愛の世紀

Eloge de L’Amourohn
2001年,フランス,98分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:クリストフ・ポロック、ジュリアン・ハーシュ
出演:ブルーノ・ピュッリュ、セシル・カンプ、クロード・ベニョール

 パリ、エドガーはある企画をもっている。出会い、セックス、別れ、再開という愛における4つの瞬間を若者、大人、老人という3組のカップルについて描くというもの。果たしてその出演者たちを探し始めたエドガーは役にぴったりの女性に以前であっていたことを思い出す。
 ゴダールはあくまでゴダールである。美しいけれど理解できない。すべてを理解することはできないけれど、何かが引っかかる。それがゴダールでいることはわかっている。

ゴダールはアインシュタインなのかもしれない。ゴダールを全く理解できるのはゴダール自身と世界中にあと幾人かしかいないのかもしれない。それでもゴダールがすごいと思えるのが天才たるゆえん。アインシュタインの相対性理論も理解できないけれどそれが何かすごいことを説明していることはわかる。ゴダールの映画も理解できないけれど、それが何か新しい表現であることはわかる。こじつけていろいろと理解してみることはできるけれど、その理解は全きゴダールとはおそらく異なっているだろう。しかし、相対性理論と同じく、ゴダールも一部分を利用しただけでも新しいものが生まれるのかもしれない。
 断片化されたこの映画を見ながら、そのそれぞれの断片が何かを含んでいることはわかる。前半のモノクロの鮮明なフィルムの映像と、後半のカラーの濁ったビデオの映像。その違いが表現しているのはフィルムの優越だろうか?あるいは質の違いが必ずしも価値の違いを生みはしないということだろうか?実際その結論はどちらでもいいのだろう。映像をとどめるためにはフィルムとビデオがあり、その質には違いがあるということ。そこまでをゴダールは明らかにし、それを併用することによって表現できることもあるということを示してはいるけれど、その先は…
 「愛について」という言葉と「さまざまな事柄」という言葉のどちらが先に出るのか、その順番を変えることにどんな意味があるのか? それもまたわからない。
 私はこの映画でゴダールがこだわっているのは「言葉」だと思った。冒頭の「映画、舞台、小説、オペラのどれを選ぶ?」という質問の答えは「小説」だった。それは小説という言葉による芸術。つまり「言葉」の象徴。ゴダールはこの映画で言葉を多用しながら、それと決してシンクロすることのない映像の断片を重ねていく。それは「言葉」への反抗、映像を使った新しい文法、新たな世紀の文法であるかのようだ。アインシュタインが相対性理論を発明したように、ゴダールは映画という新たな文法を発明したが、われわれは従来どおりの文法でそれを見るから理解できない。それは仕方のないことだ。「何度も繰り返し眺めていれば、ある日ふっとわかるかもしれない」という頼りない望みを抱きながら、私はゴダールを見続けるのだろう。

吸血鬼ノスフェラトゥ

Die Zwolfte Stunde
1922年,ドイツ,62分
監督:F・W・ムルナウ
原作:ブラム・ストーカー
脚本:ヘンリック・ガレーン
撮影:ギュンター・クランフ、フリッツ・アルノ・ヴァグナー
出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック、グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー

 ヨナソンはブレーメンで妻レーナと仲睦まじく暮らしていた。ある日、変人で知られるレンフィールド社長にトランシルバニアの伯爵がブレーメンに家を買いたいといっているから行くようにと言われる。野心に燃えるヨナソンは妻の反対を押し切ってトランシルバニアに行くが、たどり着いた城は見るからに怪しげなところだった…
 「ドラキュラ」をムルナウ流にアレンジしたホラー映画の古典中の古典。ドラキュラの姿形もさることながら、画面の作りもかなり怖い。

 ドラキュラ伯爵の姿形はとても怖い。この映画はとにかく怖さのみを追求した映画のように思われます。この映画以前にどれほどの恐怖映画が作られていたのかはわかりませんが、おそらく映画によって恐怖を作り出す試みがそれほど行われていなかったことは確かでしょう。そんななかで現れたこの「恐怖」、当時のドイツの人たちを震え上がらせたことは想像にかたくありません。当時の人たちは「映画ってやっぱりすげえな」と思ったことでしょう。
 しかし、私はこのキャプションの多さにどうも納得がいきませんでした。物語を絵によって説明するではなく、絵のついた物語でしかないほどに多いキャプション。映像を途切れさせ、そこに入り込もうとするのを邪魔するキャプション。私がムルナウに期待するのはキャプションに頼らない能弁に語る映像なのです。その意味でこの映画はちょっと納得がいきませんでした。なんだか映画が断片化されてしまっているような気がして。
 しかしそれでも、見終わった後ヨナソンの妻レーナの叫び声が頭に残っていて、それに気づいて愕然としました。ムルナウの映画はやはり音が聞こえる。

