帰って来たヨッパライ

1968年,日本,80分
監督:大島渚
脚本:田村孟、佐々木守、足立正生、大島渚
撮影:吉田康弘
音楽:林光
出演:ザ・フォーク・クルセーダーズ、緑魔子、渡辺文雄、佐藤慶

 ベージュの詰襟を着た3人組が海へやってくる。3人が服を脱いで海に行っている間に砂浜の中からニョッキリと手が出てきて服を取り替えてしまう。海から帰って来た3人は仕方なく取り替えられた服を着てタバコ屋にタバコを買いに行く…
 ザ・フォーク・クールセダーズの同名曲を使い、非常に不思議な雰囲気を出す。

 この映画は非常に哲学的であると同時に、具体的な問題をも提起する。哲学的という面はこの映画の時間の流れ方にある。単純な繰り返しでもなく、単純なやり直しでもない時間の流れ。一種の螺旋を描く時間の流れ方。果てしなく続く螺旋の一部を切り取った線分。この映画が「おらは死んじまっただ~」という歌から始まることが示すのは、この前にも螺旋の一巻きがあったということを意味する。そしてもちろん終わったあとにも螺旋の時間は進み続ける。この螺旋という(キリスト教的な)直線とは異なった時間の概念の使い方が哲学的な思索を促す。
 『ラン・ローラ・ラン』という映画があった。1998年のドイツ映画で、ひとつの選択から異なってくる結末を描くという映画だったが、その映画では同じ時間の(異なるパターンの)繰り返しであるにもかかわらず、前のエピソードが次のエピソードに多少の影響を及ぼす。この映画ではそのことが不思議なこととして描かれているのではあるけれど、完全な直線よりは多少螺旋に近しい時間のとらえ方がそこにあると思う。
 この「螺旋」というのは結末に向かって直線的に突き進むハリウッドをはじめとした西洋の映画とは異なった映画を作る重要な要素になっていると思う。そこには西洋と東洋の時間のとらえ方の根本的な違いがあるわけだが、それを60年代の時点でとらえていた大島はさすがである。
 さて、話は変わって、この映画から提起される具体的な問題はもちろん「朝鮮」との関係性である。ふたまわり目で主人公たちが「僕らは朝鮮人だ」と主張するとき、そこには日本人が朝鮮人に成りすますという単純な「ふり」とは違う何かが生まれる。彼らがそのように言う視線は真剣で、心からそのことを信じているように見える。ただ「ふり」がうまいというだけではなく、その真相には「日本人」と「朝鮮人」なんていつでも交換可能なものだという気持ち、あるいは違いなんてないという気持ち、いやより正確に言うならば「日本人」は「朝鮮人」であるという気持ち。がそこにはあるように見える。監督本人も登場する街頭インタビューを模した場面「いえ、朝鮮人です。朝鮮人だからです」という連呼には日本人の誰しもが朝鮮人でありうるという主張が見て取れる。監督自身どこかで「日本人は朝鮮人だ」といっていた。
 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)はこの映画が製作された68年、「イムジン河」という曲をリリースしようとしていた。これに対して北朝鮮からクレームがつき、発売が中止になるという事件があったということも映画に影響を及ぼしているのかもしれない。
 そもそも大島渚は「朝鮮」という問題をさまざまな映画で取り上げてきたので、この映画だけからその解答を見つけようとするのは難しいだろう。

家路

Je Rentre a la Maison
2001年,ポルトガル=フランス,90分
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
出演:ミシェル・ピコリ、アントワーヌ・シャビー、レオノール・シルヴェイラ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジョン・マルコヴィッチ

 映画は舞台から始まる。ベテラン俳優のジルベールの演じる舞台。その袖に不安げに控える3人の男。舞台の幕が下がり、ジルベールに交通事故で奥さんと娘夫婦がなくなったことが知らされる。孫と二人暮しとなったジルベールは今までどおりいつものカフェでコーヒーを飲み、仕事を続けるが…
 ポルトガルの巨匠オリヴェイラ監督らしい淡々とした物語。名優を使い、味わい深い映画を作るのはこの監督の十八番。

