エンド・オブ・デイズ

End of Days
1999年,アメリカ,122分
監督:ピーター・ハイアムズ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ピーター・ハイアムズ
音楽:ジョン・デブニー
出演:アーノルド・シュワルツネッガー、ガブリエル・バーン、ロビン・タネイ、ウド・キア

 1979年、ニューヨークに悪魔の子を孕むべき娘が生まれた。悪魔の降臨は千年紀の終わり1999年の大晦日。その1999年、彼女に子供も産ませ、世界を我が物とするため、悪魔が地上に降りてきた。
 一方、元刑事で今は用心警護をしているジェリコは世捨て人のような生活を送っている。12月末のある日警護していた保険会社の役員が浮浪者のような男に狙撃される。
 悪魔と戦うシュワルツネッガーというかなり無理のある物語りながら、結構うまく作り、何とか見れる作品に仕上がっている。

 悪魔がどうしてもクリスティーんに子供を産ませなければならず、かつ宿るべき男も決まっていたという設定によって、ジェリコは悪魔と戦うことが可能になった。そして悪魔が死なないものの、とりあえず撃たれれば怪我をする(すぐ直る)という設定もその意味では重要。
 かなり多用されるCGも、まあ効果はあるかなという感じ、しかし、必ずしもなくても映画としてはあまり変わらないと思う。
 という程度の映画で、特に書くべきこともなさそうなので、ちょっと監督について調べてみました。かなりキャリアは長く、15本の作品を監督、特に代表作はないが、最近では、「レリック」とか「サドン・デス」とか「プレシディオの男たち」といったを撮っている。撮影を兼ねるというスタイルはハリウッドではかなり珍しいスタイルだが、別に、もともとカメラマンというわけではないようなので、なかなか不思議。以外に興味をそそる監督ではある。
 それにしても、個人的には、最後のオチが「惜しい!」という感じ。悪魔が本格的に出てくるところで「うぉっ!やった!」と思ったし、その後の破壊しまくるシーンも、「いいぞ!」と思ったんだけど、結局は、ジェリコの体に入って、しかも、失敗するというわかりやすく、かつハリウッド的な終わり方。
 うーん、俺が撮るなら… もうちょっと早めにジェリコに入り込んで、クリスティーナをだましとおして、ベットシーンで新年を迎えて、「え!どうなったの?」というままエンドロールに突入させたいかな。
 まあ、言うのは勝手ね。

バーディ

Birdy
1984年,アメリカ,120分
監督:アラン・パーカー
原作:ウィリアム・ワートン
脚本:サンディ・クルーフ、ジャック・ベアー
撮影:マイケル・セレシン
音楽:ピーター・ガブリエル
出演:マシュー・モディーン、ニコラス・ケイジ、ジョン・ハーキンス、サンディ・バロン

 バーディとアルは子供のころからの親友。空を飛ぶことを夢見、鳥にあこがれるバーディと女のこの尻を追っかけまわしレスリングをするアル。二人はベトナム戦争に参加し、ともに負傷して帰ってくるのだが、バーディは言葉をしゃべらず、感情もし表さなくなってしまった。
 精神病院に収監されたバーディのもとを訪れるアルが昔を回想する形で物語は進む。プロットもよく練られていて、映像も整っているかなり完成度の高い作品。

