欲望

Blow-up
1966年,イタリア,111分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:フリオ・コルタサル
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン

 大勢の若者が白塗りの顔で車に乗って騒いでいる、簡易宿泊所(?)から無言で人々が帰ってゆく。そんな映像とハービー・ハンコックの音楽で始まるこの映画の主人公はカメラマンのトーマス。売れっ子カメラマンらしくわがまま放題に行動するトーマスはまた撮影の途中でスタジオを抜け出す。公園へとやってきた彼は、カップルのいる風景を写真に撮るが…
 アントニオーニの後期の代表作のひとつ。カンヌではパルムドールを受賞。

かなり理解しがたい物語であるが、それは登場人物たちの関係性やトーマスの行動原理がまったく見えてこないことにある。スタジオの程近くの家に住む美女はいったい誰なのか? なぜ料理を注文しておいて車で去ってしまうのか?
 この映画の原作者のフリオ・コルタサルはラテンアメリカの多くの作家と同様に幻想的な作品を多く書いている作家である。
 そんなことも考えながら映画を反芻していると、なんとなくいろいろなことがわかってくる。現実と非現実を区別するならば、誰が現実の存在で誰が非現実の存在なのかということ。トーマスがエージェントらしい男に見せる老人たちの写真。映画に写真として現れるのは、この老人たちの写真と公園の写真だけである。映画の冒頭で簡易宿泊所(?)から出てきたトーマスがおそらくそこで撮ったのであろう写真。トーマスの行動は若者が夢想する典型的な自由であるように思える。
 すべてが幻想であり、虚構であると考えることは容易だ。しかしこの映画がそんな単純な「夢」物語なのだとしたら、ちっとも面白くないと思う。何でもありうる「夢」の世界で起こる事々を単純な仕組みで描いただけであるならば、ありがちな映画に過ぎない。この映画の優れている点はこれが「夢」物語であるとしても、少なくともある程度は「夢」物語ではあるわけだが、誰の「夢」であるのかがはっきりとしないことだ。いくつもの解釈の可能性があり、どれが正解であるとは決まらない。単純な「夢」の物語と考えず、その現実とのつながり方を考え、いくつもの可能性を考えたほうが面白い。
 少なくとも一部は「夢」であると考えられるのにこの映画は「リアル」である。トーマスが一人になる場面がいくつかあるが、そこで彼は完全に無言である。不要な独り言やモノローグは存在しない。大仰な身振りも存在しない。トーマスを見つめるカメラの目が彼の行動を解釈しているに過ぎない。

ムッシュ・カステラの恋

Le Gout des Autres
1999年,フランス,112分
監督:アニエス・ジャウィ
脚本:アニエス・ジャウィ、ジャン=ピエール・バクリ
撮影:ローラン・ダイヤン
音楽:ジャン=シャルル・ジャレル
出演:アンヌ・アルヴァロ、ジャン=ピエール・バクリ、アニエス・ジャウィ、アラン・シャバ

 ムッシュ・カステラは小さくも大きくもない会社の社長。新たな契約に際して、保険会社にボディガードをつけられた。さらに英語の教師までつけられてしまう。しかし、その英語教師が姪の出ている映画に主演しているのを見て、いたく気に入ってしまった…
 監督は自身も出演している脚本家/女優のアニエス・ジャウィでこれが初監督作品となる。全体としてはコメディタッチの落ち着いた感じ。大人な女の人にはよいかもしれません。

