スペシャリスト・自覚なき殺戮者

Un Specialiste
1999年,フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル,128分
監督:エイアル・シヴァン
脚本:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン
撮影:レオ・ハーウィッツ
音楽:ニコラス・ベッカー、オードリー・モーリオン
出演:アドルフ・アイヒマン

 何百万人ものユダヤ人を絶滅収容所へと送り込む列車の運行を管理した男アドルフ・アイヒマン。戦後海外に逃れた彼をイスラエル政府が捉え、裁判の場に引き出した。ここまでは映画以前の物語。映画はただひたすらアイヒマンの裁判の場面を映し出す。40年近くほったらかしになっていたフィルムの掘り起こし。その裁判から見えてくるのはアイヒマンの殺戮者としての側面か、それともただの一人の人間としての側面か。

 とても眠い。それは映画がひたすら裁判所を映し、劇的な変化もなく、編集上の工夫はあるにしても淡々と進むからだ。これは元の映像が裁判の記録であるから仕方がないことだけれど、とにかく淡々と進んでいく。
 まず驚くのは防弾ガラスに守られたアイヒマンの姿。それほどまでに彼がイスラエルで憎悪の対象になっているということだ。
 映画は今までのホロコースト映画と同様にユダヤ人の受難を描くのかと思いきや、そうではないらしい。アイヒマンは無表情で淡々と「自分には権限がなかった」と繰り返す、これに対して検事は感情的に糾弾する。そして数多くの証人に証言を求める。
 問題なのはこの証人たちで、次々と登場するもののアイヒマンの罪状とはあまり関係ない人々ばかりだ。裁判の焦点は検事も言うとおりアイヒマンが虐殺に関与したか否かであるはずなのに、登場する証人たちはその結果の虐殺を生き延びた人々ばかりである。彼らはその悲惨さを語りアイヒマンの非道さを語るけれど、それがアイヒマンの責任の証立てにはならない。
 前半にアイヒマンと会い、交渉したというユダヤ人側の代表が証人台に立つ。彼の語るアイヒマンは単純に有能な官僚であり、ある程度ユダヤ人に理解を示す人物である。
 後半にもそのような人物が証言台に立つ。しかしそのとき傍聴席から「そいつはわれわれを犠牲にして家族を救った」という怒号があがり、裁判長は閉廷を宣言する。
 これらの記録によって何が明らかになったのか。ここから明らかになったのはこの裁判の無意味さ。これはアイヒマンの裁判ではなくイスラエルの裁判だったということ。全く反対尋問をしない弁護士(案件と関係ないのだから反対尋問の仕様がない)、それに対して感情をあらわにまくし立てる検事。彼が求めるのはアイヒマンの罪状を明かすことではなくイスラエルの正当性を明かすことだ。
 どうも話がまとまりませんが、結局のところアイヒマンというのはそれほど重要な人物ではなく、大きな悪を行った装置の部品の一つであるということは明らかで、本当に追求すべきなのはそのような人は果たして有罪でありえるのかということであるはずだ。「悪の凡庸さ」とは誰が言った言葉か忘れてしまいましたが、その凡庸な悪を裁きうるのかどうかということを追求するべきであった。しかしこの裁判が明かそうとしているのはアイヒマンは凡庸ではなかったということであり、凡庸であるアイヒマンを凡庸でないとして断罪してしまった。
 ということはこの映画はあくまで問題を提起しているだけであって、結論ではない。ということ。

お伊勢詣り

1939年,日本,56分
監督:森一生
原作:依田義賢
脚本:依田義賢
撮影:広田晴巳
音楽:武政英策
出演:ミス・ワカナ、玉松一郎、森光子、平和ラッパ

 伊勢詣りの途上にある一軒の宿屋「伊勢屋」。そこの主人が瀕死の床に伏し、客引きは団体を呼び込むのを控えていたが、死にそうなはずの主人自ら客を入れろといってきた。主人の言いつけ通り客を入れた呼び込み。それが発端で巻き起こるどたばた騒動。
 おそらく戦時中の大衆娯楽用に作られた映画。映画という形を借りて漫才やら漫談やら芸人たちの芸を見せる。

