百一夜

Les Cent et une Nuits
1994年,フランス,105分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:エリック・ゴーティエ
出演:ミシェル・ピコリ、ジェリー・ガイエ、エマニュエル・サリンジャー、マルチェロ・マストロヤンニ、マチュー・ドュミ

 映画と同じ年齢のムッシュ・シネマの城に映画の話をしに101日間通うというアルバイトの契約をしたカミーユ。そこにはマストロヤンニらスターたちも訪れる。そんなカミーユの恋人ミカは映画青年だが、映画を撮りたいが資金がない。そこで彼らが考えたのは…
 アニエス・ヴァルダが映画100年を記念して、たくさんのスターを出演させて撮った作品。シュールではあるが、遊び心にあふれた作品。

 かなりわけがわからないです。映画マニアなら、これはあれ、それはどれといろいろ思いをはせることができ、にやりとしてしまう演出も多くあるのですが、普通に見るとなんだかわけのわからない話になってしまっている感じ。 いろいろなスターが見られるということと、ヴァルダ流の映画史解釈を見ることができるというところがこの作品の面白いところでしょうか。ストーリーといえるものはほとんどないに等しいので、遊びたいだけ遊べる。シネマ氏の屋敷の使用人たちからして本当にわけがわからないので、なんともいえませんね。
 しかし、映画の中でシネマ氏が「アンダルシアの犬」を「映画の教科書」といっていたことを考えると、このシュールリアリスティックな空間がヴァルダにとっての映画というものなのではないかと推測することもできます。
 ヴァルダの映画はこれ限らずどこかシュールリアリスティックなところがある気がします。それは私がヴァルダを好きな理由のひとつでもあるわけですが、この作品はそのヴァルダのシュールリアリズム性を改めて明らかにしたというものでもあると思います。
 次から次に出てくるスターたちに惑わされがちですが、それこそがヴァルダが映画100年を振り返って最も言いたかったことなのかもしれません。シネマ氏の城の庭で開かれるパーティーで繰り返し現れ、強烈な印象を与える牛。それはその直後ブニュエルとして台詞までしゃべってしまう。その「黄金時代」への憧憬こそがヴァルダの映画の原動力なのではなかろうかとこじつけたくなります。

晩菊

1954年,日本,102分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:田中澄江、井手敏郎
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎
出演:杉村春子、沢村貞子、細川ちか子、望月優子、上原謙

 広い屋敷に聾唖のお手伝いと二人暮しのきんは不動産を売買したりしながら小金を貯めこんでいる。昔の芸者時代の友達にも金を貸し、足しげく取り立てに向かう。そんなきんときんから金を借りている3人のむかしの仲間。40を過ぎ、華々しい生活とは離れてしまった彼女たちの日常を淡々と描く。
 「めし」と同様、成瀬巳喜男が林芙美子の原作を映画化。味のある女優たちを使って渋くて味のあるドラマを作ったという感じ。