 基本的に役者を見せようという映画の気がする。オリヴェイラはかなり役者というものを非常に重くとらえている感があり、マストロヤンニの遺作となった『世界の始まりへの旅』なども名優マストロヤンニへの敬慕の念が画面からにじみ出る。
 だからこの映画も役者の味をじっくりと引き出す。その意味では音だけ、あるいは動きだけで演技させるオフ画面(フレームの外の部分)を多用するというのもよくわかる。最初のショーウィンドウのシーンも切り返しの連続で、常に映っていない側の音を拾っていくのはすごい。終盤のジョン・マルコヴィッチによるリハーサルの場面のかなりすごい。そのすごさはわかるけれど、ここまで徹底して使われると、ちょっと食傷してしまう。
 それはオリヴェイラ特有のゆったりとしたときの流れと関係あるかもしれない。とにかくオリヴェイラの映画は遅い。1カットが長く、1シーンが長く、物語の展開も遅い。もちろん物語で見せる映画ではないのでそれでいいのだけれど、その遅さはどうしても映画の細かな部分に注意を向かせる。勢いで突き進む映画だったなら、細部なんてそんなにこだわらなくても見られるのだけれど、これだけ遅いと、画面の隅々まで目を凝らさざるを得ない。あるいは画面の外側までじっくりと見なければならない。それはオフ画面を使ってもそれをとらえることが簡単だという一方で、慣れてしまうとそれが普通になり、退屈になってしまう恐れがある。この映画では先ほど述べたリハーサルの場面で再びキュッと締まり、ぐだぐだになってしまうのは避けられたけれど、中盤に眠気が訪れるのは(私にとっては)オリヴェイラの常である。
 しかし、この緩やかさがいい物を見せてくれることもある。この映画ではカフェの場面であり、新聞だ。ジルベールがカフェに行き、コーヒーを飲み、出て行くと、「フィガロ」を持ったひげのおじさんがその席に座る。別の日、ジルベールは「リベラシオン」を持ってカフェに行く、その日ジルベールは買い物をしてきたためつくのが少し遅く、「フィガロ」のおじさんが来たときまだ席が空いていない。「フィガロ」のおじさんは奥の席に着くが、ジルベールがったのでいつもの席に行こうとする。すると「ル・モンド」を持ったおじさんがするりとその席に座ってしまい、「フィガロ」はまた奥の席に戻る。まったくただそれだけのこと。フランス人が見ればおそらくそれぞれの新聞の意味がわかるのでしょう。私にはその意味はわかりませんが、そこに「味」があるのはわかります。それはこのゆったりとしたスピードがあってこそ可能な演出なのでしょう。

害虫

2001年,日本,92分
監督:塩田明彦
脚本:清野弥生
撮影:喜久村徳章
音楽:ナンバーガール
出演:宮崎あおい、蒼井優、沢木哲、石川浩司、りょう、田辺誠一

 父親をなくし母と二人で暮らす中学一年生の北サチ子、そのサチ子の母親が手首を切って自殺未遂を図った。そのころから徐々に学校に行かなくなったサチ子はタカオやキュウゾウといった人たちと出会う。一方学校では同級生の夏子がサチ子のことを心配していた。
 塩田明彦監督が『EUREKA』で話題を呼んだ宮崎あおいを主人公として、またも少年・少女ものを撮った。『月光の囁き』と通じるどこか「イタイ」ドラマ。