 ミス・ワカナは玉松一郎と夫婦漫才で一時代を作ったということです。わたしは知りませんでしたが、関西圏ではかなり有名な人らしい。夫婦漫才なのに「ミス」とはこれいかに、という気もしますが、そんな細かいことは気にしない。映画に話を持っていくと、このミス・ワカナの登場シーンがそもそも玉松一郎とのシーンなわけですが、この絡むがやけに長い。普通の映画では考えられないくらい長く絡む。見ているとこの2人の絡みというのがこの映画の焦点なんだとわかってくる。つまり、ワカナ・一郎を中心とした漫才などなど上方お笑いの陳列棚。戦争で疲れている皆さんに笑いのプレゼントを。という感じ。『お伊勢詣り』と題されているけれど、それは別に伊勢でなくてもよかった。
 ということなので、この映画は当時の漫才を見る映画ということです。やはり戦争がネタになっていたりしますが、これまた当然のことながら戦争万歳日本万歳大東亜共栄圏万歳感じです。今見ると非常な違和感がありますが、こういう時代であったということはわかります。しかし、これで笑えたのだろうか?という疑問もわきます。おそらく一瞬でも戦争のつらさを忘れようと思ってみているであろうのに、わざわざ戦争をネタにする。敵を笑うネタは受けるかもしれませんが、それ以外はどうなんだろう? などなどつらつら考えます。
 ミス・ワカナについてちょっと調べました。ワカナ・一郎のコンビで活躍し、この作品が映画初主演作ということですが、戦争が終わってまもなく36歳の若さでなくなってしまったそうです。玉松一郎は二代目ミス・ワカナとコンビを組んだものの半年で解消。この二代目はもうなくなってしまいましたが後のミヤコ蝶々さん。その後さらに三代目ミス・ワカナとコンビを組んだということです。

おしゃれ泥棒

How to Steal a Million
1966年,アメリカ,126分
監督:ウィリアム・ワイラー
原作:ジョージ・ブラッドショウ
脚本:ハリー・カーニッツ
撮影:チャールズ・ラング
音楽:ジョニー・ウィリアムズ
出演:オードリー・ヘップバーン、ピーター・オトゥール、ヒュー・グリフィス、シャルル・ボワイエ

 オークションに出品されたセザンヌの名画、実はその持ち主ボネ氏は娘と2人で暮らす屋敷の屋根裏で日々贋作を作り続ける贋作者だった。そんなボネ氏が娘の反対を押し切って先代の作った「ビーナス」の彫像を展覧会に出品することにした。その展覧会が始まった日の夜、ボネ家に泥棒が忍び込む…
 パリを舞台にオードリーの活躍を巨匠ウィリアム・ワイラーが撮ったロマンティック・コメディ。間違いなく名作です。

 やっぱり、オードリーなのですよ。ウィリアム・ワイラーはすごいかもしれません。ジバンシーも素敵かもしれません。でもやっぱりオードリーなのですよ。どんなにすごい人たちでも引き立て役にしてしまうのがきっとオードリーなのですよ。この映画のオードリーはなんといってもサングラスですね。特徴的な大きな目を隠す大きなサングラス、これですね。そのサングラスをはずすと顔の半分くらいもありそうな大きな目。吸い込まれそうな目ですね(なんだか淀川長治のような文体になっていますが、気にしないように)。『昼下がりの情事』の時にはチェロでした。それが今回はサングラス。クレジットにジバンシーの名前が出ていましたが、あのサングラスもやっぱりジバンシーなのでしょう。そのあたりはあまり詳しくありませんが、今も『おしゃれ泥棒』モデルとして売られていることでしょう。それくらい魅力的なオードリーのサングラスでした。
 とはいってもサングラスだけで映画が作れるわけではありません。この映画の作りはかなり周到です。コメディとしてジャンルわけされる映画ですが実際のところ「謎解き」というか「気になる展開」が大きなウェイトを占めています。このダルモットという男は何者なのか、お父さんは捕まってしまうのか、ビーナスはどうなるのかなどなど。このように複数の「謎」があることで映画が展開力を持ちます(「展開力」というのはわたしが勝手に言っている用語ですが、要するに観客に先の展開を気にさせる力のことですね)。このような展開力のある映画は観客に受け入れられやすく、「面白かった」となりやすい。これはいいことですね。
 さて、この映画で一番よかったところといえば、クローゼットの一連のシーンですね。「鍵を動かすとき、角のところはどうしたんだ!」などという細かい疑問はありますが、あの狭い空間を表現するのにほぼ一つのフレームだけを使い、その固定されたフレームで十分なドラマを描く。それはかなりいいです。時間とともに変わっていく2人の間の緊張感と距離感がとてもよい。あの場面をもっとじっくり撮ってもよかったんじゃないかと思ってしまいます。
 そういえばひとつ不思議に思ったのは、オードリーの作品にヨーロッパが舞台のものが多いのは何故か?ということです。オードリーは(確か)ヨーロッパ系なので、それが理由といってしまってもいいのですが、何かそこに当時のアメリカ人のヨーロッパに対するイメージのようなものが見えてくるのかもしれないとも思いました。アメリカ人にとってオードリーとはある種のヨーロッパの鏡像であるというと大げさですが、アメリカ人にしてみると、オードリーはなんだかヨーロッパな香りなのでしょうかね?

