アレクサンドル・ネフスキー

Alexander Nevsky
1938年,ソ連,108分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ドミトリー・ワリーシェフ
撮影:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ピトートル・A・パブレンコ
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
出演:ニコライ・チェルカーソフ、ニコライ・オフロプコフ、ドミトリ・オルロフ

 13世紀のロシア、スウェーデン軍を破った武将アレクサンドル・ネフスキー公爵は通りかかったモンゴル軍にも名を知られる名将、漁をして平和な日々を送っていた。しかし、東からゲルマン軍が侵攻してきて、近郊のノヴゴロドに迫っていた。ノブゴロドの武将はゲルマンの大群になすすべなしとして、ネフスキー公に将となり、軍を率いてくれるように依頼する。
 勇猛果敢なロシア人の伝統を振り返り、ゲルマン人に対する抵抗を訴えたプロパガンダ映画。

 ソヴィエトにあって、その革命思想に共鳴し、人々を動員するような映画を撮りながら、それを芸術の域にまで高めていたのは、かたくななまでの映像美、特にモンタージュの秀逸さであった。そんなエイゼンシュテインがナチスの侵攻を前に、ゲルマン人に対する抵抗を人民に訴えるために撮った映画。その映画はプロパガンダ映画に堕してしまった。エイゼンシュテインはトーキーという技術によって「声」を手に入れたことで堕落してしまった。ゲルマンとローマとキリスト教を悪魔的なものとして描き、ロシアを正義として描く。完全に一方的な視点から取られた寓話は映画ではなく、ひとつの広告に過ぎない。映画をプロパガンダに利用しようという姿勢ではソヴィエトもナチスと大差ないものであったようだ。
 ロシア側を描くときにたびたび流れる「歌」、その歌詞は明確で、戦士たちの勇敢さを朗々と歌い上げるものだ。それに対して、最初にゲルマン軍が登場するときのおどろおどろしい音楽、映像の扱いには非常なセンスと気遣いをするエイゼンシュテインがここまでステレオタイプに音楽を使ってしまったのはなぜなのか、そのような疑問が頭を掠める。しかも、ゲルマン側の(おそらく)司祭は悪魔的な容貌で、悪者然としている。そのような勧善懲悪のプロパガンダ映画でしかないこの映画が、さらに救われないのは映像の鈍さである。サイレント時代のエイゼンシュテインの鋭敏さは影を潜め、説明的なカットがつながっている。音に容易にメッセージをこめることが可能になってしまったことによって、映像を研ぎ澄ますことがおろそかになってしまっているのか、その映像のつながりは鈍い。
 それでも、映像にエイゼンシュテインの感性を感じることはできる。戦闘シーン、行軍する大人数の軍隊をものすごいロングで撮ったカット。個人個人が判別できないくらい小さいそのロングショットの構図の美しさは、冒頭の湖の場面と並んでエイゼンシュテインらしさを感じさせる場面だ。しかし、それが美しいからといってこの映画のプロパガンダ性を免罪しはしない。逆に美しいからこそ、プロパガンダとしての効果が高まり、その罪も重くなるのだろう。だとするならば、この映画が映画として精彩を欠いていることは、逆にエイゼンシュテインを免罪することになるのかもしれない。

戦争の記憶

Kippur : War Memories
1994年,イスラエル,104分
監督:アモス・ギタイ
撮影:エマヌエル・アルデマ、オフェル・コーエン
音楽:ジーモン・シュトックハウゼン、マルクス・シュトックハウゼン
出演:アモス・ギタイ

 アモス・ギタイはヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)に参加した際、8ミリカメラを持参し、兵士の救援へと向かうヘリコプターから撮影を行った。その撮影されたフィルムと、当時ともにヘリコプターに乗っていた仲間との戦場への旅、戦死してしまった当時の副操縦士の家族へのインタビューなどを通して、当時を振り返る。
 2000年に制作された劇映画『キプールの記憶』のもとになった作品。