フローレス

Flawless
1999年,アメリカ,111分
監督:ジョエル・シューマカー
脚本:ジョエル・シューマカー
撮影:デクラン・クイン
音楽:ブルース・ロバーツ
出演:ロバート・デ・ニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ミラー、クリス・バウアー

 もと警官のウォルトの住む安ホテルで銃声が聞こえた。現場に駆けつけようと拳銃を手にして部屋を出たウォルトだったが途中の階段で倒れてしまう。意を取り戻した彼を待っていたのは、脳卒中で半身不随という診断だった。リハビリに歌うことを勧められた彼は上の階に住むドラァグ・クウィーンのラスティにレッスンを頼むことを思いつく。
 ちょっととらえどころのない風変わりなドラマ。コメディなのか、アクションなのか、ヒューマンドラマなのか…

 この映画はたぶんヒットしていない。それはこの映画があまりに普通すぎるから。ギャングとかいった設定も月並みだし、ドラァグ・クウィーンが出てくるというのも珍しくはないという映画的な普通さに加え、登場人物たちがあまりに人間的過ぎるという日常的な普通さ。
 普通、ハリウッド映画というのは人物をステレオタイプに押し込み、設定をわかりやすくした上でドラマを展開していく。この映画もぱっと見では、マッチョなもと警官が障害を負うことで、弱い人たち(主に女性的な人たち)のことが見えてくるという設定であるように見える。そのような反マッチョの象徴的な存在であるドラァグ・クウィーンと徐々に打ち解けていくこと、それに対して元同僚の警官たちとは徐々に反目していくということ。そのような展開になりそうだ。
 しかし実際は必ずしもそうではなく、元同僚たちとドラァグ・クウィーンが一緒にパーティをしていたりする。彼らは完全にステレオタイプな人間たちではないのだ。もちろん日常的にはステレオタイプではない人間のほうが普通であるのだけれど。
 しかも最終的に彼を救うのはドラァグ・クウィーンではなく「本物の」女性だ。そのあたりのわかりにくさというのがとても不思議だ。撃たれて負傷するのではなくて、現場に向かう途中に脳卒中で倒れるという設定も不思議だ。
 つまりハリウッド映画の文法に乗るのか乗らないのかはっきりしないところがどうもわかりにくい理由だろう。

おとうと

1960年,日本,98分
監督:市川崑
原作:幸田文
脚本:水木洋子
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:岸恵子、川口浩、田中絹代、森雅之、岸田今日子

 作家の父と後妻の継母と暮らすげんと碧郎の姉弟。後妻の母は手足が悪く、弟の世話や家のことはほとんどげんが女学校に通っていながらやっている。しかし碧郎はどうにもぐれてしまって、ついには悪い仲間に入って盗みを働き、警察に捕まってしまう…
 互いにすれ違う家族の姿を描いた地味な映画。しかし、画面の隅々にまで注意の行き届いた緊張感漂う映画でもある。

 単純に物語を追うと、非常に地味でしかもギクシャクしていて、落ち着かない。言いたいことがあるようなないような、まとまるようなまとまらないような。その印象は圧巻のラストシーンが終わっても消え去らない。むしろラストシーンによって混乱は増すばかりだ。しかしそのなんともいえない緊迫した空気感のようなものこの映画の味といっていいのだと思う。
 その空気感を作り出すのはもちろん映像で、それはもちろん宮川一夫のカメラだ。普段のローアングルとは違い、上からのカットを多用しているのが印象的だが、そうなっても構図の美しさはいつもと変わりがない。しかし、宮川一夫はいわずとしれた名カメラマン。これくらいの仕事は黙っていてもしてくれるはず。そんなに驚くべきことではない。それでもこの映画が宮川一夫の撮影作品でも秀逸なもののひとつだと思えるのは、その光の入れ方である。非常に細かく計算された陰影の作り方。
 それに最初に気づいたのは岸恵子と川口浩が夕日をバックに土手に座っているシーン。立ち上がる岸恵子はバックに夕日を従えて、陰になる。しかしそのくらい中で表情は美しい。構図も秀逸だが、岸恵子の顔に入る光の微妙な入り方がその画面の美しさを引き出していると思った。その光の魔術は病院のシーンでいっそう明らかになる。薄暗い裸電球の灯り、廊下の明かり、廊下に漏れ入る外の眩い光、これらの光が壁や人の顔に落とす光と影の陰影はえも言われず美しい。もちろん岸恵子も美しい。画面のメリハリをつけるには照明が非常に重要な役割を果たすのだということがわかります。
 照明は伊藤幸雄という人です。ちなみにですが。市川崑作品だと他に『黒い十人の女』などを手がけています。宮川一夫と組んでいるのも『赤線地帯』(溝口)『浮草』(小津)など多数あります。照明から映画を選ぶということはなかなかないと思いますが、タイトルクレジットで伊藤幸雄という名前を見かけたらちょっと注目してみるのもいいかもしれません。

