リトル・ダンサー

Billy Elliot
2000年,イギリス,111分
監督:スティーヴン・ダルドリー
脚本:リー・ホール
撮影:ブライアン・テュファーノ
音楽:スティーヴン・ウォーベック
出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェレミー・ドレイヴン

 1984年、イギリス。ストに荒れる炭鉱町に住む11歳のビリーは、父親にいわれ、ボクシング教室に通っていたが、ボクシングはてんでだめ。そんなある日、ボクシング教室の隣で練習をしていたバレー教室のレッスンにひょんなことから参加する。徐々にバレーに熱中し始めるビリーだったが…
 監督のスティーヴン・ダルドリーはこれがデビュー作。主演のジェイミー・ベルもオーディションで選び抜かれた新人と初めてずくめだが、かなりしっかりした作品に仕上がっている。

 この監督はかなり構図に対する意識が高そうな感じ。ピントを絞って、アウト・オブ・フォーカスにいろいろなものを配置する。人であったり、ヨットであったり、犬であったり、サンドバックであったり。これらのものがとても構図にとって効果的。一番印象に残っているのは、ビリーが悔しさを爆発させながら坂を駆け上がっていくシーンで、背後の海にヨットが浮かんでいるところ。このヨットがなかったら、構図は台無し。このヨットはわざわざ浮かべさせたのだろうか、と考えてしまう。もしそうだとしたら、小津なみの作りこみさ加減。偶然だとしたら、非常にいい嗅覚を持っているということでしょう。
 他のところでもものの配置が非常に巧妙で、ボクシングジムでバレーをするというアンバランスさがすべてを物語っているという感じ。ボクシング用具に囲まれてリングの上でバレーをするというのはかなり面白い。それにカメラの動かし方もなかなか面白くて、ちょっとミュージックビデオのような雰囲気の上下の動きが印象的。石(レンガ)に囲まれたトイレの場面などは秀逸です。
 などと映像ばかりに拘泥してしまうのですが、物語としては、かなりオーソドックスではあるものの、80年代という時代背景があってこそ可能なものという感じがしました。今でもイギリスの田舎町はあんなもの(偏見?)とは思いますが、現在だとしたらジェンダー的に問題がるかも… というくらい。
 とても「よい」映画でした。誰もが楽しめる、ロングランになる理由もわかる。

 ということですが、そうですねやはり、画面に対する意識の高さというのを非常に感じます。映画のつくりとしてはハリウッドというかアメリカっぽいのですが、テンポはヨーロッパ的にゆっくりで、一つ一つの画面をしっかりと見せる。町並みを写すときの構図やバレエ教室の壁の色、とたんの壁のさび加減。それらを背景として流してしまうのではなく、ひとつの画として見せる。そのあたりにこだわるのは、やはりこの映画がバレエという視覚的な芸術を扱っていることともかかわりがあるのでしょう。バレエをテーマにしていながら、画面がとっ散らかっていてアクションみたいなつくりだったらどうにも説得力がない。
 やはりこの映画はいい映画だと思います。学校の教材にしてもいいんじゃないかね。子供にはこういう映画を見せなきゃね。と思わせる文部省推薦的な映画。実際の文部省推薦映画はくそつまらないものが多いですが。
 画面に限らず、音に対しても非常に意識的。画面とサウンドトラックのリズムを合わせることに非常に意識的だと思います。映画全体がひとつのダンスになるように作っているんでしょうね。必ずしもすべてにおいて成功しているわけではありませんが、少なくともそのような姿勢は感じられます。

議事堂を梱包する

Dem Deutschen Volke
1996年,フランス,98分
監督:ヴォルフラム・ヒッセン、ヨルク・ダニエル・ヒッセン
撮影:ミッシェル・アモン、アルベール・メイスル、エリック・ターパン、ボルグ・ウィドマー
出演:クリスト・ヤヴェシェフ、ジャンヌ=クロード・デ・ギュボン

