ぼちぼちだね(I’m so-so)

I’m so-so
1995年,デンマーク=ポーランド,56分
監督:クリストフ・ヴィエジュビツキ
撮影:ヤシェク・ペテリツキ
音楽:ジュビニエフ・プレイスネル
出演:クシシュトフ・キエシロフスキー

 「トリコロール」や「デカ・ローグ」などの作品を残し、1996年になくなった映画監督キエシロフスキー。「トリコロール」を最後に監督を辞めてしまった彼の姿を、ながらく彼の仕事上のアシスタントをしてきたヴィエジュビツキがカメラに収めた。彼はこの映画が撮られてから1年もたたずに亡くなってしまったが、フレームの中のキエシロフスキーは生き生きとして朗らかだ。
 日本で見られる機会はなかなかないかと思います。

 ドキュメンタリーとしては非常にオーソドックスな作品。それもそのはず。これは劇場公開用の映画として撮られたのではなく、デンマークのテレビ用に撮影されたいわゆるテレビ・ドキュメンタリー。なので、インタビューをメインに、作品を紹介しつつ、現在のキエシロフスキーについて語っていくというスタイル。
 なので、この映画の眼目は彼の哲学と彼がこれからしようとしていることにあるといっていい。全体を通していえることはキエシロフスキーは映画監督は語るべきものではなく、映画が語るべきだということを言っていると思う。質問に答え、映画が語らんとしていることを話して入るけれど、彼が強調するのは常に「解釈の余地」ということだ。いろいろな可能性を映画に盛り込んで、解釈は観客に任せるというスタンス。それがキエシロフスキーが自分の過去の作品について言っているすべてだといっても過言ではないだろう。
 という感じでのドキュメンタリーですが、私が一番思ったのはキエシロフスキーってなんて横顔がかっこいいんだろうということ。正面から映っているとそうでもない(といっては失礼か)のですが、映画の後半で部屋に座って、固定カメラで映している場面があって、その横顔がすごくかっこいい。大きめの鼻がでんと座っていて、りりしい顔立ち。

カンフー・マスター!

Kung Fu Master !
1987年,フランス,80分
監督:アニエス・ヴァルダ
原作:ジェーン・バーキン
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ピエール=ローラン・シュニュー
音楽:フィリップ・ベルナール
出演:ジェーン・バーキン、マチュー・ドゥミ、シャルロット・ゲンズブール

 マリー=ジャンヌは娘の誕生パーティーで見かけた少年ジュリアンになぜか魅かれ、彼に出会うため学校へと向かう。偶然彼に車をぶつけてしまった彼女は彼をカフェへと誘い、「カンフー・マスター」というビデオゲームに熱中する少年の姿を食い入るように眺めた…
 ジェーン・バーキンが娘のシャルロット・ゲンズブールと競演。同じヴァルダ監督の「アニエスv.によるジェーンb.」と双子のような作品。何でも「アニエス…」の撮影中にバーキンが思いついたアイデアらしい。