 この作品はすごく面白い。それはここに登場する主に4人の女の人たちが非常に魅力的だからだ。主人公の“きん”を演じる杉村春子はもちろんだが、他の沢村貞子、細川ちか子、望月優子も本当に素晴らしい。なかでも、いちばんよかったのは望月優子演じる“とみ”である。
 他の3人がかなり名前がある女優であるのに対し、この望月優子だけはかなり地味である。しかし彼女は劇団のたたき上げであるだけに確かな演技力を持ち、脇役としてはかなり活躍していたし、1953年の木下恵介監督の『日本の悲劇』では見事に主役を演じ、毎日映画コンクールの女優賞も受賞している。ちなみにだが、71年には社会党から参議院選に出馬し当選、女性層の支持が強かった。
 その望月優子がこの作品で見せる演技は本当に素晴らしい。彼女はどっかの寮で掃除婦をしていて、細川ちか子演じる“たまえ”とひとつ家に同居している。最初に登場するのはそのたまえへの借金の催促に行こうとするおきんがたまえがいるかどうかをとみに確かめに来るのだ。とみはおきんからは借金していないが、寮の若い男から借金しているらしく、催促されるのだが、それを色目だかなんだかわからない表情をして「もうちょっと待ってよー」と甘ったるい声でいう。この独特の雰囲気でもうかなり面白い。
 さらにはギャンブル好きの酒好きという設定で、映画の終盤で細川ちか子とふたりで酔っ払うシーンがまた面白い。文字で書いてもちっとも面白くないと思うので、詳しく書く事はやめるが、中年女性さもありなんという感じのふたりの酔っ払い具合と関係がほほえましくも面白い。
 この望月優子と細川ちか子はもう大きい子供がいて、夫はいないという点で共通点があり、ひとつのわかりやすいキャラクターとして成立している。望月優子がもと芸者であったのに対して、細川ちか子のほうはそうではなく、仲居だったようなことを言っていた気がするが、今では別な形ではあるがふたりとも掃除をして生活している。
 この夫なし、子供ありの水商売の女性というのは成瀬映画にたびたび登場してきたキャラクターである。小さな子供を抱えながら生活して行くためにバーで働かなければならない女性、その女性のなれの果てというか、十数年後がこのふたりということになるのだろう。その点でもこのふたりのキャラクターは面白い。子供がいれば幸せだという母性の肯定も実は成瀬が女性を描くときの特徴のひとつだったのだとこの作品を観ながら思う。
 成瀬映画といえば自立しようとする女性が主人公で男や家族がその足かせになる。というものが多く、普通に考えたら子供も足かせになりそうなものだが、成瀬の考え方はそうではない。子供は女性の自立のうちに入っており、子供を抱えながらも独立独歩頑張って行くという女性を成瀬は応援するのだ。

 それに対して、沢村貞子が演じるのぶは成瀬が描く女性の典型から外れている。なんと言っても夫婦仲がよい。夫(沢村宗之助)は情けない男の類型に入りそうだが以外にしっかりしていて、妻の尻にしかれているような体裁をとりながら妻との関係をうまく保っているようだ。つまりふたりは幸せなのだ。沢村貞子があまり登場しないのは、幸せな人を描いてもあまり面白くないからだろう。
 そして、杉村春子である。杉村春子は成瀬が描く重要なモチーフである女と金を集約したようなキャラクターである。しかも最終的に金に頼ることを選択した女、成瀬は女は男に(その男は必ず情けない男なのに)頼ってしまうという女の生き方を書き続けてきたが、ここで男に頼らない女、お金に頼ることで一人で生きて行く女を描いた。それは、彼女が散々男に苦労してきたからであるが、やはりじつは、男に頼りたいというかやっぱり男が好きで、上原謙演じる田部がやってくるのをうきうきと待ったりする。
 そのうきうきとした姿を金を勘定している彼女の姿と対比してみると、杉村春子という女優がいかにすごいかがよくわかる。そのどちらが本当の彼女の幸せか、あるいはどちらも幸せではないのか、どちらも幸せなのか、そのあたりの微妙な心理を見事に演じきっている。そしてその彼女の心理の機微や心境を見事に演出する成瀬も非常にうまい。私は、映画の最後の最後、杉村春子が駅の改札を抜けようとするときに、切符をなくしてあっちこっちを探すシーンがとても好きだ。

<前のレビュー>

 本当にただ元芸者の4人の女たちの日常を描いただけの物語。何か事件が起こりそうな雰囲気はあるのだけれど、結局何も起こらず、淡々と終わる。それでも、あるいはむしろそのことで、4人の女たちのそれぞれの人間性のようなものが見えてくる。しかも、それは単純にキャラクタライズされた紋切り型の人間性ではなく、どこか多面性を持っているもの。もちろん人間誰しも多面的で、一つのキャラクターに押し込むことはできないけれど、映画という限られた時間の空間の中で、その多面性を描くのは難しいと思う。しかも、何かの事件があって、そこから明らかになっていくのではなく、シンプルなまったく日常的な交わりの中でそれを描いていくということの難しさ。そして、その難しさを感じさせないほどさらりと描ききってしまう「いき」さ。そこにやはり成瀬のすごさを感じてしまう。
 しかし、そうはいってもこの映画はあまりに渋い。その渋さを破るのは、きんの家の昼の場面でかならずなっている何かをリズミカルに叩く音(何の音だろう?)と物語の終盤で突然入る杉村春子のモノローグ。このふたつの変化球は映画全体を純文学的にしてしまうことを防いでいる。言葉にならない感情の機微を観客に読み取らせようとするような難解な映画にはせず、渋いけれども肩を張らずに見れる映画にしていると思う。特にあの音は、お手伝いさんが聾唖であることもあって無音になりがちな家の場面にさりげなく音を加える。単純なリズムであることで、音楽のように余分な意味がこめられることもない。あの場面が無音だったら、と仮定してみると、きんはもっと思いつめた、何か心ぐらいことか差し迫った理由があってお金儲けをしているように見えてしまったかもしれない。そう考えると、あの単純なリズムによって主人公のキャラクターが軽くなり、映画も軽くなったということができるような気がする。
 そういうさりげなさが成瀬巳喜男の「いき」さの素なのだと思います。なるほど、もともと女性を描くのがうまい成瀬がお気に入りの女流作家林芙美子の作品を映画化すれば、こうなるよね。という作品。

