残菊物語

1939年,日本,146分
監督:溝口健二
原作:村松梢風
脚本:依田義賢
撮影:三木滋人、藤洋三
音楽:深井史郎
出演:花柳章太郎、森赫子、河原崎権十郎

 六代目尾上菊五郎を継ぐべくして歌舞伎の修行をする尾上菊之助。周囲は大根と陰口をたたくが、本人の耳には届かない。しかし、自分の才能に疑問を抱く菊之助はいたたまれない毎日を送っていた。そんな時、夜道であった弟の乳母お徳が菊次郎に世評を伝える…
 江戸の歌舞伎の世界における浮沈を描いた重たいドラマ。溝口の戦中の作品のひとつで、歌舞伎というあまり知らない世界を描くという点でも非常に興味深い。

 この作品の何が気に入らないのかといえば、ドラマです。菊之助はさまざまな人に支えられ生きていて、本人もそれを受けて成長しているように描かれているけれど、実のところ彼は非常にエゴイスティックなキャラクターだと思う。世間知らずのボンボンであるという人間形成でそれも許されるものとされているのかもしれないけれど、苦労を重ねて芸は磨かれたのかもしれないけれど、人間性はちっとも磨かれていない。にもかかわらず、立派な歌舞伎役者になれた=立派な人間になれたという描き方で描ききってしまうところが気に入らない。エゴイスティックであるにもかかわらず人の意見をすぐに聞き入れてしまうところも気に入らない。
 などと、映画の登場人物のキャラクターに文句ばかり言っても仕方がないのですが、これはおそらく感動を誘う作品であるにもかかわらず、こんな主人公ではとても感情移入ができんといいたかったわけです。感情移入できるのはお徳さんのほう。しかし、菊之助が歌舞伎役者として立派になればそれですべてよしという(愛が故の)徹底的な利他主義というのは納得がいかない。そもそもいつから菊之助にそんなに思い入れるようになったのかもわからない。それじゃ映画に入りこめんわい、といいたい。
 ということで、文句ばかり言っていますが、それでも溝口、他の部分で補います。たとえば、不必要に長いと思えるほどの歌舞伎の場面。大根の時代の場面がないだけに比較対照はできないものの、その歌舞伎の迫力が画面から伝わってくることは確かでしょう。それだけに観客の拍手の多さはちょっとわかり安すぎるかなという気もさせましたが。後は、茶店の場面なども溝口らしさが漂います。町外れの茶店で、そこの婆と菊之助がやり取りをするだけなのですが、そのロングで撮ったさりげなさが溝口っぽい。ドラマティックには演出せず、さりげなくさりげなく撮る。これが溝口だと思いました。
 となるとこれは、可もなく不可もなく、ではなく、可もあり不可もある作品、ということです。

狐の呉れた赤ん坊

1945年,日本,85分
監督:丸根賛太郎
原作:谷口善太郎、丸根賛太郎
脚本:丸根賛太郎
撮影:石本秀雄
音楽:西梧郎
出演:阪東妻三郎、橘公子、羅門光三郎、寺島貢

 大井川で川越人足をする張子の寅こと寅八は今日も飲み屋で馬方人側の丑五郎と喧嘩を始める。そこに寅八の子分六助が青白い顔で入ってきた。何でも狐に化かされたらしい。それを聞いた寅八は狐を退治してやろうと六助の言った場所へと向かう。しかし、そこにいたのは赤ん坊。狐が化けているに違いないと待つ寅八たちだったが、赤ん坊はいつまでたっても狐にならない…
 阪妻の戦後初主演作は人情喜劇。阪妻はシリアスな立ち回りもかっこいいが、顔の動きがコミカルなので喜劇もいける。
 1971年には勝新主演、三隅研次監督でリメイクされている。

