水の女

2002年,日本,115分
監督:杉森秀則
脚本:杉森秀則
撮影:町田博
音楽:菅野よう子
出演:UA、浅野忠信、HIKARU、江夏豊、小川眞由美

 小さな町で父親と銭湯を営む涼は清水涼という名の通り、自他ともに認める「雨女」、大事な日にはいつも雨が降る。親知らずを抜くことになっていた日も雨、婚約者で警察官のヨシオはその雨の中で事故をおこして死んでしまう。その同じ日、父親の忠雄も心臓発作を起こし、おがくずの中に倒れ、そのまま死んでしまった。失意に沈んだ涼は一人旅に出て、そこで自由な女ユキノに出会って少し元気を取り戻した涼が家に帰ると、食卓で見知らぬ男が食事をしていた…
 ギリシャ自然哲学において宇宙の四元素とされる水・風・火・土が出会う場所としての銭湯を舞台に、CMやTVドラマで活躍する杉森秀則がオリジナル脚本撮った初監督作品。

 人間よりも自然を主役にしようという意識、それはカットが切り替わるとき、画面の中心に木や草や水や空が映っている場面がいかに多いか、ということからも伺える。人間は端のほうに映っていたり、あるいはフレームインしてきたりと、自然の事物よりも後から観客に捉えられるようになっている。
 このような自然の扱い方は少々露骨過ぎる気もする。だが、人間を物事の中心に据えず、人と物とを等価に扱おうとする姿勢は、いわゆる日本映画というイメージにぴたりとはまる。そしてこの静謐さや、超現実的な出来事を日常の中に紛れ込ませるやり方など、この映画のいろいろな要素は現代の日本映画とはかくあるべきだ、とでも言いたげな印象を与える。
 ここで言う「現代日本映画」とは、実験精神にあふれた世界映画ではなくて、あくまでも「日本映画」という範疇にとどまって、その中である種の新しさと伝統を調和させる方法、たとえば北野武もそのような日本映画の作家だと思うが、この監督も映画の色は違うが、そのような哲学を持って映画をつくっていると思う。

 現代の日本映画が持つ傾向は各国の映画の垣根を取り払って一種の「世界映画」になろうとする動きと「日本映画」というブランドを掲げて世界に出て行こうという動き、の2つがあると思う。この2つの動きはともにハリウッド映画と微妙な関係を持っていて、前者は自ら世界映画たらんとするハリウッド映画を取り入れ、消化し、それを乗り越えて、あるいはハリウッドをも巻き込んで「世界映画」たらんとする世界的なムーヴメントの一端を担うものとして存在している。
 これに対して後者は、ハリウッドに支配される世界の映画市場にあって、それとは別の価値を生産するひとつのジャンルとして存在する。この場合、「世界」を市場とすることはできないが、世界中にある日本映画、あるいはアジア映画の市場にはすんなりと入り込める。
 この二つのどちらかがよくて、どちらかが悪いということではなくて、今世界に向けて生産される日本映画には2種類あって、この映画は2つのうちの後者、つまりいわゆる「日本映画」として世界の市場に受け入れられるような映画であり、その中ではなかなか質のよいものである、ということ。しかもそれは、キタノのように外国向けに日本というものを見せるのではなく、日本人に日本を見せるものとして優れているのだ。
 これが意味するのは、日本人はこの映画を評価しなければならないということだ。世界的には評価されなかったとしても、日本でも「UA」という話題以外でしか取り上げられなかったとしても、そのような外から押し付けられた仮面の奥にあるこの映画の真価は評価されるべきものだと思う。

ロバート・イーズ

Southern Comfort
2000年,アメリカ,90分
監督:ケイト・デイヴィス
撮影:ケイト・デイヴィス
音楽:ジョエル・ハリソン
出演:ロバート・イーズ、ローラ・コーラ

 典型的な南部の郊外のトレーラー・ハウスで暮らすロバート・イーズ。どこから見ても普通のおじさんという彼だが、実は女性として生まれ二人の子供まで生んだ後、性転換手術を受け、男性となった。そして今は、子宮と卵巣が末期のがんに侵され、余命いくばくもない状態だった。しかし、彼は秋に開かれるトランスセクシャルの大会(サザン・コンフォート)にもう一度参加することを夢見て、パートナーのローラと懸命に生きるのだった。
 アメリカでも好機の目にさらされるTS(トランスセクシャル)やTG(トランスジェンダー)の問題と真っ向から向かい合ったドキュメンタリー。非常にわかりやすく問題の所在を描き出している。

