ミッドナイト・ラン2 好かれる逃亡者

Midnight Run Around
1994年,アメリカ,89分
監督:フランク・デ・パルマ
脚本:フランク・デ・パルマ、ジェロルド・E・ブラウン、テリー・ボースト
撮影:ロバート・ドレイパー
音楽:ベニー・ウォーレス
出演:クリストファー・マクドナルド、ダン・ヘダヤ、エド・オロス、カイル・セコー

 仕事がなく、金に困っていた賞金稼ぎのジャックは、仲間からデイルという男を捕まえる賭けを持ちかけれられる。バーのマスターの静止も気にとめず一も二もなく引き受けたジャックは逃亡者を捕まえにオクラホマへ。しかし……
 ロバート・デ・ニーロ主演の映画版と元は同じだが、話はまったく違うものになっている。いかにもアメリカのテレビドラマにありそうな、軽快で爽やかな娯楽作品。造りはちゃちいが、娯楽映画としては十分に楽しめる。アメリカではテレビで、いわゆるスペシャルドラマとして放映された作品らしい。 

父/パードレ・パドローネ

Padre Padrone 
1977年,イタリア,113分
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
原作:カヴィノ・レッダ
脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
撮影:マリオ・マシーニ
音楽:エジスト・マッキ
出演:オメロ・アントヌッティ、サヴェリオ・マルコーネ、ナンニ・モレッティ

 イタリア南部の島サルディニア、授業中突然父に教室から連れ出された少年カビーノは人里はなれた山小屋にこもって羊解になる修行をさせられる。人との接触もなく育った彼がいかに社会とそして父と関わっていくのか?
 グッドモーニング・バビロンと並んでタヴィアーニ兄弟の代表作とされる作品。サルディニアの荒涼とした風景のえもいわれぬ美しさと父と子という普遍的なテーマを描ききった物語が心を打つ。 

 この物語の最大の主題はもちろん父と息子の関係だけれど、この映画でもうひとつ重要な要素となっているのは「音」だろう。カビーノは音に対する感覚が鋭い。軍楽隊のアコーディオンに魅せられて以来音楽に対して執着をみせているし、映画の中でたびたび背景音として入り込んで来るざわめきはカビーノの捉えた世界の音であるのだろう。厳しい冬の終わりを告げる鳥の声、そして方言と言語学、ひたすら音にこだわってゆく主人公は何から逃れようとしていたのか?単純に父からだろうか?
 物語はそれほど単純ではなく、彼の島から逃げ出したいという気持ちは必ずしも父から逃げだしたいという気持ちとはイコールではなかったような気がする。荒涼な風景の中にも豊かな音の世界があり、厳しく権威的な父の中にもやさしい心がある。最後にカビートの頭をなでようとして止めた父の手に、この物語は収斂されていくのだろう。 
 そのように考えると、父親役のオメロ・アントヌッティの魅力があってはじめて成り立ちえた映画なのかもしれない。

マリリンに逢いたい

1988年,日本,112分
監督:すずきじゅんいち
脚本:野沢尚
撮影:鈴木達夫
音楽:梅垣達志
出演:安田成美、加藤昌也、三浦友和、笑福亭鶴瓶

 阿嘉出身の青年大介(加藤昌也)は東京での生活をあきらめ、島に帰って民宿をはじめることにした。しかし、帰る直前ごみ捨て場に捨てられていた犬を見つけ、連れて帰ることに。
 沖縄の慶良間諸島のふたつの島、座間味島と阿嘉島、二匹の犬マリリンとしろ。沖縄の景色と兄弟の葛藤。様々な要素が盛り込まれているが、とにかく犬の演技がうまかった。全体的には、これぞ80年代という雰囲気の作品。 

 ストーリーは言わずもがな。環境映画っぽい沖縄のきれいな景色が長々と挿入されるのがわずらわしい。かといってストーリー展開は考えなくても予想できるし、演技も決してうまいとはいえないし、沖縄が舞台なのに、出てくる人はみんな中途半端な九州弁みたいのを話しているし、文句とつければきりがない。しかし、80年代後半というと、月並みですがバブルの時代、こんな映画がもてはやされた頃でした。リゾート地でロマンス、しがらみ、スキューバ、などなど。
 三浦友和と犬に救われていた。特に犬は、シロをはじめ、マリリン、本島の野良犬と芸達者な犬ばかり。犬に尽きるねこの映画は。

バチ当たり修道院の最期

Entre Tinieblass
1983年,スペイン,100分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アンヘル・ルイス=フェルナンデス
音楽:カム・エスパーニャ
出演:クリスチーナ・サンチェス・パスカル、フリエタ・セラーノ、カルメン・サウラ、マリサ・パレデス