 ちょっと毛色の変わったラブ・コメディのように見えて、なかなかそう一筋縄でもいかない感じ。まず、物語としてふたつの焦点があるというのが面白い。題名からするとカステラさんの話に終始するのかと思いきや、結構マニーとボディガードたちの関係に割かれる時間もかなりある。かといってふたつの話がそれほど絡み合っていくわけでもなく、基本的には別々なものとして展開してゆく感じ。このひとつのものとして捉えがたい感じはこの映画全体に付きまとう。ひとつの中心を作ってそこからすべてを俯瞰するのではなく、さまざまな側面から物を眺めてぼんやりと浮かび上がってくる像を提供するという感じ。カステラさんの奥さんのキャラクターもひとつの側面として描かれている。この奥さんのキャラクターの描き方は絶妙で、私なんかは最初に登場したときからいらいらさせられっぱなし。
 マニーを演じている女優さんと監督が同じ人と気づいたのは映画を見終わった後だったんですが、そういわれるてみればこの奥さんの描き方にも、最終的に焦点を結ばないプロットの作り方にも納得がいく感じ。カステラさんと同じ年代のおじさんの監督が作ったんじゃこうは行かないはず。女性の女性に対する視点というものを感じます。
 さらには、一つ一つの場面が宙ぶらりんな感じで終わる感触といい、頻繁に出てくる男二人で構成される画面のバランスといい、なかなかのものなのでこれからちょっと注目したい監督です。この男二人の画面はなかなか気になります。サイズがシネスコなので、人物を二人配置するのはなかなか気を使うと思うんですが、この監督はあっさりと横に二人並べてしまう。その不思議な距離感がいいと思います。

風の谷のナウシカ

1984年,日本,116分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:小松原一男
出演:島本須美、納谷悟朗、永井一郎

 「火の七日間」と呼ばれる文明滅亡のときからから1000年、地球は猛毒の瘴気を放ち、巨大な昆虫が飛び交う「腐海」と呼ばれる森林で覆われていた。海からの風によって腐海の毒から守られている風の谷、平和に暮らすその谷に虫に襲われた軍事国家トルメキアの船が墜落する…
 文明と自然の関係性を問題化しながら、映画としては一人のヒロインをめぐる娯楽作品に仕上げるところがさすが宮崎アニメ。

 今改めてみると、気づくことがいくつかあります。ひとつはこの世界のモデルがコロンブス以前の中南米であるということ。マヤやアステカといった文明をモデルとした神話的な世界でしょう。トルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられます。山際に立つ石造りの建物などもそう。イメージとしてはマチュピチュでしょうかね。
 もうひとつは「顔」です。風の谷の人々は常に顔があり、表情があるのに対して、トルメキアの兵士たちはほんの一部を除いてほとんど顔が見えない。顔を奪われるということは個性を奪われるということであり、人間性を奪われるということだと思います。つまり、トルメキアの人たちの顔を描かないことによって、彼らは非人間的な印象を持つということ。これに対して虫たちには顔がある。トルメキアの兵士たちより、むしろ虫のほうが人間性を持っているとあらかじめ宣言するようなこの構造が宮崎駿の演出のうまさなのかなとも思います。
 あとはキャラクターのデザインの秀逸さでしょうか。特に虫のデザインは本当にすばらしい。もともとSF出身だけにそのあたりは細かいのでしょう。さらに作画監督が「銀河鉄道999」などので知られる小松原一男だというのも大きいかもしれません。
 というところでしょうか。内容に関しては小学校の教科書に載せてもいいようなものなので、特にコメントはいたしません。むしろこの映画を教科書の一部にするべきだと思うくらい。

<日本名画図鑑でのレビュー>

 まず、なぜ『ナウシカ』なのか。『トトロ』や『千尋』ではなく『ナウシカ』なのか、『AKIRA』ではなく『ナウシカ』なのか、である。
 それはこの作品がアニメを“漫画映画”から“アニメーション”に、つまり後に“ジャパニメーション”と呼ばれる新たなメディアへと変化させた記念碑的作品だからである。大人、子供を問わず観客を引き込む物語の面白さとダイナミックな映像というハリウッドにも比肩するスペクタクルの出発点がここにあるからなのだ。宮崎駿という作家の出発点はもちろんこれ以前にあった。しかし、ひとつの映画としてひとつの完成された世界を提供したのはこれが最初だったのである。
だからこの作品は日本の映画史、というよりは世界の映画史に残る名作であるわけだが、そのことをわざわざここで断らなければならないところに若干の歯がゆさはある。