 いわゆるヒューマンコメディを時代劇で撮ったという感じ。
 戦後すぐということで、環境が恵まれたものではなかったろうと感じさせるのは舞台装置の少なさ、画面に登場する場所が非常に少ない。なので、話は小さくなりがちだが、渡しという設定は多くの旅人が登場しうるということを意味し、話にダイナミズムを与えることができる。このようなある種の制限をアイデアで乗り越えようという姿勢はとても好感が持てる。
 そしてもちろん、あらゆる制限を補って余りある阪妻の存在。武士もやれば、浪人もやれば、将軍もやれば、人足もやる。変幻自在が阪妻らしさか。この阪妻は『無法松の一生』の佇まいを髣髴とさせる。話もなんだか似たような感じではあるし。
 そんなこんなでさりげなく面白い映画になっている。このさりげなさというのはとてもすごいと思う。作られてから50年以上がたち、制作環境も恵まれず、にもかかわらず、今見てもさりげない映画に見えてしまう。50年後100年後に見てもすごい映画というのもすごいけれど、50年後100年後に見てもさりげなく面白い映画というのはもっとすごいんじゃないだろうか? すごさというのは語り継がれるけれど、さりげなさというのはなかなか語り継がれない。にもかかわらず、ふらりと見て、くすりと笑い、ほろりと感動して、「ああ面白かった」と映画館を出る。
 それにしても阪妻の顔のよく動くこと。眉をしかめ、目をむき、唇を突き出す。このような演技までして喜劇を演じられるのは、一度はスタートして君臨しながら零落し、再起を遂げた阪妻ならではなのか。阪妻が今でもすごい役者として語り継がれるのは、単なるスターにとどまらず、さまざまな表情を持っているからだと思いました。

将軍と参謀と兵

1942年,日本,109分
監督:田中哲
原作:伊地知進
脚本:北村勉
撮影:長井信一
音楽:江口夜詩
出演:阪東妻三郎、中田弘二、林幹、押本映治、小林桂樹

 昭和16年、北支戦線、作戦中の兵団に斥候が帰ってくる。そのデータを下に参謀長以下参謀は作戦を練り直す。将軍もその会議に顔を出し、作戦の変更を認めた。後は敵を殲滅し、突き進むのみ。意気盛んな兵士はシナ軍をどんどんと追い込んでいく。
 戦時中、陸軍省の協力で中国ロケが敢行された戦争モノ。まさに戦場の中国で撮影されていることを考えているとすごいものがあるが、基本的には戦意高揚映画で、阪妻もまたそれに参加したという形。終始戦闘が繰り返され、兵士たちの勇敢な姿が映し出される。

 このようなストレートな戦意高揚映画というのははじめて見ました。そのようなものだとは意識せずに見始め、30分ほどしたところでそれに気づいたという感じ。戦闘シーンはあれど、血も出なければ、腕ももげなければ、死体も出てこない。戦闘の汚らしい部分は全く出てこず、具体的な敵の姿も出てこない。このあたりがまさにという感じです。
 しかし、このようなことを今取り上げて批判するというのは、全く持ってナンセンスな話で、当時はこのような映画が必要とされ、阪妻もまた参加したということ。進んでかいやおうなくかはわかりませんが、スター役者が参加するということは国民に一種の一体感が生まれるということは確かでしょう。阪妻のような将軍の下で戦いたいと思う若者も多かったかもしれません。この全く血なまぐさくない戦争映画から見えてくるのはこの映画が映す戦闘そのものではなく、戦争がその中に含むそれ以外の戦い。国民意識や戦闘意欲、国民の動員という現代の戦争になくてはならない要素でしょう。だから、この映画はある意味では戦争の一部。陸軍の軍事力の一部であったわけです。つまり、この映画を見るということは、あたかも実際に戦争で使用され銃剣や機関銃を見、手に触れるようなものだと思います。単なる一つの映画を見ているのではなく、映画であると同時に兵器であるものを見ているということ。
 これを推し進めていくと見えてくるのは、映画の持つデマゴギーでしょうか。つまり観客を操作する力。『SHOAH』で書いたことにもつながりますが、映画は見るものをコントロールする可能性を持っているということ。
 今となってはこの映画は、観客をコントロールすることはおそらくなく、それはつまりそのような映画の操作力を冷静に分析する材料になるということです。この映画はとても素朴なものですが、上映された当時は十分にその操作力を持っていた。そのことを考えると、現在の技巧を凝らされた映画には大きな潜在的な力が潜んでいるような気がします。
 そのせいなのかどうなのか、阪妻の演技も控えめです。スターは必要だけれど、スターが目立ちすぎては本来の目的が果たせない。スターにばかり目が行って果敢な兵士たちの姿に目が行かないのでは仕方がないということでしょうか。しかし、阪妻演じる将軍は冷静で、部下を信頼し、決して誤らず、決してあせらず、兵士たちに安心感を与えるのです。わたしがもし、当時若者で、本土でこれを見たならば、「俺も戦争に行かなければ!」と思ったのかも知れません。あくまで「かも知れない」ということでしかないですが、現在から冷静に眺めると、この映画は明らかにそのような効果を狙っていると見えるのです。

