暖流

1957年,日本,94分
監督:増村保造
原作:岸田国士
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:根上淳、左幸子、野添ひとみ、船越英二、丸山明弘

 志摩病院の屋上で一人の看護婦が自殺した。その同じ日、志摩病院の院長の娘啓子が怪我の治療で病院を訪れていた。その志摩病院は財政難で、癌で余命わずかの院長は亡き親友の息子日疋を病院の主事に迎え、病院の立て直しを図ることにした。そんな日疋は彼に思いを寄せる看護婦石渡に病院内をスパイさせる。
 たくさんの人が出てきて、いろいろな話が盛り込まれていて、しかし90分で終わるという初期の増村らしい一作。恋愛映画であり、サスペンス映画であり、笑いもあり、ミュージカル映画でもあるかもしれない… 3本目の監督作品。

 この主演の左幸子という女優さん、増村作品ではあまり馴染みがないですが、「女経 第一話 耳を噛みたがる女」「曽根崎心中」にも出演しているらしいです。当時は撮影所の時代で、役者さんもみな映画会社の社員だったので、大映の監督である増村の作品には基本的に大映の役者さん出演するもので、野添ひとみも若尾文子も船越英二も川口浩も大映の役者さんなのです。しかし、この左幸子は当時日活の役者さんだったようで、この作品には客員で出演しているのです。この何年かあとに大映に移籍したようです。だからあまり増村作品には出てこないということです。
 それにしても、この映画みんなやたらと歌を歌い、音楽もかなり多用されている。音楽は火曜サスペンスのようだけれど、全体としてどうもオペレッタ風なのか?と思ってしまう不思議なつくり。その不思議さは全体を通じていえることで、音楽に限らず、船越英二のキャラクターも不思議だし、時折不思議な撮り方をしている。
 面白いと思った撮り方は、最初の啓子が病院から帰るシーンで、階段を下りて出口のところでとどまるときに、妙に上のほうから撮っていて、不思議な映像。もうひとつは、どの場面かは忘れましたが、野添ひとみが部屋で上を見上げると、そこからカメラが撮っていて、かなりアップ、画面の中心、左右のスペースに船越英二とママがいるその大きさの対比がなんだか妙で面白い。そんなところでしょうか。
 増村映画としては並みの作品かな。

ユー・ガット・メール

You’ve got Mail
1998年,アメリカ,119分
監督:ノーラ・エフロン
原作:ミクロス・ラズロ
脚本:サムソン・ラファエルソン、ノーラ・エフロン、デリア・エフロン
撮影:ジョン・リンドレー
音楽:ジョージ・フェントン
出演:トム・ハンクス、メグ・ライアン、グレッグ・キニア、パーカー・ポージー

 ニューヨクで「ショップ・アラウンド・ザ・コーナー」という小さな児童書店を営むキャスリーンは恋人と半同棲状態ながら、インターネットで知り合った男性とのメールのやり取りをひそかに楽しんでいた。そのメール相手は実は大手の書店チェーンの経営者で、キャスリーンの店の目と鼻の先に開店を計画していた。果たして二人はどう出会い、二人の関係はどうなっていくのか…
 トム・ハンクスとメグ・ライアンと言えば、「ジョー、満月の島へ行く」、「めぐり逢えたら」でも組んだ名コンビ、そして監督は「めぐり逢えたら」の監督であるノーラ・エフロン。
 つまり、おんなじ映画ってことね。しかし、この映画は実はエルンスト・ルビッチの「桃色(ピンク)の店」と同じ戯曲を原作にしている。原作は文通がテーマ。

 予想通りです。すべてが。予想外だったのはトム・ハンクスが太っていたことくらい。「めぐり逢えたら」のほうが面白い。「桃色の店」のほうが面白い。いまさらこの映画を作る理由はEメール恋愛がはやっているから、AOLがお金を出してくれるから。です。
 実際に、AOLはこの映画のおかげで相当加入者数を伸ばしたらしいです。まさに現代のハリウッド映画を象徴するような作品。巨大スポンサーに有名スター、昔の名作のリメイク。
 決して映画が面白くないわけじゃなくて、それなりに面白いんですが、そんな「裏」が見えてしまうところが問題。それをうまく隠してしまえば「あー、面白かった」で終われるんだけど、どうしてもその辺に目が行ってしまう。やはりそれを隠すにはもう少し目新しい何かが欲しかったということでしょうか。
 決して面白くないわけじゃないんですよ… 決して…