 何かが飛びぬけていいというわけではない。強いて言うならば、バーディとアルのキャラクター。二人の性格がきっちりとしていて、しかもまったく水と油というよりは二人とも強いところもあり弱いところもあるという設定。二人は互いを理解しているようでしていないのかもしれないという関係。他人を完全に理解することなど無理なのだからあたりまえなのだけれど、それが理解できてしまうような幻想を人間は抱く。
 バーディは言う「おまえならわかってくれると思ったのに」。それは幻想に過ぎない。しかし、この二人の関係はそこにとどまらない。そのときには理解できなかった感情も時が立てば理解できる。
 アルは言う「おまえには付き合いきれないよ」。それはそのとおり。他人のやることすべてに同調することなんてできっこない。しかし、いつの日か付き合ってやればよかったと思う。
 言ってしまえば、終盤のヒューマニックなところはどうでもよく、二人が社会に復帰できようと、一生精神病院に閉じ込められようと、どちらでもいい。重要なのは二人が同じ過去を持ち、それを同じく受け入れているということ。
 話は変わって、映像的な面では、鳥の話だけあってかなりアングルにこっていた。上からの視線としたからの視点を巧みに使い分ける。精神病院の場面では下からのアングルが多用される。ローアングルというのはかなり面白い画がえられるもので、ここではバーディが「鳥っぽく」見えるという効果を生んでいるのだろう。と言ってしまってはつまらないが、あれが人間の視線と同じアングルではちっとも面白くない画になってしまっていただろうということはいえる。

蝿男の恐怖

The Fly
1958年,アメリカ,94分
監督:カート・ニューマン
原作:ジョルジュ・ランジュラン
脚本:ジェーズム・クラヴェル
撮影:カート・ストラス
音楽:ポール・ソーテル
出演:アル・ヘディソン、パトリシア・オーウェンズ、ヴィンセント・プライス、ハーバート・マーシャル

 ある夜、フランシスのもとに弟アンドレの妻エレーヌから「アンドレを殺した」という電話がかかってくる。その直後、工場の夜警からも「プレス機のところで人が死んでいる」という電話が。警察とともに駆けつけてみると、それは紛れもなく弟の死体だった。エレーヌは「アンドレを殺した」というばかりで動機を話そうとしない。その裏にはアンドレの行っていた実験の秘密が隠されていた…
 ジョルジュ・ランジュランの原作を映画化したSFホラーの古典的名作。このあと続編が2本作られたほか、クローネンバーグによって「ザ・フライ」としてリメイクもされた作品。

 とりあえず、発想が素晴らしい。それは原作のおかげであり、だからこそリメイクまでされたのだろうけれど、なんと言っても、事件の顛末をまず先に語ってしまうという私が勝手に「コロンボスタイル」と呼んでいるやり方がホラー映画らしくなくていい。ホラー映画というのは普通、恐怖のもとがなんだかわからず、「なんだ?なんだ?」っていうので怖さをあおるものなのに、この映画はまったく違う。そしていわゆるホラー映画的な怖さはない。むしろ一つ一つの謎が解かれていくというミステリーのような感覚がある。
 ハエ男のメイクとか、機械装置なんかはもちろん今見ればお粗末な代物だけれど、こういったSF映画というのはその当時の最先端を用いたもの(多分)であるので、その時代の発想を知ることができて面白い。この時代のSFを見ていつも思うのは、前にも書いたかもしれないけれど、「デジタル」という発想の欠如。タイマーなんかも全部アナログで時計の針みたいのをジジジとまわしてセットする。これを私は勝手に「サンダーバード時代のSF」と呼んでいるのだけれど、意外と面白いSF作品が多いのです。
 あとは、アンドレの家にかかっていたモジリアーニの絵がなんとなく印象的でした。

RONIN

RONIN
1998年,アメリカ,122分
監督:ジョン・フランケンハイマー
脚本:J.D.ザイク、リチャード・ウェイズ
撮影:ロバート・フラッセ
音楽:エリア・クミラル
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジャン・レノ、ナターシャ・マケルホーン、ステラン・ステルスガルド、ショーン・ビーン、ジョナサン・プライス

 冷戦も終わり職を失った元スパイたちが謎の雇い主に集められ、ニースのホテルにいるターゲットからケースを強奪するという仕事に雇われた。武器調達の時点からトラブルが続き、メンバーも互いの事を知らず信用できない。果たしてケースの中身は何なのか? 強奪は成功するのか? デ・ニーロとジャン・レノという豪華な競演。フランスを舞台にした正統派アクション映画。カーチェイスシーン満載なので、カーチェイス好きはとくとごらんあれ。