 ドイツの旧国会議事堂を巨大な布で梱包しようというプロジェクトを立てたアーティストのクリストとジャンヌ=クロード。まだベルリンの壁が存在し、街が二つに分断されていた頃に企画したこの企画が政治の駆け引きによる紆余曲折を経てついに実現するまでの日々を追ったドキュメンタリー。
 様々な巨大インスタレーションで世界的に有名なアーティストクリスト&ジャンヌ=クロードのライフワークであるだけに、そのすごさは映像からでも伝わってくる。

 「なんだかわからないけれど感動的なもの」、そういうものが世の中にはある。この梱包された議事堂もそのようなものの一つである。映画自体は実現するまでの苦労話というような構成になっているが、われわれは彼らが苦労したことに対して感動するわけではない。梱包された議事堂そのものに分けもなく感動をする。それまでのエピソードは感動を引き伸ばすための時間稼ぎでしかないといっても過言ではない。準備段階を見ることによって完済する作品に対して想像を、期待を膨らませる、そのための時間。そしてその想像を期待を上回る美しさの完成作品を目にした瞬間!
 これが素直な感想ということですが、「映画」のほうに目をやると、映画側がやろうとしたことはかなり社会的なこと。芸術と社会/政治の関係性というものでしょう。映画的なクライマックスは議会でこの問題が話し合われるシーン。「意味がない」、「無駄だ」という意見を声高に叫ぶ議員達こそがこの映画が提示しようとしたもの。社会/政治が芸術に対してとる(ふるい)態度。もちろんこの映画はそんな態度に対して批判的なわけですが、必ずしもそれを否定するのではなく、一つの意見として取り上げることに意味がある。肯定的な態度と否定的な態度の両方が存在しているということこそが重要なのです。
 したがって、アーティストの側としてはいかに社会にコミットしていくか、社会に受け入れられるかという問題が常に存在しているということが見えてきます。「バトル・ロワイヤル」ではないけれど、もっと社会に対して悪影響を与える可能性がある(と思う政治家がいる)芸術の場合にはもっと難しい問題になってくるということ。
 それは、梱包された議事堂に「それぞれのドイツを見る」というジャンヌ=クロードの最後のセリフが含意する複雑な意味にもつながってくるのでしょう。

ラヴァ-ズ

overs
1999年,フランス,101分
監督:ジャン=マルク・バール
脚本:パスカル・アーノルド、ジャン=マルク・バール
撮影:ジャン=マルク・バール
音楽:ヴァレリ・アルベール
出演:エロディー・ブーシェ、セルゲイ・トリヒュノヴィッチ、ジュヌヴィエーヴ・パージュ

 美術書専門の書店で働くジャンヌのところにある日、たどたどしいフランス語を話す青年ドラガンが訪ねてきた。不安げなドラガンをジャンヌはデートに誘い、彼がユーゴスラヴィア人であることを知る。そして2人はそのままジャンヌのアパートで一夜を過ごした…
 パリジェンヌとユーゴスラヴィアから来た貧乏画家が繰り広げるラヴ・ストーリー。「グラン・ブルー」でジャック・マイヨールを演じたジャン=マルク・バールの初監督作品。

 最近よく見るいわゆる「ドキュメンタリー・タッチ」の作品。しかも監督がカメラも持ち、ほとんどが手持ち撮影。こんな形式の作品は最近結構多い。「トラフィック」も形式としてはかなり近いものがあるし、マイケル・ウィンターボトムの「ひかりのまち」などもその部類。
 この映画はフランスで「ドグマ」というシリーズの第5作目ということらしいですが、そのシリーズがどのようなものなのかは分かりません。
 映画としては、ドラガンがなかなかいい味。冒頭からのなんともオドオドした感じがいいし、しかもあとから見ればなるほど納得というのもいい。しかし、全体を見ると前半で相当盛り上がっていくだけに、後半部分はなんとなく物語りの焦点がぼやけてしまった感があり、残念ではある。見方を変えると、当たり前ではない状況を当たり前に過ごす人々をごく自然に描いたという意味ではいいものであるとも言える。
 でも、個人的に普通の人の生活をドキュメンタリー風に作った映画というのはどうも最近食傷気味なので、いまひとつしっくり来ず。
 ただ、最後の最後にやってくる長回しはなかなかいいのではないかと思います。