 オープニングのキュートな映像。「あれ?スパルタンX?」と思ってみていたら、映画の中では「カンフー・マスター」と呼ばれている。でも、あのゲームはきっとスパルタンX。作りもまったく一緒だし。
 20歳以上という年の差。絵的には違和感があるけれど、決して不自然なことではないと思えるのはやはりジェーン・バーキンの力量でしょうか。マリー=ジャンヌがジュリアンに寄りかかる姿はとてもほほえましくもある。
 しかし、すべてが微妙。結局何も描いていないといってしまえるほどに微妙な心理の機微を描いているように見える。映画のどこを切り取っても、明確に断言しているところがない。明確に見えたことも一瞬の後にはまた不明確さの混沌の中に埋没しているような感じ。まるで世の中に明らかなことなどひとつもないのだといっているような。
 印象に残っているカットも物語とのかかわりを捉えることができない。島の家の窓のカット、その反復。ジュリアンのお母さん。
 なんだかひとつの物語があるようではあるけれど、そこをさまざまな物語の部分が通過していて、物語どうしの境界があいまいになっている感じ。もちろん現実の世界にはほかから独立したひとつの物語など存在しないのだから、そのほうが現実に近いということができるのかもしれないけれど、物語るということはその混沌とした現実からひとつの物語を抽出するということであって、そういう意味ではこの映画は物語ではないのかもしれない。
 なんとなく、アントニオーニと近しいものがあるかもしれない。ひとつの物語を抽出しないという点で。監督によって作品の傾向を一般化することにどれだけの意味があるのかはわからないし、その一般化によって見方が固定化されてしまうという弊害があることもわかっているけれど、とらえどころのない作品をとらえるための足がかりを探していたら、そんなイメージに至った。アントニオーニは散逸していく複数の物語。ヴァルダは無秩序にすれ違う複数の物語。重要なのは、その複数の物語を読み解くことではなく、それをそのまま受け入れることだと思います。その散漫さや混沌に、物語によって主張されるの
とは違う主張(あるいは世界)がある。のかもしれない。

カンダハール

Safar e Ghandehar
2001年,イラン,85分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルビシ
出演:ニルファー・パズィラ、ハッサン・タンタイ、サドユー・ティモリー

 カナダに亡命したアフガン人ジャーナリストのナファス。20世紀最後の日食の日に自殺するという手紙を妹から受け取った彼女はカンダハールにいる彼女を救うため、戦火のやまぬアフガニスタンに入りカンダハールへ向かう。まずはイラン国境のキャンプへ行き、アフガニスタンに帰る難民の家族に紛れさせてもらったが、簡単にカンダハールにたどり着くことはできなかった。
 キアロスタミと並ぶイランの巨匠マフマルバフが実話を元にアフガニスタンを描いた話題作。一種のロード・ムーヴィーの形をとり、アフガニスタンの現状がわかる形でドラマが展開してゆく。

  まずは「9・11」に触れなくてはならない。隣国に住むマフマルバフはアフガニスタンに気づいていた。そしてアフガニスタンを世界に思い出させようとした。しかしマフマルバフでさえ遅すぎたのかもしれない。マフマルバフが「カンダハール」を完成させたころ、タリバーンはバーミヤンの石仏を破壊した。マフマルバフは「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という文章を発表し、世界にアフガニスタンを思い出させようとした。
 しかし世界は9月11日までアフガニスタンのことを思い出さなかった。私もまたその一人だ。「カンダハール」がもう少し早くできていたなら、何かが変わっていたかもしれない。もう少し早く世界がアフガニスタンを思い出していたならば、何かが変わっていたかもしれない。
 ナファスは妹を救うことができなかったのかもしれない。運命を変えることができなかったのかもしれない。この映画ができたのはナファスを演じるニルファー・パズィラが自殺を図ろうとしている友人を救うためマフマルバフに助けを求めたことに始まった。彼女の友人は自殺を思いとどまったのだろうか?この映画は何かを変えることができたのだろうか?
 しかし、少なくとも、この映画は今後何かを変えることができると思う。ビン・ラディンとタリバーンをEvil(悪)と決め付けてしまったアメリカと世界がこの映画を見たらどう思うか。報道統制をしてまでビン・ラディンを絶対的な「悪」に祭り上げたブッシュはこの映画を見て自らを恥じ入るだろうか? ホワイトハウスからこの映画を見たいという要請があったらしいが、ブッシュは彼が虐殺したタリバーンなるものはこの映画の中で小銃を握りながら列になってクルアーン(コーラン)を読む少年たちに他ならないことに気づくだろうか?個々の人間から遊離したタリバーンという概念を「悪」と決め付けることでそれを構成する人々もまた「悪」であると決め付けるその暴力性。あちこちで言われているように「爆弾でブルカを脱がすことはできない」のだ。
 われわれはアメリカの報復の醜さと非道さをもっと声高に叫ばなければならない。暴力を更なる暴力で打ち消そうとすることのむなしさを訴えなければならない。