 ヘリコプターの操縦士が当時を振り返って、「あの記憶は一種のトラウマになっている」と言う。心理学的な意味のトラウマとは少し違うかもしれないが、その意味が消化できない記憶であることは確かだろう。その記憶は他に類を見ないくらい強烈な記憶であるにもかかわらず、その記憶は自分の頭の中で収まるべきところを見つけられない。他の記憶と折り合いがつかないそのような記憶として頭の中にある。アモス・ギタイ自身も他の戦友たちもそのことを明言することはないけれど、それが強烈な記憶であり、忘れたくても忘れられないものであることは明らかだ。
 この映画は2部構成になっているが、前半部では、その記憶の整理が行われる。その細部がそれぞれに異なっている記憶をすり合わせていく。別にひとつの正当な見解を合意として打ち出していくわけではないが、他の人の異なった記憶を聞いているうちに、その記憶が、おそらく映像とともに蘇り(挿入されるギタイの撮影した白黒の8ミリフィルムはその記憶のフラッシュバックを象徴しているような気がする)、ばらばらな悲惨な記憶としてではなく、ひとつの記憶のブロックとして認識できるようになる。これはその記憶を自分の頭の中で消化し、収まりをつけるための第一歩になるのだろう。副操縦士の遺族に会うということも、その記憶が決して現在と断絶したものではなく、今につながるひとつの現実であうということを再認識させる。これもまた記憶の消化の一助となるだろう。
 後半部ではともに戦場へと赴き、戦場でもともに行動した親友ウッズィとの語らいになる。『キプールの記憶』によれば、二人は近所に住んでおり、もともと下士官であり、戦争が始まると聞くや否や焦燥感に駆られて車を飛ばして部隊に向かったが、本来の部隊にたどり着くことができず、ちょうど作戦行動を行おうとしていた救援部隊に参加することになったと言うものであった。この映画の話の断片から判断するとその流れはほとんど事実であると言っていいのだろう。そのような親友との語らいはギタイが実際に自らのトラウマを溶かしていく場だ。親友の話を聞くという設定でありながら、ギタイ自らが被写体となり、徐々にギタイの語りが中心になっていく。これは偶発的な出来事と言うよりはギタイ流の映画的作為という気がするが、それが作為であろうと偶発的な出来事であろうと、そのアモスの語りがアモス自身の記憶の再構成の過程であることに変わりはない。
 個人的なトラウマとして戦争を忘れたいと言うウッズィに対し、アモスはカメラを使うことで個人的な観点を超えた形で戦争を考えたいと語る。「なぜ自分たちは生き残ったのか」そんな重い疑問をアモスは投げかける。個人的な痛みと、映画監督を選択したことによる使命、その両方を自覚しながらアモス・ギタイは揺れ動き、親友との対話を終える。そこに答えはなく、親友に「しっかり映画を撮ってくれ」と励まされるのだった。その親友の励ましへの答えとしてアモス・ギタイは『キプールの記憶』を撮ったのだろう。そして、この作品は「戦争3部作」の第1作として構想されている。今後2作を通してパレスティナ紛争の全貌を整理して提示するのだろう。それは個人的な記憶の消化の作業でもある。

エルサレムの家

A House in Jerusalem
1998年,フランス=イスラエル,89分
監督:アモス・ギタイ
撮影:ヌリット・アヴィヴ

 1980年、”Bayit”(『家』)という作品で取材した東エルサレムにある家に再びやってきたギタイはその家とその家があるドルドルヴェドルシェヴ通りに今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。
 ドキュメンタリーといいながら、どこか作りものじみた印象がある映画。もちろん「ドキュメンタリーだ」と宣言しているわけではないし、ドキュメンタリーであっても、作り物であってもかまわないのですが…