トレーニング・デイ

Traning Day
2001年,アメリカ,122分
監督:アントワーン・フークア
脚本:デヴィッド・エアー
撮影:マウロ・フィオーレ
音楽:マーク・シンシーナ
出演:デンゼル・ワシントン、イーサン・ホーク、スコット・グレン、エヴァ・メンデス

 麻薬捜査課に転任して初出勤の日の朝、ジェイクはチームのリーダーであるアロンソにダイナーに呼び出された。とっつきにくそうなそのベテラン刑事は犯罪者たちが恐れる伝説的な刑事だった。彼の型破りなやり方に最初は戸惑い、反発するジェイクだったが、徐々に彼には逆らえないことに気づいていくのだった…
 デンゼル・ワシントンが強烈なキャラクターでアカデミー主演男優賞を獲得。主演二人の演技なくしては持たない映画だったことは確かだろう。

 アロンソが繰り返し言うジェイクの「目」。その「目」がすばらしかったというわけではないけれど、そのようにアロンソが言った後、ジェイクの目をしっかりとアップで捉えるその描き方は役者の演技にすべてをゆだねているということだろう。イーサン・ホークがそのような「目」を演じることができるという確信。そのような確信を持たなければ、そこに素直なアップを持ってくることはできないはずだ。
 同様にデンゼル・ワシントンにもセリフ以外のことを語らせる。ジェイクが踏み込んだそのベットルームで見せるアロンソの無表情な顔。その全く感情のこもっていない冷静な無表情さをデンゼル・ワシントンが演じられるからこそそこには無表情が存在する。その無表情さの奥に秘められたアロンソの作戦をその表情からわからせられると確信したからこそ、その場面は全く無表情に進められるのだろう。
 果たしてその監督の確信は半ば正しかった。そのような控えめな演出で役者は生き、映画は救われた。これがもしCGゴテゴテのマトリックス風の映画だったならばとても見れるものではなかっただろう。ましてやアカデミー賞など…という感じ。
 結局のところ、デンゼル・ワシントン自身はいつもと変わらぬ好演をしていて、それを強調する演出をする監督にめぐり合えたということでしょう。ある意味ではこの監督はソダーバーグのような、役者のいいとこ引き出し型の監督であると思います。
 最大の問題点は脚本でしょうか。前半はなかなか面白いのですが、物語が転換したあたりからはぐずぐずずるずるの偶然に頼ったつじつま合わせのやわなスリラーになってしまう。メッセージ性も特にない。脚本がよければ作品賞も夢じゃなかった?
 そういえば、ブラックミュージック界の大物たちがたくさん出ていました。一番目だったのはメイシー・グレイですが、他にもドクター・ドレイとスヌープ・ドッグが出ています。ブラックミュージック好きの人は探して楽しみましょう。

息子の部屋

La Stanza del Figlio
2001年,イタリア,99分
監督:ナンニ・モレッティ
原案:ナンニ・モレッティ
脚本:ハイドラン・シュリーフ
撮影:ジュゼッペ・ランチ
音楽:アレッサンドロ・ザノン
出演:ナンニ・モレッティ、ラウラ・モランテ、ジャスミン・トリンカ、ジュゼッペ・サンフェリーチェ

 精神科医のジョバンニは妻パオラ、息子アンドレア、娘イレーネと仲睦まじくし暮らしていた。そんなある日、学校に呼び出され息子に窃盗の疑いがかかっていることを知る。息子を信じようとするジョバンニだったが、そこには一抹の不安が…。その事件をきっかけとして、家族の歯車が微妙に狂い始める…
 なかなかメジャーになれなかった寡作の監督ナンニ・モレッティがカンヌ・パルムドールを獲得し、一気にメジャーになった。作品としてはいわゆる感動作という感じだが、「家族の絆」などという安易な結論にいかないだろうという予想はできるかもしれない…