 さて、言わなくてはならない、そしてまたもっとも言いたかった「9・11」についてはひとしきり言ったので、その文脈からちょっと距離を置いたところで映画を見てみましょう。
 義足にパラシュートをつけて投下するヘリコプターが結び目となってひとつの円を描く時間。この円の概念はマフマルバフのひとつのイメージだ。「行商人」も一つの時間の円還を描き、「サイクリスト」は回ること自体が映画であり、「パンと植木鉢」にも円を描く時間が出てきた。この円のイメージはハリウッドに代表される西洋の映画の線形の時間に対するアンチ・テーゼだろう。西洋の独善的なものの見方を否定するための足がかりとして時間の概念から突き崩す。そんな意図の現われだと思う。だから線形の時間の捉え方で物語のつじつまを合わせようとしてもそれは無理な話だ。そしてこれをファンタジー、あるいはファンタジックと決め付けて簡単に片付けてしまって疑問を覚えないのは一つの見方でしかものを見られない狭量さである。
 そんな狭量な見方でこの映画をマフマルバフを見ると、映画の中の人々を感じ取ることができない。義足を騙し取ろうとする男や妻の義足を取りに来た男に対処する赤十字の医師の困惑や苛立ちを共有し、彼らを邪険に追い返してしまうことになる。それはこの映画をも追い返してしまうことだと思う。映画の外部から映画の世界に入るには、ブラック・ムスリムの医師のように付け髭をつけて彼らを感じ取ろうとしなければならないのだろう。貧しさですべてを片付けてはいけないと思う。貧しさからすべてを説明しようとしてはいけないと思う。歌を歌うのを見られるのが恥ずかしいという少年ハクとナファスの聞こ
えないところで録音を吹き込むブラック・ムスリムの医師のその相似に、この映画へと入り込む鍵があるのかもしれないと思った。
 円ということに話を戻すと、映画自体も日食に始まり、日食に終わる。その日食はもちろん同じ日食で、これもまたひとつの円還であるのだ。フィルムの最初と最後をつなげば、それは終わることのないエンドレスの物語となる。物語がそのように繰り返されたならば、そこに浮かび上がってくるのはどのようなものだろうかと考えるのは考えすぎだろうか?

ゴールデンアイ

Goldeneye
1995年,アメリカ,130分
監督:マーティン・キャンベル
原案:マイケル・フランス
脚本:ジェフリー・ケイン、ブルース・フィアスティン
撮影:デレク・メディングス
音楽:エリック・セラ
出演:ピアース・ブロスナン、ショーン・ビーン、イザベル・スコルプコ、チャッキー・カリョ、ジュデュ・デンチ

 冷戦時代、ソ連の化学兵器研究所へと潜入したジェームズ・ボンドは相棒の006ことマックスを残して逃げ出してしまった。その9年後、アメリカ海軍の最新のヘリコプターが旧ソ連の女性パイロットによって盗まれてしまう。衛星写真の分析から北ロシアの基地にそのヘリコプターがあることを発見するが、その直後、その基地は破壊されてしまう…
 ピアース・ブロスナンを5代目ジェームズ・ボンドに迎えた007シリーズ第17作。スタッフ/キャストを一新し、新しい007を作り出した。