 物語の前半から、状況を説明する要素がほとんどなく、台詞もあまりしゃべられない。いきなり挟み込まれるキャプションの相手も最初は誰だかわからない。このわからないことだらけの始まり方というのは見る側の集中力を高めていい。人物の関係性や展開を考えるために、何も見逃さないように画面に意識を集中せざるを得ない。
 この映画の物語は非常にいい。とても痛く、とても濃い。よくある話といえばよくある話だが、そのよくある話を説明や解釈抜きにしてしまうところがいい。たとえば、普通はキュウゾウがいったいどのような人なのかを説明するようなシーンを加えてしまう。それをせずに、キュウゾウはただのキュウゾウであるとするところがいい。その説明がするりと抜けたところに入り込むのは、見る側の解釈である。本当に画面(とキャプション)だけがこの映画のすべてである。余計なものは一切ない。余計な台詞をそぎ落とし、ずっと緊張感が保てるようにしてある。台詞を削り落としたぶん、代わりにわれわれに語りかけてくるのは「モノ」である。
 この映画は「門」の映画だ。繰り返し画面に登場する門、一番頻繁に映るのはサチ子の家の門。このサチ子の家の門の繰り返しでわれわれの意識は門に注がれるようになる。この門に注意を注ぐということが行われていないと、ラストシーンがまったくわからなくなってしまう。ラストシーンの「意味」の解釈は見る人それぞれであるけれど、それが何であるかを見間違えるわけには行かない。監督はそれを見間違えないように繰り返し「門」を映してきたのだから、私がわざわざそんなことを強調することもないのだけれど、そのように周到にモノによって語らせる映画の作り方が気に入ったのだ。
 門といえば、これは余談ですが、学校の校門も出てきた。むかし校門で生徒が圧死するという事件があって、それを思い出したりもしたけれど、そこで小さく映っていた先生は… この映画はいい役者や見たことある人がちょっとした役で出てきます。これは結構映画を見ていて楽しみなので、ここでは明かしません。見つけたときに喜びましょう。校門の先生はわかりにくいので、注意してみていましょうね。

カラマリ・ユニオン

Calamari Union
1985年,フィンランド,80分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:カサブランカ・フォックスとあれやこれや
出演:マッティ・ペロンパー、プンティ・ヴァルトネン、サッケ・ヤルヴァンパー、マルック・トイッカ

 なぞの会合を繰り広げる男たち。男たちは「カラマリ・ユニオン」と名乗り、自分たちの窮状から逃れるべく、街の反対側にあるという「エイラ」を目指そうと話し合う。そしてその「エイラ」へのたびは困難を極めるという。男たちの名はみな「フランク」。彼らは地下鉄に乗り、街の中心へ向かう。
 アキ・カウリスマキが『罪と罰』についで撮った2作目の長編作品。とにかくわけがわからない設定とわけがわからない展開。カウリスマキ・ワールドここに極まれり。

 ちょっとわけがわからなすぎるかもしれません。わけのわかるところがひとつもない。それでも、みんな名前が「フランク」というのはかなり面白い。最初の会合の場面で、「じゃあ、フランクよろしく」「ああ、フランク」と受け答えるあたりでは何のことかわからないが、だんだんみんなフランクなのだとわかってくると、なんだかほほに笑みが浮かんでしまう。これはコメディなのか。『レニングランド・カウボーイズ』で名の売れた監督だけに、シュールな感じのコメディは得意分野なのだろうけれど、この作品はあまりにシュールすぎる。海辺(湖辺?)のホームレスに「泊めてやってくれ」と頼んだり(自分たちは車があるのに)、突然店を経営していたり、首をひねりながら笑うしかない場面の目白押し。
 このわからなさは、つまりありえなさ、そして作り物じみさ(そんな日本語はない)だろう。作り物じみさというのは逆にわかりやすさの賜物でもある。ホテルの名前が「ホテル・ヘルシンキ」だとか、イタリアにいて考えるときに「イタリア」というネオンサインのカットが挿入されたり、このあまりにわかりやすさがうそっぽく、作り物じみた感じを与える。作り物じみた感じは現実的でなく、リアルでないから、そこに何かあるのだろうと考えてしまうけれど、その何かが何なのか一向にわからない。そこに立ち現れるわからなさ。
 でも、途中からなんとなく予想がつくようになってくる。「車のドアに、コートのはじをはさむんだろうなぁ」とか「ああ、しんじゃうんだろうなぁ」とかそういう予想ですが。それが予想できるから何なのかといわれるとそれもまたわからない。
 あまりにわけがわからず、もう一回見てやろうと思ってしまった。それもカウリスマキの作戦か?