パリのランデヴー

Les Rendez-vous de Paris
1994年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:パスカル・リビエ
出演:クララ・ベラール、アントワーヌ・バズラー、ベネディクト・ロワイアン

 エリック・ロメールがパリを舞台に3つの恋を描いたオムニバス作品。
 第1話は「7時のランデヴー」。恋人に浮気の疑いを抱いた大学生を描いた作品。第2話は「パリのベンチ」。恋人と一緒に暮らしながら違うタイプの男とデートを重ねる女性の姿を描く。第3話は「母と子 1970年」。ピカソの「母と子」が恋物語を展開させる。
 どの話もパリの風景がふんだんに出てきて、ちょっとした旅行気分が味わえる小品たち。

 どのエピソードも何か言っているようで何もいっていないような感じ。2番目のエピソードがちょっと毛色が違うような気がするけれど、どれも結局のところ漠然と「恋」というものを描く。一つの映画でひとつの恋を描くのではなく、3つの恋を完全に独立したエピソードで描くことで浮かび上がってくることもある。
 単純にひとつの恋を描く映画、これはつまり「恋」をモチーフとしたひとつの単純なドラマを描いているということ。それは単純なひとつのケースとして描きたいことが描けるし、そこから何か恋の全体像が浮かび上がってくる必要はない。
 複数の恋をひとつの物語で描く映画、これはおよそ人間関係が複雑であったりして物語として面白くなる。ここではとりあえず「恋」というものに絞って考えるなら、このような複数の恋をひとつの物語で描く映画では概してそれぞれの恋の差異が浮かび上がってくる。それは登場人物が複数の鯉の中からひとつを選んだり、選ばなかったりということがおきるからで、そこで生じる比較が「恋」についての差異を浮かび上がらせてゆく。
 複数の恋を複数の物語で描く映画。これはこの『パリのランデヴー』のような映画のことだけれど。この場合、それぞれの恋の関係性は特にないので、あまり比較にはならない。共通点や違いがあったとしても、それが差異として浮かび上がってくるというよりはそれも含めて「恋」の全体像が浮かび上がってくるという感じ。
 と、唐突に「恋」に関する映画を分析してしまいましたが、このようなことがいえるのは何も「恋」に限ったことではなく、映画にテーマを読み取るとするならば、そのテーマについて描く描き方一般に言えることだと想います。
 だからどうしたというわけでもないですが、パリといえば「恋の街」ということで、そんなことを考えてみた次第であります。

花様年華

花様年華
2000年,香港,98分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル、リー・ピンビン
音楽:ミカ・ギャロッソ、梅林茂
出演:トニー・レオン、マギー・チャン

 1962年、香港。新聞社に勤めるチャウは貸し部屋を訪ねるが、一歩の差で借りられてしまう。それでも隣に部屋を借りたチャウ夫妻は隣のチャン夫妻と同じ日に引っ越した。ともに仕事に忙しい二つの家の夫婦だったが、チャウはある日妻がチャンの夫と浮気していることに気づく。
 若者向けのスタイリッシュな映画を撮ってきたカーウァイが一転、落ち着いた大人のドラマを撮った。しかし基本的なスタンスは一緒かもしれない。

