アニエスv.によるジェーンb.

Jane B. par Agnes V.
1987年,フランス,95分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ヌリート・アヴィヴ、ピエール=ローラン・シュニュー
音楽:ジョアンナ・ブルズドヴィチュ
出演:ジェーン・バーキン、アニエス・ヴァルダ、フィリップ・レオタール、ジャン=ピエール・レオ

 アニエス・ヴァルダがジェーン・バーキンを読み解いていく。いくつかのショート・フィルムとインタビュー風に彼女を映した映像、ヴァルダ自身の語り、これらを組み合わせて浮かんでくるのは、ジェーン・バーキンという女優のおぼろげな像であり、アニエス・ヴァルダがジェーン・バーキンを好きだという事実。全編にわたってヴァルダの遊び心にあふれた作品。楽しいと同時にヴァルダらしい不可解さも持つ不思議なフィルム。

 アニエス・ヴァルダのファースト・シーンはやはりすばらしかった。私は彼女を「ファースト・シーンの魔術師」と呼ぶことに決めました。今回のファースト・シーンは一葉の絵画(見覚えはあるけれど、誰のなんという絵だったかは思い出せません)の中の一人にジェーン・バーキンが扮しているというもの。言葉で書いてしまうと、たいしたことはありませんが、その絵画であるようで明らかに生身の人間が演じている動画がぱっと映った瞬間の色彩の鮮やかさや構成美はやはりいいのです。後ろの人が静止するのに耐え切れず微妙に動いているのもいい。
 このはじめのシーンからして、途中ではさまれるいろいろなショートフィルムにしても、この映画は基本的に「遊び」なんだと思います。アニエス・ヴァルダとジェーン・バーキンという才能のある二人であり、しかも気心が知れた関係だからこそできた遊び。くそまじめに映画を撮るのもいいけれど、映画を撮ること自体が楽しくなければ、楽しい映画なんかできないといっているような雰囲気の映画です。
 まあしかし、あくまで遊びですからぐっと映画に引き込まれ抜け出せないというような力はありません。つれづれなるままに、気ままに見る映画。だから退屈だと思う人もいるでしょう。
 それでも、映画のはしばしに気になるところはあります。最初のショートフィルムの最後のパンにヴァルダの感性のすばらしさを感じ、ジャンヌ・ダルクを演じるバーキンに、女優としてのすごさを感じます。遊びではあってもそれはまじめな遊びで、そこにはやはり才能のきらめきが感じられます。
 1時間半ずっとジェーン・バーキンを見ていて感じたのは、ジェーン・バーキンはミック・ジャガーとウィノナ・ライダーに似ているということ。何じゃそりゃ? という感じですが。似てるんですね、これが。よく見てみましょう。似てるから。だからといってミック・ジャガーとウィノナ・ライダーが似ているというわけではありません。ジェーン・バーキンが両方に(あるいは表情によってどちらかに)似ているというだけです。映画が遊んでいるので、見る側もちょっと遊んでみたということです。似てるよ。絶対。

夜と霧

Nuit et Brouillard
1955年,フランス,32分
監督:アラン・レネ
原作:ジャン・ケイヨール
脚本:ジャン・ケイヨール
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー
出演:ミシェル・ブーケ(ナレーション)

 「ガス室」によって知られるようになったユダヤ人強制収容所の町アウシュビッツ。今は平穏な町となっているその町で戦争中行われていた暴虐の数々。ナチスによって残されたスチル写真と、現在の強制収容所後の姿を重ね合わせながら、その実態を明らかにしていく。
 さまざまなメディアによって取り上げられ語られてきたホロコーストとアウシュビッツだが、1955年の時点でこれだけのことを語り、これだけの恐怖を体験させる映画世界はものすごいとしか言いようがない。