{ 映画はなんとなく進む。息子が死んでしまった後の家族の話が眼目となるのだろうけれど、そこもまたなんとなく進む。家族は議論をしているようで全く議論はしていない。自分の信条を吐露するだけの一方的な発話。果たして監督はそんなことを描きたかったのだろうか?
 それはさておき、この映画のラストシーンは秀逸だ。ラストシーンの話をしてしまうのはなんだけれど、その浜辺とバスの切り返し(多分違う場所で撮影していると思うけど)からは家族としての結論が見えてくる気がする。それは浜辺に佇む家族の姿の美しさがそう錯覚させるのだろうか?
 そのラストシーンについて考えていると、そこに至るまでの心理的な道筋がわからなくなってくる。果たして彼らはどうしてそのような結論に行き着くことができたのか? あまり人物の心理を直接的に描こうとしないこの映画からそれを読み取るのは難しい。涙や笑顔や無言の歩みからそれを読み取るのは難しい。主人公のジョバンニはさまざまなことを語り、彼自身の想像する場面も描かれるから彼の心理を推測するのは、ある程度は可能だけれど、この家族の変化を捉える鍵は彼よりもむしろ妻のパオラや娘のイレーネにある気がする。それにしては彼女たちの心理をとらえるためのヒントが少なすぎる。
 だから、美しいラストにもかかわらず、なんとなく消化不良な感じが残ってしまった。一人称で語ることは決してできないはずの家族の物語を一人称で語ってしまった作品。その視点を持つジョバンニに自分を同定できればこの映画に浸ることができるのだろうが、それができないと厳しい。そして監督は主人公(それはつまり自分)の視点に観客を引き込む努力をしていない。
 これは監督が主演する映画にたびたび見られる欠点でもある。監督で主演ならば、その視点に自分が立つのは当たり前だ。監督と主演の両方をして、自身が映画に没入しすぎないようにするのは難しいのだろう。そんな中で観客の位置を正確に把握していくのはさらに難しい。

惑星ソラリス

Солярис
1972年,ソ連,165分
監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
脚本:フリードリッヒ・ガレンシュテイン、アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:ナタリーヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルヴェット

 惑星ソラリスの軌道上を回る宇宙ステーションに向かうクリス。彼の旅立ちに先駆けて、父の友人で以前ソラリスで幻覚を見るという体験をしたもと宇宙飛行士の記録を見せられる。実際にクリスがステーションに行くと、3人の研究員のうちの一人で、クリスの友人であるギバリャンは自殺してしまっていた。
 アメリカの『2001年宇宙の旅』(1968)と常に比較されるソ連のSF映画の金字塔。『2001年』のような技術力はないけれど、その哲学的な内容がSF映画の枠を超えて議論を呼ぶ。

 この映画にとって、外惑星、あるいはSFという要素は舞台要素に過ぎない。完全に哲学として作られた映画、そのような印象だ。人間とは何か、存在とは何か、意識とは何か、他者とは何か。そのような問いを自分に投げ返すものとして存在する自己の意識の鏡像。つまり、果てしないモノローグ、自分との対話、どのように生きるかという姿勢。
 それなのに夢の実体化として現れるハリーの立場が中途半端なのは不思議だ。夢の具現化でありながら、人間として完璧ではない存在。ドアの開け方もわからない存在。なぜ、最初から完璧な夢の実体化として現れないのか、なぜ学習し、成長する存在として描かれねばならないのか、そしてなぜ自意識を持つまでに成長しなくてはならないのか。
 この映画のわからなさはその辺りにある。単純に自己の意識と向き合うのではなく、自己の意識から生まれながら徐々にそこから離れてゆくものと向き合うということ。そのことにどのような哲学的な意味があるのか。そのように考えていくと、この映画は哲学的な思索ではなく、哲学的な問いかけであるような気がしてくる。
 この映画は絶望的過ぎる。この映画が問いかける問いは「失うことこそ人生なのではないだろうか?」ということかもしれない。「存在とは何か」という問いかけにこの映画は「存在とは失われるものだ」とこたえているような気がする。しかし、それはわれわれに用意された答えではなく、そのような絶望的な答えを映画によって表現することで、それ以外の答えがないかと問いかけようという声なのだろう。「ありはしない」とつぶやきながら、「誰か他の答えを知らないか」とすがるように問いかけるその問いかけに、われわれは失われていくものを愛しむという以外の答えを用意することができるのだろうか?