 冒頭のダムを飛び降りるシーンのすごさにぐっとつかまれる。ピアース・ブロスナンのボンドもそれほど違和感はない。その後まっとうなアクション映画のように進んでいくけれど、おなじみの秘密兵器研究所あたりから007らしくなってくる。やはり007はその過剰さがなくてはいけない。ジェームズ・ボンドというスーパーマンの不自然なまでのすごさがやはりいい。圧巻は戦車のシーン。かなり長い時間を割かれたそのカーチェイスならぬ戦車チェイスは笑ってしまうくらいすごい。過剰さが笑いを誘うアクションというのはやはりいいですね。ほかにもそんなシーンがたくさんあるので楽しめます。
 この映画は冷戦後を冷戦を引きずって描いている。「旧ソ連」の一部の人々がスパイの敵になるという設定。この方法は冷戦時代の方法を生かすことができるのでやりやすいでしょう。しかし時がたつにつれ、リアルさが薄れてくると思われるので、こればかりに頼っているわけには行かない。007もこれ以降は冷戦からは距離を置いているようです。
 これからのスパイ映画を考えるとやはり、対テロリストというのがホットなトピックになるでしょうか。「ワールド・イズ・ノット・イナフ」はテロリストの話だったような気が… 個人的にはアメリカの陰謀を暴くイランのスパイ映画なんかがあったら見たいですが、誰か作ってくれないかなー、そういう映画。

ミッション:インポッシブル

Mission: Impossible
1996年,アメリカ,110分
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:デヴィッド・コープ、ロバート・タウン、スティーヴン・ザイリアン
撮影:スティーブ・H・ブラム
音楽:ダニー・エルフマン
出演:トム・クルーズ、ジョン・ヴォイド、エマニュエル・ベアール、ジャン・レノ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ

 CIAの工作員イーサン・ハントの参加した作戦が情報漏れのため失敗に終わり、彼以外のチーム全員が死んでしまう。上層部に呼び出された彼は、自分に裏切りの疑いがかかっていることに気づいてその場を逃れ、新たな仲間とともに真実を暴こうとするが…
 1960年代のアメリカの人気テレビシリーズ「スパイ大作戦」をトム・クルーズがプロデュース・主演でリメイク。チームの仲間が冒頭に死んでしまうことで完全に新しい展開を作り出しているが、それが果たしてよかったのか…

 「おはようフェルプス君」でおなじみのジム・フェルプスがいきなり死んでしまうので、テレビシリーズを見ていた人には「えっ?」という展開。それぞれに特徴のあるキャラクターのチームプレーが見所だった「スパイ大作戦」とはまったく別物なのだと気づかざるを得ない。ドラマのイメージを引きずると、このトム・クルーズのワンマンプレーにはどうにもなじめない。
 ということでテレビシリーズのことは忘れてみてみます。
 冷戦後のスパイものとしてはキューバか北朝鮮か国とは関係ない組織を相手にするしかないわけですが、そんな中で「裏切り」をポイントにおくというのはなかなかいい考えかもしれない。「裏切り者は誰だ」という謎解きの作り方はなかなか面白い。個々の場面のスリルの作り方もさすがになかなかのものではある。宙吊りのあたりは最大の見せ場だけに面白いけれど、ねずみはちょっとありがち過ぎたかもしれません。CGもそれほどすごいわけでもなく、最後のヘリのあたりの稚拙さはちょっとね。
 結局トム・クルーズのワンマンショーに終始する映画だったと思います。

アタック・ザ・ガスステーション!

Attack the Gas Station
1999年,韓国,108分
監督:キム・サンジン
脚本:パク・チョンウ
撮影:チェ・ジョンウ
音楽:ソン・ムヒョン
出演:イ・ソンジェ、ユ・オソン、カン・ソンジン、ユ・ジテ

 ガソリン・スタンドを襲う4人の若者。店を破壊し、金を奪った彼らはその数日後「退屈だから」という理由で再び同じスタンドを襲う。しかし、そこに金はなく、金を持ってこさせるために店員たちを監禁するのだが、その間にも客はやってくる。客からもらった金をそのままいただこうと考えた彼らは接客を始めるのだが…
 韓国で大ヒットしたアクション・コメディ。わかりやすい展開とわかりやすい笑いが安心して見られます。

