グブザー、ハンスペーター・ミュラー=ドロサート

 スイスの山間の小さな村、夫に先立たれ生きる意欲を失ってしまった80歳のマルタは村の合唱団の旗の修復を頼まれたことをきっかけにランジェリーショップを開くという若い頃の夢を思い出す。そして親友のリージの協力を得て開店準備を進めるが、村人達はマルタを破廉恥と後ろ指差すようになる…
 スイスからやってきた老人を主役にした佳作。ちょっと紋切り型過ぎる気もするが、心温まる雰囲気を持った作品。

 80歳で夫に先立たれ生きる意味を失った老女が若い頃の夢を思い出して活力を取り戻すという話。その夢がランジェリーショップというのが肝で、保守的な村人達からは白い目で見られてしまうという話。

 主人公のマルタとその友だちのばあちゃん達が対立するのはその息子達、息子達は40代くらいの働き盛りで親を役に立たない年寄りとみなし、自分たちの価値観を押し付けることを当然と考えている。まあそれはわかるのだが、この村人達はあまりに保守的過ぎ、自分勝手過ぎる。マルタの息子で牧師のヴァルターは聖書勉強会の会場にするためにマルタの店からランジェリーを撤去し、捨ててしまったりする。さすがにそこまではやらんだろう…

 でもまあそれによって老人たちの活力がより強調され、映画としてはわかりやすくなり、観客は老人達を応援したくなることは確かだろう。子供世代にバカにされる年寄り達がその鼻を明かすという物語は本当にスカッとする。

 老人を主役にした映画というのは最近では子供や動物ものと同様に簡単に面白い作品になるという気がする。老人に厳しい世の中になって、老人が尊敬の対象というよりは社会のお荷物、世話しなければならない対象となったことで、弱者が強者をやっつけるという物語が可能になったからだろう。

 老人は動きが鈍かったりして弱弱しくはあるけれど文字通りの老練さと歳の功があって若者をギャフンといわせられる。これはある意味、現代の勧善懲悪の一つのパターンになっているのではないか。だから、そのパターンは予定調和と感じられるのだけれど、まあ予定調和の安心して見られる物語というのも気晴らしにはいいものだ。

 贅沢を言うならば、マルタのランジェリーに対するこだわりやその製作過程がもっと細かく描かれているとよかった。現代の機械によるものとマルタの手仕事によるものの違い、彼女のデザインにどのようなものがあるか、重要な小道具である民族衣装の柄をポイントに入れたランジェリーの詳細など、そういった細部が細かく描かれているとわかり安すぎる人物像を補うリアリティが生まれたのではないだろうか。

大理石の男

社会主義体制下でしたたかに社会に訴えかけるワイダの労作

Czlowiek z marmuru
1977年,ポーランド,160分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ミハウ・タルコフスキ、クリスティナ・ヤンダ、タデウシュ・ウォムニッキ

 大学の卒業制作の映画制作に取り組むアニエスカは大理石像にもなった労働者の英雄ビルクートの生涯を追う。“技術的理由から”未発表となったニュースフィルムに彼の姿を認めたアニエスカは昔の彼を知る人物にインタビューをしていくが、なかなか彼の実像に近づくことができない…
 “抵抗三部作”以来久々にワイダがポーランド社会を正面から捉えた労作。カンヌ映画祭国際批評家賞を獲得。

 レンガ工としてレンガ積みの新記録を作り、英雄に祭り上げられた男ビルクート、いまはその消息すら聞こえてこないその男を映画にしようと考えたアニエスカは博物館の倉庫に埋もれている彼の大理石像を発見する。

 そして、映画は彼女がビルクートの生涯を追っていくのに伴って彼の生涯を描いていく。彼が名を上げたレンガ積みを記録した映画監督、その時代に彼と親交があった男、その話を基に作られた再現映像が積み重ねられ、彼の実像が徐々に明らかになっていく。なぜ英雄であった彼の写真が壁からはがされ、行方も知れぬ存在になってしまったのか。その物語は非常に面白い。

 彼を知る人々は警戒心を抱きながら、彼に関する事実を少しずつ明らかにしてゆく。未発表のニュース映像なども見つかり、このビルクートという人物に観客の興味はひきつけられていく。そして、その中でポーランド社会の誤謬や体制の理不尽さなどが明らかにされてゆくのだ。