M:I-2

Mission: Impossible 2
2000年,アメリカ,124分
監督:ジョン・ウー
原作:ブルース・ゲラー
脚本:ロバート・タウン
撮影:ジェフリー・L・キンボール
音楽:BT、ハンス・ジマー
出演:トム・クルーズ、ダグレー・スコット、タンディ・ニュートン、ヴィング・レームズ

 バケーション中のイーサン・ハントのもとに、ヘリがやってきて、新たな指令が伝えられた。それは偽装された飛行機事故によって盗み出された新しい病原菌を奪い返すというもの。そのパートナーとして、腕のいい女泥棒ナイアを指名してきた。早速彼女を見つけ、接触を図るイーサンだったが…
 トム・クルーズ製作・主演の『M:I』シリーズ2作目は、香港映画の雄ジョン・ウーが監督、ジョン・ウーらしく2丁拳銃にワイヤー・アクション満載の痛快ハリウッド映画になっている。

 ジョン・ウーはすごいですねえ。ハリウッドにどっぷりつかっているのか、ハリウッドをおちょくっているのかわからないですが、ハリウッドに来て、ハリウッドよりハリウッドなハリウッド映画を作ってしまう。あるいは自分をもパロディ化した映画のパロディのパロディ映画なのか。とにかく「なんじゃそりゃ」というコメントしかできない映画。映画の最初から最後まで「なんじゃそりゃ」のオンパレード。これをすごいといわずになんという。面白いと思うかどうかは個人の好み。ある意味最後まで目をはなせない。
 ジョン・ウー的にすごいのは、自分の十八番(おはこ)2丁拳銃、ワイヤーアクション、そして鳩をすべてズガンと入れてしまったこと。ワイヤーアクションはどうもさえない。鳩はなかなかいい。2丁拳銃は…ただ銃を両手に持っているだけ。
 ハリウッド的にすごいのは、ハリウッド映画にありがちな先の先まで読めてしまうその筋立てがスパイ映画に適用されてしまっていること。敵のアジトから逃げるとき、なぜ急にバイクに乗った警備員が、しかも2人、しかもバイクは黒と赤、形も違う、が登場するのか… それはもちろんトムが乗り、もう一台には… この臆面ない過剰サービスがものすごい。
 スローモーションの過剰さもすごい。私はここで以前から『マトリックス』以後のアクション映画の過剰さについて語っていますが、この映画のジョン・ウーの作り方はそれらの過剰さとは別の方向に向きながら、やはり過剰さを前面に押し出しているところが面白い。『マトリックス』以後の過剰さを支える一つの要素であるワイヤー・アクションを以前から使っている監督であるにもかかわらず、そこでは勝負せずに、他の部分で勝負し、しかしそこでやはり過剰な演出をする。そのあたりがジョン・ウーのすごいところなのではないかと思います。
 この『M:I』シリーズはトム・クルーズのイメージ・ビデオという評判が高いですが、この「2」をみて、ジョン・ウーはそれを逆手にとって、トム君をだましているんじゃないかと思います。トム・クルーズをかっこよく見せる演出であるとトム・クルーズを納得させながら、映画を見るとそうでもない。「かっこいいだろ」光線が出すぎてかっこ悪い。この映画を見てまず感じるのは「トム・クルーズの背が低くない!」ということで、それはきっとそこまで気を使ってのキャスティング。そのやりすぎなところ(また過剰さ)を見るにつけ、逆にトムは道化にされてしまっているという印象も受けます。
 最後のエンドロールに香港映画ばりのNG集があれば、その疑惑は私の中で確信に変わったのですが、残念ながらNG集はなし。ジョン・ウーはやろうと思ったけれど、プロデューサーのトムに止められたという筋書きであることを私は望みます。

火垂

2000年,日本,164分
監督:河瀬直美
脚本:河瀬直美
撮影:河瀬直美、猪本雅三
音楽:河瀬直美、松岡奈緒美
出演:中村優子、永澤俊矢、光石研、小野陽太郎

 あやこは幼いころ両親と別れ、今はストリッパーをして生活をしている。あやこが妊娠し、中絶をした帰り、道端に倒れた彼女を見かけた大司。大司は死んだ祖父の残した窯を引き継ごうとしていた。そんな2人が出会う。
 火の赤みと自然の風景。舞台は奈良。監督・脚本・撮影・音楽とすべてをこなす河瀬直美の淡々とした世界。