SHOAH

Shoah
1985年,フランス,570分
監督:クロード・ランズマン
撮影:ドミニク・シャピュイ、ジミー・グラスベルグ、ウィリアム・ルブチャンスキー
出演:ナチ収容所の生存者

 ナチス・ドイツの絶滅収容所のひとつヘウムノ収容所のただ2人の生存者のうちの一人シモン・スレブニク、当時14歳の少年で、とても歌がうまかったというその男性が監督に伴われてヘウムノを訪れるところから映画は始まる。
 そこから当時からヘウムノの周辺に住んでいたポーランドの人たちへのインタビュー、他の収容所の生存者たちへのインタビュー、もとSS将校へのインタビュー、ワルシャワ・ゲットーの生存者へのインタビューなどホロコーストにかかわりのあるさまざまな人へのインタビューと、収容所跡地の映像、これらホロコーストにかかわるさまざまな資料を9時間半という長さにまとめた圧倒的なドキュメンタリー映画。
 ユダヤ人である監督はもちろんホロコーストの本当の悲劇を世界に伝えるべくこの映画を撮った。これでもかと出てくる衝撃的な証言、映像の数々。

 まず、この映画を見る前に、この映画をほめるのは簡単だと考えた。「ホロコースト」という主題、9時間半もの長さ、貴重な証言の数々、それは歴史的に重要な映像の重なりであり、われわれに戦争の悲惨さとそれを繰り返してはならないという教訓を投げかけるということ。それは見る前から予想ができた。その上で私はこの映画を批判しようという目線で映画を見始めた。その視線が見つめる先にあるのは、この映画の視点が一方的なものになってしまうのではないかという恐れ、現在存在するパレスチナ問題にもつながりうるユダヤ人の自己正当化、そのようなものが映画の底流に隠されているのではないかという危惧を持って映画を見始めた。
 見終わって、まず思ったのはこの映画は紛れもなく必要な映画であり、見てよかったということ。この映画を見ることは非常に重要だということだった。それは単純に映画を賛美し、そのすべてに賛成するということを意味するわけではないが。

 それでも私は9時間半、批判することを忘れずに見続けた。そして批判すべき点もあるということがわかった。
 映画の序盤、映画に登場するのは監督と証言者と通訳。私がまず目をつけたのはこの通訳だ。通訳を介し、通訳が翻訳した言葉で伝える。オリジナルではもちろんそのまま音声で、字幕版でも証言者本人の証言に字幕がつくのではなく通訳の翻訳に字幕がつく。最初これが非常に不思議だった。
 しかも、証言者たちはカメラのほうを見つめることなく、ほとんどカメラを意識させず、監督のほうを見つめる。このような撮り方は監督の存在を強調し、映画が監督によるレポートであるということを明確にする。われわれは証言者の証言を直接聞くのではなく、そのインタビュアーである監督のレポートを見ることになる。

 そして、次に疑問に感じたのが、人物の紹介のときに出るキャプション。ユダヤ人、ポーランド人、もとナチスという線引きは果たして中立的なのか、ユダヤ人とそれ以外という線引きを強調しすぎてはいまいか? と考える。
 そして登場する元SS将校。「名前を出さないでくれ」というその元将校の名前を堂々と出し、隠し撮りをし、隠し撮りであることを強調するかのようにその隠し撮りの状況を繰り返し映す。
 この「隠し撮り」がこの映画における私の最大の疑問となった。果たしてこのようなことがゆるされるのか?

 この元SS将校の生の証言によってこの映画の真実味が飛躍的に増すことは確かだ。被害者や近くにいたというだけの第三者の証言だけでなく、加害者であるナチスの直接の証言は強烈だ。
 しかし、「名前は出さない」と約束し、撮影していることも(おそらく)明らかにせず得た映像と情報を臆面もなく映像にしてしまう。名前を全世界に向けて明らかにする。その横暴さはどうなのか? 確かにそのナチの元将校はひどいことをした。反省をしてもいるだろう。繰り返してはいけないと思っているのだろう。だから証言をした。「正々堂々と名前と顔を出して証言しろ」といいたくなることも確かだ。しかしその元将校にも彼なりの理由があって名前を伏せることを条件にした。その条件があって始めて証言することに応じた。そのような条件を踏みにじることが果たして赦されるのか?
 監督はこの映像がこの映画に欠かせないと考えたのかもしれない。それはそうだろう。せっかく得た映像を使わないのは馬鹿らしい。しかし、私はそれは決してやってはいけなかったことだと思う。それをやってしまうことは一人の映像作家として、表現者として恥ずべきことであり、映像作家であり、表現者であると名乗ることは赦されるべきではない。表現者とは許された条件の中で自分の表現したいことを表現するものであり、禁じられたものを利用してはいけないはずだ。
 映画に限っても、映画とはさまざまな制限の中で作られるものだ。その制限の中に以下に自分を表現するのかが勝負であるはずだ。予算や、機材や、検閲や制限に程度の差こそあれ、その制限を破ることなく作るのが映画であるはずだ。この監督がやったことはたとえば「予算が足りないから銀行強盗をして予算を増やそう」ということと変わらない。
 そこに私は大きな憤りを感じた。