クリミナル・ラヴァーズ

Les Amants Crimineles
1999年,フランス=日本,95分
監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ピエール・ストーベ
音楽:フィリップ・ロンビ
出演:ナターシャ・レニエ、ジェレミー・レニエ、ミキ・マノイロヴィッチ

 高校生のアリスがボーイフレンドのリュックと夜の学校に現れる。アリスはシャワー室でシャワーを浴びるサイードに近づく。サイードはアリスと寝たがっていた。彼を誘惑し、シャワー室に横たわるアリス。サイードがアリスに覆いかぶさったところに、ナイフを持ったリュックが忍び寄る…
 独特の感性で作品を作るオゾン監督のクリミナル・ドラマ。物語は当初の軌道からはずれ、迷走してゆく。

 結果的には「何じゃそりゃ!?」という話なのだけれど、その話の展開は魅力的で、どうしてこうなるのかというわけがわからないにもかかわらず、先の展開は気になるばかり。いろいろ大変なことが起こるのだけれど、その原因というか動機はひどく些細なものばかり。あるいは明らかにされもしない。
 そして、映画が終わってみると、その始まりと終わりっではまったく異なる世界がそこにある。時間軸に沿って進むドラマとアリスの日記を基に構成される事件の事実。時間軸に沿って進むドラマがその事件から派生した軌道から大きくずれてしまっているだけに、そこにはひどい齟齬が生じる。そのとき、アリスの世界とリュックと小屋の男の世界との間には何らかの乖離が生じている。展開してゆく(あるいは変化してゆく)その3人の関係性と、明らかになってゆくアリスとリュックとサイードの3人の関係性。映画が終わり、それらの関係性に結末がつけられたとき残るのは、彼らの感情に触れてしまったようなぬるりとした不思議な感触。そこにあるのは観客としての自分は疎外された世界。
 この映画のつくりはどの登場人物の心情もつまびらかにしないものになっている。したがってみる側は自分の位置に悩む。もっとも自己を投入しやすそうなリュックに肩入れしてみてみても、リュックの心情や感情は明らかにされず、結局は疎外され、途方にくれる。
 物語は見ている側をひきつけるにもかかわらず、そこに登場する人々は見ているものを寄せ付けない。しかし終わってみると彼らのぬるりとした感情に触れたような感覚も残る。
 という不思議な映画。

幸福

Le Bonheur
1964年,フランス,80分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ジャン・ラビエ、クロード・ボーゾレーユ
音楽:W・A・モーツアルト
出演:エマニュエル・リバ、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ

 ひまわり咲き乱れる野原を手をつないで歩く家族。仲むつまじいフランソワとテレーズには二人の子供があり、日曜日ごとに森にピクニックに出かける幸せそのものの家族。フランソワは叔父の建具屋で働き、テレーズは家で洋裁の仕事をしていた。フランソワはある日叔父から仕事を任されて近くの町に出かけていった…
 題名どおり、「幸福」とは何かということを考える映画。ヴァルダとしては初期の作品で、映像的に何か工夫をしようという試みが感じられるが、逆にあら削りという印象も与える。