 TSやTGという人は実際はきっとたくさんいて、ただそれが余りメディアに登場しない。日本では金八先生で「性同一性障害」が取り上げられて話題になったけれど、本当はこれを病気として扱うことにも問題がある。しかし、この映画でも言われているように、性転換手術には膨大な費用がかかるので、保険の問題から病気といわざるを得ないということは言える。性別の自己決定権というかなり難しい問題を理解するひとつの方法としてこの映画は多少の役には立つ。
 実際の問題はそのような理知的なレベルではなくて、いわゆる偏見のレベルにある。「気持ち悪い」とか「親にもらった体なのに」という周りの偏見や勝手な思い込み、これが彼らのみに重くのしかかる。マックスの妹のように身近にそのような人がいればその痛みがわかるのだろうけれど、いないとなかなかわからない。だからこの映画のように、メディアを通じてその痛みを感じさせてくれるようなものを見る。それでも本当の痛みはわからないけれど、何もわからず彼らを痛めつけてしまうよりはいいだろう。
 この映画は、ひとつの映画としては死期の迫った一人の男を追ったドキュメンタリーにすぎず、彼がたまたまトランスジェンダーであったというだけに見える。そのことが強調されてはいるが、それによって何か事件が起こったりするわけではない。穏やかに、普通の人と同じく、一つの生きがいを持って(TSの大会に参加すること)、生きる男の物語。
 だから、特にスペクタクルで面白いというものではないけれど、逆にこのように普通であることが重要なのだ。「普通の人と同じく」と書いたけれど、彼らだって普通の人と変わらないということをそれを意識することなく感じ取れること。つまり、「彼らも普通の人と変わらないんだ」と思うことではなく、「何だ、普通の話じゃん」と思えてこそ、彼らの気持ちに近づいているのだと思う。
 そう考えると、この映画は見ている人の意識を喚起させるのには役立つけれど、彼らは普通の人とは違うととらえているところがあるという点では被写体との間すこし距離があるのではないかと思う。

浅草キッドの 浅草キッド

2002年,日本,111分
監督:篠崎誠
原作:ビートたけし
脚本:ダンカン
撮影:武内克己
音楽:奥田民生
出演:水道橋博士、玉袋筋太郎、石倉三郎、深浦加奈子、井上晴美、内海桂子、寺島進

 芸人を志して浅草にやってきたタケシ。しかし、何をすればいいかもわからず、ふと見かけたフランス座の「コント」というのに興味を引かれる。そして受付のおばさんに進められるままにエレベーターボーイをすることにするが、ほうきとちりとりを渡されて怒って帰ってしまう。しかし、その夜、居候している友人が音楽の夢を捨ててサラリーマンになるということを聞いてそこを飛び出し、フランス座で働くことにした。
 ビートたけしが浅草時代について書いた自伝小説をダンカンが脚色し、篠崎誠が監督したスカイパーフェクトTV用オリジナルドラマ。今や大監督となった北野武の芸人としての原点を映画にするという面白さがそこにはある。芸人が数多く出演していることで、即興的な面白さも加味され、かなり楽しめる作品になっている。

 まだ生きている人の伝記を映画化するというのはそもそも難しい。しかも、その相手がいまや映画監督となっているとなるとなおさらだ。しかし、この映画はその原作に忠実であるよりはドラマとしての面白さを追求することで、その第一の難関を見事に越えた。おそらく脚本の段階で相当に原作が崩されていると思うが、時代設定などを厳密にして、伝記とするのではなく、「ビートたけし」という名を借りながら、ある程度の普遍性を持つキャラクターを再創造しているところがポイントになる。
 この映画に時代設定はなく、物語を考えると70年代くらい、小道具や風景などは現代、フランス座は十数年前まであったから、そのあたりでも問題はない。そもそも主演の浅草キッドも十数年前にフランス座で修行をしていたから、彼らにとっても自分の伝記を演じているような感じもあっただろう。そのように時代をあいまいにすることは、近過去を描く作品が流れがちなノスタルジーという罠から逃れる方法としても成功している(昔ながらの店先を短いカットでつないだシーンはちょっとノスタルジーのにおいがしたが)。
 ノスタルジーから逃れることが重要なのは、そのことによって映画が現代性を獲得できるからだ。ノスタルジーにはまってしまった映画はそのノスタルジーを共有できる人にとっては甘美なものだが、それを共有できない人も多い。それでいいというのならいいのだが、より一般的な価値というか面白さを志向する場合、ノスタルジーはその障害になってしまう。だからこの映画がノスタルジーから逃れようとしたのは正しいし、およそ成功していると思う。