人民の勇気

El Coraje del Pueblo
1971年,ボリビア,100分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネスとウカマウ
撮影:アントニオ・エギノ
音楽:アベラルド・クッシェニル
出演:シグロ・ベインテの住人たち

 行進するデモ隊、それを待ち受ける軍隊。映画は1942年ボリビアで400人以上の死者を出したカタビの虐殺の再現で始まる。そこからいくつもの虐殺の事実が列挙され、その責任者の名が声高に叫ばれる。映画の中心は1967年にシグロ・ベインテの錫高山で起こった虐殺事件を再現することに当てられる。実際にその虐殺を経験し、生き延びた人々が自らの経験を再現し、演じる。それは見ているものの心をも怒りで震わせる。
 この映画が作られた3年前の1968年、ボリビアでは革命政府が成立し、このような映画を発表することが可能になった。しかし革命政府は脆弱で、アメリカ帝国主義の軛から脱し切れてるとはいえない状態だった。そのような状態でウカマウは革命の継続を訴え、人民を更なる行進へといざなうためにこのような映画を作ったのだろう。

 この作品はウカマウの作品の中でもメッセージがはっきりし、描く題材も具体的でわかりやすい。この映画にこめられているのは、「軍事独裁の時代を忘れない」というメッセージあり、「反米帝国主義路線を歩きつづけよう!」という政治宣伝である。
 そして、その目的を非常によく果たしている。見たものはアメリカと軍事独裁政権の悪行に怒り、震え、拳を突き上げるだろう。そうさせる要因は何なのかといえば、それが事実であるのはもちろんだが、なんといっても音響の使い方にあるだろう。まさに虐殺が起こっているときに鳴り響きつづけるサイレンの音が見ているものの神経を逆撫で、苛立ちを募らせる。それは拷問を受けながらも、殺されることがわかっていながら抵抗出来ない労働者たちの苛立ちに似ている。そんな労働者たちの苛立ちを疑似体験した我々は立ち上がらなくてはならない気分にさせられる。
 とはいえ、私が立ち上がるわけではないですが…
 とにかく、映画にこれだけの力があるということを示すのがウカマウの映画であるということを再認識したのでした。

フレンチ・キス

French Kiss
1995年,アメリカ,111分
監督:ローレンス・カスダン
脚本:アダム・ブルックス
撮影:オーウェン・ロイズマン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:メグ・ライアン、ケヴィン・クライン、ティモシー・ハットン、ジャン・レノ

 ケイトはフィアンセのチャーリーにパリ出張に着いてきてくれと頼まれるが、飛行機恐怖症のため、仕方なく残ることにする。しかし、そんなある日、パリのチャーリーから運命の女性を見つけたという電話が。ケイトは飛行機への恐怖を押し殺してパリ行きの飛行機に乗り込むのだが…
 脚本家として有名なローレンス・カルダンが豪華キャストで作ったロマンティック・コメディ。なんてことない話だが、適度にしゃれてていい感じ。何はなくともメグ・ライアンの魅力全開! という映画だと思います。

 なんといってもメグ・ライアンはよかった。かわいかったし(この人はいつまで「かわいい」といわれるのだろうか…)、演技もよかった。やっぱりメグ・ライアンはラブコメだね! ということなのです。ジャン・レノも相当胡散臭くてよかったですがね。
 ということで、総括としては「たいした映画ではないけれど、見所は意外とたくさんあるよ」です。

妻は告白する

1961年,日本,91分
監督:増村保造
原作:円山雅也
脚本:井出雅人
撮影:小林節雄
音楽:真鍋理一郎
出演:若尾文子、川口浩、馬淵晴子、根上敦、高松英郎

 裁判所でマスコミに囲まれる女。彼女は夫殺しの容疑をかけられた妻。山登り中、事故で宙吊りになり、下になった夫のザイルを切ったという。そしてその山登りには愛人と目される男も同行していた。果たして事故か殺人か?
 増村的な「女」を演じることで、若尾文子にとって、転機となった作品。この前までは比較的爽やかなアイドル的な役が多かったが、この作品以後男を迷わす妖艶な「女」を演じるようになる。