パリの確率

Peut – etre
1999年,フランス,109分
監督:セドリック・クラピッシュ
脚本:サンチャゴ・アミゴレーナ、アレクシス・ガーモ、セドリック・クラピッシュ
撮影:フィリップ・ルソード
音楽:ロイッチ・デューリー
出演:ロマン・デュリス、ジャン=ポール・ベルモンド、ジュラルディン・ペラス

 1999年の大晦日、アーサーは友人のマチューとともにSF仮装パーティーに出かける。アーサーの恋人リューシーも友達2人とそのパーティーへ。リューシーはその夜子供を作ると決めていた。リューシーの計画どおりトイレとしけこんだ2人だったが、アーサーは子供を作ることに躊躇する。なんとなく気まずいムードの中、アーサーはトイレの天井に別の部屋への入り口があることを発見する。そして建物の外へと出てみると、そこは砂に覆われた見たこともない世界だった。
 『猫が行方不明』のセドリック・クラピッシュ監督が『ガッジョ・ディーロ』のロマン・デュリス主演で撮ったおかしなSF作品。全体に漂うばかばかしさがたまらなくいい。

 このばかばかしさはすごく好き。ちょっと考えると「そんなわけね-よ」ということをさらりとやってしまう。タイム・パラドックスとかいうことを深く考えたりもしない。面白ければいいんだという分かりやすい姿勢が素晴らしい。
 映像も、特に斬新ということもないんだけれど、さらりといい映像という感じ。やはり砂漠というのは絵になるもので、何もない砂漠の上に人がいるというだけで映像としては十分成立する。砂漠の場面で一番印象に残っているのはけんかをしたアコとアーサーが座り込む場面。画面の端と端に座り、右端のアーサーがアコの方へと歩いていくのをカメラが追う。ただそれだけ。だけどいい。
 それに本筋とは関係ない部分もなかなか面白い。女三人組で一番きれい(だと思う)ジュリエット(だったと思う)が最後一人寂しく帰る場面をしっかり撮ってみたりするのも、「わびさび」ではないけれど、気が利いているし、ユリース(ひ孫)が結局どうなったのかまったく触れないところもいい。(何がいいのかと聞かれると困りますが、こういう投げっぱなしのエピソードがあるという未完成っぽさが好き)
 などなど、取るに足らないことばかりですが、その積み重ねでいい映画になったという作品だということ。

 まあ、この映画は基本的にはSFなわけで、普通に考えればありえない話しなわけですが、それがありえそうに描けてしまうのがクラピッシュらしさにつながるのかもしれません。未来を描く場合、普通は(ハリウッドはと言い換えてもいい)いまよりもテクノロジー的に進んだ社会を描く。それがわれわれにいい社会なのか悪い社会なのかは別にして、とにかくテクノロジー的には「進歩」した社会を描く。それはまさしく近代的な発展的歴史観というか、社会というのは日々進歩していくのだという素朴な考えの表れであるような気がする。SFというのは映画に限らず小説でもいまより科学技術が進んでどんどんすごいことができるようになったらどうなるんだろうという、夢の世界を描くものだった。しかし、果たして科学技術がどんどん進んでいくことが本当にわれわれ(人類のとは言わない)のためになるのかどうかということも、原子力の例を上げるまでもなく疑問に付されてきているし、その中で技術の発展が不幸を呼ぶようなものも数々作られているわけだけれど、この映画のようにある意味で退歩した未来を描くというのはあまりない。
 そんな意味でもこの映画は面白い。基本的には退歩しているけれど、しかしその未来に対して最後にはアーサーが期待というか希望を持つというのも示唆的なのかもしれない。
 クラピッシュの作品をいろいろ見て、この人の現代に対する感覚というのがすごくよくわかる気がした。それは心地よいというわけではないのだけれど、私がいまという時代に対して感じる感覚と何か近しいものを感じる。
 クラピッシュは映画というものに対して何か行き詰まりのようなものを感じていて、しかしそれを斬新さで突き破ろうとするのではなく、もっと自分自身の身近なところに引き戻すことで新しい生々しさを生み出そうとしているような気がする。未来の描き方も『マトリックス』のような圧倒的な世界ではなくて、身の丈にあった自分に関わるミクロの未来だけを描く。
 それはとてもとても大切なことなんじゃないかと思う。