 主役といえるアラブ人の親子。下もとその「家」の所有者で、その父親がギタイの『家』に出ていたというアラブ人親子は英語で話し、カナダ国籍をとったという。彼らはイスラエルのアラブ人で、それは国籍がないということを意味する。彼らはカナダ国籍をとれたことはラッキーだったと語る。そんな父親は病院を経営しているらしい。この父娘の話は見ているものの心にすっと入ってくる。彼らはその土地に愛着を持ち、ユダヤ人を敵視してなどはいない。ともに生きられればいいのにと望みながら、その選択を誤ったアラブ人の過去を非難したりする。
 それに対して、ドルドルヴェドルシェヴ通りに住むイスラエル人たちはスイス出身であったり、ベルギー出身であったりする。しかも、彼らはイスラエルを住みよい国だという。しかし、ヘブライ語は話さず、自分自身の言語は捨てない。ギタイがたずねる「ドルドルヴェドルシェヴ通りの意味」についても、人から聞いたあやふやな話をするだけで、明確な答えは提示できない。
 発掘作業場が出てくる。そこにはアメリカから来たというユダヤ人の若い女性と、アラブ人の労働者がいる。ユダヤ人の女性はそこで働いているのではなく、祭礼浴をしていた。彼女は「ユダヤ人もアラブ人も土地を奪われた犠牲者だ」というようなことを言う。
 このようなことでわたしの心に浮かぶのは、ユダヤ人に対する反発だ。それは多くのユダヤ人が自らの立場に意識的ではなく、あるいは無知であるということだ。自らの加害者性を意識することなく安穏と生きているように見える。そこに憤りを覚えずにはいられない。
 イスラエル人であるギタイはここで何を語ろうとしているのか。彼は明確なメッセージを語ろうとはしない。暴力化するイスラエルを危惧する場面はある。おそらく彼はイスラエルが抱える二重性に注目しているのだろう。本来住むべきである家を奪われたアラブ人と現在そこに住んでいるイスラエル人との対比によって、娘が西エルサレムでアラビア語で話すことの怖さによって、エルサレムという都市とイスラエルという国家の二重性を明らかにするのだろう。

木靴の樹

L’Albero Degli Zoccoli
1978年,イタリア,187分
監督:エルマンノ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:エルマンノ・オルミ
出演:ルイジ・オルナーギ、オマール・ブリニョッリ

 19世紀末のイタリアの農村、地主に収穫の3分の2を取られながら、その土地にすがるしかない農民たち。そんな農民の一人バティスティは神父に進められて息子を学校にやることにした。しかし、生活は依然として苦しい。
 貧しい農民たちの暮らしを淡々と描く作品。舞台を19世紀末と設定したことによりかろうじてフィクションの形をとっているが、映画の作り方としてはドキュメンタリーに近いものといえる。

 この映画がフィクションであると断言できるのは、最初に説明される19世紀末という設定があるからである。この映画が撮られた時代を含む現代ではこのような農村は存在しなくなってしまい、このような映画をドキュメンタリーで撮ることは難しくなってしまった。だから、この映画はフィクションとしてとられるしかなかったのだ。しかし、あえて言うならばこの映画はドキュメンタリーであってもよかった。ありえないことは承知でこれを19世紀末の農村に関するドキュメンタリーと言い切ってもよかったはずだ。
 この映画で19世紀末の農民たちを演じているのはおそらく現代の農民たちで、彼らは自分たちの先祖を追体験しているのだ。それほどまでにこの映像は真に迫っている。農民たちの真剣な目、土に向かうひたむきな姿勢、機械のない前近代的な農業にしか宿ることのない美しさがそこにある。
 ここに見えてくるのはフィクションとドキュメンタリーの、あるいは劇映画と記録映画の境界のあいまいさだ。この映画で作家が提示したかったものは、現代には存在せず、19世紀にしか存在しなかった。それが具体的になんであるかということはこの映画はあからさまには主張しないが、おそらく現代に対する一種の批判であるだろう。人と家畜が、あるいは人と植物が、人と土が親密であった時代から現代を批判する。もちろん、その時代はただ美しいだけではなく、非人間的な生活を強要され、生きにくい時代でもあっただろう。この映画はその両方を提示しているが、力点が置かれているのは美しさのほうだ。だから、彼らが悲劇的な境遇から救われたり、自ら抵抗の道を選ぼうとはしない。これがフィクションであり、ひとつのドラマであり、虐げられた人々のドラマであると了解している観客は彼らがどこかで立ち上がり、自由を勝ち取るのだと期待する。そのように期待して遅々として進まないストーリーを追い、画面の端々に注意を向ける。

しかし、この映画ではそのような抵抗や革命は起こらない。それはこの映画から数十年前に同じイタリアで作られたネオ・リアリズモ映画ならありえた展開だが、この映画ではそれは起こりえない。観客は裏切られ、この映画の劇性に疑問を持つ。しかし、観客が裏切られたと気付くのはすでに映画を見始めてから2時間半が経ったときである。単純な日常を切り取っただけの映画、まるでドキュメンタリーのようなフィクション。そのとき観客はすでに、そのような映画であるとわかった映画の世界に入り込んでしまっている。ドキュメンタリーであるフィクション。黙ってただ立ち去る彼らを見ながら、やり場のない怒りを感じながら、しかしその怒りを映画に向けるわけにはいけないことを知っている。これはドキュメンタリーであって、フィクションではないのだから、映画には結末を操作できないのだと。そのような幻覚を抱かざるを得ない。彼らは別の土地に移り住み、やはり土とともに生き、しかし今よりさらに過酷な生活を強いられるのだとわかっているから。

