夜を賭けて

2002年,日本=韓国,133分
監督:金守珍
原作:梁石日
脚本:丸山昇一
撮影:チェ・ジョンウ
音楽:朴保
出演:山本太郎、ユー・ヒョンギョン、山田純大、李麗仙、六平直政、不破万作、風吹ジュン

 1958年、大阪城近くの大阪砲兵工廠跡地の近くには在日朝鮮人のバラック街があった。そこにすむばあさんが工廠跡地から拾ってきた鉄くずが高く売れたことからバラック街の男たちが総出で立ち入り禁止の工廠跡地に夜忍び込んで鉄くずを掘り起こすことになった。鉄くずは次々と出てきて、見る見る金が儲かっていったが、警察の取り締まりも日に日に厳しくなっていった。
 在日の作家・梁石日の代表作を劇団新宿梁山泊の座長・金守珍が映画初監督作品として送り出した。韓国に大規模なロケセットを作り、韓国のスタッフも参加して作られた日韓同時公開の日韓合作映画。

 原作が手に汗握る面白さだけに、「映画も…」と期待する反面だいたい原作に映画が及ばないのが通例だという気持ちもぬぐえない。この映画は後者で、やはり原作には及ばずという感じ。同じ原作の「月はどっちに出ている」は映画も十分面白く、原作とそれほど見劣りしなかったのは、原作と映画では作風が違ったからだろう。この映画は原作を忠実に映像化しようという姿勢がある反面、映画的な見せ場としてなのか、韓国へのサービスなのか、ラブストーリーを織り交ぜたり、ちょっとばたばたしてまとまりがなくなってしまった。
 あとは、出てくる人が叫びすぎ、喧嘩しすぎ。喧嘩のほうは多分事実に近いのだろうけれど、私はあまりこういうやたらに暴力的な映画というのはどうもなじめないので、今ひとつという感じでした。
 それから、まったく何の説明もなくチェジュド(済州島)の「四三事件」なんかが出てくるのはちょっとわかりにくいのではという気もします。このあたりは日本版と韓国版で編集を変えるなどして日本人にもわかりやすいように作ってほしかったと思います。チェジュドといえば、『シュリ』でも出てきた朝鮮半島の南にある島ですね。

 それでも、躍動感やわくわくとする感じはあって、悪くないなという気はする。それはやはり原作のアイデアというか、こういう事実を掘り起こして物語にしたというところに最大の面白さがあるのだと思う。
 それから、バラック街はなかなかのもので、これがロケセットというのはそんな大規模な映画を撮れる環境にある韓国をうらやむ気持ちが生まれてきます。大規模なロケセットといえば、なんと言っても黒澤ですが、黒澤までの作りこみは望むらくもないとしても、なかなかよくできたセットなんじゃないでしょうか。贅沢言うなら、もう少しぼろっちくしてほしかった。ちょっと道が平らすぎる気がするし、家がちょっとしっかり立ちすぎている気がします。あれが本当なら結構立派なバラックだったということになってしまいますが、そうだったんだろうか?

西鶴一代女

1952年,日本,148分
監督:溝口健二
原作:井原西鶴
脚本:依田義賢
撮影:平野好美
音楽:斎藤一郎
出演:田中絹代、三船敏郎、菅井一郎、宇野重吉、山根寿子、大泉滉、加東大介、沢村貞子

 若作りの化粧をして男の袖を引く50女のお春、遊女仲間と焚き火にあたる。そして、羅漢のひとつに昔の男の面影を見て、数奇な一生を思い出す。もとは裕福な家の出で、御所に上がるほどだったが、身分の違う男と密会しているところを見つかり、洛外追放となってしまったのだった…
 一人の女の数奇な運命を描いた「西鶴一代女」を女性映画の巨匠溝口が見事に映像化。10代から50代まで演じ分ける田中絹代の熱演も見所。三船敏郎や加東大介などの名優が少しずつ登場するところも見もの。

