現金に手を出すな

Touchez pas au Grisbi
1954年,フランス=イタリア,96分
監督:ジャック・ベッケル
原作:アルベール・シナモン
脚本:ジャック・ベッケル、モーリス・グリフ、アルベール・シナモン
撮影:ピエール・モンタゼル
音楽:ジャン・ウィエネル
出演:ジャン・ギャバン、ルネ・ダリー、ジャンヌ・モロー、リノ・ヴェンチュラ

 老境に差し掛かったギャングのマックスは空港で奪われた5000万円の金塊の記事を食い入るように見る。友人のリトンと愛人たちとなじみのレストランで食事をし、その愛人たちがステージに立つキャバレーに向かう。そこにはアンジェロという別のギャングが来ており、マックスはアンジェロとリトンの愛人ジョジーが一緒に部屋にいるところに出くわす。そこから物語りは意外な展開に…
 ジャック・ベッケルの傑作サスペンス、単なるギャング映画ではなく、老境に差し掛かったギャングの心を映し出す味わい深い一作。

 表面上は老境に差し掛かったジャン・ギャバン演じるマックスとまだ若いリノ・ヴェンチュラ演じるアンジェロとの抗争を描いたギャングものにありがちな話だが、それはあくまで物語として必要だっただけで、本当に描きたかったのはマックスの心だろう。
 ジャック・ベッケルはフィルム・ノワールに類するハードボイルドな映画を撮っているようでいて、実は非常に精神的な映画を撮っている。それが一番現れているのは、マックスとリトンのふたりが隠れ家で夜を過ごす場面、ふたりのいい年をした男が並んでワインを飲んでラスクを食べ、パジャマに着替えて、歯を磨き、寝る。プロットからするとここはリトンの精神的なゆれとかそういったものを描く場面ということになるのだが、それにしては長い。この場面からわかるのはふたりが年齢を気にしているということだ。明確に「引退」という言葉がセリフに出てくるということもあるし、皺について話したりする。
 また、その翌日には同じ部屋でマックスのモノローグ(というよりは心の声が声として描かれるシーン)がある。このあたりもなんだかくよくよしている感じがして、単純に犯罪映画という感じはしない。初老の男がそろそろ引退しようと考えていて、そのけじめをつけようとするけれど、まだまだ老いちゃいないという気持ちと、それとは裏腹に年齢を感じさせる現実がある。その初老の男がたまたまギャングだったというだけの話なのかもしれない。

 この犯罪映画というよりは老人映画という感じが私には非常に面白かったわけですが、犯罪映画としてももちろん一流品なわけで、一つ一つのシーンの面白さは50年たっても色あせることはない。主に映画の後半の話になるので、少しネタばれ気味になりますが、たとえばマルコが見張りの男が電話をかけに行く隙をついて… のシーン、このリズムがいい。電話を使おうとしてふさがっていたり、「何か起こるのか?」という緊迫感を保ちながらリズムよく展開していく。
 50年という時間は長いようで短いような、さまざまな仕掛けは今では通じなくなっているものもあるが(エレベータが上から透けて見えたり)、いまだに面白く見られるというのはやはりすごい。ジャン・ギャバンもなくなってすでに25年、この映画の時点で50歳、それでもなんだか色気を感じさせる。まだまだ若いジャンヌ・モローもいて、物語に限らず見所盛りだくさんという映画になっていますね。

Les Rivieres Pourpres
2000年,フランス,105分
監督:マチュー・カソヴィッツ
原作:ジャン=クリフトフ・グランジェ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ジャン・レノ、ヴァンサン・カッセル、ナディア・ファレス、ドミニク・サンダ

 フランスの山沿いの村ゲルノンで手を切断され、眼球をくりぬかれ、体中に切り傷をつけられた死体が見つかった。その村はフランス有数の大学を擁し、学長が村長並みの権力を持つ村だったが、殺された男もその大学の職員だった。その捜査にパリからニーマンス警視が派遣される。一方、200キロ離れたザルザックでは子供の墓があらされるという事件がおき、新任の警部補マックスがその捜査に当たっていた。
 複雑に絡み合う殺人事件のなぞを解く二人の刑事をジャン・レノとヴァンサン・カッセルが演じる描いたサスペンスドラマ。原作はフランスでベストセラーとなった小説で、さすがにスリル満点だが、オチがちょっと弱い気もする。