 一言で言えば平均点のアクション映画。「7人の侍」の翻案だけあって、設定の発想は味があっていい。テンでばらばらな人たちが集まって何かするというのは非常に映画的で見ていて楽しい。特に前半はそれぞれの役回りがはっきりしていて、それぞれの個性が出ていてよかった。
 しかし、一人一人と裏切り、死んでゆくに連れ、ただのアクション映画になってしまう。敵味方がはっきりしないところはなかなかいいのだけれど、結局デ・ニーロとジャン・レノがかっこいい映画ということでまとまって終わり。あー、もうひとひねりほしかった。
 もうひとつの疑問はなんとも執拗なカーチェイスシーン。「TAXi」じゃないんだから、そんなに長々とカーチェイスをやられてもね。という感じがしてしまう。車マニアやカーチェイス好きにはたまらないんだろうけれど、ちょっと長すぎたかな。全体にもうちょっと削ってスリムにすれば、スカッと楽しく見れたのかもしれません。
 全体的にはまあまあの、平均的な、見てもいいかなというくらいのアクション映画。デ・ニーロファン、ジャン・レノファン、カーチェイスファンには薦められるでしょう。
 しかし、やっぱりジャン・レノは銃を持って何ぼだね。ちょっと太ったけど、銃とかナイフとか武器を持っているときがジャン・レノのかっこいいときである。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

The Blair Witch Project
1999年,アメリカ,81分
監督:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
脚本:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
撮影:ニール・フレデリックス
音楽:トニー・コーラ
出演:ヘザー・ドナヒュー、マイケル・C・ウィリアムズ、ジョシュア・レナード

 1994年、ドキュメンタリー撮影のため「ブレア・ウィッチ」の魔女伝説で知られるブラック・ヒルズの森に入った大学生3人が消息を断った。そしてその1年後、彼らが撮影したと見られる16ミリフィルムとビデオが森の中で発見された。
 300万円という低予算で作られながら、世界中で話題を呼んだホラー作品。その作品手法よりも、各種メディアを巻き込んで実話のように思わせる宣伝手法が新しかったといえる。

 純粋に映画としてみると、決して面白いとはいえない。ただ3人の大学生が出てきて、叫んで、手持ちのぶれた画面を見せるだけ。心理ホラーのはずなのに、プロットの細部が稚拙であまりに危機感が感じられないし、現実味がない。まず、地図を捨てるはずがないし、なんと言ってもあそこまで心理的に追い込まれていたなら、とりあえず重たいカメラを放り出して逃げるはずだと思ってしまう。つまり、最後まで撮影しつづけているという設定自体が不自然で、映画作りのそもそものアイデアからおかしいと思ってしまう。そして何かが迫っているという演出も稚拙、小道具も稚拙で、登場人物たちの恐怖を共有できるとは思えない。
 あえて誉めるとするならば、マイク役がなかなか良かったかな。彼は人物設定としても(地図を捨てるとこは置いておいても)うまくできていて、最初はひとりいらだち、残りに二人がパニックに陥るに連れて逆に冷静になっていくというのがなかなかうまいと感じました。役者としてもほかの二人よりはうまいのではないでしょうか。
 この作品のすごいところは作品とは無関係なメディアの部分。ホームページを大々的に立ち上げ、その事件に真実味を加えてゆく。ニュース映像を作ったり、伝説を細かく解説したりと至れり尽せり、作り物だと知らずに見れば本当にあったんだと信じるほうが自然なくらい。
 と、いうわけでマーケティング的にはかなり新しくもあり、革命的でもあったのだろうけれど、映画としてはひどいもの。

アナライズ・ミー

Analyze This
1999年,アメリカ,104分
監督:ハロルド・ライミス
脚本:ピーター・トラン、ハロルド・ライミス、ケネス・ロナーガン
撮影:スチュアート・ドライバーグ
音楽:ハワード・ショア
出演:ロバート・デ・ニーロ、ビリー・クリスタル、リサ・クドロー、チャド・パルミンテリ、ジョー・ヴィテレッリ