 最初、のどかの田園風景のはじにちらちらと映る鉄条網と監視所。この時点ですでに鋭いものを感じるけれど、このカラーの跡地となった強制収容所の映像が、過去の白黒の映像にはさまれることで変化していくそのさまがすごい。跡地のがらんどうのベットの列、ただの穴でしかないトイレの列。これらのただのがらんどうである空間を見ることで体の中に沸いてくる恐怖感は、過去の映像だけでは実感できないもの。そこにひしめき合っていた人々がリアルに感じられるのはなぜだろう? 腹の底から沸き上がってくるような恐怖感を生み出すものは何なのだろう?
 それは「視線」だろう。記録としてとられた収容所の映像の視点はあくまで傍観者のものでしかない。しかし、レネは跡地を訪れ、それを傍観しているのではなく、強制収容所の生活というものを再体験しようと欲し、映画を見る人にもそれを再体験してもらおうと思っている。そこから生まれる、視線の置き方がすばらしいのだと思う。
 もちろん悲惨な映像もあり、それはそれで衝撃的なのだけれど、ただ悲惨なだけで恐怖感が沸くわけではない。それは一種の見せ方の問題だ。たとえば、髪の毛の山。一枚のスチル写真であるこの髪の毛の山を、普通は静止した一枚の写真として見せるだろう。しかし、この映画ではまずその静止画の下のほうを映し、そこからカメラを上にずらしていく。つまり、実際の山を下から上へと映していく効果を一枚の写真で生み出している。これはカメラによるひとつのドラマ化であるといえる。われわれが理解するのは強制収容所と虐殺という事実であるが、本当に恐怖するのは、われわれが虐待され虐殺されるというドラマなのだ。だから、人に何らかの感情を呼び起こそうとするならば、それがたとえドキュメンタリーであってもドラマ化が必要となるのだ。そういう意味でこの映画は純粋に優れた映画であり、ドキュメンタリーという枠で捉らえたとしても優れたドキュメンタリーであるといえるだろう。
 この映画を見て、あなたは何度身をすくめただろうか?

5時から7時までのクレオ

Cleo de 5 a 7
1961年,フランス,90分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ジャン・ラビエ
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:コリンヌ・マルシャン、アントワーヌ・ブルセイエ、ジャン=クロード・ブリアリ、アンナ・カリーナ、ジャン=リュック・ゴダール

 癌の恐れがあるクレオは7時に出る検査結果を待って、5時に占い師にタロットで占ってもらう。しかし、その結果は恐ろしいものだった。その結果に恐怖を増しながらも、歌手であるクレオはレッスンを受けたりして時間をすごす。
 パリの街を徘徊する5時から7時までのクレオをただただ追った作品。ヴァルダはこれが長編2作目。劇中劇である短編映画にゴダールとアンナ・カリーナが出演しているのにも注目。

 冒頭のタロット占い(カラー)が結構長く続いて、その終盤で、ぱっとクレオを映す。そこはモノクロで正面から画面いっぱいに捉えられたクレオの目からは一粒の涙がこぼれている。このシーンだけでやられてしまう。どうして冒頭にこんな美しいシーンを持ってこれるのかと思ってしまう。
 映画のほうはというと、全体にかなりおしゃれな感じ。アート系の女の子映画の古典とでも言うべき趣を持つ。そもそもヴァルダはヌーベル・ヴァーグの中でも女性的なものを大きく前面に押し出していた監督で、ヴァルダの発想は現代のアート系女の子映画にももちろん影響を与えている。この映画でもクレオの部屋の感じなんかのあたりにアート系の女の子映画の雰囲気がある。もちんそれでいいんです。全体にも結末にも満足しています。
 ヴァルダの映像はなんとなくものの捕らえ方が大きい気がします。ロングで撮るよりもアップで、画面から対象がはみ出すくらいの大きさで撮る。そんな画面が多い気がします。これはあくまで印象で、具体的にこことこことここというふうには言えないんですが、人物が切れていたりすることが多かったなぁと思ったりします。もっとほかの作品も見てみれば、そのあたりもわかってくるでしょう。そしてどの作品もファーストシーンがいいのかということも。この作品のと「カンフー・マスター!」を見る限りでは、ファーストシーンの魔術師と名づけたくなるくらいです。やはりファーストシーンは重要なのだと実感しました。

雨月物語

1953年,日本,97分
監督:溝口健二
原作:上田秋成
脚本:川口松太郎、依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄太郎

 戦国時代、近江の国の農村で焼き物を作っていた源十郎は戦に乗じて町で焼き物を売り小金を手にする。女房の喜ぶ顔を見て調子に乗った源十郎は侍になるための金がほしい弟籐兵衛とともに大量の焼き物を作り始めた。そしてついに釜に入れたとき、村に柴田の軍勢が来たため、やむなく山に逃げることになってしまったが…
 『雨月物語』を川口松太郎らが大胆に脚色し、溝口が監督をし、宮川一夫がカメラを持って、日本映画史上に残る名作に仕上げた。外国での評価も高く、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を得た。