 冒頭の死体を克明に映しながらタイトルクレジットを流すところからして映像にかなりの緊迫感がある。全体的にもブルーのトーン、雪山、雨がちということもあり暗めの画面構成で、いかにもサスペンスという雰囲気が漂う。
 大学というある種の聖域をサスペンスの舞台にしたのもかなりうまく、それも含めて謎解きという点ではおそらく原作の面白さがそのまま映画に反映しているということができるだろう(原作読んでないけど)。結末の部分は原作と同じなのかもしれないけれど、なんだかあっさりしすぎていて、「そうなの?」とちょっと拍子抜けという感じがするのが珠に瑕。最後まで緊迫感を漂わせたまま終われれば、サスペンスの名作になったかもしれないのに。
 映画的には二人の刑事がとてもいい。ジャン・レノはちょっと太めだけれど、そこに貫禄があって、無愛想な役にはぴったり。でもヴァンサン・カッセルのほうがこの映画では味がある。破天荒なようでいながら非常に誠実にことを進める。それでいて三枚目としての役割も負っている。このような役まわりの登場人物がいるところがこの映画のフランス映画らしい(ハリウッド映画とは違う)ところだろうか。
 あとは、恐怖心をあおるような音楽をやたらとつかって、本当に何かがおきるのがどこかわからなくなっている。あまりに何か起こりそうで見え見えというのもどうかと思うけれど、使いすぎるのもどうかなという感じ。観客の緊張感を持続させるという意味ではいいのだけれど、そうして引っ張り続けた緊張感に見合うだけの結末を用意できなかっただけに、少々過剰演出かという気がしてしまう。
 つまり、結局のところこの映画の難点はオチの弱さというところに終始し、映画全編に漂う緊張感が最後まで維持できなかったというところに問題があるということ。それ以外は本当にいい映画でした。

エトワール

Tout pres des Etoiles
2000年,フランス,100分
監督:ニルス・タヴェルニエ
撮影:ニルス・タヴェルニエ、ドミニク=ル・リゴレー
出演:マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュ、オーレリ・デュポン

 パリ・オペラ座のバレエ団、「エトワール」と呼ばれるソリストたちを頂点にある種の階級が存在し、だれもがエトワールになることを夢見ている。しかし、学校時代から続くそのための競争、エトワールになる以前の「コリフェ」「カドリーユ」としても群舞、それらをこなす生活は厳しい。エトワールになったしても、そこには厳しい自己管理の生活が待っている。それでも彼らはバレエを生きがいとして踊り続ける…
 『田舎の日曜日』などで知られるベルトラン・タヴェルニエの息子ニルス・タヴェルニエがバレエ団に3ヶ月密着し、練習、公演の光景にインタビューを加えて作り上げた初監督ドキュメンタリー作品。

 バレエをする人たちの肉体は本当に美しい。それはワイズマンの『BALLET』のときも思ったことだけれど、その肉体と体の動きの美しさには本当に魅了されてしまう。この映画でもとくに練習風景の体の動きなどを見ると、とてもいい。舞台監督が演技をつけているときの、動きの違いによる見え方の違いなんかも見た目にぱっとわかるくらい違うのがすごい。
 だからといって、その美しさばかりを追っていていいのかどうかというのが映画の難しいところ。ただただ踊るところばかりを見せていては映画にならないので、インタビューなんかを入れる。インタビューを入れることはもちろんいいし、それによって彼らの抱える問題とか、バレエ団がどのようなものであるかとがいうことがわかってくる。しかし、問題なのは、映画にこめるべきメッセージをインタビューに頼りすぎると、映画としての躍動感が失われてしまうということ。バレエダンサーは肉体によって自己を表現するもので、言葉によって表現するものではない。そのことをないがしろにして言葉に頼ってしまうと、バレエの持つ本来の魅力が映画によって減ぜられてしまうことになりはしないだろうか。この映画のインタビューはそれ自体は面白いのだけれど、そういう説明的な面がちょっとある。
 たとえば、練習風景で代役の人たちがそっと練習しているところをフレームの中に捉えているところが結構ある。彼らが代役であることは説明されなくてもわかるのだが、この映画ではそのあと代役を割り当てられた人たちの話が入る。そのインタビューはノートを見せて説明したりして楽しいのだけれど、何かね。ドラマを作り方なのか。最後には代役から出演が決まったダンサーを映すあたりのドラマじみたところがどうもね。
 というところです。この映画でいちばん魅力的なのは「エトワール」になる以前のダンサーたちであって、彼ら、彼女たちのナマの姿さえ伝われば、そこにドラマはいらなかったという気もする。群舞の中の4人が手のつなぎ方を話しているところなんかはそれだけで、そこにいろいろなドラマがこめられていて楽しいのだから。後は、スチールがすごくいい写真でした。映画としてはちょっと卑怯な気もしますが、写真自体はすごくいい写真でなかなか感動的。