 さて、前口上はそれくらいにして、映画の内容に入るが、この映画は基本的な形としては「人類滅亡後の世界」というSFの基本的な形を踏襲している。しかし、滅亡といい切れないほどの多くの人々が生き残っているし、文明も残っている。しかし、それは滅亡の日=“火の七日間”から千年もの月日が流れたからかもしれない。つまり、滅亡の危機に瀕した人類はいったん原初の生活に戻り、千年かけてこの映画の段階まで取り戻してきたのだというように考えるのが自然なのではないか。
 まあしかし、それはたいした問題ではない。そのような前提はあくまでもひとつの世界観を構築する土台になっているというだけで、そこを突き詰めて行っても特にえられるものはないだろう。
 それでも、この千年というときには意味があるのだと思う。この千年という時の隔たりがあるからこそ新たな神話が生まれ、それが神話化したことについて説得力を持つ。そして神話が説得力を持つからこそ、この物語にも説得力が生まれるのだ。神話の実現、それはつまり神の到来であって、決定的な救済の徴だ。この映画がそのような神話の実現をめぐる物語であるからには、そのようにして神話を産む前提となる歴史を作り上げる必要があったのだ。
 そしてさらにこの映画は、その神話の説得力を高めるために、語られはしなくともより精密な神話を用意しているように思われる。それは、タイトルクレジットのぶぶんで絵巻物のように神話が語られている部分からもわかる。そして、それを見る限りではその神話というのはマヤやアステカといったアメリカ大陸の旧文明をモデルとしているのではないかと思う。それはトルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられるし、山際に立つ石造りの建物なども伝説的な都市国家であるマチュピチュを髣髴とさせる。そのような現実的なモデルを使って精密な神話的世界を作ること、それが実は非常に重要だったのではないかと思う。
 そのような強固な前提が存在しなければ、すべてが空想から成り立っているSFの世界は成立し得ない。そういう意味からいえば、この作品は純粋なSFとしてみても、非常に優れた作品だということになる。

 そして、その神話化はさらに進み、ある意味ではこの物語時代が神話化されているともいえる。この映画は現在から見れば未来を舞台にしたSFであり、映画の時間軸から観ればリアルタイムの物語である(つまり昔話などではない)。にもかかわらず、この映画は全体的に神話くさい。それはおそらく、この物語が神話の構図(つまりは原物語なもの)にピタリとはまるということだろう。
 それが端的に現れるのは、この物語の善悪二分論とそれと矛盾する形でその対立項から逃れる人間の存在である。善悪二分論の部分は非常に明確だ。善の側の極にいるのはナウシカであり、悪の側の極にいるのは巨神兵である。そして風の谷に人々は善であり、トルメキアは悪である。
 そのことは物語を知らなくても、その画面を一瞬見ればわかる。それは、風の谷の人々には全員に顔があるのに対して、トルメキアの人々には顔がない。顔があるのは姫と参謀ともうひとりだけで、その他の兵士たちは常に仮面を下ろしていて顔がないのだ。顔がないということはつまり個人ではなく、したがって人間ではないのだ。ならば彼らはいやおうなく“悪”とみなされざるをえない。
 さらにいうならば、虫には顔がある。つまり虫たちはトルメキアの兵士たちよりも善の側に近い。宮崎駿はこのことをまったく説明せずに、画面だけで感覚的にわからせてしまう。感覚的にわかるということは映画を言葉で理解するということではなく、体のどこかで感じるということにつながるのだ。このあたりが宮崎駿の演出の巧妙さであり、彼の作品がハリウッド映画に比肩するスペクタクルになる得る要因であるのだと思う。