 さて、原作や時代とのかかわりはそんな感じですが、映画として私が気に入ったのはひとつはコメディとしての面白さ。映画全体としてのコメディとしての面白さというよりは局面局面のネタの面白さ。「ちゃんとやってるんだー」ということがわかったつぶやきシローの転んだり、頭をぶつけたりという細かいネタ。石倉三郎と水道橋博士のやり取り、そのあたりが面白い。
 もうひとつはラストちょっと前あたりのすうシーン、タケシと井上の二人が居酒屋で話し始めるとき、最初いっぱいいっぱいの2ショットだったのが、井上の表情にひきつけられるようにズームアップしていくカット、ここもなかなか。一番いいのは、それにつながる、タケシが薄暗がりの浅草を仲見世まで歩いていくシーン。この2カットでできたシーンは表情がほとんど見えない薄暗いところから微妙に光の下限が変わりながら、3分くらい歩くシーンが続き、最後にぱっと仲見世の明かりが見える。このバックにはこの映画で唯一といっていいくらいのBGMが流れる。限られた場所で効果的にBGMを使うのは篠崎誠の特徴のひとつであるけれど、この映画でもここのBGMが非常に効果的。
 このシーンの余韻はその後の数カット続き、まったくせりふがないままドラマだけが進み、何も語らず、何も書き残さず井上は去っていくわけだが、その長い無言の後に吐かれる「出て行きたいやつは出て行けばいい」というセリフ、ここから次のカットへのつながりまでが本当にすばらしい。この10分から15分くらいの4シーン10カット程度のシークエンスを見るだけでもこの映画を見る価値はあると思う。

浮草

1959年,日本,119分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤高順
出演:中村鴈治郎、京マチ子、若尾文子、川口浩、杉村春子、野添ひとみ、笠智衆

 旅回りの劇団・嵐駒十郎一座が小さな港町にやってきた。座員たちはチンドン屋をやりながらビラを配ったり、マチの床屋のかわいい娘に眼をつけたりする。一方、座長の駒十郎はお得意先のだんなのところに行くといって、昔の女と息子を12年ぶりにたずねていく。しかし息子には「叔父だ」といってあり、本当のことを明かしてはいなかった。
 小津安二郎が山本富士子の貸し出しの交換条件として契約した大映での唯一の監督作品。中村鴈治朗や京マチ子、若尾文子ら小津と見えることのなかった役者との組み合わせが興味深い。小津としては初めてのカラー作品で、小津らしからぬドラマチックな展開も注目。小津自身が1934年に撮った『浮草物語』のリメイクでもある。

 小津安二郎の「変」さというのがこの映画には非常に色濃く出ている。小津のホームグラウンドである松竹大船撮影所で撮られた小津映画には完全に小津の「型」というものが存在し、そこから浮かび上がってくるのは「小津らしさ」というキーワードだけで、小津映画が「変」だという感慨は覚えない。しかし、よく考えると小津映画というのはすごく「変」で、ほかの映画と比べるとまったく違うものである。それを「小津らしさ」としてくくってしまっているわけだが、その「らしさ」とはいったい何なのか、それは映画としておかしいさまざまなことなんじゃないか、という思いがこの映画を見ていると浮かんでくる。
 それはこの映画が「大映」というフォーマットで撮られたからだ。(笠智衆や杉村春子は出ているが)いつもとは違う役者、いつもとは違うカメラマン(宮川一夫は厚田雄春に負けるとも劣らないカメラマンだが)、全体から感じられる異なった雰囲気、それはこの映画をほかの大映の映画と比較できるということを意味している。たとえば溝口や増村の映画と。そうしたとき、小津映画の「変」さがありありと見えてくる。最初のカットからして、灯台と一升瓶を並べるというとても変なショットだし、短いから舞台のカットを何枚か続けて状況説明をする小津のいつもの始まり方もなんだかおかしい。
 そして極めつけは人物を正面から捕らえるショットの多用。これが映画文法から外れていることはわかるのだが、普通に小津の映画を見ているとそれほどおかしさは感じない。しかしこの映画では明らかにおかしい。さしもの名優中村鴈治朗もこの正面からフィックスで捉えるショットには苦労したのかもしれない。さすがに見事な演技をして入るが、そこから自然さが奪われていることは否めない。そもそも小津の映画に自然さなどというものはないが、小津映画に常連の役者たちは小津的な世界の住人として小津的な自然さを演じることに長けている。
 杉村春子とほかの役者を比べるとそれがよくわかる。杉村春子のたたずまいの自然さは役者としてのうまさというよりは、小津映画での振舞い方がわかっているが故の所作なのだろう。