 ひまわりを前景にして向こうから近づいてくる家族をとらえる。そんなタイトルクレジットは、さすがですが、ファーストシーンにいつもほどの切れがないという印象でもある。このタイトルクレジットの時点で非常に短いカットをはさんでいくのに、なんとなく違和感を感じる。この短いカットがこの映画の中では何回か使われていて、特にフランソワがエミリーのところに行ったときの奇妙に早い切り返しなどはざくっと印象に残り、映画のテンポを変えるという効果もあるけれど、個人的にはあまり好きではない。物語の最後のほうには、非常に重要と思われる何と解釈していいのかわからない短いシーンがありますが(ネタばれ防止のため言いません)、このシーンはすごくいろいろな解釈ができていいですね。ひとつの意味を与えることができないくらい短いシーン。その一瞬でとららえられたものは人によって違うはず。私は木の枝のしなりがとても印象的でした。
 もうひとつたびたび使われるシーンとシーンのつなぎ目のフェードのときに単色の画面が入るのは好き。はっきり言って意味はないと思うけれど、映画全体に強い色彩を使っているだけに、この色の使い方はなんだか心地よい。色といえば、シーンの変わり目意外でも、鮮やかな赤や緑の建物が短いカットで挿入されます。それはかなりとがった挿入の仕方。映画の流れをぶつりと断とうとする挿入の仕方であるような気がします。これも短いカット。
 この短いカットが今ひとつ納得いかないのはなぜかと考えてみると、これが私にはヴァルダの尖ろうとする意志に見えてしまうからでしょう。私がヴァルダの魅力として感じるのは、物語や映画の流れの分断ではなくて、雲散霧消という感じ。ぶつりと分断されるのではなく、なんとなくうやむやなまま消えていってしまうような感じなのです。先ほど触れた最後のほうの非常に重要な短いカットは物語をそんなうやむやさの中に放り込むという意味でとてもヴァルダらしくていいと感じるのです。
 それにしても、こんな形で「幸福」を描くのってすごい。

ファーザーズ・デイ

Fathers’ Day
1997年,アメリカ,99分
監督:アイヴァン・ライトマン
脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル
撮影:スティーヴン・H・ブラム
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタル、ジュリア・ルイス=ドレイファス、ナスターシャ・キンスキー

 一人息子のスコットが家出をし、行方不明となってしまったことに頭を痛めたコレットは、結婚する直前に付き合っていたジャックとデイルのふたりに会いに行き、「実はあなたの息子だ」とうそをついて、息子を探させようとした。ふたりはその策略にすっかりはまり、自分が父親だと信じて必死で探し始める。
 アルヴァン・ライトマンにロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタルということで、どこから見てもコメディ。わかりやすいコメディ。アメリカなコメディ。

 こういう、なんというか平均点のコメディはよく見ます。それはもちろんコメディが好きだからであり、またコメディは実際見てみないとわからないからでもある。コメディの評判ほどあてにならないものはなく、特に製作された現地での評判はまったく当てにならない。だからキャストとかスタッフに魅かれれば、とりあえず見る。これがコメディファンの正しい姿勢。
 ライトマン、ロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタルというのは非常にオーソドックスですが、個々で、興味を引くのはカメラマンのスティーヴン・H・ブラム。どこかで聞いたことがあると思って調べてみれば、「アンタッチャブル」や「ミッション:インポッシブル」をはじめとするバリバリのアクション監督。なるほどなるほどと見てみれば、しかしやはり平均点のコメディ。意識して見てみれば、車の撮り方とか、アクションっぽいなと思わせるところもありますが、特段そのカメラによってコメディとしての独自性が出ているわけでもないという感じです。
 というわけで、やはり平均点だったというコメディ。つぼに入ったところといえば、ロビン・ウィリアムスがいろいろな父親像を演じるところぐらいでしょうか。あとはメル・ギブソンかな。
 しかし、笑いのつぼは人によって違うもの。いつどこでつぼに入るかわかりません。

地獄の黙示録 -特別完全版-

Apocalypse Now Redux
2001年,アメリカ,203分
監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ミリアス
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:カーマイン・コッポラ、フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーティン・シーン、マーロン・ブランド、デニス・ホッパー、ロバート・デュバル、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール

 ベトナム戦争のさなか、一時帰国後サイゴンで腐っていた陸軍情報部のウィラード大尉が上層部に呼ばれる。彼の新たな任務は現地の兵士たちを組織して独自の作戦行動をとるようになってしまったカーツ大佐を探し出し、抹殺するというものであった。ウィラード大佐は3人の海兵隊員とともに哨戒艇に乗り込み、ベトナムの奥地へと向かう。
 1979年に製作され、コッポラの代表作となったオリジナルに53分の未公開シーンを加えた完全版。恐らくコッポラとしてはそもそもこの長さにしたかったのでしょう。