 B級な作品かと思ったら、意外にちゃんとした作品で、はちゃめちゃなコメディというよりは、現代の若者を描いたまともなドラマという感じ。だからヒットしたのかな、という気がします。
 しかし、個人的には最初の勢いを続けて、最後まではちゃめちゃなコメディでいってほしかった。韓国の映画を見ていると、結末が甘っちょろいというか、結局いいお話で終わっていくものが多い。突き放すような終わりかたや救いようのない終わり方をする映画がなかなかない。
 この映画も既成の価値観をぶち破るような若者っぽく最初は登場するのに、ふたを開けてみれば、価値観の枠にはまってしまうような人たち。価値観を根本から覆すようなことはしない人たちである。別に検閲があるわけではないと思うので、そういう映画が受け入れられるような雰囲気が醸成されているということなのだろうし、それが悪いわけではないけれど、何かを壊していく映画が好きな立場からはなんとなく物足りない気がしてしまう。
 でも、コメディとしてはなかなかいいギャグもあったので、良しとします。キャラとしては「無鉄砲」がかなりいいキャラで、「連想ゲーム」あたりはかなりよろしいですね。後は地味ながら4人のうち絵を書いている人(「リメンバー・ミー」に出ていた)もなかなかいいですね。後は社長の家族はどうなってるのかってのもあり。

LIES/嘘

Lies
1999年,韓国,108分
監督:チャン・ソヌ
原作:チャン・ジョンイル
脚本:チャン・ソヌ
撮影:キム・ウヒョン
音楽:タル・パラン
出演:キム・テヨン、イ・サンヒョン

 卒業を間近に控えた女子高生のYは親友のウリとウリが大好きな彫刻家Jとの仲を取りもとうとJに電話をしてみるのだが、電話をしているうちにY自身がJのとりこなってしまう。落ち合ってそのままホテルへと直行したYとJは危険な倒錯愛に落ち込んでゆく…
 過激な内容で賛否両論話題を呼んだ小説の映画化。映画もまたその過激さから話題を呼んだが、衝撃的なほど性描写が過激なわけではない。

 最初の30分はひどいもの。ドキュメンタリーっぽくビデオで撮られたの出演者へのインタビュー。安物のAVまがいのラブ・シーン。手ぶれやぼかしも鼻につく。たとえば、JがYを駅で待つシーン、ショットはJの主観なのだけれど、改札口から出てくるYの姿にピントはあっていない。そのピンボケの状態はYがJのすぐそばに来るまでつづく。この撮り方に何の意味があるのか、どんな効果があるのか? 何かの効果を求めて作っているのだとしたらあまりに的外れではないかと思う。
 内容もたいしてショッキングではなく、ただのSM好きのおやじの話でしかないよとおもう。韓国においてセンセーショナルで、パイオニアであったとしても、それは韓国という国の国内事情によるものに過ぎず、映画という世界においてはひとつも新しいものはない。
 そんな新しさもないところで、何か救いを求めるとするならば、二人が逃避行をする部分での救いのなさだろうか? しかしそれも最後には周到に救われてしまうことで、意味を奪われてしまう。ただひたすら落ち行く二人を描ききれば、二人は救われないにしても映画としては救われるものになったかもしれないと思う。
 結局のところこれはポルノに過ぎないということ。それもいわゆる「ポルノ」に。きのうのアナベル・チョンのような思想のあるポルノではない単なるポルノ。しかし、ポルノであるものが一般映画として作られたということが韓国では意味のあることなのかもしれない。ひとつの壁というか規制を崩すという意味では意味があったのかもしれないと思う。この映画によって崩された壁を越えた作品の中からいいものが出てくれば、ちょっとは救われるのかしら、とも思う。

SEX アナベル・チョンのこと

SEX : The Annabel Chong Story
1999年,アメリカ=カナダ,86分
監督:ガフ・リュイス
音楽:ピーター・ムンディンガー
出演:アナベル・チョン

 10時間で251人とSEXし、世界記録(当時)を樹立したポルノスターのアナベル・チョン。南カリフォルニア大学で写真と性科学を学ぶフェミニストでもある彼女の記録への挑戦を描いたドキュメンタリー。取り上げられている題材の割には映像自体は過激ではなく、彼女の生き方や考え方を描こうとしている姿勢が感じれらる真摯な作品。
 このようなセクシャリティ系の映画はかなりストレートにメッセージが伝わってきていいですね。「女性には自らの性を商品化する権利がある」