 ニューヨークのマフィアのボス、ポール・ヴィッティ。数十年ぶりに開かれる全米のマフィアのボスの大集会を前に、彼には悩みがあった。それは最近急に涙がとまらなくなったり、息苦しくなったりすることだ。一刻も早くそれを克服しなければならない彼はこっそりとたまたまであった精神科医ベン・ソボルに治療を頼む(命じる?)。
 ロバート・デ・ニーロとビリー・クリスタルという二人の実力はスターが組んだコメディ。監督は「ゴースト・バスターズ」でお馴染みのハロルド・ライミス。なかなかよく出来たコメディという感じですね。「なんかコメディみたい!」という時に気軽に見ましょう。

 ハロルド・ライミスが監督して、デ・ニーロとクリスタルが出て面白くないはずがなく、その通り面白いのだけれど、すごく面白いわけではない。まあ、コメディっていうものは、一つのすごく面白いものより、たくさんのまあまあ面白いものがあったほうがいいというのが私の考えなので、そのまあまあ面白いもののひとつとしては十分である。と思います。
 何も説明することはございません。マフィアと一般人の常識の違いを笑いにもって行くという比較的素直なネタで、素直なストーリー構成で、素直な撮り方で、いい役者。何も考えずに笑いましょう。難しいことは考えずにね。

セクシャル・イノセンス

The Loss of Sexual Innocence
1998年,アメリカ,106分
監督:マイク・フィギス
脚本:マイク・フィギス
撮影:ブノワ・ドゥローム
音楽:マイク・フィギス
出演:ジュリアン・サンズ、ジョナサン・リス=メイヤーズ、ケリー・マクドナルド、サフロン・バロウズ、ステファノ・ディオニジ、ジーナ・マッキー、ロッシ・デ・パルマ

 1954年、ケニア。少年はとうもろこし畑にあるボロ小屋でひとりの老人が混血の少女に本を読ませている隠微な場面を覗き見る。それは主人公ニックの5歳の頃。映画はニックの5歳、12歳、16歳、そして現在(恐らく30代)の場面がモザイク状に組みたてられ、そこにアダムとイヴらしき裸の男女(男は黒人、女は白人)の挿話がいれ込まれて展開する。 難解で、思索的とも言える映画構成。『リービング・ラスベガス』で名を馳せたマイク・フィギスが17年間の構想の末、完成させた自伝的作品。イノセンス=無垢という事をテーマにしたこの作品は、真面目に真摯に我々に語りかけてくる。

 映画としてはかなりいい出来だと思う。哲学的で幻想的で、難解で。シーンごとに照明や撮り方に変化があって、非常に面白い。夢のシーン照明がずっと片側だけからあたっていたりして。難解で何を言いたいのか的を得ないのだが、観客に口をポカンと開けさせるだけの力をもった映画だとは思う。
 しかし、真面目過ぎるし、古すぎる。構想17年というが、それは17年間構想を練ったということではなくて、17年前の構想だってことでしかないのではないかと疑問に思わざるを得ない。何と言ってもそれを感じさせるのが、「アダムとイヴ」。アダムが黒人でイヴが白人(北欧系)というキャスティングにこだわったということが美談のように言われているが、それはむしろ黒人差別という白人の原罪を克服しきれていないことの証であるように見えてしまう。「私は差別をしていない」というモーション。「だからアダムを黒人として描ける」という傲慢。それは映画中でニックが「ダニ族」だったか何かのカニバリズムの種族についてしたり顔で語った場面と重なり合う。「偏見なんてない」とことさらにいうことは、むしろ偏見を持っていることの証明であり、「偏見を持っているが、それを押さえ込むことが出来る」に過ぎない。
 なぜ黒人男性と黒人女性ではいけなかったのか? なぜエデンの園にいた馬は白馬だったのか? そんな事を考えていると黒人男性と白人女性というキャスティングが欺瞞でしかないように見えてくる。
 この映画は、難解なようで、むしろやさしすぎ、語りすぎているように思える。解くのが難しい問題(つまり、難しいが解ける問題)を扱っているかのように振舞っているが、むしろこの映画が扱っているのは差別や原罪という解くことの出来ない問題なのではないだろうか? そのような問題をあたかも解決できる問題であるかのように語ることは意味がないばかりか有害ですらある。
 というわけで、純粋に映画としては評価できますが、その底流に流れる思想性にどうも納得がいかなかったというわけです。まあ、理屈っぽいたわごとだと思っていただければいいですが。