助太刀屋助六

2001年,日本,88分
監督:岡本喜八
原作:生田大作
脚本:岡本喜八
撮影:加藤雄大
音楽:山下洋輔
出演:真田広之、鈴木京香、村田雄浩、岸田今日子

 助六はひょんなことから仇討ちの助っ人をしたのがきっかけで勝手に助太刀屋助六と名乗るようになった。なんといっても武士が自分に頭を下げ、ついでにお礼までもらえるというのが魅力だった。ヤクザモノと気取りながら刀を抜くのは大嫌い。そんな助六が15両の大金を手にして、7年ぶりに故郷に帰った。しかし、村はひっそりと静まり返っていた。
 御年78歳、岡本喜八6年ぶりの新作。全体に軽いタッチの仕上がりで、『ジャズ大名』以来のコンビとなった山下洋輔の音楽がよい。

 音楽の使い方がよい。こんな完全な時代劇を、何の工夫もせずに今劇場でかけるのはなかなか難しい。何か現代的な工夫を凝らさなくてはいけない、と思う。その工夫がこの映画では音楽で、ジャズのインストに笛(尺八かな?)の音などを絡ませながら、うまく映画の中に配する。これが映画のコミカルさ、盛り上がりに大きな助けになっています。音楽を担当するのはジャズ・ピアノの名手山下洋輔。『ジャズ大名』でも岡本喜八作品の音楽を担当したが、『ジャズ大名』がストレートにジャズをテーマとした作品だったのに対して、こちらは単純な時代劇、そこに和楽器を絡ませたジャズを入れるというなかなか難しいことをうまくこなした。
 そのほかの部分はそつがないという印象です。特に奇をてらった演出もせず、ドラマの展開も予想がつく範囲で、登場人物もコンパクトにまとめ、そもそも物語が一日の出来事であるというところからして、全体的にコンパクトな映画だということがわかります。そつがない、コンパクトということは無駄な部分がないということでもある。つまりストーリーがもたもたしたり、余計な挿話があったりしないということですね。それはつまり編集がうまいということ。やはり経験によって身につけた技なのか、見事であります。
 あとは、岸田今日子がいい味かな、と思います。ナレーションが始まった時点でも「おおっ」と思ったのですが、その後しっかり出演してさらに「おおっ」。あまり岸田今日子らしい味は出しませんが、因業婆らしさを見事にかもし出しています。最後には立ち回りでもさせるのかと期待しましたが、それはやらせませんでした。そのあたりは残念。たすきがけに、薙刀でもも持って後ろからばっさりなんていうシーンを想像して一人でほくそえんでいました。

修羅雪姫

1973年,日本,97分
監督:藤田敏八
原作:小池一夫、上村一夫
脚本:長田紀夫
撮影:田村正毅
音楽:平尾昌晃
出演:梶芽衣子、赤座美代子、中田喜子、黒沢年男