 この映画がリバイバルされることは非常に意味がある。この映画は「音」の映画であり、この映画の音を体感するには近所迷惑覚悟で、テレビのボリュームを最大にするか、劇場に行くかしなければならない。大音量で聞いたときに小さく聞こえるさまざまな音を聞き逃しては、この映画を本当に経験したことにはならないからだ。
 音の重要性はシーンのつなぎの部分の音の使い方からもわかる。この映画はシーンとシーンを音でつなぐことが多い。シーンとシーンの間で映像は飛んでいるけれど音は繋がっている。というようなシーンが非常に多い。あるいは、シーンの切れ目で音がプツリと切れる急な落差。そのように音を使われると、見ている側も音に敏感にならざるを得ない。そのように敏感になった耳はマーロン・ブランドのアタマを撫ぜる音を強く印象づける。
 ウィラード大尉の旅は一種のオデュッセイア的旅であるのかもしれない。そう思ったのは川を遡る途中で突然表れた浩々とともる照明灯。それを見た瞬間、「これはセイレンの魔女だ」という直感がひらめいた。もちろんウィラード大尉はオデュッセイアとは異なり、我が家へ、妻のもとへと帰ろうとするわけではない。彼は殺すべきターゲットのもとに、いわば一人の敵のもとへと向かうのだ。しかし、その旅の途上で彼はカーツ大佐に対して一種の尊敬の念を抱くようになる。しかも、彼は帰るべき我が家を失ってしまっていた。一度我が家であるはずの所に帰ったにもかかわらず、そこは落ち着ける所では無くなってしまっていた。そんな彼が目指すべき我が家とはいったいどこにあるのというのか?
 またその旅は、現実から遠く離れてゆく旅でもある。川を上れば上るほど、ベトナムから遠く離れた人々が考える現実とは乖離した世界が展開されて行く。果たしてベトナムにいないだれが軍の規律を完全に失ってしまった米軍の拠点があると考えるだろうか? ベトナムから離れた人たちにとっては最も現実的であるはずの前線がベトナムの中では最も現実ばなれした場所であるというのは非常に興味深い。
 そもそも戦争における現実とはなんなのか? 戦争において現実の対極にあるものはなんなのか? 狂気? 狂気こそが戦争において唯一現実的なものなのかもしれない。 恐怖? 恐怖は戦場では常に現実としてあるものなのだろうか? 

降霊

1999年,日本,97分
監督:黒沢清
原作:マーク・マクシェーン
脚本:黒沢清、大石哲也
撮影:柴主高秀
音楽:ゲイリー芦屋
出演:役所広司、風吹ジュン、石田ひかり、きたろう、岸部一徳、哀川翔、大杉漣、草なぎ剛

 心理学の研究室の大学院生早坂は霊的な減少に興味を持ち、霊能力を持つという純子を実験に呼ぶ。しかし、教授は早坂の考えに理解を示すものの、実験には反対し、実験は中止となった。そんな純子の夫克彦は効果音を作成する技師で、ある日音を取りに富士山のふもとへ向かった。そこには誘拐された少女が犯人とともに来ていた…
 現代日本ホラーの代表的な監督の一人黒沢清が手がけたTV用のホラー映画。黒沢映画常連の役所広司を主演に起用し、質の高い物を作った。

 霊的なものを扱ったホラー映画の怖さはやはり、いつどこに出てくるかわからないというところ。それは、たとえば連続殺人犯も同じことで、ホラー映画の基本とも言える恐怖感。この映画はその怖さを非常にうまく出している。カメラがいったんパンして戻っていくと、誰もいなかったところに人影があったりする効果。その怖がらせ方がとてもうまい。
 それはホラー映画としては普通の部分だけれど、この映画に独特なのは、その霊がなぜ怖いのかよくわからないところ。よく考えてみると、普段語られる霊というのはあまり実害は及ぼさず、何が怖いのかといえば、その存在自体ということになる。この映画に登場するのもそんな存在自体に人々が恐れてしまうような霊。その具体的ではない恐怖の演出の仕方というのもうまい。そして存在自体が怖いということの、その怖さの下はどこにあるのかと考える。そう考えていくと…
 といっても、具体的な恐怖がないので、いわゆるホラー映画のような怖さではない。脇役で登場する豪華なキャストたちのキャラクターもあって、どこかおかしさもある怖さ。そのあたりのバランスの取り方もうまいです。