 映画のちょうど真ん中辺りにあるアウシュビッツの映像。生存者の証言にあわせてカメラがアウシュビッツの跡地を進む。その映像は徹底して一人称で、見ているわれわれは自分がその場所に立っているかのような錯覚にとらわれる。そしてそこに40年前に起こっていたことが陽炎のように表れるのを体験する。そのシークエンスは非常に秀逸だ。この映画の中で最も映画的で、最も感動的な場面といっていいだろう。想像させるということは、どんなにリアルな再現よりも効果的である。
 しかし、批判の眼を忘れないように見続ける私はその感動と衝撃の合間に監督の意図を探る。このシークエンスの意図は明確だ。当時のユダヤ人の衝撃と悲しみの疑似体験をさせること。それは殺されていったユダヤ人たちを理解するための近道である。しかしこのような近道を作ることで見ているわれわれはユダヤ人の視線に追い込まれていく。それは中立な視線を保つことの困難さ、ユダヤ人の受難を自分自身の身に降りかかったことであるかのように思わせる誘導。そのような誘導を意識せずに見ると、この映画は危険かもしれない。ひとつの見方に押し込められてしまう危険があるということを常に意識していなければいけない。
 そのような観客の感情の誘導はそのあたりがピークとなる。その後、感情の高ぶりはやや抑えられ、逆に生依存者たちの心理の複雑さも垣間見えるようになる。生存者のほとんどは「特務班」と呼ばれる労働者だった。それは到着してすぐにガス室に送られるユダヤ人とは違う境遇にある。彼らは被害者であると同時に、ナチスの虐殺にある種の加担をする立場でもある。自分が生きながらえるために仕方ないとはいえ、その仕方なさはそれ以外によりどころがないという仕方なさであり、それにすがるしかないというのは心理的に非常にきついことなのだ、ということが証言の端々から感じられる。

 このあたり、映画の後半の証言はほとんど直接に字幕がつく。それは英語であったり、イスラエル語(?)であったりする。それは言語の問題なんだろうか? 単純に監督が通訳を必要とせずに話せるというだけの理由なのだろうか?しかし、字幕なしにすべての言語を理解できる人は少ないだろう。
 この、通訳を介するということから直接の証言への変化はこの映画のつくりのうまさのようなものを感じる。ドキュメントは虐殺の中心、より悲惨な生存者の少ないところから、虐殺の周辺、より生存者の多いところへと移動していく。それとは裏腹に、証言者たちは通訳を介した間接的な存在から、通訳なしで語りかけてくる直接的な存在へと変化する。虐殺の中心から周辺へという移動は、最初で一気に観客をつかむとともに、物語の強弱によって9時間半という長さを退屈にならないようにする。一つ一つのエピソード(たとえばチェコ人のケース)も非常にドラマティックだ。
 このような映画のつくりのうまさは監督の手腕を感じさせると同時に、なんとなく姑息な感じというか、計算高さを感じてしまう。観客を自分の側に取り込んでいくための周到な計画がそこに感じられる。
 もちろんそれが悪いわけではない。ホロコーストという想像を絶する悲惨な体験を自分のものとするためには並大抵の衝撃では無理である。この映画はその並大抵ではないことをある程度実現しているという点ですごい映画であり、この体験をすることは非常に有益である。しかし、映画を見終わってその自分の体験を客観視することが必要になってくる。単純に映画に浸るだけで終わってしまっては、描かれた歴史的事実のはらむ根本的な問題は見えてこない。
 この映画もまたひとつの暴力であるということを見逃してはいけない。私があくまでもこだわる元SS将校の証言はその具体的なものだが、全体としてこれがナチを一方的に攻撃していることは確かだ。そしてそれはユダヤ人を正当化することにつながりうる。

 この映画を見終わって、監督があまりに感情的であることに救われる。もしこのようなドキュメントを冷静に描いていたらこの9時間半は鼻持ちならない時間になってしまっていたことだろう。そうではなくて、この映画があくまで監督の憤りの表現であることがわかると、納得できる。果てしなく果てしなく果てしないモノローグ。他人の口を借りたモノローグ。それがモノローグであることを理解したならば、そのメッセージを冷静に噛み砕くことができる。そしてその部分部分は歴史的証言として非常に価値がある。そしてまたこのモノローグが吐露する憤りはユダヤ人といわれる人たちに(少なくともその一部に)共有されている感情なのだろう。
 そのように自分なりに客観的に見つめてみて、あとはこの映画からはなれて、しかしこの映画とかかわりのあるさまざまなことごとと接するたびに思い出すことになるだろう。