 ながながと、きりきりと、たんたんと、映画はつむがれていくけれど、ばっさりと単純化してしまえば、これは親子(特に母親)の映画だと思う。あやこも大司も親はほとんど登場しない。このことがそもそも意味深く、象徴的である。しかし、親の存在は常に重くのしかかる。大司の引き継いだ祖父の窯を見に来たおじちゃんが「母親の胎内のようだ」みたいなことを言っていた。そう。この映画では窯が母親(あるいは親一般)の暗喩になっている。あやこが一緒に暮らす「姐さん」踊り子の恭子もあやこにとっては母親の一人である。
 あやこと大司がいつまでも衝突するのは、ふたりが人との係わり合いを持ちづらいからであるのは明らかだ。その原因を親との関係性の希薄さに求めているというのも理解しやすい。だから、このふたりが正常な、というか円滑な関係を結ぶにはその「親」と和解しなければならない。あるいは「親」を完全に殺してしまわなければならない。それはつまり、実在しない(実在していた)親ではなく、彼らにとっての象徴的な意味での「親」をである。
 私はそのようなことをこの(わかりにくい)映画をわかりやすく解釈するためのテーマとして掘り出してみた。淡々と進んでいく映画を一つのつながりと見るためには何らかの縦糸を見出していかなければならない。私が見出した縦糸はその「親殺し」ということだった。それはラストシーンをみながら「なるほどね」という実感だった。和解することと殺すこと。一見背反するように見えることだけれど、こと「親」と対するときにはこの二つの事柄は理念的に両立しうると思う。
 などと書いてもぜんぜん言葉が足りないという感じですが、より明確な言葉で語ろうとするとすべてがうそ臭くなってしまうのでやめます。むしろこの映画はそのことをうまく表現しているように私には思えました。ので、映画を見てじっとりと考えてくださいませ。
 ちょっとよくわからない話になってしまいました。
 もうひとつ全体をつなげるのは「赤」の色彩。光や夕日の赤い色に照らされた風景や人物。ただその美しさをとらえたかっただけという印象も受ける。理解しようとすると難解だけれど、その美しさをとらえるのは難しくない。ストリップ小屋の紅い照明も燃え盛る窯の炎も、無数のロウソクがともる寺の風景も。

ファストフード・ファストウーマン

Fast Food Fast Woman
2000年,アメリカ=フランス=イタリア,98分
監督:アモス・コレック
脚本:アモス・コレック
撮影:ジャン=マルク・ファーブル
音楽:デヴィッド・カルボナーラ
出演:アンナ・トムソン、ジェイミー・ハリス、オースティン・ペンドルトン、ルイーズ・ラサー

 ダイナーでウェイトレスとして働くベラはまもなく35歳、突然道路に寝てみたり、バスタオルをアパートの下に住むホームレスに投げたりとちょっと変わったところがある。ボーイフレンドのジョージは20歳も年上で妻と子持ちで、いつまでたっても離婚しようとしない。
 ブルノは母親に預けていた自分の子とその弟を押し付けられててんてこ舞い。そんなベラやブルノやダイナーの常連たちが繰り広げる群像劇。

 こういう不思議なテイストの映画は好き。行き着く先というか、目的というか、おとしどころがよくわからない。
 群像劇には特に多いけれど、いろいろなケースを描いていくことでなんとなく一つのテーマ的なものが浮き上がってくる感じ。そしてそのそれぞれの登場人物が微妙に絡んでいく。この映画も断片でできていて、それぞれの断片が絡み合っていることは確かだけれど、そこから何かテーマ的なものが浮き上がってくるかと思うと、そうでもない。抽象的には「愛」ということ、しかも若くはない人たちの。明らかなのはそれくらいで、それ以上のことは断片ごとの面白さということになる。
 のぞき部屋の女ワンダの面白さ。のぞき部屋自体の面白さ。一つ一つの台詞回しのたどたどしさというか、伝わりにくさの面白さ。そのあたりがこの映画の魅力であって、ストレートに気持ちを表現したりしないところも面白い。このあたりがいいと思うのはおそらくそれがアメリカ的(ハリウッド的)ではないからだろう。ハリウッドのわかりやすさとは違うわかりにくさがある映画を私は愛してしまいます。
 アメリカを舞台にしていながら、イギリス英語を話すブルノが主人公のひとりとなっているのも示唆的なのかもしれません。ハリウッド映画も好きですがね。
 あとは、細かいところを見ていくと、なかなか面白いところはいろいろあります。

赤線地帯

1956年,日本,86分
監督:溝口健二
原作:芝木好子
脚本:成沢昌茂
撮影:宮川一夫
音楽:黛敏郎
出演:京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、沢村貞子