 ウォン・カーウァイは他の映画と違うというところに価値を置いているような気がする。クリストファー・ドイルのカメラに助けられて『恋する惑星』などなどのヒット作を撮っていたころ、その映像のスピード感は他の映画では見たことのないものだった。しかし、ヒットすれば似たような映画が続々登場するのは映画業界の必然。香港にとどまらず、日本でもアメリカでも似たような映画が続々登場した。
 カーウァイはこの映画でそれに抵抗し、限りなく「遅い」映画を撮る。異常なほどに含まされた「間」。シーンとシーンの間に挟まれる黒い画面、台詞のない長い長いシーン、さらには多用されるスローモーション。執拗なまでにスローダウンさせられた映画。それがこの映画だと思う。もちろん映画を遅くすれば、描ける物語は少なくなる。しかし一定の時間に限ってみればその描写は濃くなっていく。だからこの映画は全体にじっとりとしていて、いろいろなことがそこから染み出てくるのだけれど、あまりに「間」が長すぎてついつい寝入ってしまうというのもある。
 それでも、唐突に時間がジャンプするところがあったりして、その間や、言葉にならないしぐさや表情を見る側に読み取らせようとする意図が感じられもする。しかし、実際のところ、カーウァイが求めるのはただ映像と音に浸ることだろう。ついつい物語を追ってしまうと苛立ちを感じたりするけれど、ただただ映画に浸っていればなかなか気持ちいい映画だと思う。
 ただひとつ気に入らなかったのは、舞台を過去にしてしまったこと。過去を舞台にし、いわゆる中国的なものを香港に当てはめる。そのいわゆる中国的なものを道具化してしまったカーウァイは最後に「過去は想うのみ」ということでその矛盾を顕わにしてしまう。
 あるいは映画に描いた中国的なものなどはすでにアンコールワットと同じく遺跡でしかないといいたかったのだろうか。

私が愛したギャングスター

Ordinary Decent Criminal
2000年,イギリス,95分
監督:サディウス・オサリヴァン
脚本:ジェラード・ステムブリッジ
撮影:アンドリュー・ダン
音楽:ダイモン・アルバーン
出演:ケヴィン・スペイシー、リンダ・フィオレンティーノ、ピーター・ミュラン

 ダブリンで次々と強盗を成し遂げていくマイケル・リンチと仲間たち。2軒の家に帰れば妻と義妹とたくさんの子供たちが待っている。警察を挑発し、子供たちにも警察を信じるなというおとぎ話を聞かせる。そんな彼が妻と見に行ったカラヴァッジョ展で名画「キリストの逮捕」に心魅かれる。
 売れっ子ケヴィン・スペイシーがイギリスに呼ばれちょっと変わったギャング映画を撮る。ケヴィン・スペイシーはイギリス映画の雰囲気にもよくはまり、むしろアメリカでやっているよりいい感じ。

 まず、映画の表層をなぞっていくと、面白いのは音楽のミスマッチ感と、空想と思わせるシーン。人のクロースアップになった後、シーンが続くとそれがその人の空想であるように思えるのはわかりやすい映画の文法だが、この映画はその文法を使いながら、そのようなシーンが必ずしも空想ではなかったりする。あるいは空想があまりにぴたりとあたっているのか。そうでなければ未来の出来事が前倒しで映像化されているということなのか。その出来事のつながり方のギクシャクした感じもなかなかいい。
 それにしても、この映画はなかなかとらえどころがない。マイケル・リンチは冷酷なところも見せながら人をひきつけるキャラクターだ。そもそも人は何故か「よい泥棒」というものに惹かれるらしい。このマイケル・リンチは必ずしもよい泥棒ではないかもしれないが、味のある泥棒であることは確かだ。その味のある泥棒が名画を盗み、もとの持ち主である教会に帰す。別に教会は明確に「返してほしい」といっているわけではない。それがオリジナルであっても複製であっても同じという態度だ。その複製を気づかれないようにオリジナルにすりかえておくマイケル・リンチの意図は何なのか。単純に絵が教会にふさわしいと考えただけなのだろうか。
 展覧会で警備員に守られて飾られているときより、教会で神父たちが食卓を囲む上にかかっていたほうが光景として美しいことは確かだ。それをうまく映像によって伝えている。観客はマイケル・リンチの視点になってそれを満足げに眺める。それでいいということなのかもしれない。
 単純にサスペンスとは言い切れないかなり不思議な味わいの映画でした。

おいしい生活

Small Time Crooks
2000年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ
出演:ウディ・アレン、トレイシー・ウルマン、ヒュー・グラント、エレイン・メイ

 レイは銀行強盗に失敗して2年間服役していた、今はうだつのあがらない皿洗いの初老と男。そんなレイが奥さんのフレンチーにチョコレートを買って帰る。何か裏があるとフレンチーが勘ぐったとおり、レイはさえない二人の仲間と銀行の2軒隣の空き家を買い取ってトンネルを掘るという計画を立てていたのだった。しぶしぶ計画に乗ったフレンチーはカモフラージュのためクッキー屋さんをはじめたが…
 ウディ・アレンとドリーム・ワークスが組んだメジャー向けドタバタ・コメディ。癖がなくなった分、いいところもいやなところもなくなってしまった感じ。