 女性も攻撃的なセクシャリティを持つことができるという彼女の考え方もよくわかるし、それを権威的でない形で実行するという態度にも共感できる。それが300人とセックスをしようという形に結びつくというのもその発想を追っていけば理解できないことではない。
 しかし、やはり偏見や既成概念にとらわれているわれわれは彼女の主張を受けとめられない。彼女のように振舞うことは容易ではない。もちろんそれは251人とセックスをしろということではなく、自由であれという意味でだけれど。ただ自由であろうとするだけでも難しい。特に性的に自由であることは、自由から生じる不安感に加えて世間からの(あるいは自分の内にある仮想的な世間からの)圧力も同時に存在する。アナベル・チョンでさえ自分の両親には告げることができなかったのはそれだけ既成概念が強固であるということだろう。
 女性が抑圧されていると主張する人たちの目がセックスへと向くのは、女性の抑圧の根本的な原因がセックスにあるからである。そして、ポルノというのは女性への性的な抑圧を端的に示すものである。だからフェミニストたちはポルノを糾弾し非難し、規制しようとする。それに対してアナベル・チョンはその内部に入り込み、それを見えなくするのではなく変えてゆく。ポルノという領域で女性が自分を解放できるのだということを証明しようとする。
 映画の中でマイケル・J・コックス(この名前は傑作だけど)はアナベル・チョンのことを「業界の面汚し」と呼んだ。251人とのセックスと聞いて最初に返ってくる反応の多くは「衛生面」や「エイズ」という反応だった。このような反発や意味のすり替えを見ると、アナベルの主張の正しさを感じる。しかし、実際に問題なのは誰が正しいのかということではない。
 話がまったくまとまらない!
 彼女のすばらしさのすべては行動が伴っているということにあると思う。セクシャリティにおいて本当に自由である。それが自然であるようにうまく描いているというのもあるけれど、当たり前のように元恋人という女性が出てくるし、セクシャリティの線引きから逃れるような親友アランもいる。
 主張するならば、行動しなさい。といわれている気がするけれど、それはなかなか難しい。

女ともだち

Ie Amiche
1956年,イタリア,104分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、アルバ・デ・セスペデス
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、イヴォンヌ・フルノー、ヴァレンティナ・コルテーゼ

 1952年、ローマからブティックの支店開設のため生まれ故郷のトリノへとやってきたクレリアはホテルの隣室の客ロゼッタの自殺未遂に出くわす。そこから仲良くなったロゼッタのともだちモミナらと仲良くなった。またクレリアは店の設計技師の助手カルロに心魅かれもしていた。
 複雑な人間関係が交錯するアントニオーニには珍しい通俗劇。監督としては3作目の長編となる。ストレートなドラマとしてみることができるが、その中にアントニオーニらしさも垣間見れる作品。

 一見ほれたはれたの通俗劇で、イタリア版「ビバヒル」みたいな感じだけれど、そこはアントニオーニで、決してハッピーな展開にはならず、痛切な出来事ばかりが起こる。結局のところ人と人との心はつながらないというか、理解しあえることなどはないんだとでも言いたげで、ちょっと気が滅入ったりもしました。 なんといってもロレンツォっていうのが、ひどい男ですね。映画を見ながら、「卑劣極まりないね」などとつぶやいてしまいました。
 でも、まあ話としてはわかりやすく、まとまりもついているし、アントニオーニにしては見やすいといえるかもしれません。それでも物語に含まれるそれぞれの話は徐々に散逸していき、決してひとつにまとまることはないということはあります。それがアントニオーニ。ひとつの物語へと集中する観客の視線を拒否することによって成り立っている映画という気がします。その物語から視線をそらされたところで、気を引かれたひとつの要素は音楽。この間の「欲望」のハービー・ハンコックの音楽もよかったですが、この映画にさりげなく含まれる音楽もかなりいい。それを一番思ったのはモミナのアパートに女たちが集まったときにBGMとしてかかっている曲。さりげなくセンスのいい曲が流れ、しかしそれも頻繁ではないという控えめな感じ。いいですね。
 ジョヴァンニ・フスコはアントニオーニ作品の多くを手がけているので、ほかの映画を見ても音楽のセンスのよさを感じられていいですね。