華氏451

Fahrenheit 451
1966年,イギリス=フランス,112分
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック

 モンターグは、全面的に禁止されている本を探索し焼却する「消防士」として有能な青年で、上司に昇進も約束されていた。ある日モンテーグは帰りのモノレールの中で近所に住むクラリスという女性に声をかけられ、クラリスは「本を読んだことがあるの?」と聞く。家でテレビを見、くすりで恍惚感に浸るばかりの妻と見た目はそっくりながらはつらつとしたクラリスに魅かれた彼は徐々に彼女と親しくなっていく。
 トリュフォーがレイ・ブラッドベリの近未来SFを映画化。初の英語圏作品だが、ニコラス・ローグ、バーナード・ハーマンなど多彩な才能に恵まれ、フランス語作品に全く見劣りしない作品に仕上がっている。

 最初の「逃げて」「逃げて」「逃げて」からかなりすごい。
 おそらくこれは原作も非常に面白いはずで、それを見事に映像化したトリュフォーもすごいということ。原作ということで言えば、「本が禁じられる」という設定と、それを取り締まる「消防士(fireman)」という発想が非常にうまい(全部が耐火住宅になったからって、消防士がいらなくなるという設定はかなり無理があるけれど)。禁止されるということと欲望との関係、それを本を利用してうまく描いているということ。
 しかし、やはりさらにすごいのはトリュフォー。近未来の世界観。1960年代から見た近未来なので、今頃のことかもしれない。壁にかけられたスクリーン、モノレール、規格化された住宅、などなど細部ではいろいろと「ちょっとね」と思うところもあるけれど、ひとつの寒々しい時代のイメージを作るのに成功している。「消防車」以外に車が全く走っていないというのも非常に印象的な設定である。そして本が燃えていくシーンのすばらしさ。本を読むシーンのすばらしさ。このすばらしさは主人公のモンターグよりむしろ「本」に焦点を当てることによって可能になっているのだろう。もちろん普通に考えれば主人公はモンターグなのだけれど、無表情で言葉すくなな彼の心情を明らかにすることよりも、彼が魅入られた本を描くことで彼と彼に代表される本に魅入られる人々の心理を審らかにあらわす。
 本が燃えていくシーンに心動かされるのは、そのように「本」というものに感情移入ではないけれど、愛着を覚えているから。そしてそのような「本」への愛着を生み出すのもその本が燃えていくシーンであるというのも面白い。繰り返される本が燃やされるシーン、そのそれぞれを自分がどのように見つめているのか、それを見つめ返してみるとこの映画のすごさがわかるのだと思う。
 そのように「本」への愛着がわけば、おのずとラストシーンもしっくり来るでしょう。ラストシーンは映像もとても効果的。ラストに限らず、この映画の映像はかなりいい。特に人間があまりいないシーンがいいですね。ネガとか、そんな実験的なものはちょっとよくわからなかったですが、ただ風景が映っているようなシーン、あるいは人がすごく小さく写っているようなシーンの構図がとても美しかった。

全線

Staroye i Novoye
1929年,ソ連,84分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
出演:マルファ・ラブキナ、M・イワーニン

 革命前の慣習が残る農村では、土地は相続されるためにどんどん細分化されてゆき、暮らし向きはどんどん苦しくなっていく。そんな貧農の一人マルファは馬を持たず、牛に畑を耕させるがなかなかうまくいかない。中には自分で鋤を引き、畑を耕そうとする農夫もいた。そんな現実に我慢できないマルファはソヴィエトの提案するコルホーズの組織に賛成し、積極的に参加してゆく。
 『戦艦ポチョムキン』で世界的名声をえたエイゼンシュテインの革命賛歌。