ツバル

Tuvalu
1999年,ドイツ,92分
監督:ファイト・ヘルマー
脚本:ファイト・ヘルマー、ミヒャエラ・べック
撮影:エミール・クリストフ
音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ、ユルゲン・クナイパー
出演:ドニ・ラヴァン、チュルバン・ハマートヴァ、テレンス・ギレスピー

 ある見捨てられた港町にある一戸建てプールに年老いた父と住むアントンはその建物からでたことがない。そんなある日、プールにやってきた娘エヴァにアントンは一目ぼれする。
 セリフはほとんどなく、そのセリフも一つの既存の言語ではないので、字幕は付されないという異色の作品。実験的な短編作品で有名なヘルマー監督がカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァンを主演に撮った作品。ヒロイン役のチュルバン・ハマートヴァは「ルナ・パパ」の少女(製作はこっちの作品のほうが先)。

 「セリフ」というものに非常に意識が行きがちで、監督としてもうやはりそれは相当に意識していることなのだろうけれど、この映画は言語を廃したというよりは言語をより単純なほかのものに置き換えたものというイメージ。したがってそれほど斬新さは感じない。様々な言語で共通しそうな言葉(たとえばノー)を使ったり、身振りで表現したりすることはサイレント映画のちょっとした応用という気もしてしまい、新鮮味にはかける。
 それよりもこの映画でいいと思ったのは色調。全体にモノクロの映像なのだけれど、それぞれのシーンでその色調が違う。最初の場面はブルーで、「最近はやりのブルーフィルターか」と思ったらそうでもなく、決してカラーにはならない。ブルーのモノクロ、グリーンのモノクロ、ブラウンのモノクロなどなど様々な色のモノクロが現れ、モノクロだけでもこれだけのバリエーションがあるということを気づかせてくれる。ここがこの映画で一番よかったところ。
 あとは、不思議さ満載の細部は個人的には好み。最初に出て来た明らかに作り物の鳥なんかはかなりツボ。そういったB級的な要素とアート的な要素がうまく融合している、といいたいところだけれど、実際はあと一歩というところ。両方の要素が入ってはいるけれど、融合というにはちょと足りない。老人達が屋根の上でかさをさしているシーンなんかはかなりその融合が達成されているのかな、という感じはします。

リトル・ヴォイス

Little Voice
1998年,イギリス,99分
監督:マーク・ハーマン
原作:ジム・カートライト
脚本:マーク・ハーマン、ジム・カートライト
撮影:アンディ・コリンズ
音楽:ジョン・アルトマン
出演:ジェーン・ホロックス、ユアン・マクレガー、ブレンダ・ブレシン、マイケル・ケイン

  伝書鳩を飼う無口な青年は仕事で行ったとある家で、これまた無口な少女LVに出会う。LVの母親は対照的に派手な性格で、ある日田舎のショーパブでマネージャーをしているレイを家に連れてくる。そしてひょんなことからLVの歌声を聞いたレイがその歌声に驚嘆し彼女を舞台に立たせようと奔走する。
 大ヒットミュージカルを『ブラス!』のマーク・ハーマンが映画化。舞台、役者などなどかなり『ブラス!』と似通っているので、『ブラス!』が気に入った人なら、きっと気に入るはず。

 LVを演じるジェーン・ホロックスはミュージカル版で主役を演じた女優さんで、この映画でもすべての歌を自分で歌っているらしい。そのあたりがかなりすごい。舞台での豹変ぶりなんかが笑い所なわけですから。
 しかし、ストーリーとしてはなんとなく物足りないかなという気もする。それぞれの登場人物はキャラクターがしっかりしていていいのだけれど、関係性のレベルでいまひとつ深さがないというか、LVを動かすための駒に過ぎないような気がしてしまって少々不満。
 結局、すごくイギリス映画らしい映画で、味のあるヒューマンコメディなのでしょう。