冬の旅

Sans Toi ni Loi
1985年,フランス,106分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:パトリック・ブロシェ
音楽:ジョアンナ・ブルズドヴィチュ
出演:サンドリーヌ・ボネール、マーシャ・メリル、ステファン・フレス、ヨランド・モロー

 広い畑に掘られた溝で見つかった若い女性の死体。浮浪者のような格好ではかなくも凍死してしまったその娘モナの、その死にいたる直前の数週間、いったい彼女は何をしていたのか?
 映画はその数週間の間に彼女が出会った人々のインタビューとそれを再現した映像という感じで展開される。その彼らから感じ取れるのはモナと触れ合うことによって生じた痛切な感情。さすらう女の「自由」と「孤独」。

 モナと触れ合った人々がモナについて語ること。そのことによってその語る人の人間性がえぐられていくようである。完全に自由で、しかし完全に孤独なモナ、その彼女とどう接するのか、それはその人がどれくらい自由で、どれくらい孤独であるのかを如実にあらわす。主要な人物の一人である農作業に力を注ぐ哲学の先生、家族と過ごし、自分のやりたいように生きている彼は、果たして彼自身が言うように「自由と孤独の間」を生きているのだろうか? モナとモナが出会う人たちの中で本当に自由なのは誰で、本当に孤独なのは誰なのか? 自由とは何か?孤独とは何か? その答えが決して出ないことは、この問いが果てしなく繰り返されることからも明らかだが、この映画は自由であること、孤独であることが、いったいどのようなことであるのかを表現している。それは「何か?」という問いに対する答えではないけれど、その問いを超えたところにある別の問いを投げかけるものだ。モナは一人テントで寝るときになぜ微笑んだのか?
 この映画がこれだけ力強く問いを投げかけることができるのは、映像がしっかりと語っているからだ。人のいないフレームと人のいるフレーム。それはカメラの移動、あるいは人の移動によってひとつのカットとしてつながったフレーム内での変化。あるいは、カットが変わる時の突然の変化。
 この映像を語ることは難しいのだけれど、人のいないフレームのはっとするような美しさと、人がいるフレームのほっとするような安心感とでもいえばいいのだろうか。人のいないフレームはきりりとした美しさを持っているのだけれど、そこには何か一種の緊迫感のようなものが漂う。そこからするりするりとカメラが動くことによって、緊張感は高まる。早くフレームに人が入ってきてくれと思う。この緊張感は何なのか?
 そして、そんな映像とは裏腹に正面からのクロースアップで構成されるインタビューの場面。カメラをじっと見据えてモナについて語る人々の暖かさや冷たさや、痛み。モナが死んでしまったということを知らず、やさしさを込めてモナについて語る人々、突き放すように語る人々。
 それらすべてから感じ取れる自由と孤独のせめぎあい。これぞまさに、言葉ではできない哲学を映像によって行っているといっていい作品。哲学する映画をこよなく愛する私はこの映画を愛することに決めました。

トラベラー

Mossafer
1974年,イラン,72分
監督:アッバス・キアロスタミ
原案:ハッサン・ラフィエイ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:フィルズ・マレクザデエ
音楽:カンビズ・ロシャンラヴァン
出演:マスード・ザンベグレー、ハッサン・ダラビ

 イラン南部の町に住むガッセムはろくに学校にも行かず、学校は落第、友達とサッカーばかりして親の心配の種だった。そんなガッセムがテヘランであるサッカーの試合見たさに、何とかお金を工面しようとするが、しかしその方法は…
 イランの巨匠キアロスタミの長編デビュー作。少年の日常の一ページを切り取った作品は「友だちのうちはどこ?」などに通じる世界がある。シンプルで余計なものが一切ないという作り方も最初からだったらしい。