 これは一種のプロパガンダ映画で、ソヴィエトがコルホーズによって農民を組織することで、農民たちの暮らしがどれだけ楽になるかを描いたということはわざわざ書くまでもないが、それを誰に向けたのかということは問題となるかもしれない。被写体となっている農民たち自身に向けているのか、それとも革命に参加したような都市の人々に農村の問題を投げかけようとしているのか。映画を見ると、農村の人たちに向けた映画のように見えるが、上映する手段はあったのだろうか? と、考えるとむしろ都市部の人たちに向けた映画であるような気がする。あるいは、ソ連の外の人たちにも向けているかもしれない。すでに国際的な注目を集める監督であったエイゼンシュテインの作品を使って共産主義思想の浸透を図る。別に革命へ導くというまでの意図はないにしても、ソヴィエトというものがどのようなものかを教える。そしてそれが有益なものであると感じさせる。そのような意図が映画全体から見えてくる。
 そんな映画を共産主義体制が崩壊してしまった今見ること。それが意味するのは当時の意図とは異なってくる。むしろその意図を見る。映画がそのような何かを変えようという意図を持って作られるということ。そのことが重要なのかもしれないと思う。映画が産業ではなかったソ連で作られた映画を見ることは、現代にも意味を持つと思う。
 その意味はまた考えることにして、もうちょっと映画に近づいてみていくと、エイゼンシュテインのカッティングはすごい。映画前編で使われるクロース・アップの連続もすごいけれど、最初のほうでのこぎりで木を切るシーンに圧倒される。のこぎりを引くリズムに合わせて大胆に切り返される画面が作る躍動感はすごい。まさに音が聞こえる映像。画面が切り返されるたびに「ギッ」という音が聞こえてくる。ただ、これだけ細かくカットを割っていくと、どうしてもフィクショナルな印象になってしまう観があり、このような映画にはマイナスかもしれない。しかし、現在の視点からはこのエイゼンシュテインの表現はすばらしいものに見える。これだけダイナミックな映像を作り上げられるエイゼンシュテインはやっぱりすごい。

この素晴らしき世界

Musime si Pomahat
2000年,チェコ,123分
監督:ヤン・フジェベイク
脚本:ペトル・ヤルホフスキー
撮影:ヤン・マリーシュ
音楽:アレシュ・ブジェズィナ
出演:ポレスラフ・ポリーフカ、アンナ・シィシェコヴァー、ヤロスラフ・ドゥシェク、チョンゴル・カッシャイ

 第二次大戦下のチェコ。ユダヤ人で工場を経営するヴィーネル家の家族はナチスに家を接収され、街中に居を移す。そしてさらにポーランドのゲットーへの移住を命じられる。隣に住むチージェク夫妻は彼らの身を案じつつ、彼らを見送るしかなかった。そしてその数年後、そのチージェク夫妻の下に収容所を逃げ出したヴィーネル家の息子ダヴィドがやってくる…
 ナチス-ユダヤをめぐる映画のチェコ版。ストレートに感動させるヒューマンドラマ。『ライフ・イズ・ビューティフル』に感動できた人ならば、きっとはまるはず。

 ストーリーはとても面白いです。プロットもよい。ちなみに、一応解説しますが、ストーリーとは映画全体の物語の流れ、プロットとは映画で描かれるシーンの流れです。ちょっと聞くと同じものであるように聞こえますが、ストーリーというのはプロットでは省かれている物語も含むという点が違います。基本的に映画を作るとき(脚本を書くとき)にはストーリーからプロットを起こす。つまり映画的な展開になるように場面を省いたり足したりする作業をするようです。わかったようなわからないような説明ですが、ストーリーが面白いというと、お話が面白いということ。プロットが面白いというと映画の展開が面白いということという感じでわたしは使い分けています。
 ちょっと映画の基礎知識の話しになってしまいましたが、映画の話に戻って、こういうホロコーストものは、単純なヒューマンストリーではなくて、はらはらどきどきするところがいいですね。誰が敵で誰が味方か、というようなことを感じながら、その展開を見守る。そのスリルを演出するという点ではこの映画は優れているでしょう。
 しかし、それは逆にこの映画を娯楽作品にしてしまっている。チェコでのホロコーストという題材をシリアスに扱っていながら、そこから踏み込むことはせず、スリルと感動を届けるという話に。
 簡単に言ってしまえばリアルではないということでしょうか。これは完全にお話であって、ひとつのリアルな物語ではないということを感じてしまう。というところです。
 でも、面白いには面白い。です。

Jazz seen/カメラが聴いたジャズ

Jazz Seen: The Life and Times of William Claxton
2001年,ドイツ,80分
監督:ジュリアン・ベネディクト
脚本:ジュリアン・ベネディクト
撮影:ウィリアム・クレサー
出演:ウィリアム・クラクストン、ペギー・モフィット