 そしてそれを実現するもとにはキャラクターデザインの秀逸さがあった。宮崎駿や高畑勲はまだ若手と言っていい新進気鋭のクリエーターだったのに対し、作画監督の小松原一男はすでに松本零士作品などで定評を得ている「名前のある」クリエーターだった。当時のアニメファンにしてみれば「コナン」の宮崎と「ハーロック」の小松原、このふたりの組み合わせでどんな世界が描き出されるのか、にわくわくしたことだろう。
 そして、それは見事に結実し、すべてのキャラクターが見事にその世界をきっちりと構成する空間が出来上がった。人も、虫も、乗り物も、そして人々の世界観も、すべてがパズルのピースのようにピタリとはまったのである。
 私がどうしてもこのナウシカを宮崎作品のベスト1に上げる理由はここにある。確かに物語の質などを考えると、いい作品はたくさんあるのだが、小松原一男を失ってしまった宮崎駿はどこかノスタルジーに傾きすぎてしまう傾向があるように思われる。小松原一男はその世界観をSFのほうに、つまり未来のほうに引っ張っていこうとしたが、宮崎駿は過去のほうへと引っ張っていこうとするのだ。
 そのノスタルジーを使うやり方のほうが、今の時流にはあっている(つまりスペクタクルとして観客をひきつけることが出来る)のだとは思うが、それはやさしすぎるというか、わかりやすすぎるというか、単純すぎると思うのだ。過去というすでに整理された時間から現代への教訓を見つけるということは言ってしまえば簡単なことなのだ。歴史を忘却から引き戻すこと、それももちろん大切だが、日本のアニメというものは手塚治虫以来ずっと未来を見つめ続けてきたのではないかと思うのだ。宮崎駿にももう一度、未来に目を向けて欲しいと思う。

 そしてこの映画は、未来に目を向けているがゆえに、そこから現代へと跳ね返ってくる課題も浮き彫りにしている。それは、憎しみの連鎖、あるいは恐怖の連鎖である。いま世界を襲っている未曾有の悲劇の根幹にあるのは恐怖の連鎖/憎しみの連鎖である。恐怖からその恐怖のもとと目される他者を攻撃し、そこに憎しみと恐怖が生まれ、逆向きの攻撃がなされる。その際限ない連鎖が現在の(アメリカからいえば)「アメリカ対テロ」という構図を生み出した。アメリカが恐怖に縁取られた国だということはマイケル・ムーアが盛んに言っているけれど、アメリカに限らず人間は恐怖に弱いのである。
 この映画はそのことを見事に描き出す。恐怖におびえた人々は次々と武器を強力にしてゆき、人間の力の及ばないものまで持ち出してしまう。ナウシカはそれを収める超人的な存在として現れてくるが、そのカリスマの力もどれくらい続くのだろうか…

さすらい

Il Grido
1957年,イタリア,102分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エリオ・バルトリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツィオ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:スティーヴ・コクラン、アリダ・ヴァリ、ドリアン・グレイ

 イタリアで暮らすイルマのもとに夫が死んだという知らせが届く。イルマはアルドとアルドとの間の娘ロジナと3人で暮らしていた。夫の死を機にアルドは結婚しようというが、イルマは別の男性に心惹かれており、アルドに別れを告げ、家を出てしまう…
 イタリアの巨匠アントニオーニの初期の名作のひとつ。淡々と進む物語と鋭く洗練された映像はまさにアントニオーニらしい。

 アントニオーニの物語は決してまとまらない。この映画もぶつりと切れて終わる断片が時間軸にそって並んでいるだけで、それが一つの物語として完結しはしない。そしてそれぞれの断片も何かが解決するわけではない。その独特のリズムには、ある種の不安感/いらだちを覚えるものの、同時にある種の心地よさも覚える。この物語に反抗するかのような姿勢が1950年代(つまりヌーヴェルヴァーグ以前)に顕れていたというのは、映画史的にいえばイタリアのネオリアリスモがヌーヴェルヴァーグと並んで重要であるということの証明なのだろうけれど、純粋に映画を見るならばそんな名称などはどうでもよく、ここにもいわゆる現在の映画の起源があったことを喜びとともに発見するのみだ。アントニオーニはやっぱりすごいな。
 さて、この映画でもうひとつ気になったのは「水辺」ということ。アルドが出かける土地はどこも水辺の土地で、必ず水辺の風景が登場する。これが物語に関係したりはもちろんしないのだけれど、それだけ反復されるとそこになんらかの「意味」を読み取ろうとしてしまう。本来はアルドがあてもなくさすらってたどり着いたという共通点しかないはずの土地土地が「水辺」という全く別の要素で結びついていることの意味。それはやはりアルドの心理的な何かと結びついているのだろうか? 分かれる直前にイルマがじっとみつめていた水面に映っていた何かを求めて水辺にたどり着いてしまうのだろうか? 映画はそんな疑問も解決することなくぶつりと終わる。それはまるでその「意味」を語ることを拒否しているように見える。
 反「物語」そして反「意味」。すべてに反抗することこそがアントニオーニの映画だということなのだろうか?