 「西鶴一代女」は「好色一代男」と対照を成すような物語。「好色一代男」は次から次へと女を渡り歩く男の物語、「西鶴一代女」は次々と男を失ってしまう女の物語である。『西鶴一代女』を溝口が監督したのに対して、『好色一代男』(1961)を増村が監督したのはいかにもという感じで面白い。「男」のほうは能動的に次から次へと女を渡り歩いてはいるけれど、それも抗えない運命に翻弄されているという点では「女」と同じなわけで、それを二人の監督がどう描き分けているのかというのに注目するのも面白い。
 この『西鶴一代女』を中心に話しを進めると、さすがに溝口という感じで、映画に落ち着きがある。30年くらいの歳月を追っていくというよりは、一つ一つのエピソードをどっしりと構え、間の経過を描くことはしない。カットが変わったら10年たっているなんてことも多い。したがって、一つ一つのエピソードのなかでは物語りはゆっくりと進む。それを端的にあらわすのは、人物がフレームから出て行ったあとの空舞台を映すカット。この余韻が溝口らしいところといえる。その空舞台は寂しさをわかりやすく表現しているとともに、観客に考える余裕を与えるのだろう。『好色一代男』の場合、その余韻は作られず、とにかくものすごいスピードでエピソードが語られていく。
 さて、この映画で一番好きな部分であり、「男」との対比にもなると私が思うのはお春が遊女となって越後の金持ちを迎えるというシーン、その男が金をばら撒いても振り向かないお春は『好色一代男』の夕霧(若尾文子)とパラレルである。しかし、もちろん視点は「女」がお春の側にあるのに対し、「男」では世之助(市川雷蔵)の側にある。しかも観客はそのお春と世之助の視点に引き込まれるように操作されているから、ほぼ同じエピソードを見ていてもその見え方はかなり違う。溝口の助監督でもあった増村はこの『西鶴一代女』を意識して『好色一代男』を撮っただろうから、このシーンなどはかなり対照性を明確にしようとして作ったのではないだろうか。

 私がこのシーンでもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。
 ということで、宮崎ファンの人は溝口を見て、溝口ファンの人は宮崎を見て、共通点が見つかったら教えてくださいね。

人情紙風船

1937年,日本,86分
監督:山中貞雄
原作:河竹黙阿弥
脚本:三村伸太郎
撮影:三村明
音楽:太田忠
出演:中村翫右衛門[3代目]、河原崎長十郎[4代目]、助高屋助蔵、市川笑太郎、市川莚司(加東大介)

 とある長屋で首くくりがあった。長屋の人たちは大騒ぎするが、向かいに住む髪結いの新三は気づかず寝ていた。奉行所で取調べを受けたあと、新三は大家にみんなで通夜をしてやろうと提案し、けちな大家から5升の酒を出させる。皆が酒を飲みながら大騒ぎする中、新三の隣に住む浪人ものの海野だけは内職で紙風船を作る奥さんと二人で過ごしていた…
 28歳で夭逝し、監督作品はわずか3本しか現存していない天才監督山中貞雄の監督作品のひとつで、この作品は遺作に当たる。実際は20本以上の作品を監督したといわれ、その20本の映画は日本映画界が失った最も貴重な財産のひとつであるといえる。