 なぜこの映画がポーランドで可能になったのかと疑問を覚えたが、よく考えればこの作品が槍玉に挙げている社会の不正はあくまでも昔のものであり、おそらく旧体制のものだったのだろう。この映画が作られたそのときの現存する政権に対する批判が含まれていなければ検閲は通る。そういうことだったのではないかと私は思った。

 2時間40分という長尺はさすがに長く感じられ、終盤には見疲れてしまう感じもあったが、最後の最後まで考えられた構成はさすがとしか言いようがない。最後にアニエスカはビルクートの息子を見つける。その息子は再現映像に登場したビルクートにそっくりなのだ。そして彼は淡々と「父は亡くなりました」という。このアンチクライマックスは拍子抜けのように思えるが、最後の最後アニエスカはビルクートの息子とテレビ局に行く。そのときふと気づくのだ。再現映像に出ていたのはこの息子なのだと。

 そこからこの長い映画の持つ意味ががらりと変わる。この作品に挿入されていたもしかしたら再現映像は彼女がこの息子を発見してから撮ったものかもしれないのだ。だとすると、ニュース映像として提示されているそっくりの人物が登場する映像も…? ビルクートとそっくりな息子が登場することでこの映画には多くの謎が生まれ、さまざまな解釈が生まれる。

 そして、ワイダが4年後に同じ二人を起用した『鉄の男』を撮っていることも意味深だ。しかも、この『鉄の男』はポーランドに成立した“連帯”を支持する作品として作られた。

 ワイダはこの『大理石の男』で“連帯”へと向かう若者たちを予言しているかのようにも見える。あるいは、“落ちた英雄”の伝記という形を借りて、現在の若者が抱える社会に対する疑問を映像化したというべきか。しかもその疑問は表立っていわれることは決してなく、幾重にもカモフラージュされた表現の中にのみ見出すことができるのだ。

鉄の男

歴史的事実や当時の空気を伝えてはいるが映画としての面白さは…

Czlowoiek z Zelaza
1981年,ポーランド,152分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、クリスティナ・ヤンダ、マリオン・オパニア、ボグスワフ・リンダ

 1980年、ポーランドのグダニスクの造船所でストが起きる。ワルシャワの放送局に勤めるビンケルはそのストの首謀者マチェクへの取材とストへの働きかけの任務を帯びてグダニスクへ赴く。その任務にしり込みするウィンケルはスト委員会によって禁酒令が発せられると知りさらに憂鬱を募らせる…
 アンジェイ・ワイダが“連帯”に対する支持を表明する作品として発表した社会派ドラマ。“連帯”のレフ・ワレサ自身も映画内に登場し、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

 物語は1981年現在の状況をビンケルが取材する形で進んでいくが、その中で関係者の証言として1970年の弾圧や1980年の連帯の誕生時の話が映像として挿入される。それは“連帯”(1980年にグダニスク造船所のストをきっかけに全国的なポーランド民主化のための組織として誕生)の誕生によってひとつの完成を見たポーランド民主化運動の歴史そのものである。この作品はその歴史をグダニスクの造船所のストの指導者であるマチェクと70年のストで亡くなった彼の父親を通して描こうとしているわけだ。

 主眼がそのような社会的な事実を描くことに置かれているだけに映画としては退屈にならざるを得ない。常に落ち着かず、額に汗を浮かべてすぐに酒に頼ろうとするビンケルのキャラクターは秀逸で彼の存在がこの映画に予想不可能な緊張感を与えている。しかしそれでも彼はあくまでストを推し進める側ではなく、それを客観的に見つめ、あるいはむしろそれを阻止しようとする体制側にいるかもしれない人間だ。そのために彼は物語の主役とはなりえず、そのキャラクターは十全には生かされていないように思えてしまうのだ。

 アンジェイ・ワイダの作品の最大の魅力は人間と人間の関係の描き方にあるように思える。言葉に頼ることなく画面に2人3人という人間を収めて物語を構築していくだけでその関係性が浮き彫りになり、そこに深みのある物語が生まれる。それがワイダが作り上げる映画の面白みに他ならない。

 この作品はビンケルとマチェクと終盤にはその妻との関係が描かれてはいるが、それはこの作品が描こうとする民主化運動と“連帯”の大きさから比べると小さすぎる。ワイダの視線は社会という大きな塊を描こうとするにはナイーブ過ぎ、その全体像を伝えきれないという印象がある。