男達の挽歌

英雄本色
1986年,香港,95分
監督:ジョン・ウー
脚本:ジョン・ウー
撮影:ウォン・ウィハン
音楽:ジョセフ・クー
出演:チョウ・ユンファ、ティ・ロンレス、リー・チャン、エミリー・チョウ

 偽札製造と麻薬取引を生業とする香港マフィアの幹部のひとりロンは弟のチャンが警官になることを決めたことで、足を洗おうと決意する。そしてロンは親友で弟分のユンファを置いて、最後の仕事を済ませるために台湾へと旅立った…
 いまやハリウッドでも大物となったジョン・ウーの初期の傑作。「香港ノワール」と呼ばれるジャンルの先駆け伴った作品で、香港=カンフーという概念をつき崩した記念碑的作品。

 今から見ればやはり15年前の作品で、なつかしさすら漂います。もちろん、スローモーションの使い方など当時は相当斬新であっただろうことは、今ある幾多のアクションに引けを取らない迫力からも容易に想像できます。しかし、そこは日進月歩のアクション業界。なかなか今も手に汗握って見られるかと、それはなかなか難しいのではなかろうかと思いました。
 しかし、チョウ・ユンファの咥えマッチとレスリー・チャンの甘いマスクは今だからこそいっそう味わい深いのかもしれない。そして人間ドラマとしても濃い。そのあたりにジョン・ウーがブレイクしていった背景が見えるとも思います。
 それにしてもやはり、アクション映画には鮮度が重要なのだと改めて思わされました。これだけの映画でも15年経つと、こんなものかと思ってしまう。それはこの映画の影響力の強さゆえだとはわかっていても、そう感じてしまうもの。それが鮮度ということでしょう。

ANA+OTTO 【アナとオットー】

Los Amantes del Circulo Polar
1998年,スペイン,112分
監督:フリオ・メデム
脚本:フリオ・メデム、エンリケ・ロペス・ラビニュ
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ナイワ・ニムリ、フェレ・マルティネス、サラ・バリアンテ

 8歳の少年オットーは飛んでいってしまったサッカーボールを追っていって、一人の少女アナに出会う。ある日オットーが授業を抜け出してトイレから飛ばした紙飛行機がきっかけで、オットーの離婚した父とアナの母が仲良くなり、毎日2人はオットーの父の車で帰宅することになった…
 「偶然」と「運命」が動かすアナとオットーの2人のおとぎ話。女性には非常に受けると思います。

 物語を語る際に視点をどこに置くかというのは大きな問題で、多くの映画は観客に<神>の視点を与えます。あちらこちらに遍在し、時には人の心理までも見えてしまう。そのような存在。しかしたまに1人の視点で語られることもあります。これは主にサスペンスなどの謎解きものに多い。「メメント」なんかがいい例だと思います。この映画はその1人の視点を2つ組み合わせたもの。オットーの視点から語られた後、同じ時間がアナの視点から語られるというパターン。
 展開を面白くするためには<神>の視点の方が有効だと思うんですが、2人の関係性に焦点を絞るなら、こういう方法もありかなという気がします。この方法をとると、映画全体が完全に2人の世界となってしまい、ほかの人との関係性が薄まってしまう。結構フォーカスされているオットーと母親の関係やアナの母親のオットーに対する心理などはあまり浮き出てこない。このあたりは<神>の視点に慣らされてしまっているわれわれには何か消化不良な感じもしてしまいます。
 今日は視点という問題に絞ってきたのでさらに行きます。
 それにしても映画はこれまであまりに<神>の視点に頼りすぎてきた。「メメント」がヒットしたのはそのすべてが見えてしまう映画とは違うものであるからだと思います。小説の世界では何世紀も前から「視点」という問題が語られ、様々な視点が試みられてきましたが、映画ではそのような試みはあまりやれられ来ていない気がします。その大きな要因は映画が短いということと観客が基本的の傍観者であるということが考えられます。小説というのは自分のスピードで1人でその世界に没頭することができるので、一人称で語られる主人公にどうかすることが非常に容易ですが、映画は映画が持つスピードにあわせて、しかもたくさんの人とスクリーンを眺める。これでは自然と傍観者等スタンスを取ってしまう。
「メメント」が成功したのはあらかじめ観客の注意を喚起し、映画に対するスタンスを変えてしまったからでしょう。何の予備知識もなくあの映画を見たら結構戸惑ったのではないかと思います。そんな「メメント」でもまったく物語が不十分と感じられるのはその短さ。主人公とって物語が終わっていないのに、映画が終わってしまうのは、主人公と同一化している観客にとっては尻切れトンボ以外の何ものでもないでしょう。
 違う映画の話になってしまったのでこの辺で話を戻して、この映画の場合は物語はきちんと完結しているのでいいのです。でも2人を主人公にすると1人の視点より入り込むのは難しくなる。結局傍観者という立場で見ざるを得なくなると思います。そうなるとこれはただ単に不自由な<神>の視点となってしまう恐れもあり、実際なってしまっているかもしれない。
 それでもラストあたりがうまく作られていて多少救われたと思います。