シャンプー台の向こうに

Blow Dry
2000年,イギリス,95分
監督:バディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ビューフォイ
撮影:シャン・デュ・ビトレア
音楽:パトリック・ドイル
出演:ジョシュ・ハートネット、アラン・リックマン、ナターシャ・リチャードソン、レイチェル・グリフィス、レイチェル・リー・クック

 イギリスの田舎町キースリー。市長が記者会見場で高らかに宣言したのは、「全英ヘアドレッサー選手権」の開催地に決まったということだった。報道陣たちは興味を失って去っていく中、一人興味を示したブライアン。父親のフィルとともに田舎町で美容院をやっているが、実はその父がもと全英チャンピオンだったのだ。しかし、父親は選手権に興味を示そうとはしない…
 また、イギリスらしいイギリス映画ひとつ。イギリス映画らしい風景にイギリス映画らしい感動。イギリス映画好きにはたまらない作品ですね。

 イギリス映画らしい田舎町に、イギリス映画らしい家族の物語、イギリス映画らしいストーリーがあって、アメリカ育ちの娘がやってきて… 羊も出てくる。何もかもが絵に書いたようなイギリス映画。このイギリス映画らしさはどうもアメリカから見た「イギリス映画」像のような気がしてしまう。主役級の若者2人もハリウッドの若手スターとなると、どうもハリウッド向けという「臭さ」ぷんぷんが漂う。それはつまりなんとなくうそ臭さを感じてしまうということ。周到に感動できるように組み立てられてはいるけれど、その「臭さ」を感じてしまうと、その感動の押し付けがましさが気になってくる。そうはいってもちょっと感動してしまったのですが、そんな風に感動してしまった自分が悔しい気分。
 というようなうがった見方をしさえしなければ、なかなかいい作品です。レイチェル・リー・クックはかわいいし、ジョシュ・ハートネットも情けなくていい味出してるし、感動できるし、その割にコメディの要素も忘れないし。 さて、そんなイギリス映画らしいイギリス映画だったわけですが、ひとつレズビアンという要素が出てきたところがちょっと毛色の変わった感じ。これもアメリカ向けという気もしないでもないですが、奥さんが女の人と逃げるというのはイギリス映画ではなかなか見ない展開。これを見て真っ先に思い出したのは、テレビドラマの「フレンズ」で、それはそれだけアメリカ的なトピックだということなのかもしれません。
 そういう意味でも、絵に書いたようなイギリス映画でありながら、どうもハリウッドの影が見えてしまうという映画。

妖婆・死棺桶の呪い

ВИЙ
1967年,ソ連,78分
監督:ゲオルギー・クロパチェフ
原作:ニコライ・ゴーゴリ
脚本:ゲオルギー・クロパチェフ、アレクサンドル・プトゥシコ、コンスタンチン・エルショフ
撮影:フォードル・プロヴォーロフ、ウラジミール・ピシチャリニコフ
音楽:K・ハチャトリアン
出演:レオニード・クラヴレフ、ナタリーヤ・ワルレイ、ニコライ・クトゥーゾフ

 ロシアの新学校の学生3人が学校が休みの期間荒野を旅する。道に迷い、野宿を覚悟した彼らの前に現れた怪しげな農家。そこにいたのは一人の老婆だった。怪しみながらも他に家もなく、そこに泊まることにした彼らだったが、その夜老婆が神学生の一人ホマーに迫ってきた。
 奇想天外なソ連時代の怪奇映画。いわゆるソ連B級SF作品のひとつ。原作はゴーゴリとなっているが、果たしてどれくらい原作に忠実なのか…