 この監督の演出のさりげなさをみると、小津安二郎が魅了されたというのもうなずける。映像はよどみなく流れ、人物像もシンプル、この映画では髪結いの新三というのがとてもいいキャラクターで男でもほれそうな感じ。だからといって新三がひとり主人公として立っているわけではなく、新三と海野のふたりがともに主人公となる。そのもうひとりの主人公である海野はたたずまいがとてもいい。映画が作り出したキャラクターというよりは、この河原崎長十郎という人のキャラクターがいいのでしょう。この人は川口松太郎が脚色し、溝口が演出した『宮本武蔵』(1944)で武蔵をやっているそうなので、このキャラクターで武蔵をどうやったのか興味を惹かれます。
 山中貞雄の話に戻りますが、画面の印象としてはロングめの映像が多い感じがしました。長屋でも事件が起こるのは長屋の一番奥にある部屋で、それを長屋の手前から撮っている。そのようにして奥行きをつくるということを意識的に行っている気がします。このやり方が面白いのは、人の興味を奥にひきつけておいて、手前でいろいろなことをできるということでしょう。人がフレームインしてきたり、フレームアウトしたり、それを見るとうまいなぁと感心してしまいます。
 『丹下左膳余話』のときも思ったのですが、この監督の作品はどうも文字で表現しにくいようです。文字で表現してしまうとちっとも面白さが伝わらない。「さりげなさ」とか「粋」とかいう言葉を使って表現するしかない。
 とにかく登場人物が魅力的で、さりげなく粋な画面を作っている。ということです。物語のほうも甘くなりすぎず、しかし人情味にあふれていて、現実的でありながら、突き放す感じではない。というところです。
 見る機会があったらぜひ見てほしい一作であることは確かです。ビデオやDVD化も待たれますが、やはりこの画は大きい画面で見たほうが堪能できるような気がします。

現金に手を出すな

Touchez pas au Grisbi
1954年,フランス=イタリア,96分
監督:ジャック・ベッケル
原作:アルベール・シナモン
脚本:ジャック・ベッケル、モーリス・グリフ、アルベール・シナモン
撮影:ピエール・モンタゼル
音楽:ジャン・ウィエネル
出演:ジャン・ギャバン、ルネ・ダリー、ジャンヌ・モロー、リノ・ヴェンチュラ

 老境に差し掛かったギャングのマックスは空港で奪われた5000万円の金塊の記事を食い入るように見る。友人のリトンと愛人たちとなじみのレストランで食事をし、その愛人たちがステージに立つキャバレーに向かう。そこにはアンジェロという別のギャングが来ており、マックスはアンジェロとリトンの愛人ジョジーが一緒に部屋にいるところに出くわす。そこから物語りは意外な展開に…
 ジャック・ベッケルの傑作サスペンス、単なるギャング映画ではなく、老境に差し掛かったギャングの心を映し出す味わい深い一作。

 表面上は老境に差し掛かったジャン・ギャバン演じるマックスとまだ若いリノ・ヴェンチュラ演じるアンジェロとの抗争を描いたギャングものにありがちな話だが、それはあくまで物語として必要だっただけで、本当に描きたかったのはマックスの心だろう。
 ジャック・ベッケルはフィルム・ノワールに類するハードボイルドな映画を撮っているようでいて、実は非常に精神的な映画を撮っている。それが一番現れているのは、マックスとリトンのふたりが隠れ家で夜を過ごす場面、ふたりのいい年をした男が並んでワインを飲んでラスクを食べ、パジャマに着替えて、歯を磨き、寝る。プロットからするとここはリトンの精神的なゆれとかそういったものを描く場面ということになるのだが、それにしては長い。この場面からわかるのはふたりが年齢を気にしているということだ。明確に「引退」という言葉がセリフに出てくるということもあるし、皺について話したりする。
 また、その翌日には同じ部屋でマックスのモノローグ(というよりは心の声が声として描かれるシーン)がある。このあたりもなんだかくよくよしている感じがして、単純に犯罪映画という感じはしない。初老の男がそろそろ引退しようと考えていて、そのけじめをつけようとするけれど、まだまだ老いちゃいないという気持ちと、それとは裏腹に年齢を感じさせる現実がある。その初老の男がたまたまギャングだったというだけの話なのかもしれない。