ジョー、満月の島へ行く

Joe Versus the Volcano
1990年,アメリカ,107分
監督:ジョン・パトリック・シャンレー
脚本:ジョン・パトリック・シャンレー
撮影:ステファン・ゴールドブラット
音楽:ジョルジュ・ドゥルール、ピーター・ゴードン
出演:トム・ハンクス、メグ・ライアン、ロイド・ブリッジス、ダン・ヘダヤ

 なんとなく体の調子が悪く、医者に言ったジョーは医者から不治の病であると告げられる。余命半年と診断された彼は、人生に開き直り、勤めていた会社を辞める。その夜、元同僚とうまくいきかけるが、彼の余命を聞いて彼女は去ってしまう…
 トム・ハンクスとメグ・ライアンの初の共演作、メグ・ライアンは1人で3役を演じる。スティーヴン・スピルバーグが製作総指揮に名を連ねるドリーム・ワークスの作品で、特撮も「スター・ウォーズ」などでおなじみILMが担当しているが、この映画のどこにそんな特撮が…

 おしなべて平均点のコメディという感じ。トム・ハンクスとメグ・ライアンといういまやゴールデンコンビの2人が出てくると、それだけで恋の予感を感じますが、その予想を裏切りつつ進んでいくというのもうまいです。しかし、展開がよめよめであることも確か。こういう先の展開がすぐに分かってしまう映画を「子供の絵本」ものと私は読んでいます。子供が何度も同じ絵本を読んでもらうのと同じように、私たちは同じ物語を描いた異なる映画を何度も見てしまう。結末も展開も8割方分かっているのに見てしまう。これは多分、裏切られる恐れがなくて安心できるからでしょう。予想を裏切られる展開の映画を見るにはエネルギーが要るのに対して、こういう容易に予想がつく映画はエネルギーが要らない。例え途中でうたた寝してしまっても、画面に戻れば話についていけてしまう。そういう安心感のある映画を見たいこともあります。
 だから、この映画はそういったのどかな気分のときに見なければなりません。「どんな映画だろう?」と胸を躍らせてみる映画ではない。なんだか映画というとどこかにどんでん返しがあって、ハラハラドキドキみたいなイメージが多く、前もってストーリーを言っちゃいけないという不文律が存在していますが、こういった映画に関してはストーリーを全部ばらしてしまっても本当は問題ないはず。でもばらしません。ばらすと笑えなくなってしまうネタが何個かあるから。
 休日の午後、うたた寝を挟みつつ、でも巻き戻しは、せずにごゆっくりご覧ください。