 しかし、この小津の「変」さを浮き彫りにする大映とのコラボレーションは、ひとつの新しい小津映画を生み出してもいる。大映の映画というのがそもそもほかの映画会社の映画とはちょっと違う「変」な映画であるだけに、そこから生み出されるものは強烈な個性になった。
 うそみたいに激しく降る雨の通りを挟んで、軒下で言い争いをする中村鴈治朗と京マチ子、その不自然さは笑いすら誘いそうだが、その笑いは強烈な印象と表裏一体で、そのイメージがラストにいたって効いてくる。「静」と「動」、常に「静」で終始しているように見えることが多い小津映画には、実は常にその対比が存在し、それが映画のリズムを作っているということ、そのことも改めて認識させられる。この映画がほかの小津映画に比べてドラマティックに見るのは、その「静」と「動」の触れ幅が大きいからなのかもしれない。
 小津が普段と違うことをやろうとしてそうなったのか、それとも普段の小津世界とは違う人たちが関係しあうことによって自然に生まれてきたものなのか、それはわからないが、こんな小津もありだと思うし、こんな大映もありだと思う。

6IXTYNIN9 シックスティナイン

69
1999年,タイ,115分
監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン
脚本:ペンエーグ・ラッタナルアーン
撮影:チャンキット・チャムニヴィカイポーン
出演:ラリータ・パンヨーパート、ブラック・ポムトーン、タサナーワライ・オンアーティットティシャイ

 不況で人員削減を余儀なくされた会社、くじ引きで解雇者を選んだ結果くじに当たって首になってしまったトゥムは沈んだ顔で家に帰る。その夜、さまざまな洗剤をがぶ飲みし、拳銃で頭を打ち抜くという夢を見、次の日には万引きまでしてしまう。そんなトゥムの家の前に100万バーツがおかれたダンボールが置かれていた…
 タイでヒットし“タイのタランティーノ”と称された若手監督ラッタナルアーンのスタイリッシュなアクション作品。いわゆるタイ映画から創造するものとはかけ離れた洗練された作風が新鮮。欧米でもヒットするのに十分なでき。

 冒頭のくじ引きのシーンの妙な緊張感。確かに本人たちにとっては一大事だろうけれど、はたから見ればただのくじ引き、それをスローモーションを織り交ぜ、音声にも細工をして、ジョン・ウーばりの(?)アクションシーンにしてしまうあたり、冒頭からセンスを感じさせる。この部分は一種のパロディという感じで笑いを誘う場面だけれど、スローモーションや静寂(音を極端に小さくする)は映画の中でたびたび使われる。このあたりは最近の日本のアクション映画(たとえば三池崇史)とも近しいものを感じさせる。
 展開としては古典的というか、ある種の悪運からどんどん引き返せないところに入り込んでいってしまうというものではあるけれど、わかりやすい伏線というか、あからさまに思わせぶりなシーンやカットやものが出てくるところがなかなかうまい。たとえば、ムエタイではないほうのボスの顔がランプシェードで隠されていたり、箱をあけるときに包丁を使ったり、特に必要なさそうな小便のカットを使ったり、「それがあとでなんかかかわってくるんだろうな」とわかるように使う。この方法は意外性は少ないけれど、複雑なストーリーを展開させるときには有効な手段となる。そのあたりが洗練されている部分だと思います。
 ほかにも細かくしゃれたシーンが結構あり、細部まで楽しめるし、気を使って作っているという気がします。ちょっと全体的にできすぎている気はしますが、完全に作り話だという意識で見れば、すべてのシーンや話がパズルのピースのようにぴたりとはまって気持ちいい。ある意味偶然を積極的に取り入れて、話を盛り上げて行こうという方法なわけですが、これはタランティーノなど映画をひとつのファンタジーというか夢物語ととらえる作家に近しいものを感じさせます。