 ウェスト・コースと・ジャズのジャケットをはじめとしたアーティスト写真に加えファッション写真でも名を上げた写真家のウィリアム・クラクストン。彼の半生をインタビューに再現ドラマを加えて語る。
 モデルであり、パートナーであるペギー・モフィットに加え、デニス・ホッパー、カサンドラ・ウィルソン、ヘルムート・ニュートン、バーと・バカラックなどが登場し、クラックストンについて、あるいはクラクストンと語る。

 ドキュメンタリーらしいドキュメンタリーというか、しゃれた「知ってるつもり」というか、そんなものです。「知ってるつもり」にしてはセンスもよく、出てくる人たちもものすごいということですが、基本的なスタンスは変わりません。なんといっても再現ドラマを使うというところがなんだかTV番組っぽい。別にTV番組っぽくて悪いということはありませんが、あの再現ドラマは本当に必要だったのか?という疑問は残ります。
 監督のジュリアン・ベネディクトは『BLUE NOTE/ハート・オブ・モダン・ジャズ』というジャズ・ドキュメンタリーを撮っているだけに、おそらくクラクストンに共感を感じているのでしょう。彼の作品を撮影する仕方は非常にいい。劇中でも述べられているようにクラクストンの写真の構図は非常にすばらしいのですが、その構図の美しさをうまくフィルムにのせている。
 まあしかし、ドキュメンタリー映画というよりはやはり教養番組ととらえたほうがいいんでしょうね。ジャズと写真というなんだかしゃれた教養を身につけた大人のための(あるいは大人になるための)教養番組という感じ。教養番組も面白くないと身につかないので、面白さは必要。この映画を見ていると、クラクストンにも興味がわくし、写真にも興味がわくし、ジャズにも興味がわく。ということで、とてもよい教養番組だということでしょう。
 ヘルムート・ニュートンとの写真の専門的な話とか、4×5のカメラとか、35ミリのフィルムとか、専門的な話もあるのですが、そこを下手に解説しないところがいい。そのわからなさがなんだか味わいでもあるという気がします。

夏至

A La Verticale de Lete
2000年,フランス=ベトナム,112分
監督:トラン・アン・ユン
脚本:トラン・アン・ユン
撮影:マーク・リー
音楽:トン=ツァ・ティエ
出演:トラン・ヌー・イェン・ケー、グエン・ニュー・クイン、レ・カイン、ゴー・クアン・ハイ

 ハノイに住む4人の兄弟。長女スオン、次女カインの上の2人は夫や子供とともに暮らし、3女リエンと長男のハイは2人で暮らしていた。母の命日に客を呼び、料理を作った姉妹は両親の話をし、母が初恋の人をずっと愛していたと話し合った…
 トラン・アン・ユンが『シクロ』以来で撮った長編作品。今回も舞台はベトナム。淡々とそこに住む人々の生活を描く。

 映画が始まりまず思うのはその部屋のかっこよさ。緑色の壁、掛かった絵など、非常にセンスあふれている。これは美術のセンスの良さなのだろうと思いつつ、兄弟の関係性の描き方もなかなか面白い。リエンのハイに対する思いの寄せ方は近親相姦を予想させ、そんなどろどろのはなしかと思うが、映像はあくまでさわやかでしなやか。
 果たして淡々と物語は続き、それぞれの苦悩が浮かび上がってくるわけだけれど、その中で離縁の人間像がわかってくると最初の心配は杞憂でしかなかったことがわかる。そこで明らかになった人間関係、そしてリエンのあまりに純粋で素朴な人間像がこの物語の生命線だ。
 それ以外の姉妹(とその夫)の物語は、どこにでもあるような物語、さんざん描かれてきた愛の物語。それをアジアテイストに焼き直しただけだ。すべてがこの物語に染まってしまってはこの映画は苦しい。そんな中でリエンの存在ははかなくも貴重である。だから、普通だったらあまりに臭いラストのの裏切りがすっと理解できるのかもしれない。
 さて、それにしてもこの映画、あまりにアジアを売り物にしすぎていやしないか、と思う。ベトナムには行ったことがないので実際のところどうなのかはわからないけれど、ベトナムとは描くも欧米人のアジア像に一致する風景の国なのか?すべての風景がアジア的で、出てくる人たちもアジア的。女の人は黒く長く真っ直ぐな髪、誰もがいわゆるベトナム風のシャツを着ている。それは本当だろうか?確かに、それが本当ではなく、アジア的なるものを売り物にしているとしても、それを非難する理由はないが、アジア的なもので世界的な名声を得て、賞まで取った監督には、一人のアジア人として、そのようなアジア像が欧米人の幻想に過ぎないということを表現する映画をとってほしいという思いを抱く。
 欧米人はいまだにこのような純粋で素朴なイメージをアジアに求めているのかもしれない。だから、彼らに認められるためにはそのようなアジア像を映像にすることがいいのだろう。しかし、それは続けることはその(おそらく)誤ったアジア像を強化することに過ぎず、映画作家ともあろうものがそのような自分たちの文化に対する誤解を放置するだけでなく強化することをしていいのだろうか?という疑問を覚えずにはいられないのだ。
 この映画が与えてくれる長大な(あるいは長すぎる)余白に、わたしはそんなことを考えずにいられなかった。