無法松の一生

1943年,日本,82分
監督:稲垣浩
原作:岩下俊作
脚本:伊丹万作
撮影:宮川一夫
音楽:西梧郎
出演:坂東妻三郎、月形龍之介、園井恵子、沢村アキヲ

 小倉の車引きの松五郎は喧嘩っ早く傍若無人なところから「無法松」とあだ名されていた。そんな無法松はある日、怪我をして泣いている少年を見つけ、家まで送り届ける。それからその家族と親しくなり、少し様子が変わってきた。
 阪妻に稲垣浩という黄金コンビに加えてカメラは宮川一夫、脚本は伊丹万作と役者がそろった感じ。戦争中でもこんな映画が撮られていたと思うとうれしいですね。

 とてもオーソドックスなドラマで、話としても戦時中らしく教訓めいたものではありますが、映画としての完成度はかなり高い。それはやはり宮川一夫のカメラというのもあるでしょう。おそろくまだ若かった宮川ですが、そのスタイルはすでに一流。おそらく稲垣浩がうまく引き出したというのもあるのでしょう。繰り返される人力車の車輪の映像、ラスト前の太鼓からの流れるような断片(モンタージュといってもいい)、このあたりを見ると、50年以上も前の映画とは思えない魅力を持っています。
 さて、ひとつ気付いたのは音のこと。おそらく当時はすべて同録だったらしいと推測され、遠くの人の声は小さく、近くの人の声は大きい。遠すぎる人の声は聞こえない。だから無法松に放っておかれた客は画面の奥でパントマイムをしています。声は全く聞こえない。これが自然だというわけではなく、おそらくマイクの感度の問題で、今なら特に問題になることでもないと思いますが、こういう録音にも注意して演出しなければならないものだということを改めて実感させられます。
 もうひとつ。映画を見ながら「ぼんぼん」と呼ばれる子役の子が長門裕之に似ているね。といっていたら、長門裕之でした。クレジットでは沢村アキヲとなっています。そういえば映画一家でした。お父さんは沢村国太郎、つまり沢村貞子のお兄さん。お母さんはマキノ智子、つまり牧野省三の娘、ということはマキノ雅弘と兄弟。なるほどね。でも50年前の顔を見て分かってしまうっていうのもかなり個性的ってことですね。
 どうでもいいことばかり書いてしまいましたが、正月なのでご勘弁。

おかえり

1996年,日本,99分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:古谷伸
出演:寺島進、上村美穂、小松正一、青木富夫、諏訪太郎

 塾講師をしている孝と家でテープ起こしの仕事をしている百合子。結婚して3年、何の問題もない夫婦生活のように見えた。しかし、あるときを境に、百合子が不意に夜出歩いたり、真っ暗い部屋で孝の帰りを待っていたりという不思議な行動をとるようになった。それを見て孝も不審に思い始めるが…
 これがデビュー作となる篠崎誠は北野武作品で味のある脇役ぶりを発揮していた寺島進を主演に起用。カメラマンには東映のチャンバラモノで鳴らしたベテラン古谷伸の参加を得て完成度の高い作品を作り上げた。

 見る人によって様々な部分が刺さってくると思う。非常に地味で淡々としていて、公開当時には監督も役者もほぼ無名で、全く商売っけのない映画。そしてもちろんヒットもせず、埋もれてしまいそうだった映画。しかしやはり面白い映画は埋もれない。見てみればそこには鋭い描写がたくさんあり、そのどこかが見ている人に刺さってくるに違いない。
 この映画で注目に値するのはなんといっても役者の演技。もちろんそれを引き出しうまく映画に載せたのは監督だけれど、素直にこの映画を見て感じるのは登場する役者達の素晴らしさ。私が一番すごいと思ったのは孝と百合子が台所で座り込んで話すというか抱き合うというか、そういうシーン。その長い長い1カットのシーンの2人の表情はものすごい。シーンの初めから終わりまでの間に刻々と変化していく2人の顔は何度も繰り返し々見たいくらいに力強く、おそらく見るたびごとに異なる感情が伝わってくると思う。
 このシーンもそうですが、この映画に多分に盛り込まれている即興的な要素。必ずしもアドリブというわけではないけれど、脚本や演出ではない役者に属する部分が色濃く出ている要素(誰かがどこかでカサヴェテスを取り上げて広義のインプロヴィゼーションと呼んでいた気がします)もひとつ興味を引く部分です。この即興的な要素は90年代以降の日本映画にかなり頻繁に見られるもので、代表的なところでは諏訪敦彦や是枝裕和や橋口亮輔の名前が上がるでしょう。つまりこれは今の日本映画の流行ともいえるモノですが、それはこの「おかえり」やその同時代の作品から顕著になってきたといえるかもしれません。
 まあ、そんなジャンル的な話はどうでもいいのですが、このお話で私は、日本映画を敬遠している人にこの映画を見なさいといいたい。陳腐な言い方で言ってしまえばここに現代の日本映画が凝縮されていると。
 言ったそばから自分の言ったことを否定したい気分ですが、まあ宣伝文句としては上々でしょう。でもビデオはレンタルされていないので機会を逃さず見てくださいとしかいえませんが。
 さて話がばらばらになってしまっていますが、この映画にはとてもいいシーンがたくさんあります。しかしよくわからないシーンもあります。ひとつは孝が同僚と飲んでいる時にインサートされる飲み屋のおやじ、もうひとつは3回出てくるマンションから見下ろした夜の道。なんなんだろうなぁ、と思いますが、こういう物語とつながりのない部分がずっと印象に残っていたりする場合もあります。だからこれも無駄ではない。あるいは無駄にも意味がある。そのようなことも思ったりしました。