 原作が「雨月物語」だけあって、かなりドラマが太い。技術や演出がどうこう言う前に登場人物たちのドラマに引き込まれる。宮木を除く3人の行く末は大体予想がつく。しかし、それでもその悲惨さというか、やるせなさに心打たれる。そしてダネーも言っている宮木の死。(フランスの批評家セルジュ・ダネーが著書「不屈の精神」の中で、この宮木の死について触れ、これを「死んでも死ななくてもいいような死」というような感じで述べていた)
 ダネーとは異なる観点から見ても、この死は非常に重要である。この宮木の死によってドラマはすっかり変わってしまう。この死によってこのドラマは決定的にハッピーエンドの可能性を奪われる。この死以降はどこを切っても不幸しかでてこない。たとえ籐兵衛が出世したとしても、その結末に訪れるであろう絶望を見てしまっているわれわれはそこに希望を見出すことはできない。
 そんな映画上の重要な転換点であるひとつの死をさらりと、ほとんどセリフもない、物語の本筋とは関係なさそうな文脈で語ってしまうところはなるほどすごいと思う。一種のアンチクライマックス。
 そして、もちろん映像もすばらしい。言わずと知れた宮川一夫。一番ぐっと来たのは、籐十郎が初めて若狭の屋敷に行ったとき。日が暮れて、屋敷のそこここに、灯りがともされ、そこを若狭が歩いてくる。カメラはそれを屋敷の上からゆっくりとパンしながら撮り、ゆっくりと視点をおろしてゆき、籐十郎がいる部屋の正面でぴたりととまる。そのとき、フレームの右側からフレームインしてきた松がすっと前景に入るその美しさ。人物は小さく、松は大きい。その画面のバランスがたまらなくいい。

ハムナプトラ/失われた砂漠の都

The Mummy
1999年,アメリカ,124分
監督:スティーヴン・ソマーズ
脚本:スティーヴン・ソマーズ
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:ブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、アーノルド・ヴォスルー、ジョン・ハナー

 紀元前13世紀、国王の愛妾アナクスナムンと恋に落ちた高層イムホテップは国王を殺してしまう。自殺したアナクスナムンをよみがえらせようとしたイムホテップだったが、その儀式が終わる前に捉えられ、死者の都ハムナプトラで行きながらミイラにさせられる刑に処された。
 約3000年後、考古学者のエヴァリンは兄が見つけた地図からハムナプトラの場所を知り、その持ち主だったリックという男を訪ねるが…
 続編も作られた話題の冒険活劇です。

 特撮が売りということですが、すごいのかすごくないのかよくわからない。すごいような気もするけれど、なんとなく安っぽさが漂う。安っぽさといって悪ければ作り物っぽさね。そもそも、ありそうもないものをSFXで作り出すわけだから、いくら緻密に作ってみたところで、現実感が出るわけではない。しかし、それでも緻密に緻密に作るあたりにILMのプライドを感じます。
 基本的の物語がばかげてるわけですよ。ありそうな話というのではなくて、ほぼ確実になさそうな話なわけですよ。それがこの映画のミソだと思いますね。中途半端に科学的根拠とかを並べ立てて、「ありそうな話だろ」といってしまう話より、はなっから「ありえねーよ」と開き直ってしまった話のほうが思い切りがよくっていいということ。そんな「ありえなさ」がすみまでいきわたっているのがこの映画のいいところです。ピラミッドの地下でゴルフの練習をするとか(絶対しねー)、飛行機のはねに人をくくりつけて飛ぶとか(飛べんのか?)、そんなところも素敵。二挺拳銃も素敵。
 なぜそんなことになったかと考えてみると、アクション映画にしてはスリルがない。スピード感がない。しかも映画に隙がたくさんある。つまり、突っ込みどころがたくさんある。集中してみなくても映画についていけるから、どんどん突っ込める。こういう映画は家で、突っ込みを入れながら友達と見るのがいいでしょう。こういう突っ込み用映画の代表はなんと言っても「シベリア超特急」です。この映画は「シベ超」ほど突っ込めないものの、普通の映画としての面白さは「シベ超」より上なので、映画突っ込み初級者に向いていると思います。さあ、あなたも何回突っ込めるか挑戦してみよう!
 今回はちょっとふざけすぎましたでしょうか? でも、こんな映画の見方をするのも面白いもの。一度お試しあれ。