 ろうそくに拳銃。ろうそくに拳銃が近寄り引き金を引くとライター。そんななんだか古臭いねたも、その拳銃が後で使われることで、ひとつの複線になる。見ている人にはその突きつけられている拳銃がライターであることがわかっているということ。しかし突きつけられているほうにはわからない。この仕掛けがこの映画に典型的な作り方である。
 あとは、主人公の心理の動きも物語の展開とあわせてうまくいじられている感じ。ラストの終わりかたも悪くない。ハリウッド映画の単純さとはちょっとちがう味のある終わり方。主人公を中心とした関係性の展開も紋切り型の仲間/敵、善/悪、などの二分法からちょっとずらした展開の仕方がなかなかうまい。
 ついでに、あまりわからないタイの事情のようなものをなんとなくわかってくる。ムエタイが盛んなのはわかっているけれど、それが暴力団と結びついているというのもいわれてみればそうだろうという感じ。そしてタイ人がビザを取りにくいというのも言われてみればわかる。日本なんかは到底無理なんだろうと思う。
 そのような事情がわかるように、つまり世界を意識して作られているのかどうかはわかりませんが、うまく作られていることは確か。もっとヒットしてもよかったんじゃないでしょうか。

ボディ・クッキング/母体蘇生

Ed and His Dead Mother
1993年,アメリカ,90分
監督:ジョナサン・ワックス
脚本:チャック・ヒューズ
撮影:フランシス・ケニー
音楽:メイソン・ダーリング
出演:スティーヴ・ブシェミ、ネッド・ビーティ、ジョン・グローヴァー、ミリアム・マーゴリーズ

 町の小さな工具店のオーナーのエドはおじのベニーと二人暮し。母親が死んで1年もたつのに、まだ母親をなくした悲しみに沈んでいる。望遠鏡で隣家をのぞくおじはエドに母親のことなんか忘れて女と付き合えという。しかし、エドは今朝も自分の店に生真面目に出勤していった。そんな彼のところに、「母親を蘇生させる」という怪しげなセールスマンが現れた。
 スティーヴ・ブシェミ主演のホラー・コメディ。タランティーノとコーエン兄弟に見出され、ようやく売れてきたころに出た数少ない主演作品。明らかにB級作品で、それほど笑えず、別に怖くもないけれど、なんだか不思議なおかしさが漂う。

 この作品に漂うのは一種のシュールリアリズムというか、マジックリアリズムというか、絶対に現実ではありえないのに、それが現実であることが別に不思議ではない空間を作り出してしまったことからくる不思議な空間。その空間で物語を展開していくこと自体が面白いという空間を作り出すというのがすべてかもしれない。
 普通の映画だったら疑問をさしはさんで、一応理論的に何らかの解決を図らなくてはいけないところ、あるいはその背景(たとえば歴史)を語らなければ正当化されないようなことをフツーに当たり前のことのように映画に織り込む。なんといっても「ハッピー・ピープル社」ですが、死人を蘇生させることを当たり前とすることがこの映画の大前提で、ブシェミがそれを受け入れることで、それにまつわるさまざまな疑問はすべて不問に付してしまう。母親がよみがえってからもおじさんがそれを受け入れてしまうことで、その疑問は霧散してしまう。
 そのあたりの展開の仕方のうまさがこの映画にはあって、それで最後まで見せてしまうんだけれど、それがどうしたといわれると困ってしまう。不思議なおかしさを湛えた小ネタは結構あって、「ハッピー・ピープル社」の名誉会員みたいなネタはとてもよい。お母さんのキャラクターもなかなかいい。この役者さんはもともとはイギリスの人で、『ベイブ』で犬の声をやっていたりするらしい。なかなか稀有なキャラクターだと思います。
 要するに「変な映画」で、変な映画としてはかなり高いレベルにあり、コメディとしても笑えないことはない。ホラーとしてはまったく使えないけれど、気持ち悪いことは気持ち悪い。スティーヴ・ブシェミは面白い、顔が。