A.I.

A.I. Artificial Intelligence
2001年,アメリカ,146分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:ブライアン・オールディス
原案:スタンリー・キューブリック
脚本:イアン・ワトソン、スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、フランシス・オコナー、ジュード・ロウ、ウィリアム・ハート

 地球温暖化でニューヨークが海の底に沈んだ未来世界、人口抑制のため妊娠は認可性になった。サイバートロニック社はそんな親たちのために代用ロボットを開発。ホビー博士はそこに「愛」をインプットする研究を進めた。息子を不治の病で低温睡眠に置いているサイバートロニック社の社員ヘンリーとモニカの下にその1号機「デヴィッド」がやってくる。
 スピルバーグが故キューブリックのアイデアを映像化。最も有名な子役オズメント君を使ってロボットと愛というテーマを描く。

 物語のテーマから考えていくとあまりに甘っちょろすぎるという感じ。結末はいえませんが、その終わり方はどうなんだ? スピルバーグ平和ボケか? と思ってしまう。同じ「ロボットと愛」ものなら「メトロポリス」(アニメのね)のほうが数倍面白いし、考えさせられるところも多い。ということで、あまり(というか全く)物語には共感できませんでした。
 映画としては全体としてテーマパークっぽいというか、とりあえずアトラクションを詰め込んだという感じなのはなかなかいいですね。「フレッシュ・フェア」とか「ルージュ・シティ」とかそういった部分部分は面白くないわけではない。そしてジュード・ロウ。この映画を見て誰もがいうのは「ジュード・ロウはよかった」。全くその通りで、ジュード・ロウはいい。オズメント君もやはり演技はうまくて、ロボット感が出てはいたんですが、そもそも役がロボットらしくないロボットなので、そのロボット感がまたどうなのかな。とも思ってしまいます。結局デヴィッドは人間になりきれていないできの悪いロボットでしかなく、それこそが悲劇の源なんだと思ってしまいます。話がそれてしまいましたが、ジュード・ロウはそのロボット感がなかなかいい。人間くささもあるけれど結局はロボットという感じをうまく出していましたね。
 さて、個人的には一番気に入ったのはドクター・ノウ。このしゃべりまわしどこかで聞いたことがある! と思ったら、声はロビン・ウィリアムスでした。
 あとは、ジャンク置き場からフレッシュフェアのあたりはよかったですね。人間として扱われない人間のようなもの。これは一種の「差別」の構造なわけですから、それが暴力に結びつくことを描くというのは考えさせられるものがあります。果たしてロボットが人間に近づいたときわれわれはどのように反応すればよいのか? 現実感がないままそんなロボット世界がやってきてしまうと、フレッシュフェアの人たちのように反応してしまうこともありえるような気がします。それでもデヴィッドの救われ方には疑問が残りますが…
 結論としては「メトロポリス」(アニメのね)を見よう! でした。