インビジブル

Hollow Man
2000年,アメリカ,112分
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原案:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:エリザベス・シュー、ケヴィン・ベーコン、ジョシュ・ブローリン、キム・ディケンズ、ジョーイ・スロトニック、メアリー・グランバーグ

 「透明人間」のハイテク・ポール・ヴァーホーヴェン版。
 苦労の末ついに生物の透明化と復元をゴリラの段階まで成功させた天才科学者のセバスチャンは、自らを実験台に人体実験をやることを決意する。透明にして3日後に戻すという計画で、軍部の委員会には内緒で。そうして透明になったセバスチャンはいったいどうなるのか?
 SFXを駆使して「透明人間」に現実感を持たせたところはさすが、SFXを使った映像には迫力がある。しかし、いつものっヴァーホーヴェン節と比べるとプロットにはちゃめちゃさがなく、普通の映画になってしまっているのが残念。

 たしかに、映像はすごい。消えてくとこも戻ってくとこも、本当にすごいし、透明なケヴィン・ベーコンが透明なのに、やっぱりケヴィン・ベーコンなところもすごい。しかし、やはりプロットがね。透明になって、精神的にきつくて(つまりストレスね)、それがいつしか周りに対する憎悪に… なんて、普通のハリウッド映画じゃん。やっぱり、ヴァーホーヴェンは警官がロボットとか、宇宙人が昆虫とか、そう言った奇想天外な設定があってこそじゃないですかねえ。  と思いました。
 (ここからは、勝手な話になって行きますが)たとえば、精神的なストレスが原因とかじゃなくて、透明になったがゆえに殺人鬼になるとか(これは怖い。とりあえず意識を取り戻したとたん、近くにいた人を殺してしまう)。
 そのあたりが、不満ですね。しかし、これだけエロイ、グロイ映画を作ったということは素晴らしいと思います。とかくヒューマニズムに傾きがちで、SFX使ってヒューマンドラマを作ってしまうようなハリウッドで、彼の存在は貴重です。PG12くらいはつけてもらわないと、ヴァーホーヴェンも泣きます。
 と、いうことで、懲りずに次回作も見に行くことでしょう。

恐怖のメロディ

Play Misty for me
1971年,アメリカ,108分
監督:クリント・イーストウッド
原作:ジョー・ヘイムズ
脚本:ディーン・リーズナー、ジョー・ヘイムズ
撮影:ブルース・サーティース
音楽:ディー・バートン
出演:クリント・イーストウッド、ジェシカ・ウォルター、ドナ・ミルズ、ジョン・ラーチ、ジャック・ギン、アイリーン・ハーヴェイ

 カリフォルニアでDJをするデイビッド。今日も放送中「ミスティ」をリクエストする女性から電話がかかってきた。仕事帰りに馴染みのバーで引っ掛けた女性が実はその「ミスティ」の女エヴリンだった。遊びのつもりで一夜をともにしたデイビッドだったが、エヴリンはしつこく彼に付きまとい、その行動は徐々に常軌を逸してゆく。
 いわゆる「ストーカー」もののサスペンス。時代的に言ってはしりといえる作品なのか。脚本は今から見ればかなりオーソドックスだが、映画の作りは、かなり不思議な感じ。デビュー作だけに、まとまりがないという感もしないでもないが、奇妙な調和をなしていると見ることも出来る不思議な映画。