 現在から振り返ってみると、いかにも増村保造×若尾文子のコンビらしい作品だが、それまでの若尾文子の主演作(「最高殊勲夫人」など)とは大きく違う役回りを演じ、この作品以降はそれが定着したという感じである。
 映画全体としてもいわゆる「増村的」といわれるものである。人物の撮り方、カメラの動かし方、小道具の使い方などなど… 例えば、会話している人物を正面から撮るときに、その相手の後姿(多くは後頭部のアップ)を手前に、しかも画面の真中に持ってきて、その奥に話し手を配置するやり方(ピントは話しているほうにあっている)。このとり方はいかにも増村的で、この画を見ると「ああ、増村」と思うような画なのだけれど、そんなシーンもちりばめられていた。しかも、このとり方は後期の増村がより多用する撮り方なので、やはり、このあたりから増村の作品は前期と後期に分けられるのかな、と無意味な分析をしてみたくなってしまうわけです。
 一人の監督の映画史を時期に分けて論ずることにどれくらいの意味があるのかはわからないけれど、映画を見る側としては、このころの増村はこうでこのころの増村こうという情報があれば、映画を選ぶときの参考にはなるという感じなので、そんな区分けをしてみたかったのです。個人的には前期の「早すぎた天才」という感のあるすさまじい作品のほうが好きですが、後期の作品のほうが、同時代的には評価されただろうし、今見ても見ごたえのある作品という感じでよい。さらに時代を下ると、増村は勝新の主演作品を多く撮るようになり、同時に若い女優を使った作品を撮る。という感じなのです。

プラットホーム

站台
Platform
2000年,香港=日本=フランス,194分
監督:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)
脚本:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)
撮影:ユー・リクウァイ(余力為)
音楽:半野善弘
出演:ワン・ホンウェイ(王宏偉)、チャオ・タオ(趙濤)、リャン・チントン(梁景東)、ヤン・ティェンイー(楊天乙)

 1979年、山東省の小さな町フェンヤン、そこの文化劇団に所属する人々を4人の若者を中心に描いてゆく。70年代、文化大革命の影響で盛んだった文化活動も80年代には陰りを見せ、文化劇団の立場も不安定になってゆく。そんな80年代の中国の移り変わりとそこで暮らす人々の変化をじっくりと描いた秀作。
 3時間以上の長尺だけに、映画全体のペースに余裕があり、物語もじっくりと進んでいく。しかし、決して単調になることなく、物語、音楽、撮り方などで変化をつけ、それほど苦痛ではなく見終わることが出来た。

 最初の数シーン、固定カメラの長回しが連続する。舞台のシーン、バスのシーン、家でのシーン、それぞれヒトの動きがあり、セリフも多く、これをしっかりこなすのは相当大変だったろうと苦労が忍ばれるが、その苦労の甲斐はあって、冒頭から(そういうマニアックな意味で)引き込まれていく。  そこからいろいろな登場人物が出てきて、人物関係が明らかになってゆく展開はオーソドックスだが、なかなかまとまっていて、今度は物語へと人を引き込んでいく。
 そこから先様々な工夫が凝らされていて、かなりすごい。まず、カメラについて言えば、いつのまにかカメラは平気でパン移動をするようになっていて、それが非常に自然。そして最後の最後には手持ちカメラでの移動撮影までが使われる。この辺の画面の変化もなかなか巧妙。それから、時間の経過の表し方。ミンリャンがロックバンドになっていて、チャンチェンの髪の毛がすっかり伸びているところはかなり笑ったが、もうひとつ重要なのは、どこから流れているかわからない、犯罪者のアナウンス。最初は江青で、この人は毛沢東の第3夫人で文化大革命期には4人組と呼ばれる指導者の一人として暗躍、しかし1977年に党を追放され、81年に死刑判決を受けたというひと。なので、このアナウンスがされる時期はおそらく70年代末。次にアナウンスが出てくるのはだいぶ後、名前は覚えていませんが天安門事件の指導者が二人。名前がわからなくても時期的なものと、フランス語が堪能などの特徴を加味すれば大体判るという感じになっている。天安門事件は89年なので、それで大体の時期がわかる。
 江青については詳しいことは今調べてわかったんですが、映画を見るにも一般常識って必要なのね、と実感してしまった次第です。

グロリア

Gloria
1999年,アメリカ,107分
監督:シドニー・ルメット
脚本:スティーヴ・アンティン
撮影:デヴィッド・ワトキン
音楽:ハワード・ショア
出演:シャロン・ストーン、ジェレミー・ノーサム、ジーン・ルーク・フィゲロア、キャシー・モリアーティ