 見ている間も、見終わってからも頭にはずっと?が出続ける。果たして何個の?が頭に浮かんだだろうか。ひとつ明らかなのは、この映画は限りなくB級であるということ。冒頭から背景があっさりと書割で、とてもそれをリアルに見せようとしているとは思えない。書割になったり、実景になったりするその変化がさらに書割の安っぽさを強調する。しかも、時間の描き方がかなり適当で、朝なんだか昼なんだか夜なんかよくわからないまま、時間だけはたっているようなのだ。
 そして特撮は駆使されるが、その稚拙さは言うまでもない。おそらく、ハリウッド映画なら1カットに使われるであろう予算くらいで1本の映画を作ってしまったという感じ。しかし、この極彩色の不思議な特撮空間は魅力的でもある。かなりコアなB級映画ファンはこのあたりの作りはたまらないものがあるでしょう。私は生半可なB級映画ファンなので、ちょっとつらかったですね。同じソ連のSF映画といえば『不思議惑星キン・ザ・ザ』を思い出しますが、あの作品ほどの圧倒的なばかばかしさがこの映画には欠けている。そのように思います。マニアックに見ることはできるけれど、普通の見方をする観客を引き込むことはできない。そんな映画だと思います。
 ところで、原作はゴーゴリらしく、原作となっている『ヴィー』は読んだことないんですが、きっとこんな話ではないと思います。この映画でも「ヴィー」と呼ばれる妖怪のようなものが出てくるんですが、それは一瞬。たいした役回りもない。どうなってんの?

スケッチ・オブ・Peking

民警故事
1995年,中国,102分
監督:ニン・イン
脚本:ニン・イン
撮影:チー・レイウー・ホンウェイ
音楽:コン・スー
出演:リー・チャン、ホーワン・リエンクイ、リー・リー

 新しく地区警察に配属された新米警官を指導する国力(クーリー)は警官としては熱意あふれて、すばらしいが、家では奥さんに小言ばかり言われている。いわゆる事件から夫婦喧嘩まであらゆることに対処する北京の地区警官。そんな国力の担当区域で人が犬にかまれるという事件が続発する。
 『北京好日』で国際的な評価を得たニン・インの監督作品。プロの役者ではなく実際の警察官を出演者とし、新たな中国映画の形を模索する。

 素人を使う。という手法といえば、キアロスタミやジャリリといったイランの監督たちを思い出す。この映画も同じアジアで作られた映画ということもあり、同じような傾向を持つのかと思えば、ぜんぜん違う。この映画に登場する人物たちはプロの役者顔負けの演技をする。イラン映画の出演者たちが素人っぽさを残し(監督がそれをあえて残し)たのとは逆に、言われなければ素人であると気づかないかもしれないほどの演技を見せる。
 これはどういうことかと考える。素人を使うということの意味を素直に考えると、それはリアリズムの追求だろう。役者として演じることなく、自分のままで映画に出演すること。そのことによって生じるリアリズム。フィクションとドキュメンタリーのはざまに存在することのできる映画。そのような映画を作りたいから素人を役者として使うのだろう。この映画の場合、出演者たちが実際の警官であり、確かに映画全体にリアルな感じはある。しかし、それがドキュメンタリー的なリアルさなのかというと、そうではない。そこにあるのはフィクションであると納得した上でのリアルさである。
 つまり、この映画が素人を使う目的は「リアルさ」というものを求めるレベルにとどまっているということだ。つまり、イラン映画と並列に論じることはできないということだ。まあ、素人を使うのはイラン映画の専売特許ではなく、ヨーロッパなどでも古くから使われてきた手法なので、ことさらにイラン映画イラン映画ということもないんですが、今は素人を使うといえばイラン映画、見たいな図式が出来上がっているので、一応比較してみました。
 そんなことは置いておいてこの映画をみると、映画自体もいまひとつ踏み込みが足りない。まさに邦題の「スケッチ」というにふさわしい軽いタッチ。警官たちを描くことで何が言いたいのかが今ひとつ浮き上がってこない。おそらくこの地区警官と住民委員会とアパートの林立(都市化)は北京において問題になっていることなのだろう。その問題のひとつとして飼い犬の問題があることはわかる。しかし、この映画が語るのはそこまでで、そこから先は個人の物語にすりかわってしまう。そのあたりにどうも不満が残る。果たして中国の映画状況がどのようなものなのかはわからないけれど、そこに自らの判断をぐっと織り込むことができないような環境なのだろうか?
 ここまでは文句ばかりですが、決して悪い映画ではない。映画自体は非常にエネルギッシュで熱気が伝わってきてよい。登場する人々も非常に魅力的。素直な目で見れば、中国のいろいろな状況もなんとなく伝わってきて、「ほー、へー」と納得しながら見ることができる映画だと思うのです。いろいろなことを考え出すと、ちょっといろいろ考えてしまうということ。