 明治6年、八王子の監獄で鹿島小夜は娘を産み落とす。娘の名は雪、小夜は雪に自分の仇をとり、恨みを晴らして暮れといいながら死んだ。時はたち、大人になった雪は蛇の目傘に仕込んだドスで人を斬る見事な暗殺者になっていた。そして彼女は母の仇を捜し求める…
 当時連載されていたコミックの映画化。とにもかくにも全体に徹底されているB級テイストがたまらない。もしかしたら、コメディかも。

 見た人には何を言わなくてもわかってもらえる。しかし見た人はあまりいないだろうということでちょっと説明しつつレビューしていきましょう。
 最初人が殺される場面の血飛沫の激しさ、そしてその血の色の鮮やか過ぎるところ。これを見て、なんか安っぽいなと思ってしまうのが素直な反応。しかしこの映画、その安っぽさを逆手にとってというか図に乗ってというか、とにかく血飛沫血飛沫血飛沫。とにかく飛び散る血飛沫。大量の血。しかし決して生々しくないのはその血があまりににせものっぽいから。伴蔵の血で染まった海の赤さ。「そんなに赤くならねーだろ、おい!」
 いとも簡単に血飛沫が飛び、急所をついてないのに糸も簡単に死んでしまう人たち。一太刀で出血多量にしてしまう雪の剣がすごいのか? そんなはずはないのですが、辻褄を合わせるにはそれくらいしか説明のできないすごさ。そのような映画の作り物じみさ、狙った過剰さ。そこに気づくと、映画の後半はひたすら忍び笑いの時間になります。そしてそのクライマックスは北浜おこの。これは見た人だけが共有できる思い出し笑い。
 こういうテイストの映画は日本にはあまりない。全くないわけではないですが、妙に茶化してしまったりして、こんなくそまじめなようでいて目茶目茶おかしいという映画はなかなかないのです。あるとすれば、60年代から70年代の埋もれた映画でしょう。京マチ子主演の『黒蜥蜴』などもかなり爆笑映画でした。最近では『シベ超』『DOA』といったところが、そんな映画の代表でしょう。うわさでは『幻の湖』という名作もあるらしい。そのような「バカ映画」といってしまうと語弊がありますが、そんな映画がはわたしは好き。

修羅雪姫

2001年,日本,92分
監督:佐藤信介
原作:小池一夫、上村一夫
脚本:佐藤信介、国井桂
撮影:河津太郎
音楽:川井憲次
出演:釈由美子、伊藤英明、嶋田久作、佐野史郎

 500年もの間、鎖国を続けるとある国に、隣国の帝政の崩壊で元近衛兵たちが流れてきた。彼らは建御雷(たてみかずき)と呼ばれる一族で、だれかれかわまず殺す暗殺集団となっていた。その中のひとり雪は逃亡者を追い、殺しに行ったところで元建御雷の男空暇に母親を殺したのが現在の首領白雷であることを告げられる…
 1970年代に梶芽衣子主演で映画化されたコミックの映画化。映画のリメイクではなく、原作が同じというだけ。香港のアクション俳優ドニー・イエンがアクション監督を務め、アクションは本格派。

 話がくどい。物語の背景説明をくどくどと、しかもモノローグで語る。それを語る(場面上の)必然性もないし、物語の上でその背景説明が絶対的に必要であるとも思えない。だから、この背景説明は無駄なもので、特に隆の両親が殺されたとかそんなことはどうでもよく、建御家がどうして暗殺者集団になったのかというのも別にどうでもよいことのような気がする。もっと雪の物語に全体を絞って、話を凝縮すれば面白くなったのにと思ってしまう。くどくどした説明がはさまれることで、そこで映画のペースが落ち、アクションシーンにあるスピード感が損なわれてしまう気がする。
 なので、どうしても映画に入り込めない感はありましたが、アクションシーンはなかなかのもの。アクション監督はドニー・イエンで、香港アクション流行のワイヤーバリバリ、いたるところでワイヤーです。これだけ徹底して使われると気持ちのいいものかもしれない。日本映画のアクションシーンとしてはかなりいいものなのではないかと思います。
 そして、意外といいのが釈由美子。アクションシーンにはたどたどしさが見えるものの、ワイヤーのおかげで何とかこなしているし、演技も意外とうまかったりする。無表情さと、感情が表れる顔と、そして終盤のなんともいえない顔と。けっしてうまくはないけれど、何かが伝わってくる感じ。日本アカデミー賞の主演女優賞くらいあげてもいい気がしました。
 しかし、この映画は細部をおざなりにしすぎ。車の汚しは雑だし、血の飛び方や吐き方などもそうとうに安っぽい。(特に必要であるとも思えない)変な特急電車や街並みのCGに金をかけるより、そういった細部をリアルにしていくことにお金をかけてほしいと思いますね。いくらアクションに迫力があっても、流れる血がどう見てもにせものでは面白さも半減です。雪が手の甲をぐさりと刺され、どう考えても骨も神経もばっさり切れているのに、あんなにすぐに回復してしまうのもどうかと思う。
 そういった詰めの甘さが日本の娯楽大作にたびたび見られ、だから巨額を投じた作品はたいていこける。地味な部分にお金をかけるその心の余裕かマニアなこだわりがいい作品を生むのではないかと思ったりします。