トニー・ヒル作品集

1984~93年,イギリス,44分
監督:トニー・ヒル
撮影:トニー・ヒル
出演:キース・アレン、ジェームズ・モーガン、ボニー・ヒル

 イギリスの映像作家トニー・ヒルの短編を集めたオムニバス。
 作品は「車輪の歴史」「ヴュアーを持つ」「時報映像」「ウォーター・ワーク」「拡張映画」「ダウンサイド・アップ」の6本。
 この作品群の特徴は人間と重力の関係の安定性を奪うカメラワーク。カメラを固定する点が重力とはまったく無関係に設定されるので、不思議な空間感覚を味わうことが出来る。

 最初の「車輪の歴史」で車輪に固定されたカメラが出てきてこれがかなり面白い。いってしまえば風景がぐるぐると回るだけだが、そのまったく変化させられて視線というのはなんとなく楽しく新鮮だ。それは他の作品でも継続していくが、より明らかになっていくのは「重力」に対する反抗心。「ウォーター・ワーク」の中で壁を蹴って歩く人なんかは完全に重力(ここでは浮力も)を敵にまわしてがんばっている。
 見て、感じて、それがすべてという感じ。大画面で見ればよりいっそうのトリップ感が得られたと思う。

キャラバン

Himalaya – l’enfance d’un chef
1999年,フランス=ネパール=スイス=イギリス,108分
監督:エリック・ヴァリ
脚本:ナタリー・アズーレ、オリヴィエ・デイザ、ルイ・ガルデル、ジャン=クロード・ギルボー
撮影:エリック・ギシャール、ジャン=ポール・ムリス
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ツェリン・ロンドゥップ、カルマ・ワンギャル、グルゴン・キヤップ

 ネパールのある村、黄金色に輝く麦畑、そこに村のキャラバンが帰ってきた。しかし、先頭のヤクの上には一つの死体が、それは今の頭領で主人公の少年ツェリンの父であった。次の頭領は最も有能な若者カルマにすんなり決まるかと思われたが、長老でツェリンの祖父であるティンレが一人反対する。彼はカルマを息子の仇と見ていたのだった。
 壮大な自然の風景をオールヒマラヤロケで映像化したアドヴェンチャー・ドラマ。本当に映像は美しく、圧倒的な自然の力が迫ってくるようだが、ドラマとしては普通の出来かもしれない。

 結局のところ、舞台がヒマラヤになったというだけで、権力争いのドラマをそのまま移植しただけという気がしてしまう。占いだとか、僧院だとかという要素が出てきて、それが実際のネパールでは非常に重要な要素であるということはわかるのだが、ここではある種オリエンタリズム的なエキゾチックな要素として取り上げられてしまっているような気がして気に入らない。そこにどうにも胡散臭さを感じてしまう。
 実際のネパールの状態はわからないが、あれだけ厳しい自然と対立している世界で一人の人間があれほど大きな権力を握るというのはありえないような気がする。もっと民主的な指導体制があると考えるほうが自然なような気がする。そのあたりがかなり疑問。
 しかし、映像はすごいですね。最初のヤクを下から撮った映像からかなりすごいし、続く麦の黄金色の輝きとか、美しいの一言に尽きるという感じ。空も、湖も青く、ヤクが湖に落ちていくところとかもすごくいいのです。なんとなく空気の透明感が伝わってくるような感覚。それだけ、といっては失礼ですが、最大の見所が映像であることは間違いない。

オール・アバウト・マイ・マザー

Todo sobre mi Madore
1998年,スペイン,101分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アフォンソ・ベアト
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス、アントニア・サン・ファン、マリア・パレデス、ペネロペ・クルス

 マドリードで最愛の息子エステバンと2人で暮らすマヌエルは息子の17歳の誕生日に、芝居を見に行く。エステバンは大好きな女優ウマ・ロッホのサインを貰おうと土砂降りの中楽屋口で待っていた。そんな息子に、秘密にしていた父親の秘密を話そうとしたとき、楽屋口からウマが出てきて、タクシーに乗る、そのタクシーを追ったエステバンの後ろから一台の車が…
 カルト映画の巨匠として活躍してきたアルモドバルがついに放ったメガヒット。決して商業主義に走ったわけではなく、一皮向けたアルモドバルの映画がそこにはある。基本的には感動物語という感じだが、それだけではとどまらない深みをもった映画。