 麻薬で恋人を死なせてしまった歌手ヨランダは、以前もらった名詞を思い出して、それを頼りに「駆け込み寺」を訪ねてみる。しかし行ってみるとそこの修道院は財政難で閉鎖寸前、修道尼たちもわけのわからぬ人ばかり。
 5人のハチャメチャな尼僧たちの生活を淡々と映すアルモドバル監督のキッチュななコメディ。アルモドバル監督はこれが二作目だが、この作品を機に国際的評価を高めたといえる。確かにそれぞれの尼僧の個性がよくできていて、くだらなくもあり、しかし下品ではなく、不思議にバランスの取れた映画だった。 

 修道院にトラがいて、尼長はヤク中で、尼僧の一人は隠れて官能小説を書いていて、しかもベストセラー作家で、ホテルのような部屋があって、などなどと本当にハチャメチャな設定だが、これが必ずしも教会や修道院に対する皮肉ではなく(と信じたい)、純粋に笑いの要素として扱えているところがすごい。
 この映画から思い出されるのはやはり「天使にラブソングを」か。こちらも同じような設定のコメディだが、どちらかというと主役のウーピー・ゴールドバーグのキャラばかりが立っていて、周りの修道女たちがいまいちパンチに欠けるという感じがする。それと比べると、この映画は主人公のヨランダよりむしろ回りの修道女たちが笑いの中心で、それぞれが強烈なキャラクターを持っている。この辺がこの映画の不思議な魅力の秘密だろうか?

リオ40度

Rio 40 Graus
1955年,ブラジル,100分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
原作:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
脚本:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
撮影:エリオ・シルヴァ
出演:グラウセ・ローシャ、ロベルト・バタリン、アナ・ベアトリス、モデスト・デ・ソウザ

 ブラジルの巨匠、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの初期の作品。リオデジャネイロを舞台に、町に住む様々なカリオカ(リオっ子)の休日を描く。
 物語はスラムに住む少年たちと若者たち、休暇で町に出てきた兵士、を中心に展開する。コパカバーナのビーチやサッカー場を舞台に、巻き起こる短い物語を互いに絡ませあいながらモザイク状に見せてゆく。
 1960年代にブラジルを中心にラテン・アメリカ全体に起こった「シネマ・ノーヴォ」に先鞭をつけるといわれるこの作品はヌーベル・ヴァーグの担い手アンドレ・バザンとフランスワ・トリュフォーに絶賛されたことで世界的な注目を集めた。 

 この作品は、漫然と見ていると、人間の描写も平板だし、今から見れば映像もいたって普通の映画だが、この映画が画期的な点は様々なエピソードが微妙な接点を持ってモザイク上に絡みあるという点である。
 このつくり方はモンタージュ理論に新たな意味を加える意味がある。あるいは、従来のモンタージュから因果関係を奪ったという意味がある。従来のモンタージュ理論というのは、一見飛んでいる場面と場面をつないでそこに自然なつながりを作り出すことだったが、ここでのモンタージュは因果関係のない場面をただつなぐだけ、しかし観衆はそこに、かすかなつながりを見いだす。このような手法は今ではありふれたものだけれど、この当時では画期的なものだったろう。
 わかりやすい例をあげれば、コパカバーナでナッツをだめにし、物乞いをする少年が他の場面で主人公となっている兵士からお金をもらうシーン。この少年周辺の物語とと兵士の物語はまったく因果関係は書いているのだれど、ここで二つの物語が一瞬出会うのだ。
 したがって、この物語は最終的に収縮することがない。一応婚約がまとまり、一日が終わることで、区切りはつけられるものの、プロットは散逸したままである。死んでしまったジョルジはほおっておかれたままだし、ダニエルの今後だってわからない。
 このようにプロットが散逸していく映画(つまり、すべてのものごとが一件落着大団円で終わらない映画)というのは比較的新しいものなのだ。このドス・サントスはゴダールやトリュフォーと並んで、そのようないわゆる「新しい映画」を生み出した先駆的な監督なのである。

忘れられた人々

Los Olvidados
1950年,メキシコ,81分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:ルイス・ブニュエル、ルイス・アルコリサ
撮影:ガブリエル・フィゲロア
音楽:ロドルフォ・ハルフター
出演:ロベルト・コボ、エステラ・インダ、アルフォンソ・メヒア