 この映画でいいところは小ネタのみ。ウディ・アレンがベチャベチャとしゃべるところは、ウディ・アレンらしさもあり、癖もあり、悪くない。それほど笑えるところがあるわけではないけれど、「ああ、ウディ・アレンを見ているんだ」という気になる。しかし、全体的に見ると、ウディ・アレンは普通の人になりすぎたと思う。ちょっと変わり者で、頭の足りない、初老の男。そんな薄いキャラクターでは映画も締まらない。
 それより何より、この映画でしょうもないのは物語。毒もなく、味もなく、感動もなく、意味もない。結局のところ貧乏人が小金をもうけて金持ちの振りしたってそんな金は身につかない。貧乏人は貧乏人らしくしてりゃいいんだと言っていると解釈したくなるようなお粗末な物語。貧乏人が金持ちに近づこうとすることで、金持ちを批判しようとするのかと思いきやそうでもなく、金持ちは金持ちで、いやなやつだけど別に悪い人ではないといいたいようだ。ひとつ言っているといってもいいことは「金持ちは孤独だ」ということくらい。だからどうした、それがなんだ。
 金持ちが貧乏人を馬鹿にして、貧乏人は馬鹿にされたまま終わる。貧乏人は金持ちになりきれなくて、貧乏人であることに満足して終わる。結局何の波風も立たず、状態は保存され、いたずらに時が過ぎただけ。
 何でウディ・アレンはこんなしょうもない映画を撮ってしまったのか。私はウディ・アレンはあまり好きではないけれど、彼なりのスタイルがあることは認めるし、それを好む人がいることも認める。私の好みにはあわないというだけ。でも、この映画はそんなアレンらしさもなく、ドリームワークスに寄りかかって、端っこで小さく自分の芸を見せているだけに見える。

モンパルナスの灯

Montparnasse 19
1958年,フランス,108分
監督:ジャック・ベッケル
原作:ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本:ジャック・ベッケル
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:ポール・ミスラキ
出演:ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、レア・パドヴァニ

 1917年、パリ、画家のモジリアニはまったく絵が売れず、酒びたりの日々を送る。そんな彼を支えるのは女たちと隣人のズボロフスキーだけ。そんな彼がある日が学生のジャンヌとである。二人は恋に落ち、結婚を約束するが荷物を取りに家に帰ったジャンヌを待っていたのは…
 モジリアニの伝記をジャック・ベッケルが映画化。アヌーク・エーメの美しさ、ジェラール・フィリップのはかなさ。リノ・ヴェンチュラの不敵さ。伝記映画の傑作のひとつ。

 いかにもアル中というていの(悪く言えば型どおりすぎる演技の)ジェラール・フィリップをカメラがすっと捉えると、こちらもすっと映画に入ってしまうのは何故か? ジェラール・フィリップはあまりにはかなく、不運の画家を演じるのにうってつけすぎる。水のように赤ワインを飲み干すその大げさにゆがめた口元の演技の過剰さがむしろ自然に見えるのは何故か。物語はつらつらと進み、われわれはモジリアニを観察する。映像もそのあたりでは遠目のショットで捕らえることが多い。しかし、ジャンヌとで会ったあたりから、カメラは劇的に登場人物たちに近づき、われわれを彼らの視点に引き寄せる。
 そこから、ジャック・ベッケルの演出力とクリスチャン・マトラのカメラは見ている側の観客への感情移入を促すことに専念する。ただひたすら悲惨な境遇のふたり。どうしようもなかった男が愛に誠実に生きるようになる過程。そしてそれを納得させるアヌーク・エーメの美しさ。このメロドラマは周到に結末に向かってわれわれを物語の中に引き込んでいく。そこで登場する不敵な悪役。悪役のわかりやすすぎるキャラクターもすでにメロドラマに引き込まれているわれわれには違和感を与えない。かくして舞台はそろい、役者もそろい、ハッピーエンドに終わってくれという期待を高めながらわれわれはひたすらメロドラマに巻き込まれる。
 ジャック・ベッケルはこのように観客を映画に巻き込んでいく技術に長けている。それはあるときはメロドラマであり、あるときはサスペンスであるけれど、観客をひとつの視点・ひとつの立場に引き込み、結末に向かって突き進ませる力。それがジャック・ベッケルの映画にはある。この映画はそのジャック・ベッケルの演出力がうまく伝記という難しい題材を救った。
 私は伝記映画というのをあまり信用していないのですが、この映画はかなりのモノ。それにしてもこの話がどれくらい実話なのかというのは気になりますね。これがすべて事実だとしたら、モジリアニの人生(の最期)はあまりに劇的で、あまりにメロドラマ過ぎる。しかし、それでも本当だったのだろうと信じさせるものがこの映画にはあります。