 シナリオをざっと追って、映画の造りを簡単に見ていくと、オーソドックスなハリウッド映画に見えるかもしれない。特に、ヒッチコックっぽい(つまり、古典的なハリウッドサスペンスっぽい)造りに見える。そして、そう見た場合に秀逸なのはジェシカ・ウォルターの演技。本当に狂気を湛えたように見える「目」が特にすばらしい。
 しかし、ハイウッドらしい不自然さ。造りものっぽさ。最初のシーンが空撮、特にすごいのは、森でのラブシーン。そんなバカな!と叫びたくなる瞬間。
 しかし、しかし、この映画なんだかおかしい。調和が取れていない。最初のうちは気づかないのだけれど、トビーと海辺を散歩するあたりから、色調のおかしさに気づいてくる。色が多すぎる。デイビッドの家もそう。妙に色が多い。そしてそれが不思議な調和を作り上げている。たとえば、さっきもあげた森でのラブシーンの後の、岩場でのキスシーン。二人のシルエットははじっこのほうに小さくあって、残りは全部夕日。そしてこの夕日と空と岩とが赤とか白とか青とか緑とか、とにかく色がごたごたとあって、しかしそれが美しい。
 さらに、色だけでなく、映像のつなぎまで不思議なことになって行く。とくに、最後のほうデビッドがトビーの家に車を走らせるとき、デビッドとエヴリンが交互に映されるのだけれど、そのカットが異常に短い。
 などなど「なんだかおかしい」というイメージが残る映画。おそらくこれはイーストウッドが意識的に従来の映画作法を壊そうとしているのだろう。この評価はもちろんこの作品以降のイーストウッドの作品を見ての評価なのだけれど、この映画を見て、それが確かにあると思えることもまた事実。
 しかし、この作品をポンとみて、「こいつは才能があるよ!」と言えるだけの審美眼は私にはないとも思いました。まだまだ修行がたりんのう。
 いやいや、すごいねイーストウッド。

ストレート・トーク/こちらハートのラジオ局

Straight Talk
1992年,アメリカ,91分
監督:バーネット・ケルマン
原案:クレイグ・ボロティン
脚本:パトリシア・レズニック、クレイグ・ボロティン
撮影:ピーター・ソーヴァ
音楽:ブラッド・フィーデル
出演:ドリー・パートン、ジェームズ・ウッズ、グリフィン・ダン、ジョン・セイルズ、マイケル・マドセン、テリー・ハッチャー

 田舎町でダンスの先生として働いていたシャーリーだったが、生徒と話してばかりいていっこうにダンスを教えないという理由で首になってしまう。さらに、家に帰れば一緒に暮らす男に文句を言われ、シャーリーはシカゴへと引っ越すことを決意した。
 シャーリーがひょんなことからラジオの人生相談コーナーを担当してしまうことから始まるドタバタ劇を描いたコメディ。  話の筋はだいたい読めるけれど、それはそれとして、全体としてはまあまあ楽しめるでしょう。なんとなく深夜にテレビをつけていたらやっていて、ついつい見てしまうというタイプの作品。(まさにそれで見てしまったんですが)

 わかりやすいアメリカン・コメディ。ちょっとヒューマニスティックな香りがする。偶然ラジオに出て、人気が出て、落とされて、やっぱり復権。それはもう読め読めの展開。でも、ドクターシャーリーの人生相談そのものはかなり面白くて、その部分をもっと膨らましてもよかったんじゃないかと思ってしまう。回りのドタバタした話はほっといて、人生相談から起きる事件がなんこかあったりしたら、もう少し膨らませようがあったかもしれない。
 とはいうものの、たいした映画ではないことは確か。役者はなんだかどっかで見たことある人多数出演という感じ。ドリー・パートンという人はどうもカントリー歌手らしい。カメラのピーター・ソーヴァは「グッドモーニング、ベトナム」などコメディを撮っているカメラマン。