 だからこそ、ワレサを主人公にするのではなく、グダニスクの造船所のストという“連帯”への端緒となる比較的限定された対象を選んだのだろうけれど、それが最終的に“連帯”という全国的な広がりを持つ運動へと発展してゆくのに伴って存在感を薄れさせていったのと同様、この作品も求心力を失ってしまっていっているような気がする。

 アンジェイ・ワイダは1980年9月にポーランドで成立した“連帯(独立自主管理労働組合)”に強い支持を表明した。しかしこの“連帯”は1981年の戒厳令の発令により大きく力をそがれてしまう。この作品が作られたのは“連帯”が勢いを持ったわずかな時期の間である。その高揚感は作品からは感じられるが、それが歴史となった今見ると、その高揚感によってワイダの優れた描写力が鈍ってしまっているように思える。

 私は映画監督というのは好きなものを好きなように撮っていいという時より、予算とか検閲といった制限がある程度あるときのほうがいい作品が撮れるものだと常々思っている。検閲下で優れた映画を作り続けてきたイラン映画やソ連映画、戦中の日本映画、戦後の日本映画の性的表現などがそうだ。

 この作品は散々不自由な思いをしてきたワイダがついにある程度自由に思いのたけをこめることができるようになった作品なのだと思うが、そのことが逆にワイダのよさを殺してしまった。そんな風に思えてならない。

 この作品に与えられたカンヌ映画祭のグランプリは映画そのものというより西欧社会を代表してポーランドの“連帯”に与えられたものなのだろう。良くも悪くも映画というものも“政治”とは無関係ではいられないことを示すことになった作品だと思う。ワイダも81年の戒厳令により(おそらくこの作品のせいで)映画人協会会長の座を追われしばらく国内での映画製作ができなくなってしまった。

 映画と政治というのはなかなか難しい関係にあるもののようだ。

夜の終りに

社会主義の暗さを感じさせない万国共通の青春の煮え切らなさが秀逸

Niewinni Czarodzieje
1961年,ポーランド,87分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・アンジェウスキー、イエジー・スコリモフスキー
撮影:キシシュトフ・ウイニエウィッチ
音楽:クリシトフ・コメダ
出演:クデウィシュ・ウォムニッキー、ズビグニエフ・チブルスキー、クリスティナ・スティプウコフスカ、アンナ・チェピェレフスカ

 スポーツ医でジャズドラマーのバジリはガールフレンドのミルカに冷たく当たる。その夜、バジリと飲んでいた友人のエディックが一人の女に目をつける。エディックが連れの男をだましてその女ペラギアを連れ出したバジリはペラギアに振り回されながら、彼の部屋に2人でたどり着く。
 アンジェイ・ワイダが“抵抗三部作”に続いて撮った青春映画。シンプル表現が秀逸で若きワイダの才能を感じさせる作品。

 電気かみそりにテープレコーダをもつ身なりのいい若い男、当時のポーランドの状況はわからないが、なかなか羽振りのいい男のようだ。その男バジリはガールフレンドの呼びかけに対して居留守を決め込み、やり過ごすとドラムスティックを持って出勤する。職場はボクシング上で仕事は医師らしい。そこに勤める看護婦とも過去に何かあったらしく、思わせぶりな会話が交わされる。

 夜はジャズバンドにドラムで参加、医師でミュージシャンなんていかにももてそうだし、顔もハンサムで、そのイメージどおりプレイボーイのようだ。何の説明もないが、ワイダはそのあたりをうまくさらりと描く。特別個性的な表現があるわけではないが、無駄な描写もなく着実に物語が構築されていっていると感じることができる。

 その後はプレイボーイであるはずの彼がペラギアに振り回されてしまうのだが、そこで展開される哲学的な話や煮え切らなさに青春映画の輝きを感じる。夜が更けてから翌朝にいたるまでの2人のやり取りというのは国や時代を超えてどの若者にも通じる感覚を持っている。それがワイダの才覚なのだろう。