ビバ!マリア

Viva Maria!
1965年,フランス,122分
監督:ルイ・マル
脚本:ルイ・マル、ジャン=クロード・カリエール
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ブリジット・バルドー、ジャンヌ・モロー、ジョージ・ハミルトン

 アイルランドのために爆破を繰り返す父親を手伝って育ってきたマリーだったがその父が警察に捕まり、涙ながらに警察もろとも爆破した。そして逃亡中に紛れ込んだ旅芸人の一座で踊り異なる。相棒のマリアとともにストリップまがいの踊りで人気を博したが、「マリアとマリア」という名で講演旅行中にサン・ミゲルで事件に巻き込まれる…
 ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローというフランスの大女優二人が共演、監督はルイ・マルという作品だが、作品のほうはB級テイストにあふれた楽しいもの。BBの魅力全開という感じだが、物語もなかなか痛快で見ごたえがある。

 いろいろと理不尽なところはあるわけですよ。しかし、それはこの映画が基本的にハチャメチャな映画で(そもそもブリジット・バルドーが革命家という設定からして相当無理がある)、監督はそのことをがっちりつかんで、多少の脱線や理不尽は映画が消化してしまうということを理解している。だから、普通に映画を撮るとしたら何とか調整をつけようとすること、たとえばサン・ミゲルの人たちに映画の演説の意味が通じるとか、そういうことを全く放置して、映画をどんどん進めてしまう。これが映画に勢いをつけて、物語を魅力的にする。そのあたりのストーリーテリングの妙というか、映画の組み立て方が絶妙という気がしました。
 しかも、その辺のB級映画とは違って、それぞれのネタがただのバカネタではない。いろいろ元ネタとか含蓄があるような気がする(具体的に何なのかはわかりませんが)。最後のオチも、単純に笑わせようというネタではなく、神父が…(ネタばれ防止)というところに意味があるわけです。20世紀初頭という設定もただブリジット・バルドーにコスチューム・プレイをさせたいという理由だけではなく(もちろん、それも理由の一つではある)、メキシコの革命という時代設定にあわせてあるのです。そのあたりをしっかり考えている感じがとてもよいです。
 というわけで私はとてもいいと思ったわけですが、一般的に言うと、ルイ・マル映画としては主流を外れ、ブリジット・バルドーものとしてもお色気満点というわけではなく(30代に差し掛かっているし)、コメディというわけでもないので、ターゲットとする観客がはっきりしないのがなかなか難しいところなのかもしれません。でも、やはり、なんか、いいですよ。「古い映画はちょっと」とか、「ブリジット・バルドーって動物愛護の人でしょ」とか思っている人も、この映画ならなかなか楽しめるはず。

チェブラーシカ

CHEBYPAWKA
1974年,ソ連,64分
監督:ロマン・カチャーノフ
原作:エドワード・ウスペンスキー
音楽:ウラジーミル・シャインスキー

 何故かオレンジの箱の中で眠っていた不思議な生き物、見つけた果物やさんが「チェブラーシカ」(ばったりたおれ屋さん)となづけて、動物園に連れて行くけど受け入れてもらえず、ディスカウントストアの前の電話ボックスに住むことに。でも、ワニのゲーナという友達もできて…
 ロシア人なら誰でも知っている(らしい)ソ連時代のアニメーション、人形をコマ撮りで動かすというとても手間の掛かることをやっているが、とにかくかわいいのでそれでよし。