東海水滸伝

1945年,日本,77分
監督:伊藤大輔、稲垣浩
脚本:八尋不二
撮影:石本秀雄、宮川一夫
音楽:西梧郎
出演:阪東妻三郎、片岡千恵蔵、花柳小菊、市川右太衛門

 清水の次郎長がヤクザ家業から足を洗うことを決意し、刀を封印し、酒を断って石松に金毘羅代参を命じる。無事お参りを済ませ、近頃評判の草津の親分のところにより、香典を言付かった石松は道で都鳥の吉兵衛に出会う。ついつい気を緩め酒を口にしてしまった石松は、香典に預かった百両を吉兵衛に貸してしまう。
 なんといっても石松を演じる片岡千恵蔵が見事。阪妻もさすがに迫力があるけれど、やはりこの物語の主役は石松か。

 片岡知恵蔵演じる石松は切符のよさがうまく表現されてていい。「正直の上に馬鹿がつく」というセリフがよく似合う石松をうまく演じているといえる。だからこの映画は間違いなく石松の映画で、片岡知恵蔵の映画であるといいたい。
 清水の次郎長と森の石松の話はよく知られているが、年月とともにいろいろなバリエーションが生まれ、この映画もそのバリエーションの創作に一役買っているらしい。石松の幼馴染というのが出て来るのも、画面に花を添える映画らしい演出だ。
 ドラマはよく整理され、片岡知恵蔵もうまく、画面もさりげなくて言うことはない。旅館の部屋で石松が外ばかり眺めている場面や釣りをしている場面など、人物により過ぎずとてもさりげないのがよい。川(湖?)に落ちるところはちょっと演出過剰かもしれないが…
 しかし、そんなさりげなさが唐突に崩れる場面がある。それは盆踊りの場面。この場面は本当にすごい。動きの激しい短いカットを無数につないぐ。一つ一つのカットが異常に短い。このような編集の効果はもちろん画面に大きな動きを生み、激しさを生むということだ。
 この映画はおそらく、最初の撮影編集のあと再編集されたものだと思う。主要な登場人物が出てきたときに唐突に出る人物紹介のキャプション。石松のたびに際してカットとカットの間に挟まれる状況を説明するキャプション。これらはあとからつけられたものだろう。単純にわかりやすくするためなのか、それともフィルムの一部が失われ、それを補うためにつけられたのかはわからないけれど、映画全体からするとなんとなく異質なものに見える。だからどうということもないですが、このような映画が保存されている喜びとともに、オリジナルの何かが失われてしまっているのだとしたら、それを惜しまずにはいられない。

おぼろ駕籠

1951年,日本,93分
監督:伊藤大輔
原作:大仏二郎
脚本:依田義賢
撮影:石本秀雄
音楽:鈴木静一
出演:阪東妻三郎、田中絹代、月形龍之介、山田五十鈴、佐田啓二