 売春防止法が制定されるか否かという時期の吉原。その売春宿の一軒「夢の里」で働く売春婦たちの生活を描いた群像劇、店一番の売れっ子、結核の夫と子供を抱え通いで働く女、子供を養うために働く女、などなどそれぞれの物語が語られる。
 若尾文子、京マチ子など豪華な女優人に加えて、カメラは宮川一夫。助監督には増村保造というそうそうたる面々をそろえた作品。

 物語のほとんどを占めるのは売春婦たちの単純な生活。それぞれにドラマがあるけれど、行き着く先がわからないまま流れていく物語。それは行き着く先を思い描けない売春婦たちの人生と呼応するものだろう。ただその日その日の一喜一憂だけがそこには存在しているように見える。
 それをしっかりとらえるのはいつものように見事な宮川一夫のカメラだが、この作品では必ずしもどっしりと構えているわけではない。いつもの固定、ローアングルのショットは見事で、物語の前半ではカメラもそのようにどっしりと構えている。しかし物語が動いてくるにつれ、カメラも動いたり、俯瞰で撮ったりと自由になる。
 物語とカメラの両方が劇的に動き出すのは、映画もかなり終盤に入ったあたりで、そこまではなんとなくまとまりのないばらばらの物語の集合という印象だったものが急激にまとまってくる。それはおそらく最後の10分とか15分くらいのものだけれど、そのあたりは本当に食い入るように画面に見入ってしまう。これは今言ったカメラもさることながら、溝口のそこへの話のもっていき方に尽きるのだろう。ただ淡々と過ごしているように見えていた売春婦たちが、そこにかかえていたさまざまなもの。それが怒涛のように噴出してくるその最後の10分か15分は本当にすごい。しかもその怒涛のように噴出す、一人の人間にとって重要なはずのことごともそれまでの日常生活と同じように描いてしまうのが溝口だ。溝口は数々の事件もそれまでの日常生活と同じ淡白さで捕らえ、彼女たちの感情の噴出をことさらに表現しようとはしない。彼女たちの心に呼応するように動くのは宮川のカメラだけだ。そしてそのカメラも激しい彼女たちに擦り寄るのではなく、逆に遠ざかることによって表現しようとする。
 その控えめな描き方がまさに溝口らしさといえるだろう。廊下で倒れた若尾文子の顔を映すことなく、すっと画面転換してしまう。それがまさに溝口健二というものなのかもしれない。

昼下りの情事

Love in the Afternoon
1957年,アメリカ,134分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー
撮影:ウィリアム・C・メラー
音楽:フランツ・ワックスマン
出演:オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー、モーリス・シャヴァリエ

 パリで浮気調査をする私立探偵のシャヴァス、旅先から戻ってきた夫に結果を報告すると、夫はその相手の男を殺そうとピストルを持って出て行く。それを聞いていた私立探偵の娘アリアンヌは殺されそうな男フラナガン氏の身を案じ、ホテルや警察に電話するがとりあってくれない。そこで直接ホテルに行くことにするが…
 パリを舞台に繰り広げられるオードリー&ワイルダーのラブ・コメディ。オーソドックスな作りながら、オードリーの魅力が際立つ一作。

 なんといってもオードリー。そもそもオードリーなので、画面にいればそれだけで華やかなのだけれど、この映画はその輝きがさらにいっそう増している感じ。そのあたりがワイルダーのうまさなのか。ワイルダーは職人的にオードリーの魅力を引き出していく。
 まずチェリストという設定がとてもよい。細身のオードリーに大きなチェロケースを持たせる。そしてチェリストといえば、ロングスカートかパンツルック。特にパンツのスタイルがとても新鮮でいい。ショートカットにパンツルック。なるほどね。
 というわけでどこを切ってもオードリーなわけですよ。あとは脇役のミシェルと「夫」と楽団がなかなかいいキャラクターで、この脇役たちによって物語全体が面白くなっているという気はしますが、それもやはり結局はオードリーに行き着くわけです。
 そして、オードリーで一番すごいと思うのはやはりその表情。フラナガン氏と会っているとき、気丈なふりをして話すその表情。そして、大きな目からは心の中の呟きがこぼれ落ちそう。
 というわけで、2時間強の間私の目にはオードリーしか入ってこず、映画の感想といわれてもオードリーのことしかかけないわけです。オードリーがすばらしいのか、ワイルダーがうまいのか。両方だとは思いますが、ワイルダーの役者の生かし方のうまさは今で言えばソダーバーグに通じるものがあると思います。念入りに舞台装置を組み立てて、いかに役者を生かすかということを常に考えている。そんな気がします。それが一番端的に出ているのはこの映画ではチェロだと思いますね。