 えー、物語の内容はもちろんどうでもいいわけですが、2話目のあたりとか社会主義思想を子供たちに広めようというか、子供のうちからそういう価値観を植え付けようというか、そんな意図がなんだか透けて見えてしまうのですが、いまとなっては、歴史の1ページ。
 アニメが振りまく思想性というものは多分子供に大きな影響を与えるので、気にして見なければいけないという気はします。この映画がそのことを教えてくれるというのは確かでしょう。ディズニーもジブリも多かれ少なかれ子供たちの考え方に影響を与えている。そこには意識するものと意識しないものが混在していて、その映画を見ただけではなかなか判断しがたいものもありますが、ディズニーならディズニーの、ジブリならジブリの傾向があることは複数の作品を見ればわかってきます。重要なのは、望ましくないものを見せないことではなくて、いろいろなものを見せること。できればこれみたいなソ連のものとか、何があるかはわかりませんがアラブのものとか、そういったものも見せるほうがいいんだろうなぁという気がします。とはいえ、本当にそうなのかどうかはわかりませんが。少なくとも大人は、そのようにアニメの背後にある思想性というものに意識的でなければいけないと思います。

 が、とりあえずそれさえ意識していれば、あとは楽しめばいいわけで、この映画はまさに癒し系という感じ。安っぽいぬいぐるみ状のチェブラーシカはもちろんですが、出てくる登場人物(生物?)たちがみなかわいいですね。縮尺のあり方とか、そういうのがいいんですかね。チェス板がどう見ても16マスくらいしかなかったり、人より扉のほうが小さかったり、その辺りに味がある。あとは、色使いがなかなか独特でとてもよい。アメリカなんかの70年代のサイケな色使いとはまた違った感じで、今見ると非常にいいのです。
 あとは、ゲーナの歌(多分ロシアの伝統的な歌のアレンジ)もとてもいいですね。アニメとあわせてみているからこそいいのだろうけれど、「サントラないのかな?」と一瞬思ってしまいました。ちょっと『アメリ』に似ているかもしれない。『アメリ』の音楽のヤン・ティルセンはロシアあるいはスラヴ系の人なんだろうか?
 癒されたい人はぜひどうぞ。

平原の都市群

Cites de la Plaine
2000年,フランス,110分
監督:ロバート・クレイマー
撮影:リシャール・コパンス
音楽:バール・フィリップス
出演:ベンアメリー・デリュモー、ベルナール・トロレ、ナタリー・サルレス

 盲目の男ベンは少年に導かれて市場を歩き、なじみの人たちと会話を交わす。女性と一緒に医者のところに行き、治療について話をする。場面はいつの間にか同じ名前のベンという男を映し出し、工場で働き、カフェで何か悩んでいる彼の姿を映す。
 全体に暗いトーンで統一されたドキュメンタリーの映像素材とフィクションの映像素材をを幻想的な一編の物語/詩篇に構成する。クレイマーの遺作となったこの作品は非常に難解で、グロテスク、人の心を騒がせる作品になっている。

 はっきり言ってよくわからなかったです。とくに、おそらく盲目のベンの目に映っていると思われる空想の風景、砂漠と母とイグアナと、それらがつむぎだすイメージの意味というか映画全体の中での位置づけが。
 物語自体は一応筋が通っていて、何の解説もなく時系列が交わっていくのもひとつの仕掛けてして面白いし、盲目のベンの心のありようが非常にうまく伝わってくるのがいい。利己中心的で激しい気性のベンが自ら招いてしまった悲劇と、それによる心の変わりよう。本人が演じる(?)盲目のベンがとてもいい。
 最初のほうの仕掛けは、盲目ということを意識させるための黒画面に音声という仕掛け。これは非常にわかりやすく、お手軽な感じがする。しかし、その後もこの映画は音というかノイズを大きくすることで、聴覚に対する鋭敏さをを表現しているようだが、これがなかなか精神をさかなでされるというか、どうも落ち着いて見られない。わたしはどうもノイズに弱いようで、こういう作品はなんだか苦手。
 逆に意味はわからないけれど、静謐で美しい幻想世界のイグアナのほうに心惹かれる。光るうろこ、恐竜のような背中の棘、イグアナはベンなのか、それとも全体がベンでイグアナは彼の心に潜む何者かなのか、立ち去っていったものは誰か、肉の塊は何を意味していたのか、などなど疑問は尽きないのですが、イメージで語られるものはイメージで理解しろ、ということが映画を見る際に
重要なことだと思うので、イメージで考えてみます。
 寂莫、孤独、乾いた感じ、愛の欠如、生命、孤独、恐怖、愛、悲劇、ある種の適応、、、、、
 という感じですかね。
 イメージの言語化。