千と千尋の神隠し

2001年,日本,125分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:安藤雅司
出演:柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、菅原文太

 都会から郊外へと引っ越すことになった千尋と両親は来るまで引越し先に向かっていた。その途中で迷い込んだ道の行き止まりにあったトンネルを抜けると、そこには朽ち果てたような建物が並ぶ不思議な空間だった。両親に引っ張られるようにその空間に入り込んだ千尋は日が沈むころ不思議な少年にであった。
 八百万の神々が集う湯屋に迷い込んだ人間の少女を描いたファンタジックな物語。ほのぼのとした中にスリルと謎を織り込んだジブリらしい作品。

 夢のない大人になってしまったのか、それとも夢の世界に浸りきっているのか、こんな夢物語では感動できない自分に気づいてしまう。いわゆる「現実」からいわゆる「夢」の世界へと行き、戻ってくるというだけのお話なら、別に宮崎駿じゃなくたっていいんじゃないかと思う。宮崎駿なんだからもっと現実と夢との乖離を小さくして、この「現実」世界の隣にもこんな「夢」世界が現実に存在していると思い込めるくらいの説得力がほしかったと思う。
 そんなことを考えながら、昔の作品などを思い浮かべてみると、同じような設定なのは「となりのトトロ」くらいのもので、ほかはそもそもからして架空の世界の話だったりする。そして、なるほどトトロもあまり納得がいかなかったなと思い出す。
 さて、ということなので、物語には重きをおかず、細部を考えて見ましょう。 宮崎駿のアニメを見ていつも思うのは、カメラの存在が意識できるということ。もちろんアニメなので、カメラは存在しないのだけれど、あたかもカメラが存在しているかのように画面が構成されている。この映画でも冒頭の一連のシーンではカメラのパン(横に振ること)やトラヴェリング(いわゆる移動撮影)だと錯覚させるような映像が出てくる。その後も人物のフレーム・インやズーム・アップという手法が出てきたりする。このようにしてカメラを意識させることで生まれる効果はおそらくオフ・フレームを意識させるという効果だろう。アニメだからもちろんフレームの外側なんて存在しないのだけれど、カメラの存在を意識すると、自然にその外にもものがあると考えるようになる。だから単純に画面の中だけで作られたアニメーションよりも広がりがあるように感じられるのだと思います。
 これは余談ですが、この映画の中でもっとも宮崎駿らしいと私が思ったのは、千がパイプの上を走るシーン。パイプが外れて落ちそうになるんですが、その落ちそうなパイプの上を走るさまですね。ナウシカでいえば、くずれそうになる橋を渡る戦車。この崩れそうなものの上を急いで走るのを見ると、「あ、はやお」と思います。

 ところで、前に『西鶴一代女』をやったときに、『千と千尋』について触れたのでそれも載せておきます。

 私がこのシーン(田中絹代ふんする遊女お春が金をばら撒く金持ちの男に振り向かないというシーン)でもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。

 ということで、宮崎と溝口は似ているのかと考えてみたのですが、ある種の想像世界を好むという点や女性を主人公にする点は似ている。ただどちらも溝口のほうが宮崎よりも大人向きというか、生々しい感じになる。かといって、宮崎が溝口を子供向けにしたものというわけでもない。
 んんんんんんん、あまり似てない。かな。
 ふたりは興味の方向性が似ているということはあるけれど、作風としてはあまり似ていない。物語に対する考え方がちょっと似ているかもしれないので、それはまた考えることにします。