 ルイス・ブニュエル初期の代表作。メキシコシティのスラムに生きる少年を中心とした人々の暮らしを描く。貧しいゆえの不幸、精神の歪みを感情を押し殺して描き出すさまは見事。
 夢の描写、動的なカメラワークとブニュエルらしい映像美も味わえる。娯楽色の強いものが多いメキシコ時代の作品の中では異彩を放つシリアスな作品に仕上がっている。
 カンヌ映画祭監督賞受賞。 

 映像とセリフ以外のものをまったく使わずに、これだけ人の心理を表現するブニュエルの力量はさすがとしか言いようがない。特に、校長に信用され意気揚揚と出かけたペドロがハイボにつかまり、いらだたしさをつのらせてゆく辺りは、こちらまでもがこぶしを握り締めてしまうような見事な描写力である。
 ここに出てくる人々はみなが皆悪人ではなく、しかし貧しさのゆえに心を歪ませ、そのせいで自らの状況から抜け出せないという悪循環に陥っている。この設定はまさにブニュエル的といえる。人々の善の部分を信じ、社会の悪を告発する。そのようなブニュエルの信念が、作品全体から滲み出す。そして、救われない結末……
 観る側の精神の奥底に入り込んでくるような力のある映画だった。

マルチニックの少年

Rue Casses Necres
1983年,フランス,106分
監督:ユーザン・パルシー
原作:ジョゼフ・ゾベル
脚本:ユーザン・パルシー
撮影:ドミニク・シュピュイ
音楽:マラボア
出演:ギャリー・カドナ、ダーリン・レジティム、ドゥタ・セック、ヘルベルト・ナップ

 カリブ海に浮かぶフランス領の島マルティニック、時は1930年、貧しい村に住む少年ジョゼの生活を描いた佳作。原作者ジョゼフ・ゾベルの自伝的作品をマルティニック出身の女流監督ユージン・パルシーが映画化。
 純粋に映画としても楽しめるが、マルティニックという土地の風土やカリブの黒人が抱えるネグリチュード(黒人性)の問題を考える際のわかりやすい教材にもなりうる作品。 

 この映画のポイントは、マルティニックという島の黒人の抱える問題である。フランスの植民地の島にアフリカから連れてこられた黒人たちがどのようなアイデンティティを持ちうるのかという問題。
 ひとつのありうる形はフォール市の劇場の切符売りの女性のように、黒人性を否定するもの。そのためには白人と結婚し、フランス語をしゃべり、フランス人になることが必要である。
 もうひとつはアフリカへと行く道。フランツ・ファノンのようなネグリチュードの思想家が盛んに唱えたアフリカへの回帰の道をたどるものである。これはメドゥーズによって暗示される道である。
 しかしこれらふたつがともに平坦な道ではないこともこの映画は語っている。第一の道は混血児であるレオポルドの挫折によって、第二の道はメドゥーズが決してアフリカへは帰れないことによって(彼はジョゼに「あっちには知り合いもいないし」と語る。これは彼らにとっての故郷アフリカはあくまでも観念的なものでしかないことを象徴している)、否定される。
 したがって、ジョゼは第三の道を歩み始める。それは白人になろうとするのでもなく、アフリカに帰ろうとするのでもなく、フランス語圏(フランコフォン)の黒人としての立場を確立すること。そのためにフランス語を習得し、フランス文化を学んで、本国に認められること。ジョゼはそのためにフォール・ド・フランスへと戻ってゆく。
 ルーツを失い、言葉を奪われた民族がたどるべき道は何のか?そんな深い問いかけを内包した作品である。

ラン・ローラ・ラン

Lora Rennt 
1998年,ドイツ,81分
監督:トム・ティクヴァ
脚本:トム・ティクヴァ
撮影:フランク・グリエベ
音楽:トム・ティクヴァ
出演:フランカ・ポテンテ、モーリッツ・ブライトプトロイ、ハノイ・フェルヒ、ヘルベルト・ナップ、ニナ・ペトリ

 ローラの恋人マニはマフィアの運び屋。しかし、ある日とちって、ボスに渡すはずの10万マルクを紛失してしまう。残された時間は20分、20分のあいだに10万マルク用意しなければ、マニは殺されてしまう。最愛のマニを救うため、ローラは家を飛び出し、走る走る。
 まったく無名のドイツの新鋭監督トム・ティクヴァが斬新な映像と音楽でつづる、まったく新しいドイツ映画。98年あたりから、ニュー・ジャーマン・シネマとしてもてはやされている映画群の走りとして画期的な一本。
 多少荒削りなところはあるが、いわゆるアヴァンギャルドな映像をうまく使って、シナリオも面白く、まとまった映画に作られている。 