 一番すきなのは、ガッセムが子供たちの写真を撮るシーン。次々とやって子供の写真を撮る、ただそれだけのシーン。お金をもらい、子供を立たせて、シャッターを押す。ただその反復。しかし、次々映る子供の姿や顔にはさまざまなものが浮かんでいる。おそらくこの子供たちは街で見つけたそこらの子供たちで、本当に写真をとってもらったことなどほとんどないような子供たちなのだろう。だからこの部分はある意味ではドキュメンタリーである。
 このシーンは、プロの役者ではない人たちを使ったイラン映画に特徴的な半ドキュメンタリー的なシーンであり、かつキアロスタミに特徴的な「反復」を使ったシーンである。この映画はほかの映画に使ってこの反復という要素は小さいけれど、それでもこの小さなシーンが反復によって成り立っているということは興味深い。キアロスタミの反復といえば、一番わかりやすいのはもちろん「友だちのうちはどこ?」のジグザグ道で、同じように少年が上っていく姿を反復することがこの映画の要になっているといっていい。このような反復がデビュー作の時点で姿を見せている(厳密に言えばデビュー作は短編の「パンと裏通り」であるが、この作品でも反復の要素は使われている)というのはとても興味深い。
 見ている時点では時間もすんなり流れ、物語もストレートで、すっと見れてしまうのだけれど、見終わった後でなんとなくじんわりと来る映画。いろいろなんだか考えてしまう。ガッセムと親友(名前は忘れてしまいました)との関係性とか、親や学校といったもの。イラン人の行動の仕方というものにすっとどうかすることはできないのだけれど、映画が終わって振り返ってみるといろいろなことが理解できてくる感じ。簡単に言ってしまえば少年の閉塞感というようなものですが、その息の詰まるような感じを感じているのは、少年だけではなくて母親だったり、先生だったりするのかもしれないと思う。

チート

The Cheat
1915年,アメリカ,44分
監督:セシル・B・デミル
脚本:ヘクター・ターンブル、ジャニー・マクファーソン
撮影:アルヴィン・ウィコッフ
出演:ファニー・ウォード、ジャック・ディーン、早川雪州

 株の仲買人リチャード・ハーディーの妻のエディスは社交界を生きがいとして、浪費癖があった。リチャードは今回の投資がうまく行くまで節約してくれと頼むのだがエディスは聞き入れない。そんな時、エディスは友人からおいしい投資話を聞き、預かっていた赤十字の寄付金を流用してしまう…
 セシル・B・デミルの初期の作品の一本。日本人を差別的に描いているとして在米邦人の講義を受け、3年後に字幕を差し替えた版が作られる。18年版では「ビルマの象牙王ハラ・アラカウ」となっている早川雪州はもともとヒシュル・トリという名の日本人の骨董商という設定。日本ではついに公開されなかった。

 主な登場人物は3人で、それぞれのキャラクターがたっていて、それはとてもいい。デミルといえば、「クレオパトラ」みたいな大作の監督というイメージだけれど、この映画の撮られた1910年代は通俗的な作品を撮っていたらしい。簡単に言えば娯楽作品で、だから少ない登場人物でわかりやすいドラマというのは好ましいものだと思う。サイレントではあるけれど、登場人物の心情が手に取るようにわかるので、気安く楽しめるというイメージ。特に妻のエディスのいらだたしいキャラクターの描き方はとてもうまい。雪州演じるアラカウが基本的に悪人として描かれているけれど、必ずしもすんなりそうではないという微妙な描き方だと思います。
 ということで、前半はかなり映画に引き込まれていきましたが、後半の裁判シーンはなかなかつらい。主に弁論で展開されていく裁判をサイレントで表現するのはかなりつらいと、トーキーが当たり前の世の中からは見えるわけです。結局字幕頼りになってしまって、映画としてのダイナミズムが失われてしまう気がします。サイレント映画はやはり字幕をできる限り削って何ぼだと私は思うわけです。そのあたりに難ありでしょうか。
 映画史的にいうと多分いわゆるハリウッド・システムができるころという感じでしょうか。監督は芸術家というよりは職人という感じがします。それでも、編集という面ではかなり繊細な技術を感じます。短いカットを挿入したり、編集によって語ろうとするいわゆるモンタージュ的なものが見られます。しかし、当時はおそらく監督が編集していたわけではないので、必ずしもデミルの表現力ということではないと思いますが。監督という作家主義にこだわらず、この一本の映画を見るとき、シナリオも演出もカメラも編集もかなり優秀だと思います。