エトワール

Tout pres des Etoiles
2000年,フランス,100分
監督:ニルス・タヴェルニエ
撮影:ニルス・タヴェルニエ、ドミニク=ル・リゴレー
出演:マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュ、オーレリ・デュポン

 パリ・オペラ座のバレエ団、「エトワール」と呼ばれるソリストたちを頂点にある種の階級が存在し、だれもがエトワールになることを夢見ている。しかし、学校時代から続くそのための競争、エトワールになる以前の「コリフェ」「カドリーユ」としても群舞、それらをこなす生活は厳しい。エトワールになったしても、そこには厳しい自己管理の生活が待っている。それでも彼らはバレエを生きがいとして踊り続ける…
 『田舎の日曜日』などで知られるベルトラン・タヴェルニエの息子ニルス・タヴェルニエがバレエ団に3ヶ月密着し、練習、公演の光景にインタビューを加えて作り上げた初監督ドキュメンタリー作品。

 バレエをする人たちの肉体は本当に美しい。それはワイズマンの『BALLET』のときも思ったことだけれど、その肉体と体の動きの美しさには本当に魅了されてしまう。この映画でもとくに練習風景の体の動きなどを見ると、とてもいい。舞台監督が演技をつけているときの、動きの違いによる見え方の違いなんかも見た目にぱっとわかるくらい違うのがすごい。
 だからといって、その美しさばかりを追っていていいのかどうかというのが映画の難しいところ。ただただ踊るところばかりを見せていては映画にならないので、インタビューなんかを入れる。インタビューを入れることはもちろんいいし、それによって彼らの抱える問題とか、バレエ団がどのようなものであるかとがいうことがわかってくる。しかし、問題なのは、映画にこめるべきメッセージをインタビューに頼りすぎると、映画としての躍動感が失われてしまうということ。バレエダンサーは肉体によって自己を表現するもので、言葉によって表現するものではない。そのことをないがしろにして言葉に頼ってしまうと、バレエの持つ本来の魅力が映画によって減ぜられてしまうことになりはしないだろうか。この映画のインタビューはそれ自体は面白いのだけれど、そういう説明的な面がちょっとある。
 たとえば、練習風景で代役の人たちがそっと練習しているところをフレームの中に捉えているところが結構ある。彼らが代役であることは説明されなくてもわかるのだが、この映画ではそのあと代役を割り当てられた人たちの話が入る。そのインタビューはノートを見せて説明したりして楽しいのだけれど、何かね。ドラマを作り方なのか。最後には代役から出演が決まったダンサーを映すあたりのドラマじみたところがどうもね。
 というところです。この映画でいちばん魅力的なのは「エトワール」になる以前のダンサーたちであって、彼ら、彼女たちのナマの姿さえ伝われば、そこにドラマはいらなかったという気もする。群舞の中の4人が手のつなぎ方を話しているところなんかはそれだけで、そこにいろいろなドラマがこめられていて楽しいのだから。後は、スチールがすごくいい写真でした。映画としてはちょっと卑怯な気もしますが、写真自体はすごくいい写真でなかなか感動的。

みだれ髪

1961年,日本,93分
監督:衣笠貞之助
原作:泉鏡花
脚本:衣笠貞之助
撮影:渡辺公夫
音楽:斎藤一郎
出演:山本富士子、勝新太郎、川崎敬三、阿井美千子

 板前の愛吉が警察官に連れられて、喧嘩の巻き添えで怪我をさせてしまった深川の材木問屋の娘夏子をおぶって病院にやってきた。夏子は治療に当たったその病院の若先生・光紀と恋に落ち、愛吉は夏子を神様に見立てて禁酒の願をかけ、足繁く病院に見舞いに通う。退院後も夏子と光紀は会うようになったが、光紀には親が決めたいいなずけがいた…
 泉鏡花の『三枚鏡』を衣笠貞之助が映画化。泉鏡花原作なので、さわやかな恋物語になるわけもなく、話はどろどろ。そのどろどろさかげんにはまっていく山本富士子と勝新太郎がとてもよい。