 この映画は、アニメーションを入れたり、ストップモーションを多用したり、いわゆる今風の演出がなされているのだけれど、実験映画的なとげとげしさがないので、見る側としてもスッと映画に入り込める。新しいけど、難しくない。トレインスポッティングもそんな映画だったけれど、それよりさらに単純でわかりやすい。しかも、音楽の使い方が非常に効果的で、映像だけでは狙いが伝わりにくい部分をうまく補っている。
 3回というのもいい。4回だとちょっとしつこいし、2回だと物足りない。しかもこの映画の面白いところは、3回がすべて別々のパターンというわけではなく、2回目は1回目が起きた後で展開されているところ。(たとえば、2回目のローラは拳銃の使い方を覚えている。3回目の銀行の守衛がローラの顔を見て目を見開いて何かを思い出している。)
 「それから」といって展開されるすれ違う人々のその後の人生というのも、本筋とはまったく関係ないのだけれど、面白い。これがあるのとないのとでは、観客の興味のひきつけ具合が大きく異なってくるだろう。
 細かいところまで計算され、しかし全体的に警戒で、笑えるところもあり、まさに「新しいドイツ映画」というにふさわしい作品だったと思います。少し「人間の運命ってのは…」という説教臭さもありますが、それを補って余りある楽しい映画でした。

狂わせたいの

1998年,日本,60分
監督:石橋義正
脚本:石橋義正
撮影:岡本孝司
音楽:アーティスティック・コンセプツ
出演:石橋義正、岡本孝司、分島麻実、キララはずき、木村真束、砂山典子

 山本リンダの名曲「狂わせたいの」をタイトルにしたエロティックコメディ?
 気弱な男と謎の女たち。アナーキーな白黒世界の映像美となんともいえない笑いのセンスが絶妙のハーモニー。これはバカバカしいのか不可解なのか?全体に散りばめられた70年代歌謡曲とそれにあわせたダンスが最大のみどころか?
 百聞は一見にしかず。これを「傑作!」と思う人もいれば、「最低!」と思う人もいる。ここまで評価が分かれる映画もめずらしいのでは?

 監督の石橋義正はパフォーマンス・アートやビデオ・インスタレーションといった現代美術作家。昨年(1999年)、東京都現代美術館でやっていた「身体の夢」展にも出展していたはず。その他のスタッフ・キャストも美術関係の人々が多いらしい。ダンスを見せるのは京都のパフォーマンス集団「ダムタイプ」。
 確かに、音楽と踊りは素晴らしい。白黒の映像も深みが合って面白い。しかし、笑いという点になると、少し物足りない。個人的には作品全体のプロットにこだわるより(はじめと終わりがつながるというドグラマグラ的な使い古されたプロットを使ったりせずに)、もっと歌と踊りに特化して、踊って踊って踊りまくるくらいの映画にしてくれたほうが楽しめたかもしれない。最初の電車の部分は本当に面白かった。ダンスも最高、振り付けが最高。このレベルが最後まで保たれていれば、5点満点、「グル魂」並だったのだけど。
 芸術性と笑いというものを同時に成立させるということはやはし難しいことなのでしょう。それは映画に限らずあらゆる分野において。

セントラル・ステーション

Central do Brasil
1998年,ブラジル,111分
監督:ヴァルテル・サレス
脚本:ホアン・エマヌエル・カルネイロ、マルコス・ベルンステイン
撮影:ヴァルテル・カルヴァロ
音楽:アントニオ・ピント、ジャック・モレレンバウム
出演:フェルナンダ・モンテネグロ、マリリア・ペーラ、ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ、ソイア・ライラ

 ブラジル、リオデジャネイロのセントラル駅で代書屋をするドーラのもとに、ある日行方知れずの父親に手紙を書こうとする親子がやってくる。しかし、その直後、その母親が事故で死んでしまい、少年はドーラを頼ってくる。
 ブラジル版「グロリア」とでも言うような雰囲気をもつフェルナンダ・モンテネグロがとてもの味があっていい。
 ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞

 ブラジル映画というとなかなかなじみが薄いものですが、1960年代に作品を撮ったグラウベル・ローシャやネルソン・ペレイラ・ドス・サントスらの映画は<ラテンアメリカの新しい映画>の波の先駆的なもので、フランスの「ヌーヴェル・バーグ」と呼応する形で新しい映画の形を築こうとするものでした。現代では、ハリウッドに進出した映画監督エクトル・バベンコがかろうじて知られているというところでしょうか。
 レヴューではなく、ただのブラジル映画の紹介になってしまいましたが、この映画は、そのようなブラジル映画の歴史を背景に新たなブラジル映画の地平(国際的な意味での)を開くものとして評価できるのではないかということです。