めし

1951年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井出俊郎、田中澄江
撮影:玉井正夫
音楽:早坂文雄
出演:上原謙、原節子、島崎雪子、杉村春子、杉葉子、風見章子、大泉滉

 結婚して5年、東京から大阪に越して3年、子供もなく平凡な毎日を繰り返す三千代は日々の単調さに息が詰まっていた。そんなとき東京から夫の姪の里子が家出をしたといって転がり込んできた。そんな居候の存在も今の三千代には夫との関係をさらに寒々とさせるものでしかなかった…
 林芙美子の原作を成瀬が淡々としたタッチで映像化。端々まで注意の行き届いたつくりで倦怠期の夫婦の心理をうまく描いた傑作。川端康成が監修という形でクレジットされているのも注目に値する。

 こういうのが本当にしゃれた映画というのだろう。静かに淡々と夫婦の間の心理の行き来を描くその描き方は芸術的ともいえる。登場する誰もが多くを語らない。言葉少なに、しかし的確に言葉を発する。しかしストレートな物言いではなく、婉曲に言葉を使い、しかしそれがいやらしくない。こういう台詞まわしの機微が味わえるのは古い日本映画ならではという感じがする。それはもちろん古きよき時代への郷愁であり(生きてないけど)、それによって現代の映画のせりふの使い方を貶めるものではないけれど、こういう空間をたまには味わいたいと思う。
 そしてその細かい気遣いはせりふ使いにとどまらない。小さなしぐさの一つ一つが納得させられる感じ。ひとつ非常に印象に残っているのは、終盤で三千代と初之輔が食堂に入り、話をする。話をしていると、画面の後ろで誰かが店に入ってくる。二人はそちらをふっと見遣る。そしてすぐに向き直る。その人はまったく物語とは関係ない人だから、別に振り返らなくてもいいし、そもそも入ってこなくてもいい。しかし、そこで人が入ってきて、そこに目をやる。この映画全体とは本当にまったく関係ないひとつの仕草はとても自然で、彼らの存在にぐっと現実感を与える気がする。
 本筋は語りすぎず、しかし気の利いた遊びも忘れない。こういうのが本当にしゃれたというか粋な映画なんだと思いました。こういう日本映画のよさというものを忘れていはいけないなと思いましたね。ふとセルジュ・ダネー(フランスの人ね)が溝口の『雨月物語』のワンシーンについて書いていたことを思い出しました。それは、「溝口は、その死が起こっても起こらなくてもよいことがわかるような、漠然とした運命として宮木の死をフィルムに収めたからである。」というものでした。ダネーの論点とはちょっとずれている気はしますが、そこに漠然としたひとつのイメージがわいてきます。日本流の「粋」のこころがなんとなくそこにある気がしました。

月曜日のユカ

1964年,日本,94分
監督:中平康
原作:安川実
脚本:斉藤耕一、倉本聡
撮影:山崎泰弘
音楽:黛敏郎
出演:加賀まりこ、中尾彬、加藤武、北林谷栄

 キャバレー勤めのユカは男の人を喜ばせることを女の生きる目的と考え、ボーイフレンドに加えて“パパ”とも付き合っていた。しかし、ある日ボーイフレンドと歩いているときに家族と買い物をするパパの姿を見かける。その顔が今までに見たことがないほど嬉しそうだったことにユカはショックを受ける…
 加賀まりこ初の主演映画は日活の看板監督中平康によるもの。加賀まりこがとにかくかわいい。