 江戸時代、権勢をほしいままにし、その権力は将軍をも上回るといわれた沼田家。その下には全国各地から贈り物と請願が届き、その贈り物いかんでどうにでもなる世の中。そんな時代、沼田家に対抗する家臣の家に推され将軍の中藹になろうかというお勝が殺された。そんな話が生臭坊主夢覚和尚の耳にも届く。阪妻演じる和尚が活躍する推理時代劇。
 若い阪妻もいいけれど、わたしはむしろ年を重ねて十分に味が出てきた阪妻が好き。50歳にしてこの色気を出し、同時に笑わせることもできる芸達者振りが今阪妻を振り返って魅力的なところ。

 阪妻はもちろんいいです。たしか『狐の呉れた赤ん坊』でも描いたと思いますが、スタートは思えないほどコミカルに動く顔の表情が最高。立ち回りも、坊主であることによってコミカルなものにはやがわり。若かりしころの緊迫感漂う、颯爽とした立ち回りもいいですが、コミカルに立ち回りができるというのは得がたき才能なのでしょう。
 立ち回りといえば、この映画で印象的だったのは橋の上での立ち回り。多勢に無勢、多数の軍勢を阪妻一人で受けて立つわけですが、それを橋の上に展開させる監督の(あるいは脚本の)周到さ、いかに剣豪ばりの刀捌きを見せる和尚であっても(そして阪妻であっても)、何もない平原で多勢に無勢じゃ歯がたたない。多勢に対抗するときには細いところで一度に相手にする敵の数を減らす。これは戦いの基本であるようです。そのあたりをきっちり守るところがなかなかよい。そういえば、準之助を逃がす場面の立ち回りも一方が塀、一方が堀の細い道でした。
 映画の作りのほうの話をすれば、監督は巨匠の、そして阪妻と数多くの作品で組んでいる伊藤大輔。さすがに見事な画面構成といわざるを得ません。何度か使われる手持ちカメラでのトラックアップ、たまに出てくることで、そのシーンの緊迫感が増す。使いすぎるとうるさくなる。しかし、他のシーンからあまりに浮いていても映画にまとまりがなくなる、そのあたりのバランスをうまく取って、抜群の効果を挙げています。
 そう、監督の演出も手法もさすがという感じですが、まあ伊藤大輔ならこれくらいやってくれるさと(生意気にも)思うくらいのものです。それよりもやはり阪妻の顔。それは面白いだけではなく、その場面場面でセリフ以上のことを語る顔。伊藤大輔はさすがにそれを知ってズームアップを多く使う。そして顔から伝わる物語。そういえば、阪妻最初の登場は坊主の笠で顔を隠し、隠したままで1シーン、2シーンと進んでいました。その登場の仕方からしても、監督は阪妻の顔の魅力を十全に知っていたということでしょう。ついでに、終盤は田中絹代と、山田五十鈴の顔がクロースアップされます。阪妻には負けますが、彼女たちも女優魂をかけてかどうかはわかりませんが、懸命に顔で演技をする。
 いい顔がじっくり見れます。

イン&アウト・オブ・ファッション

In & Out of Fashion
1993年,フランス,85分
監督:ウィリアム・クライン
撮影:ウィリアム・クライン
音楽:セルジュ・ゲンズブール
出演:イヴ・サンローラン、ジャン=ポール・ゴルティエ

 写真家・映画作家として知られるウィリアム・クライン。彼が自らの写真・映像両方の作品をダイジェストにし、一種の自伝として語った映画。写真よりも映画に重点が置かれ、過去の映画のダイジェストに多くの部分が割かれる。
 全体的なセンスはさすがウィリアム・クラインという雰囲気で、物語ではなくていろいろな断片をコラージュした映像という感じに仕上がっている。