 刑期を終え、出所したグロリアは昔の恋人でヒスパニック系マフィアのケヴィンのところに約束の金を受け取りに行く。一方、ケヴィンの部下は組織の金を横領した会計士の一家を惨殺、少年が一人生き延びるが、あえなくマフィアにつかまり、ケヴィンのところに。約束の金をもらえなかったグロリアはその少年を連れてケヴィンのところから逃げ出した…
 ジョン・カサベテスの代表作を巨匠シドニー・ルメットがリメイク。さすがにルメットでそれなりに見られる作品には仕上がっているが、カサベテスのグロリアが、ジーナ・ローランズが、頭に残っていると、どうにも物足りない。どっちも見ていないという人は、こっちを先に見て、それからカサベテスを見ればきっと二度楽しめます。

 どうなんだろう?  なるべくカサベテスのジーナ・ローランズのイメージをぬぐって考えてみると、まあまあなアクション映画という感じでしょうか。ちょっと内面描写が弱い気がするくらいで、サスペンスとしてはなかなかの出来。アクション映画と考えると今ひとつ。
 でも、やはりリメイクということを考えると、ジーナ・ローランズのあの強烈さがない分物足りないし、撮り方もあまりにあたりまえすぎる。この映画でよかったところといえば、車にしがみついてきた男を、グロリアが隣の車にぶつけるところくらい。あとはトントントンと普通の画面が続いていく。でも、自然ではあるのでストーリーを追う邪魔にはならない。
 カサベテス版を見ていないという人がいたら絶対見るべきです。おそらく予算は10分の1くらい、でも10倍面白い。
 それにしても、子供が妙に似てたような気がしたんですが、そんなことなかったですかねえ…

静かな生活

Still Life
1975年,イラン,89分
監督:ソフラブ・シャヒド=サレス
脚本:ソフラブ・シャヒド=サレス
撮影:フシャング・バハルル
出演:サーラ・ヤズダニ、ハビブ・サファリアン

 イランの片田舎の踏み切り。踏み切りの上げ下げをする一人の老人。老人は家で絨毯を織る妻と二人、ひっそりと暮らしていた。しかし、ある日3人の男が現れ、老人に年と勤続年数を聞いて帰っていった。そして、そのしばらく後、老人のところに退職勧告の手紙が舞い込む。
 モフセン・マフマルバフが「ワンス・アポン・ア・タイム・シネマ」(日本未公開)の中でこの映画のシーンを引用しオマージュをささげた、イラン映画史上に残る名作。本当に静かな老人たちの生活を淡々と描くが、しかし非常に味わい深い。

 列車、踏み切り、家、食事。毎日のすべての出来事が同じことの繰り返しである日常。パンを運んでくる列車。見ていると、老人の一日の生活パターンがあっという間にわかる。タバコの吸い方、紅茶の飲み方、ランプを持っていく時間… まず、それを説明せずにわからせてしまうところがすごい。一切説明はなく、セリフも必要最小限。しかし、見ている側は、老人が踏み切りの開け閉めをして、その合間に小屋で居眠りし、夕方にはパンを受け取って、それを家に戻って入れ物に入れ、紅茶を飲み、紙巻タバコをパイプで吸い、ランプに火をつけ、それをもってまた踏み切りのところに行き、帰って夕飯を食べる。そんな生活をまるまるわかってしまう。
 しかも、この監督がすごいと思うのは、このまったく同じことの繰り返しをまったく同じには撮らず、少しずつ違う形で撮っていく。踏み切りの開け閉めをしているところでも、微妙にカメラの位置が違っていて、老人の大きさや通り過ぎる列車の見え方が違う。パンを受け取るところでも、最初は老人が列車に隠れる形で撮って、受け取る瞬間は写さないが、次の時には逆からとってそのものを映してみたりする。そうやっていろいろな角度から同じ行動を見ていると、それがちょっと変わったときに思わず気づいてしまう。わかりやすいのは、退職通知を受け取って老人が家に戻ったとき、パンを持ったまま椅子に座る。見ている人は「いつもはあそこに…」とつい思ってしまう。
 それが本当にゆっくりとしたテンポで展開され、あまりに心地よく、ついつい寝入ってしまいそうな、「あー、でもここで眠ったらもったいないよ、こんないい映画なのにー」という葛藤がこの映画の質を表しているのではないでしょうか。
 最近思うのは、寝られる映画ってすごいということ。それだけ見ている側を心地よくさせるということですから。これもそんな映画です。しかし、寝てしまって見逃すのはもったいない。あーーーー