 この犯罪映画というよりは老人映画という感じが私には非常に面白かったわけですが、犯罪映画としてももちろん一流品なわけで、一つ一つのシーンの面白さは50年たっても色あせることはない。主に映画の後半の話になるので、少しネタばれ気味になりますが、たとえばマルコが見張りの男が電話をかけに行く隙をついて… のシーン、このリズムがいい。電話を使おうとしてふさがっていたり、「何か起こるのか?」という緊迫感を保ちながらリズムよく展開していく。
 50年という時間は長いようで短いような、さまざまな仕掛けは今では通じなくなっているものもあるが(エレベータが上から透けて見えたり)、いまだに面白く見られるというのはやはりすごい。ジャン・ギャバンもなくなってすでに25年、この映画の時点で50歳、それでもなんだか色気を感じさせる。まだまだ若いジャンヌ・モローもいて、物語に限らず見所盛りだくさんという映画になっていますね。

スパイキッズ

Spy Kids
2001年,アメリカ,88分
監督:ロバート・ロドリゲス
脚本:ロバート・ロドリゲス
撮影:ギレルモ・ナヴァロ
音楽:ダニー・エルフマン
出演:アントニオ・バンデラス、カーラ・グギーノ、アレクサ・ヴェガ、ダリル・サバラ、アラン・カミング

 冷戦時代、敵対するスパイとして活躍していたグレゴリオとイングリッドが恋に落ちて結婚、それを機に2人はスパイを引退し2人の子供の子育てに専念していた。しかし、ある日グレゴリオに仲間の行方不明情報が伝わり、彼らを救出する任務につくことを決める。しかし、すぐに敵に捕まり、子供たちにも敵の手が迫るが…
 ロバート・ロドリゲスとアントニオ・バンデラスのコンビがファミリー向けスパイアクションを作成。ファミリー向け“007”という雰囲気で、楽しい仕掛けがたくさんある。

 基本的には「笑い」が中心にあると思います。といってもコメディというのではなく、「笑いのたえない家庭」みたいな幸せさの象徴みたいな意味での笑い。設定としては近未来という感じで、あのしょぼい番組が人気番組というところを見ると、「笑い」そのものが失われかけている次代なのかもしれません(深読みすぎ)。その中で「笑い」を求めるというのがこの映画がファミリーにヒットする秘密だと思います。
 基本的にはロバート・ロドリゲスの凝り性ぶりが面白いわけですが、凝り性から来るのかどうか、反復ネタがなかなかいい。しかも、反復ネタというのは子供にもわかりやすいわけですね。道具がしょぼいとか、バカっていうと怒るとか、そのあたりで笑いを誘うところが非常に良心的だということです。
 子供2人ともすっかりハリウッド・スターというか役者ぶりを発揮している感じ。ハリウッドではやはり子供もただの子供ではない。特におねえちゃんのほうは「私は女優」光線がバリバリと出ていました。きっと、ドリュー・バリモアみたいにもと子役としてしっかり女優になっていくことでしょう。「やっぱりヒット・シリーズに出るのがスター女優への近道よ」とか思っているに違いない。
 そういう、プロな感じの子供がやるということは、なんか後ろ寒いものもあるけれど、出来上がった作品としては良質のものができるという感じがします。きっと子供が見たら、面白くてしょうがないんでしょう。大人が小ばかにされている感じもいいし。

 大人といたしましては、これを楽しめないようでは子供の心を失っているということなんだ、という気になる感じ。この映画はちっとも子供だましではなく、子供向けの映画というだけなので、これをみて「こんな子供だまし」と思ってしまったあなた。「子供の純真な心」を忘れています。
 とはいえ、私は子供に純真な心などないと思いますね。純真さを演じるは子供の仕事だから、そうしているだけで、本当は純真でもなんでもないのではないかしら。この映画も最後はハッピーエンドのようで、大人が押し付けたい子供像みたいなものが浮き彫りになっていてなんだか納得がいきません。作品全体の展開からすると、家族が大事というのは自然な話のような気もしますが、それも一時のことという気がします(だから続編が作れるのか?)。
 全体的には子供向き。最後は子供に見せていいと親に思わせるために親向きに作ったんじゃないかとかんぐりたくなる終わり方。でも、大人なんてそうやってだませばいいんじゃないの?とも思います。