 かなり不思議な映画です。冒頭から外国語と字幕。途中でも静止画に声が入ったり、ストップモーションがあったりと普通ではない効果が多用されています。しかし、だからといって前衛的というわけではなく、オーソドックスなものの中に一つのスパイスとして入っている感じ。だから鼻につくわけでもなく、しかし逆にそれほど印象にも残らないというものです。あるいはむしろそのような効果はひとつの笑い(ギャグ)として存在しているのかもしれない。または、ひとつの転調として。時々止まったり早くなったりすることで、単調になるのを避けるという効果。
 加賀まりこが正面を向いて、棒読みで語る場面。こういうアクセントがあるのはとてもいいと思います。この場面もそうですが、この映画はシネスコの画面の真ん中を使うということが多い。真ん中に物を置いて、左右を空白にするというのはかなり大胆だと思います。
 面白い作り方だとは思いますが、私としてはあまり好みではないかもしれません。なんとなく飄々とうまく立ち回っている感じの映画で、正面からずばっと切り取ることをしないという感じ。抽象的でわかりにくいとは思いますが、そんな感じなのです。人物の描き方も映像の組み立て方もそんな感じです。こういう題材を扱うならば、もっと人間の内面に土足で踏み込んでいくような大胆さがほしかったと思います。そうでなければ全体をもっと軽妙なものにするか、そのどちらかのほうが好みには合うのでした。
 こういう映画のセンスのよさというのも理解できるんですけどね。あくまで好みの問題でした。

トゥルー・ストーリー

Yek Dastan-e Baghe’i
1996年,イラン,125分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:マスード・コラーニ
出演:サマド・ハニ、メヒディ・アサディ、アボルファズル・ジャリリ

 TV用の新しい映画制作のため、主人公を演じる少年を探すジャリリ監督。しかし、なかなか見つからない。そんな時に立ち寄ったパン屋でであった少年サマドが彼のめがねにかなった。ちゃんとした交渉をするため、次の日彼を呼びにやると、彼は店からいなくなっていた。
 撮影予定だったフィクションの撮影を取りやめ、少年サマドの実話をドキュメンタリーという形で映画化した作品。普段から素人の役者を使うジャリリ監督だが、これは完全なドキュメンタリー作品で、また違う趣き。

 いわゆる「映画の映画」なのかと思ったらそうではなく、一人の少年を追ったドキュメンタリーとなる。確かにひとつのドラマとして、人道的というか道徳的というか、そういう物語であり、かつ独善的ではないという点でとてもいいお話だと思う。しかし、これを一本の映画として成立させてしまっていいのかという気もする。
 ジャリリ監督は、素人の少年を映画の主人公に使い、撮影が終わった後もその少年たちを援助し、良好な関係を結んでいるという。それはとてもすばらしいことだし、いい映画が撮れて、かつそのような少年たちが幸福になるならそんなすばらしいことはないと思う。
 しかし、その少年を救うひとつの物語を一本の映画としてしまうと、それは映画監督ジャリリのひとつの行為というよりは、一人の人間であるジャリリがたまたま映画監督であったがためにその行為を記録しただけということになってしまいはしないか? という疑問が起きる。彼はこれをひとつの映画として完成させようと奮闘し、撮影を許可してくれる医師を探した。しかし、それは映画監督であることと一人の人間であることを両立させるということにはつながらず、一人の少年を救うということと映画を完成させるという二つの目標の間で宙ぶらりんになってしまったところから来る妥協のように見えてしまう。
その中途半端さがあるために、映画(つまり作り物)としてまとめるために挿入されたと思われる、カットとカットの間の電子音と暗い一瞬のカットにも空虚さが漂う。そして最後につけられたメッセージもその中途半端さを補うためのつじつまあわせの言葉のように聞こえてしまう。実際のところは心から少年を救いたいと思い、行動したのだろうけれど、映画としての中途半端がそんなうがった見方をさせる余地を残す。
 私は、この映画が映画として完成するためには、本来の目的であった「時計の息子」という作品を何らかの形で制作するか、あるいはサマドを主人公にした(フィクションの)映画を作る必要があると思う。そのそもそも映画として作られた映画と互いに補完することによってようやくひとつの映画世界が完成するように思えて仕方がない。この作品がTV用のものならなおさらそうなんじゃないかと思う。

スプリング-春

The Spring
1985年,イラン,86分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:メヒディ・ヘサビ
音楽:モハマド=レザ・アリゴリ
出演:メヒディ・アサディ、ヘダヤトラ・ナビド

 イラン・イラク戦争が激しさを増す中、老人シナが一人暮らす森の小屋へ連れられてきた一人の少年ハメド。両親から一人離れ、疎開生活をする彼はなかなか森とシナになじむことができない。それでもシナはハメドを温かく見守り、彼につらい思いをさせないように勤めるのだが…
 「ぼくは歩いていく」などのジャリリ監督の長編デビュー作。イラン・イラク戦争というモチーフも、北部の寒い土地という設定もいわゆるイラン映画とは異なる趣き。