小津安二郎 初期短編1

1929年,日本,25分

突貫小僧
監督:小津安二郎
原案:野津忠治
脚本:池田忠夫
撮影:野村昊
出演:斎藤達雄、突貫小僧(青木富夫)、坂本武

大学は出たけれど
監督:小津安二郎
原作:清水宏
脚色:荒牧芳郎
撮影:茂原英
出演:高田稔、田中絹代、鈴木歌子

突貫小僧
 人攫いの出そうな天気のいい日の街角、一人の子供が遊んでいる。そこにあらわれたひげを生やした怪しい男、男は予想通り人攫いで…

大学は出たけれど
 大学をて就職面接に行く男、しかしそこで言われた仕事は受付だった。大学をてそんな仕事は出来ないといって会社を出てきてしまったが、郷里から出てきた母に就職が決まったと嘘をついてしまって…

 短編ということでサイレントでも気軽に見れるし、コメディタッチで面白い。小津のよさも堪能できる。サイレント&小津初心者にお勧め。

 「突貫小僧」は10年程前に発見されたフィルム、「大学は出たけれど」は本来長編であったものの残存する一部分を短編として復元したもの、というともに貴重なフィルムだが、その映像は素朴で、しかししっかりと小津らしいもの。
 「突貫小僧」の主人公突貫小僧こと青木富夫は1929年の「会社員生活」でデビューした子役。といっても、撮影所に遊びに来ていたのを小津監督が見つけ、面白い顔だから映画に出そうといったのがきっかけらしい。突貫小僧は「生まれてはみたけれど」をはじめとするサイレン時の小津作品に多数出演し、売れっ子の子役となった。なんと、昭和5年の出演作品は残っているものだけでも15本。
 やはり、映画が唯一の大衆の娯楽だった時代、こんな映画がたくさんあったんだろうなと思わせる。軽快さが非常にいい。こんな短編を何本見て、いっぱい引っ掛けて、家に帰る。なんとも優雅な生活ではないですか。

ウカマウ

Ukamau
1966年,ボリビア,75分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:オスカル・ソリア、ホルヘ・サンヒネス、ヘスス・ウルサガス
撮影:ウーゴ・ロンカル、ヘナロ・サンヒネス
音楽:アルベルト・ビヤルパンド
出演:ネストル・ペレド、ベネディクタ・メンドサ、太陽の島に生活する農民

 インカの民の発祥の地であるチチカカ湖の太陽の島。ここで暮らす農民のマイタは畑で出来た作物を売りに舟で町の市場に出かけた。マイタの妻サビナはマイタの留守中も畑に出て働いていた。サビナが畑から家に戻ると、そこにはマイタをたずねて来た仲買人のラモスがいた。ラモスはサビナを強姦し、ついには殺してしまう…
 ウカマウ集団が「ウカマウ」と名付けられる元になった長編第一作。ボリビアの映画史上でも初の長編映画で、ボリビア大衆に熱狂的に迎えられた。素人であるインディオたちが自分の言葉でしゃべるというスタンスはこのころから現在まで変わることはない。

 ウカマウにとってもボリビアにとっても初めての長編映画。ボリビアという国で初の長編映画というのはかなりすごいことである気もするが、それはやはり、映画という産業がアメリカを中心とする先進国に握られてきたものだということを意味するのだろう。そんな、先進国特にアメリカ(「第一の敵」)のものである映画という手段を自分の側に取り込むこと。このことには大きな意味があったのだろう。彼らが一貫して問いかけ続ける反帝国主義、反アメリカというものが姿勢としてあるのだろう。
 しかし、この映画自体は、白人領主(つまり植民者=コロナイザー)の暴虐を描いたもので、ボリビア国内の問題として描いている。そして、インディオが住む土地がインカ発祥の地であり、インカの聖地である太陽の島だということがわかりやすく、西洋文明と土着の文明の対立構造を浮き彫りにする。
 はっきりいってしまえば、単純な抵抗映画。題材自体は映画に限らず小説などでも繰り返し描かれてきたことであり、それほど真新しいものではない。映画としても画期的な手法が取り入れられているわけではない。むしろ、最近のウカマウの映画と比べると西洋の模倣や稚拙な面が目に付く。
 しかし、それでも、この映画は見る機会があったら必ず見なければならない映画でもあるのだ。ひとつの国で映画が生まれた瞬間。その瞬間を刻んだ映画なのです。