 アンジェイ・ワイダの監督デビューとなった“抵抗三部作”はそのメッセージ性の強さが際立って、ワイダの監督としての力量や作家性はその陰に隠される形になった。それでも彼の映像の冴え、表現のうまさというのは感じさせたが、この作品からは彼の簡潔な表現のよさが感じられる。それは青春映画というシンプルなものになったことでディスコースが明確になったということであると同時に、“抵抗三部作”という労作を通して彼の表現力が増したということでもあるだろう。アンジェイ・ワイダはデビュー・シリーズである“抵抗三部作”によって有名だが、その直後に撮られたこの作品は彼の才能がそこにとどまらないことを明確に語っている。

 リアルタイムにこれを見た人はこれからの彼の作品にわくわくするような予感を感じたのではないか。50年後に彼の作品を見直す私でさえそう感じるのだから。あとは社会主義という体制が彼の才能と表現にどう影響してくるのか。

 この作品の時点ではその体制の不自由さがわずかに影を落としているだけだが、彼が体制と戦っていかねばならないという予感は感じさせる。ヒロインのペラギアはおそらく“自由”の暗喩であるのだろう。それは幻影のように目の前にちらりちらりと表れるけれどなかなか手に入らないものである。最後に“アンジェイ”という本名が明かされるバジリはまさしくワイダの化身なのだ。

地下水道

Kanal
1956年,ポーランド,96分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:ヤン・クレンツ
出演:タデウシュ・ヤンツァー、テルサ・イジェフスカ、エミール・カレヴィッチ、ヴラデク・シェイバル

 1944年ワルシャワ、レジスタンスの一中隊が廃墟で敵に囲まれる。ドイツ軍による攻勢に抵抗するが死者、負傷者を出し本部の指令でやむなく地下水道を通って撤退することに。しかし、その地下水道も汚臭と暗闇に覆われた迷宮で撤退は困難を極める…
 アンジェイ・ワイダがワルシャワ蜂起を描いた“抵抗三部作”の第2作。57年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 物語はワルシャワ蜂起がすでに鎮圧されようとしているところから始まる。亡命政府の指令でソ連軍の支援を当てにして始まったワルシャワ蜂起だったが、ソ連軍がワルシャワに到達できなかったことで戦況は絶望的になり、レジスタンスは敗走を余儀なくされることになる。ワルシャワ中に張り巡らされた地下水道(つまり下水道)は彼らがドイツ軍に見つかることなく移動できる唯一の手段であり、多くの命を救った。

 この作品は敗走する一中隊がその地下水道を行軍する様子を克明に描く。実際にそれを体験したイエジー・ステファン・スタヴィンスキーによる脚本には迫力があり、モノクロの画面から伝わってくるのは常に絶望だ。

 ここに描かれるのは祖国のために立ち上がった人々が侵略者によって虐げられる姿だ。しかし印象的なのは、そこにドイツ兵の姿がほとんど登場しないということだ。最初に攻撃されるところでも攻撃してくるのは戦車である。しかし銃弾や砲弾によってドイツ軍の存在は明瞭にわかる。そして、この見えないものへの恐怖というのがこの作品全体を覆い、地下水道に入ってからも毒ガスや手投げ弾という形で彼らを襲うのだ。

 この「見えない」ことによって恐怖はリアルになる。多くの人々にとって恐怖のもとは見えないものだ。それは日常でも戦争でも。見えないからこそいつ襲われるかわからない恐怖が生まれ、人間の心を圧倒してしまう。ワイダは戦争が人に植え付ける恐怖をドイツ兵を“見せない”ことによって描いた。それが彼の非凡なところなのだろう。

 そしてその「見えない」恐怖は彼がこの映画を作ったリアルタイムの現実についても言えるはずだ。彼が味わう、検閲・迫害・粛清という恐怖。現代のわれわれから見ればこの作品にはそんな彼自身の恐怖の匂いも漂っているように思える。祖国のために闘って死んでいった人たちの死が犬死になってしまうような現状、ナチスドイツの残酷さを描いているようでいて、彼は彼らの死の虚しさを描いているのではないかという気がしてくる。

 それでもこの作品に希望があるのはそこにかすかに存在する青春のためだ。どんなに悲惨で絶望的な状況でも若者はどこかに希望を見出し、もがく。その結果がどうあれ、青春とは生きることだ。自身もまだ若かったアンジェイ・ワイダがこの作品でやりたかったのは恐怖に圧倒される中でも希望を失うなと自分に言い聞かせることだったのではないか。そうでなければ暗黒の中では気が狂ってしまうのだ。

 重苦しく、見ていて楽しい作品ではないが、見なければならない作品でもある。