スペシャリスト・自覚なき殺戮者

Un Specialiste
1999年,フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル,128分
監督:エイアル・シヴァン
脚本:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン
撮影:レオ・ハーウィッツ
音楽:ニコラス・ベッカー、オードリー・モーリオン
出演:アドルフ・アイヒマン

 何百万人ものユダヤ人を絶滅収容所へと送り込む列車の運行を管理した男アドルフ・アイヒマン。戦後海外に逃れた彼をイスラエル政府が捉え、裁判の場に引き出した。ここまでは映画以前の物語。映画はただひたすらアイヒマンの裁判の場面を映し出す。40年近くほったらかしになっていたフィルムの掘り起こし。その裁判から見えてくるのはアイヒマンの殺戮者としての側面か、それともただの一人の人間としての側面か。

 とても眠い。それは映画がひたすら裁判所を映し、劇的な変化もなく、編集上の工夫はあるにしても淡々と進むからだ。これは元の映像が裁判の記録であるから仕方がないことだけれど、とにかく淡々と進んでいく。
 まず驚くのは防弾ガラスに守られたアイヒマンの姿。それほどまでに彼がイスラエルで憎悪の対象になっているということだ。
 映画は今までのホロコースト映画と同様にユダヤ人の受難を描くのかと思いきや、そうではないらしい。アイヒマンは無表情で淡々と「自分には権限がなかった」と繰り返す、これに対して検事は感情的に糾弾する。そして数多くの証人に証言を求める。
 問題なのはこの証人たちで、次々と登場するもののアイヒマンの罪状とはあまり関係ない人々ばかりだ。裁判の焦点は検事も言うとおりアイヒマンが虐殺に関与したか否かであるはずなのに、登場する証人たちはその結果の虐殺を生き延びた人々ばかりである。彼らはその悲惨さを語りアイヒマンの非道さを語るけれど、それがアイヒマンの責任の証立てにはならない。
 前半にアイヒマンと会い、交渉したというユダヤ人側の代表が証人台に立つ。彼の語るアイヒマンは単純に有能な官僚であり、ある程度ユダヤ人に理解を示す人物である。
 後半にもそのような人物が証言台に立つ。しかしそのとき傍聴席から「そいつはわれわれを犠牲にして家族を救った」という怒号があがり、裁判長は閉廷を宣言する。
 これらの記録によって何が明らかになったのか。ここから明らかになったのはこの裁判の無意味さ。これはアイヒマンの裁判ではなくイスラエルの裁判だったということ。全く反対尋問をしない弁護士(案件と関係ないのだから反対尋問の仕様がない)、それに対して感情をあらわにまくし立てる検事。彼が求めるのはアイヒマンの罪状を明かすことではなくイスラエルの正当性を明かすことだ。
 どうも話がまとまりませんが、結局のところアイヒマンというのはそれほど重要な人物ではなく、大きな悪を行った装置の部品の一つであるということは明らかで、本当に追求すべきなのはそのような人は果たして有罪でありえるのかということであるはずだ。「悪の凡庸さ」とは誰が言った言葉か忘れてしまいましたが、その凡庸な悪を裁きうるのかどうかということを追求するべきであった。しかしこの裁判が明かそうとしているのはアイヒマンは凡庸ではなかったということであり、凡庸であるアイヒマンを凡庸でないとして断罪してしまった。
 ということはこの映画はあくまで問題を提起しているだけであって、結論ではない。ということ。