鳥のように – ラ・ドゥヴィニエール

La Deviniere
2000年,ベルギー,90分
監督:ブノワ・デルヴォー
撮影:ブノワ・デルヴォー
音楽:ブノワ・デ・クラーク

 いくつもの精神病院をたらいまわしにされ、どこでも受け入れてもらえなかった十代の少年少女たちのために作られた開放型の精神療養施設「ラ・ドゥヴィニエール」。それから20年後の療養所の様子を比較的軽度なジャン=クロードを中心に描いていく。
 監督はカメラマンとして『ロゼッタ』などに参加したブノワ・デルヴォー。初の長編作品となる。

 これは精神病院ではなくて療養所だけれど、精神病院を描いたようなドキュメンタリーは結構ある。フィクションも結構ある。それらと比べてこの映画に何か光るものがあるかといえば、あまりないといわざるをえない。全く解釈をせず、ただただ映し続けるだけという姿勢はいいのだけれど、そこから何かが浮かび上がってくるのかというと、それはなかなか難しい。映画の後半になってジャン=クロードが主人公のようになり始めると、映画は一種のメッセージのようなものを持ち始めるのだけれど、前半部分とのつながりは希薄である。最初からジャン=クロードが主人公然としていれば、彼を中心に映画を見ることができるのだけれど、前半にはただのひとりでしかなかった彼が急に主人公に成り上がってしまった印象があって、それが残念でならない。
 こういう映画はなんだかドキュメンタリーということに胡坐をかいたというか、ドキュメンタリーであることに価値を置きすぎている映画という気がする。ドキュメンタリーであっても映画なのだから、観客を楽しませたり、観客に伝わりやすくしたりする努力が必要なのに、この映画を見ていると、「わたしたちは現実を提示しているのだ」というある種の傲慢さが映画作りの根底にあるような気がしてしまう。
 この映画は時間について言及しないけれど、おそらく時系列どおりに構成されており、映画が主人公を発見していく過程と撮影者たちが主人公を発見していく過程は一致する。しかし、その過程にあまり必然性はなく、被写体との距離やたまたまおきたイベントによって左右される。だから映画の物語にまとまりがなく、観客の注意も散漫になってしまう。

 まあ、映画を見て、現実を見て、いろいろ考えさせようというのが意図であり、もちろん考えさせられることはあるわけですが、それだけでは映画としては並みの域を出ることはできないということです。

ルート1

Route One USA
1989年,イギリス,265分
監督:ロバート・クレイマー
脚本:ロバート・クレイマー
撮影:ロバート・クレイマー
音楽:バール・フィリップス
出演:ポール・マッカイザック、ジョシュ・ジャクソン、パット・ロバートソン

 10年ぶりにアメリカに帰り、再会したロバート・クレイマート友人のドク。ふたりはカナダ国境からNYを通り、フロリダのキーウェストまで続くルート1をたどる旅に出ることにした。
 彼らが長い旅路で出会ったのはアメリカが抱えるさまざまな問題、そして問題を抱える人々。カメラに映る医者のドクはアフリカでの経験もあり、それらの問題に対処して、それがどのように問題であるのかを明らかにしていく。
 そして、4時間の旅の果てにはアメリカという国の全貌が浮かび上がってくるに違いない。

 これはロード・ムーヴィーなのだけれど、疾走感はなく題名ともなっているルート1は一つの場所と別の場所を区別するための区切りでしかない。それでも北から南に進むにつれ、着実に気候が変わり、風景が変わる。これは狙いか偶然かはわからないが、結果的にアメリカの多様性を示す一つの要素となっている。
 もちろん、この映画で示されるのは人種をはじめとした人々が持つ多様性であり、そこに存在するさまざまな問題である。最初からインディアンの問題がクローズアップされるようにこの映画で一番目をひくのはマイノリティの問題だ。もちろんその問題は重要だが、クレイマーは必ずしもそればかりを問題にするわけではない。彼の捉えるマイノリティとはおそらく人種や民族という問題にはとどまらない。NYのような都会と広大な田園地帯というアメリカのイメージとは違う荒廃した土地に住む人々のすべてが彼にとってのマイノリティなのだろう。しかし、本当にアメリカを支えているのは、そんな名もない人々であり、それはアメリカと第三世界の関係が国内にも鏡像のように存在していることを示している。
 にもかかわらずアメリカがアメリカでいられるのは戦争のおかげなのかもしれない。ドクが戦没者の名前が刻まれた長い長い碑の前に何日も佇むとき、そこに刻まれた名前を持っていた人々について考える。名前にしてしまえば何の違いもなくなってしまう人々。これはおそらくアメリカの平等幻想を象徴的に示している。決して平等ではないのに、平等であるかのような気分に浸る。そうして人々はアメリカ人でいられる。
 アメリカとは一種のフィクションによって成り立っている国なのではないか。人々が共通して抱える幻想、それを一種の紐帯として人々が結びつき、一つの国家として成り立っている。この映画を見ていたら、そんなイメージが頭の中に浮かんだ。