 この映画の切り口はたくさんありそうだ、一番よく言われるのは「女性」ということ。もちろんアルモドバルは映画の最後ですべての女性たちに献辞を捧げたのだから、これが「女性」の映画であることは確かである。しかしそれは必ず「女性」(カッコつきの女性)でなくてはならない、あるいは「本物の女性」でなくてはならない。アグラーダが舞台の上で言った「本物の女性」。そんな「本物の女性」のための映画なのだ。私がその「本物の女性」のイメージにぴたりとくるのは、この映画の中のマリサ・パレデス、そして献辞が捧げられていたひとりであるジーナ・ローランズ。
 おっと、あまり書くつもりじゃなかった「女性」の話にいってしまいましたが、要は同性愛者だとか何だとかそんな意識は捨てちまえということです(飛躍しすぎ)。その同性愛という部分(それはあからさまにはでてこないのだけれど、この映画の登場人物たちはみんながみんな少なからぬ同性愛的セクシャリティを抱えている)が非常に自然に映画の中に取り込まれているのもすごいところです。アルモドバル自身、ホモセクシュアルだという話ですが、だから描けるということはいえないわけで、同性愛に関する何らかのメッセージをあからさまにこめようとすると監督たち(ホモでもヘテロでも)とは明らかに違う力があります。
 さて、この映画は物語だけでなく、映像的にもかなりいいですね。音楽もいいし。映像的に言うと、接写が多い。クロースアップというよりは接写。これはかなり大画面を想定した設定だと思いますが、不思議なものをクロースアップしてみたりする。よくわからないものとかね。あとは構図ですね。特に人の配置が面白い、立っている人と寝ている人とか、立っている人と座っている人といった対比的な配置の仕方をしたり、鏡を使ったりすることで、構図に立体感が出というか、縦横斜めにいろいろな流れが出来る。たとえば、ウマがマヌエルの部屋にやってきた場面で、マヌエルとロサがソファーにいて、ロサがねっころがっている。そうすると、ロサの上には必然的に空白の空間が出来てくるわけで、その人と空白のバランスがとてもいいのですよ。そう、そういうこと。

アルジェの戦い

La Bataille d’Alger
1966年,イタリア=アルジェリア,122分
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ

 少年の頃から犯罪を繰り返してきたアリは街角でもぐりの賭博をして、またつかまった。しかし彼は刑務所でひとりの囚人が処刑されるのを眼にする。釈放後独立運動に加わった彼はその無謀とも言える勇敢さでリーダーとなっていく。
 1950年代後半から1960年代にかけてアルジェリアでは独立運動が展開され、独立戦争と言える規模に発展した。その初期に解放戦線のリーダーのひとりであったアリ・ラ・ポワンテを中心に解放戦線の活動を描いた作品。

 これはもちろん一つの革命映画である。しかし、ある程度完了した革命を記憶するためものとして作られている。プロパガンダとしてではなく、記録として。この映画がそういったものとして評価されるときにおかれる力点は「客観性」ということだろうと思う。解放戦線の側に肩入れしていることは確かだが、必ずしも解放戦線を無条件に賛美しているわけではない。無差別テロの場面を描けば、一般のフランス人を殺す彼らに反感を覚えもする。
 しかし、この映画の革新的なところはアルジェリア人の側(被植民者の側)にその視点を持ってきたということである。それまでは確実に「西洋」のものでありつづけた映画を自分たちのものにしたこと(それがイタリア人の監督の手を借りたものであれ)には大いに意味があるだろう。
 ただ、今見るとその「客観性」がまどろっこしい。アルジェリア人の視点に立つならばアリを徹底的にヒーローとして描くほうが分かりやすかっただろうに。なぜか…、と考えると、観衆としての西洋の人たちが浮かんでくる。この映画はイタリア映画で観衆の中心はヨーロッパの人たちだろう。その人たちに映画を受け入れさせる(ひいては映画の背景にある革命の精神を受け入れさせる)ためには、フランス人を完全な「悪」の側にまわすわけには行かないというところだろうか。視点をはじめからアルジェリア人の側に固定するのではなく、視点のゆらぎを利用しながら徐々にアルジェリア側への同一化作用を狙う。それがこの映画の戦略なのではないかと思う。