 いいですね、60年代、大映、このどろどろさ。衣笠貞之助はこれ!という代表作はありませんが、50年代を中心になかなか質の高い作品をとっている大映の職人監督の一人です。スターシステムというほどではないですが、この作品は山本富士子と勝新太郎を中心とした映画なので、この二人を引き立てるようにオーソドックスな映画を作り上げています。
 60年代初めといえば、「悪名」シリーズと「座頭市」シリーズが始まったころで、まさに勝新太郎がスターダムに上りつめるころ。さすがにこういう渋い作品でもいい味出してます。山本富士子のほうは、もうすでにスターの地位を確立していたころでしょうか。しかし、この2年後フリーになった山本富士子は大映の恨みを買い五社協定(大手五社が新しい映画会社への役者流出を防ぐための協定)を口実に映画界から追放されてしまう運命にあったのです。しかもこの二人は同い年。そんなことも考えながら映画を見ると、なかなか面白いものもあります。
 大映というのはどうもやくざ風情の映画会社で、永田雅一はそもそも任侠系の人だという話も聞いたことがあります。それは一面では義理がたくて、利益第一ではないという利点もありますが、他方で非合理というか山本富士子のような不条理な被害者も出てしまう。でも、やくざとか任侠系の映画に面白いものが多いのも確かで、この映画の勝新太郎もかたぎではあるけれど、義理人情のやくざ風情が映画の重要な鍵になっている。
 いろいろありますが、この映画は面白いです。山本富士子がぐっとくるものはいままで見た中ではなかったんですが、これは結構きました。20代おわりくらいからようやく役者としての味が出てきたといわれるので、このあたりが一番あぶらの乗っていたころなのかもしれません。山本富士子ファンは必見。
 あとは、泉鏡花はやはり大映の作風にあっているということでしょうか。始まりから終わりまで油断させないドロドロ感、これがなかなかいいですね。

 大映と山本富士子といえば、逸話をもうひとつ。あの小津安二郎が『彼岸花』をとるときに、どうしても山本富士子を使いたいとおもい、大映にオファーしたところ、大映の条件は「大映で一本映画を撮る」というものでした。それで撮ったのが小津唯一の大映作品『浮草』です。これは近々見る予定。『彼岸花』もみよっと。

ビートニク

The Source
1999年,アメリカ,88分
監督:チャック・ワークマン
脚本:チャック・ワークマン
撮影:アンドリュー・ディンテンファス、トム・ハーウィッツ
音楽:デヴィッド・アムラム、フィリップ・グラス
出演:ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジョニー・デップ、デニス・ホッパー

 1950年代に現れ、アメリカの新しい若者文化を生み出したビート族(ビートニク)。その元祖とも言えるジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズの3人を中心に、彼ら自身が登場する映像、インタニューなどのフィルムに加えて、彼らの知己たちへのインタビュー、ジョニー・デップらによるポエトリー・リーディングを使ってその全貌を明らかにしようとするドキュメンタリー。
 ビートニクのファンの人たちにとってはとても魅力的な作品。ビートニクを知らない人たちにとっては勉強になる。

 つくりとしてはものすごく普通のドキュメンタリーなわけです。残っている映像を収集して、それをまとめてひとつの作品にする。作品として足りない部分はインタビューやポエトリー・リーディングによって補う。「知ってるつもり」の豪華版のようなものですね。
 なので、ビートニクとはなんぞやということを知らない人にとっては一種の教養番組というか、新しい知識を映像という形で取り入れる機会になるわけです。しかも、本人が出てきたり、具体的な作品も使われているのでわかりやすい。ケルアックの『路上』ぐらいは読んでもいいかなという気になるわけです。
 一方、ビートニクが好きな人、日本でも結構はやっていますので、そういう人も多いと思うわけですが、そういう人たちにとっては本人が登場するということでなかなか見ごたえがある。コートニー・ラブが出ていた『バロウズの妻』とか、バロウズ原作の『裸のランチ』とかいった映画は結構あるんですが、本人が出ているものといえば、『バロウズ』という映画があったくらい。なので、これだけ本人の映像が満載というのは、特にケルアックのものは、ファンにはたまらないという気がします。
 という映画であるのですが、そのどちらでもない人、ビートニクは知っているけど、別にそれほど好きではない、という人にはなかなか入り込めないかもしれない。物語の展開が工夫されているわけでもないので、なかなか興味を継続しにくいというのもあります。詩のいっぺんとか、ひとつの発言なんかがうまく引っかかってくれればいいのですが、そうではないと、出てくる人たちも名前を出されても誰だかよくわからないし、言っていることもよくわからないということになってしまう。大体の人はここにはまりそうな気がします。