 フィクションといえば、この映画の主人公ドクとはいったい誰なのか。映画の言葉を信じてクレイマーの友人の医者、アフリカに10年間いて久しぶりに帰って来た。としておいていいのだろうか。彼の本当の旧友らしい男と会ったり、兵隊にいたころの思い出話をしたりする。しかし、他方で彼はクレイマーの分身であり、クレイマーとして振舞っていることもあるだろう。
 彼は一つの町で医者の仕事に戻るといって急に旅をやめる。それからしばらくはクレイマーの、つまり被写体のいないカメラの、一人旅となる。しかし、キーウェストで唐突にドクはカメラの中に復帰し、そこの病院に仕事を見つける。恋人らしき人もできる。
 ドキュメンタリーと信じてみたらならば、そこに違和感はない。しかし、疑い始めたらいくらでも疑える。そのような自体から感じられるのは、それがドキュメンタリーであるかフィクションであるかを問うことの無意味さだ。
 クレイマーが追求しているのはリアルなアメリカを描写することであり、そのための手段がドキュメンタリーといわれるものであってもフィクションといわれるものであってもいいのだ。それは彼の映画を撮るということに対する姿勢をも示している。カメラを向けられたとき、人は日常そのままではいられない。そこには一つのフィクションが成立し、被写体となる人々は日常の自分を演じるようになる。クレイマーがそこにフィクションといわれるものを導入するのはそこで日常を演じるのが本人でなくてもいいと思ったからだろう。それをうそというのは自由だが、そのうそを写した映画は、現実で本当であることを映した映画よりも、現実の本当に近いものになるだろう。だからクレイマーはドキュメンタリーにフィクションを導入する。

11’09″01/セプテンバー11

11’09″01 – September 11
2002年,フランス,134分
監督:ケン・ローチ、クロード・ルルーシュ、ダニス・タノヴィッチ、ショーン・ペン、今村昌平、アモス・ギタイ、サミラ・マフマルバフ、ユーセフ・シャヒーン、イドリッサ・ウエドラオゴ、ミーラー・ナーイル、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ユーセフ・シャヒーン、サブリナ・ダワン、アモス・ギタイ、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ポール・ラヴァーティ、クロード・ルルーシュ、サミラ・マフマルバフ、イドリッサ・ウエドラオゴ、ショーン・ペン、マリー=ジョゼ・サンセルメ、ダニス・タノヴィッチ、天眼大介、ピエール・ウィッテルホーヘン、ウラジミール・ヴェガ
撮影:リュック・ドリオン、エブラヒム・ガフォリ、ピエール・ウィリアム・グレン、ヨハヴ・コシュ、ムスタファ・ムスタフィク、ホルヘ・ムレール・シルバ、モフセン・ナスール、岡正和、デクラン・クイン、ナイジェル・ウィローフビー
音楽:マイケル・ブルック、モハマド・レザ・ダルヴィシ、マニュ・ディバンゴ、オズワルド・ゴリジョフ、岩城太郎、サリフ・ケイタ、ヘイトール・ペレイラ、グスタフォ・サンタオラーラ
出演:エマニュエル・ラボリ、タチアナ・ソジッチ、ウラディミール・ヴェガ、田口トモロ、オケレン・モー、タンヴィ・アズミ

 2001年9月11日、NYのワールド・トレード・センターなどアメリカ全土で起こった同時多発テロ、このテロに対する反応として映画界が作ったのは、世界中の11人の監督に、11分9秒1フレームの短編を撮らせ、それを一本の映画とすることだった。
 かくして、アメリカ、イギリス、フランス、日本、イラン、イスラエル、インド、ボスニア、ブルキナファソなどの監督が自らの思いを映画にした。同時多発テロを直接描いたものから、その後について描いたもの、直接的には関係ない戦争の話を描いたものなど、内容は多岐にわたる。
 日本からは今村昌平監督が参加。