 夜の森でシナが聞いたという音。その場面でかぶせられた音はいろいろな音が交じり合い、その後の昼間ハメドが「同じ音を聞いた」という音。それは夜の場面とは明らかに違う音。しかしどちらも複雑に混ざり合い、しかも大きく増長された音。ハメドが聞いたという音は列車の音。しかしそこに混じるいろいろな音。
 ほかにもキツツキの音やラジオなど、「音」が非常に強調された映画である。その描き方にはいろいろな理由付けが考えられるだろう。ジェット機や爆撃といった音と悲劇を結び合わせるハメドの心の反映。主に音を頼りにして森の生活を送るシナの鋭敏さの表現。
 どちらにしても増長された音の表現は彼らの音に対する敏感さを表すのだろう。われわれが日常聞いている音の中に埋もれたさまざまな音をも聞きだす鋭敏な耳。その独特な表現にこの間得な非凡なところを感じるけれど、その表現によって意味されるものを感じ取るのはなかなか難しい。なかなか交わることのできない二人の心。あるいは共通の過去の痛みか…
 ところで、この映画の風景はイランらしくない。やたらと雨が降り、しかも寒そう。砂っぽい砂漠やキシュ島みたいな南の島のイランとは違うイラン。こんなイランもあるんだ、という感じ。
 もうひとつところで、イランには傘がないのだろうか? こんなに雨が振っているのに誰も傘を差していない。「サイクリスト」でも雨が降ってきても、みんな傘をささず、なぜかビニール袋をかぶっていたりする。あまり雨が降らいというなら、傘を差さないというのも理解できるけれど、結構雨が降っているのに傘がないのはなぜ? と思ってしまいます。余談でした。

私の殺した男

Broken Lullaby
1932年,アメリカ,77分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:モーリス・ロスタン
脚本:サムソン・ラファエルソン、エルネスト・ヴァイダ
撮影:ヴィクター・ミルナー
音楽:W・フランク・ハーリング
出演:フィリップ・ホームズ、ライオネル・バリモア、ナンシー・キャロル、ルシアン・リトルフィールド

 第一次大戦終戦から一年後のパリ。その式典に参加した青年ポールは戦争中に殺したドイツ兵のことがどうしても頭から離れず、協会で神父に告白する。「任務を果たした」といって神父になだめられたポールは逆に悩みを増し、そのドイツ兵ウォルターの故郷を訪ねることにした…
 脂の乗り切ったルビッチが映画を量産した20年代から30年代前半の時期の作品のひとつ。多くのフィルモグラフィーの中に埋もれているとはいえ、そこはルビッチ、堅実にいい作品を作る。

 このころルビッチはおよそ年2本のペースで映画を作っていた。代表作とされる作品(「天使」や「ニノチカ」や「生きるべきか死ぬべきか」)が撮られるのはもう少し後のことだが、この時期にも「モンテ・カルロ」や「極楽特急」といった名作も生まれている。
 というまわりくどい説明で言いたいことは、確かに面白い堅実な作品を作ってはいるけれど、完成度から言えばもう一歩という作品も混じってしまっているということ。この作品はドラマとしては非常に面白いし、画面が持っている緊張感もすばらしい。たとえば、ポールが始めてウォルターの家に行き、ウォルターの遺族3人に囲まれる場面、パンしながら3人の顔を一人ずつ映していくカメラの動きは、ポールの緊張感を如実に伝える。それ以外にも、さまざまなところに張り詰めた緊張感を漂わせる「間」がある。
 そういったすばらしいところがたくさんあり、ラストまでその緊張感を保つのはとてもいいのだけれど、ルビッチであるからあえて言わせてもらえば、稚拙さも目に付く。特に目に付くのはトラヴェリングの多用で、冒頭からかなりの頻度でトラヴェリング(つまり移動撮影)、特にトラック・アップ(つまりカメラを被写体に近づけていくこと)が多用される。的確なところで使われれば劇的な効果を生むはずのものだが、繰り返し使われるとなんとなく作り物じみて、物語世界から遠のいてしまう感じがする。
 とはいえ、やっぱり見所もたくさんあります。町の人たちが窓からポールとエルザを覗くシーンのスピード感とか、さりげないところに味がある。やっぱり見てよかったなとは思います。