 ウィリアム・クラインの自己紹介映画というところでしょうか。ウィリアム・クラインを知らない人が見るとなんとなくわかる。そして映画が見たくなる。そのような映画です。これまでに撮られた断片が多いので、それぞれへのコメントは控えるとして、全体的にどうかというと、ウィリアム・クラインは常に時代を先取り、自身もそれを自覚し、むしろ自慢にしているということでしょう。自らの67年の作品『ミスター・フリーダム』を評して「10年早かった」というクラインの言葉は紛れもない事実(あるいは、30年くらい早かったのかも)であり、それを自ら言ってしまうところがクラインらしさなのだろうと感じさせます。
 そのような映画なので、わたしはクラインのすごさに納得したのでいいのですが、スノッブで鼻につくという見方ができるのも確か。
 さて、そんな映画で、わたしが引っかかったのは、クレジットの出し方。クレジットの出し方にまでこだわるところがクラインらしく、これまたスノッブな感じでもあり、面白くもある。特にエンドクレジットなどは、多くの映画はただただ字を流して音楽をかぶせるだけ。たまにエピローグ風のものが入る映画があったり、『市民ケーン』のように、ここの人物の映像に文字をかぶせたりすることはあるもののまず監督がやるようなものではないはず。しかしこの映画はエンドロールもあくまでスタイリッシュに、情報を伝えるよりもひとつの映像として表現するという姿勢が明確に出ています。
 エンドロールで面白いといえば、香港映画ではNGシーンがよく使われますが、個人的に一番印象に残っているのは『プリシラ』。ヴァネッサ・ウィリアムスのヒット曲(タイトルは失念)にあわせて、ドラァグ・クイーンがしっとり口パク。このエンドロールは必見です。
 話がすっかり飛んでしまいましたが、今日の映画はウィリアム・クラインでした。

市民ケーン

Citizen Kane
1941年,アメリカ,120分
監督:オーソン・ウェルズ
脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ
撮影:グレッグ・トーランド
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、エヴェレット・スローン

 フロリダに建てられた他に類を見ない豪邸ヴァロワ邸。そこで孤独のうちに死んだ元新聞王のチャールズ・F・ケーン。彼が臨終の際に残した「ローズバッド」という言葉。その言葉の謎を解こうと新聞社は生前の彼を知っていた人たちを訪ねてまわる。そこから経ち現れた新聞王の姿とは…
 斬新な手法とスキャンダラスな制作背景が話題を呼び、オーソン・ウェルズの名を不動のものとした作品。そのドラマと手法のすばらしさから現在でも名作の一つに数えられる。

 まずは、ドラマを見てみましょう。最初の長いニュース映画のプロローグ。この長さが尋常ではないことは確かです。そしてこのニュース映画が謎解きの大きなヒントにもなっている。「ソリ」というのが頭にインプットされてしまってみると、その複線のおき方はかなりあからさまです。そして始まる「ローズバッド」の謎解き。その謎解き自体はいわゆるサスペンス映画とか、推理もののようにはらはらするものではありません。しかし面白いのは、それぞれの証言者の語り口と再現ドラマ。オペラハウスの場面が全く同じ編集で2度繰り返されるというのもなかなか面白かった。
 さて、ドラマ自体はそれほどことさらに傑作というものではない。つくりは斬新だけれど、今見てもはらはらどきどきというほどに洗練されているわけではない。ということは、この映画が名作とされるゆえんはやはりその手法にあるのか?ということになります。
 一番よく言われるのは「パンフォーカス」。これはつまり、手前にある被写体と奥にある被写体の両方にピントがあっている状態で、奥行きのある画面でも、手前のものと奥のものの両方がくっきりと見えるということ。マニュアルのカメラなどを持っている人はわかると思いますが、そのためには絞りをゆるくする必要があるわけで、それはつまり光量がかなりないといけないということ。それはつまり、スタジオで撮る場合膨大な証明が必要となるということです。
 そんな技術的な話はさておいて、画面上でそのパンフォーカスがどのような効果を生むかというと、想像に難くないことすが、手前と奥で同時に2つの出来事を展開することができるということです。 ビデオカメラではかなり簡単にできてしまうので、テレビを見慣れてしまったわれわれには特に目新しいものでもなく、この映画を見ていても気づかずにすっと通り過ぎてしまうことが多いかと思います。
 このパンフォーカスにしても、激しい仰角のアングルにしろ、いろいろ言われていることもあって、それほど驚きはないものの、それが以外に自然に映画の中に取り込まれていることがすごい。斬新な手法を(実際はそれほど斬新でもないのですが)斬新なものとしてではなく、映画を作る一つのピースに過ぎないものとして扱うところにこの映画のスケールの大きさを感じました。それはつまり、ドラマと手法が分かちがたいものとしてひとつになっているということ。だから、そのそれぞれはことさらに傑作というものではなくても、それがあいまってすばらしいものになるということ。