 あと興味を魅かれるところといえば、パリの風景。フラナガン氏が滞在しているのがリッツホテルの14号室で、映画もそのリッツホテルを覗き込むシャヴァスのモノローグから始まり、リッツホテルを中心に展開されるといってもいい。今から見れば少し昔のパリの風景は、いまも「憧れ」の対象であるのだと思った。

第七天国

Seventh Heaven
1927年,アメリカ,119分
監督:フランク・ボーゼージ
原作:オースティン・ストロング
脚本:ベンジャミン・グレイザー
撮影:アーネスト・パーマー、J・A・ヴァレンタイン
音楽:エルノ・ラペー
出演:ジャネット・ゲイナー、チャールズ・ファレル、ベン・バード、デヴィッド・バトラー

 パリの貧民街で暮らすディアンヌは酒飲みの姉に鞭打たれ、こき使われていた。そんな二人のところに金持ちの叔父が外国から帰ってくるという便りが来る。精一杯におしゃれして待つ二人だったが… 一方、チコは地下の下水で働きながら地上に出て道路清掃人になることを夢見て崩れ落ちそうなアパートの天井裏に暮らしていた。
 この二人が出会い、展開される愛の物語。サイレント映画というよりは動く絵本。とにかくメロメロのメロドラマ。主演のジャネット・ゲイナーは第1回アカデミー賞の主演女優賞を受賞。

 わかりやすくお涙頂戴。当時の現代版の御伽噺で、「シンデレラ」とか「白雪姫」とかいうレベルのお話です。しかも、キャプションがたびたび挟まれ、趣としては動く絵本。サイレント映画を娯楽として突き詰めていくとたどり着くひとつの形という気がする。
 今回は後にオリジナル・ピアノがつけられた英語版(日本語字幕なし)で見ましたが、サイレント映画を見るといつも、今の映画環境に増して映画というものが一期一会だったのだと実感します。完全に無音だったり、弁士が入ったり、オケがついたりする。これだけ見方うと、ひとつの同じ映画だと言い切ってしまうのは無理があると思えるほどだ。ピアノが単純なBGMではなくて、たとえばこの映画で重要な時計のベルに合わせてピアノを鳴らしたりするのを聞くと、「これがあるとないとではこのシーンの印象はずいぶん変わるなあ」と思ったりする。しかし、どんな見方をしてもこれはひとつの映画で、映像以外の部分は見方の違いに過ぎないのだ。だから、いろいろな見方で見てみるのも面白いと思う。たとえば、小津の『生まれてはみたけれど』を弁士つきと完全に無音の2つの見方で見たことがあるけれど、それはなんだか違うもののような気がした。私は完全に無音の方が好きだったけれど、本来は弁士つきのような見方が一般的だったのかもしれない。
 この一期一会というのはサイレントに限ることではない。今では映画本体は変化しなくなったものの、上映する劇場の設備やサイズによってその印象は違ってくる。もちろんビデオで見る場合などはまったく違うものかもしれない。それにともにそこに居合わせた観客、隣に座っている人なども映画の印象を変えてしまう。
 何の話をしてるんだ? という感じですが、何度も同じ映画を見てもいいよということをいいたいのかもしれません。
 とにかく映画に話を戻して、この映画でかなり印象的なのは画面の色味がカットによって変わること。最初の青っぽい画面から、ディエンヌの家に入ったときにオレンジっぽい画面になる。この2種類の色味がカットによって使い分けられるのが面白い。1シーンでもカットの変わり目で色が変わるところがあったりして、結構効果的。この作品は音が出なかったり、色がつけられなかったりする難点(と監督は考えている)克服しようという工夫がかなり凝らされた作品。サイレント/白黒なりの表現形態を模索したものとは違い、トーキー/カラーに近づこうと努力している映画といえる。この移行期にのみ発想できたこの色の使い方はなかなか気に入りました。