   面白いと思ったのは、2本目のクロード・ルルーシュのと、真ん中へんのブルキナファソのやつですかね。特に、ルルーシュのは非常にうまい、という気がします。それは、同時多発テロという世界的な大事件があったにもかかわらず、彼女は彼との分かれの手紙を書くことばかりに気をとられていた。もちろんそのようなことが起こっていることに気づいていれば、彼のことを心配し、手紙を書くのをやめていたのだろうけれど、そうではなくて手紙を書き続けた。それは彼女が聴覚障害者であったというのも理由の一つではあるけれど、そういうことはどこでも誰にでも起こっていた。日本でも翌朝起きるまで知らなかった人もかなりいただろうし、ワールド・トレード・センターの中にいた人もまた、いったい何が起こっているのかはわからなかっただろう。
 それはイランの子供たちも同じで、メディアから隔絶された生活をしている彼らにはそんな事件が起こったことは伝えられないし、伝わったとしても、高層ビルがどんなものであるかわからないのだから、どれほどまでに悲劇なのかを伝えることはできない。その意味でサミラ・マフアルバフの作品もわれわれに一つの示唆を与えてくれる。

 などと、言葉を並べていますが、9.11についてはこれまで散々言葉で語られてきて、それに反して映像で語ろうとする試みがこの映画なのである。だから私はこの映画に関してはあまり言葉で語らず、いろいろに解釈されうる断片の集合をそのまま無言で受け取りたい。いろいろな人がこの事件をいろいろな受け取り方をした。そのほとんどは言葉にならないような感情で、私自身も心の中で言葉にならない何かが起きた。この映画はそのような言葉にならない体験を思い起こさせ、反芻させ、忘却の淵から引き上げる。そのようなものだから、私はこれ以上ことばによってこの映画の力をそぐことはしたくない。

木と市長と文化会館/または七つの偶然

L’Arbre, le Maire et la Mediatheque ou les Sept Hasards
1994年,フランス,111分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:パスカル・グレゴリー、ファブリス・ルキーニ、アリエル・ドンバール

 ナントから少し離れた農村で市長を務めるジュリアンは国民議会に打って出ようとする一方で、地元の市に文化会館を立てようと計画していた。しかし、恋人のベレニスはあまり賛成していない。また、小学校教師のマルクは建設予定地の巨木を含めた風景を壊すことに強く反対していた。
 ロメールといえば恋愛というイメージがつきまとうが、この映画は少し恋愛からは離れたところで物語が展開される。しかし、このような論争的なことを取り上げるのもロメールの一つの特徴であり、恋愛も全くおざなりにされるわけではない。

 ロメールの映画には、哲学的というか論争的な会話が必ずといっていいほど出てくる。恋人同士の間であったり、友達同士の間であったり、友達の恋人だったり、パターンはいろいろだけれど、言い争いというか議論がどこかで展開される。この映画はその議論の部分を映画の中心に据えて、全体をまとめた映画。恋愛はいつもとは逆に部分的なものになる。
 そのような論争的なことが物語の中心となるので、自然と映画全体が群像劇じみてくる。ロメールの映画というと2・3人の中心的な登場人物がいるというものが多いイメージ。その点でこの映画は他のロメールの映画と違うといえるかもしれない。
 しかし、ロメールはロメール。単純な映画であるにもかかわらず、いろいろな仕掛けがあきさせない。始まり方もなかなかステキで、そこで出てきた「もし」(フランス語では“si”)が各チャプター頭のキャプションが“si”で始まっているのがおしゃれ。

 この映画を見て、エリック・ロメールはゴダールとは別の意味で天才的だと実感する。ゴダールの天才は見るものを圧倒するものだけれど、ロメールの天才は見るものを引き込むもの。ゴダールの映画を見ると、よくわからないけれどとにかくすごい、という印象に打たれる。ロメールの映画を見ると、必ず何かが引っかかって、するすると映画を見てしまい、終わってみれば面白かった、という印象が残る。そのさりげなさが天才的。
 やはりヌーヴェル・ヴァーグはすごかったということか。ロメールとかゴダールとかヴァルダの映画を見ていると、世界はいまだヌーヴェル・ヴァーグを超えられてないんだと思わされてしまいます。